アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(6)「陰獣」

江戸川乱歩は、昭和の始めに明智小五郎の長編物「一寸法師」(1927年)を「朝日新聞」に連載して、あまりの出来の悪さに自己嫌悪に陥り「一寸法師」連載終了後に失意の放浪の旅に出て、しばらく休筆で筆を折る。江戸川乱歩という人は探偵小説家として案外いい加減な人で、連載長編にてあらかじめ話の結末の種明かしのトリックや犯人を考えずに、そのまま書き出す。行き当たりばったりで場当たり的に書くから長編の話が途中で破綻して連載が続かなくなる。

これは乱歩自身が「特に長編に関し、私は前もって話の筋や結末を考えずに書き出すので、連載で書き進めるうちに話の辻褄が合わなくなってきたり、初めに書こうとしたテーマから内容が次第に外れてきて失敗に終わり、いつも自己嫌悪におちいるのである」旨を後に述べており、プロの作家としてあるまじき江戸川乱歩である。日本の探偵小説ジャンル確立の第一人者の大御所の重鎮なはずなのに、そのいい加減さが笑える。「一寸法師」の後に傷心でしばらく筆を折って休んで、休筆から復帰の第一弾が「陰獣」(1928年)となるわけである。

(以下、「陰獣」の核心トリックを明かした「ネタばれ」です。乱歩の「陰獣」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「陰獣」は雑誌「新青年」に掲載で、「新青年」といえば乱歩が以前に「二銭銅貨」(1923年)でデビューを果たし、横溝正史も一時期は編集長兼作家として頻繁に寄稿し、しかし横溝が大喀血で原稿を飛ばした時、当時まだ無名だった小栗虫太郎をピンチヒッターにして「完全犯罪」(1933年)を載せ小栗を世に知らしめた日本における探偵小説を一時期、強力に牽引(けんいん)した雑誌だ。そして江戸川乱歩の「陰獣」を「新青年」に掲載し、広告や原稿料など様々な面で「一寸法師」以来しばらくブランクのあった乱歩を支え乱歩復帰の道筋を盛り立てたのは、当時「新青年」の編集を任されていた横溝正史であった。乱歩の復帰を助ける横溝、江戸川乱歩と横溝正史の二人の友情が「陰獣」という作品が世に出る背景にあって、そこが昔から私が乱歩の「陰獣」が好きな理由だ。「陰獣」に関する、この辺りのことを乱歩みずからに言わせると、

「朝日新聞に連載した『一寸法師』に自己嫌悪を感じて放浪の旅に出てから一年半、雑誌『改造』から頼まれて書き出したのだが、依頼枚数の四倍近くになってしまったので、我儘(わがまま)の利(き)く『新青年』に廻したところ、当時の編集長・横溝正史君が非常に宣伝してくれたので、雑誌の再版、三版を刷るという売れ行きをみたのである」(「著者による作品解説」)

ただ小説「陰獣」の肝心の中身は正直、大したことはないと私は思う。乱歩の「陰獣」の目玉のトリックは一人三役である。あとは今まで乱歩が書いてきた自身の過去作品を改題し作中小説として利用して使いまくった自作の内輪(うちわ)ネタ落ちのセルフ・パロディだ。すなわち「屋根裏の散歩者」(1925年)→「屋根裏の遊戯」、「一枚の切符」(1923年)→「一枚の切手」、「D坂の殺人事件」(1925年)→「B坂の殺人」、「パノラマ島奇談」(1927年)→「パノラマ国」と、乱歩は過去作品にての自作トリックのネタを二次使用で使いまくる。

「一寸法師」で失敗し自信をなくして、しばらく休んだ後の久々の復帰作なため、過去の自作品の切り貼りコラージュ的な自己リハビリの薄手な作品となってしまうのはしょうがないの感慨は読後に残る。やはり「陰獣」は江戸川乱歩が自身の過去作品の「遺産」を利用し「貯金」を切り崩しながら書いているので、余裕や新しさがない。しかし小説の中身は今一つではあるが、江戸川乱歩「陰獣」は休筆から復帰のブランク事情や乱歩と横溝の友情が感じられて不思議と強く印象に残る。江戸川乱歩の全仕事の中でも外せない作品だと思う。

それから、その後の乱歩も前途多難だ。「新青年」にて復帰の「陰獣」で乱歩は全く本調子でなく、この後「新青年」に連載の「悪霊」(1934年)で江戸川乱歩は「一寸法師」以上の大失態を遂にやらかす。相変わらず結末を考えず場当たり的に長編連載をやるため話が破綻し、とうとうラストの結末が思いつかず続きが書けなくなって読者に詫(わ)び状を書いて連載中止、前代未聞のギブアップ宣言をしてしまう。ある意味ケタ違いで規格外の大きさ、型破りで破格な探偵小説の書き手、江戸川乱歩である(笑)。

江戸川乱歩 礼賛(5)「目羅博士の不思議な犯罪」

江戸川乱歩の「目羅博士の不思議な犯罪」(1931年)は題名が素晴らしい。タイトルだけで言えば、乱歩の作品では「ぺてん師と空気男」(1959年)と双璧をなす名タイトルであるように思う。

乱歩作品の中で、相当に秀逸と思える印象深い名タイトル「目羅博士の不思議な犯罪」である。題名最初の「目羅博士の」での博士の名「目羅」(「めら」もしくは「もくら」と読む)の固有名詞の響きがまず良い。それから「不思議な犯罪」と続く。タイトル結語の「犯罪」を修飾する「不思議な」の形容詞が小説中身の内容を含意し的確にタイトル反映して、かつ最初に本作を手に取る未読の読者に与える語感の響きの第一印象の付与効果、ともに絶妙である。非常によく練(ね)られ考えられたタイトルだ。

小説の内容は「月光の魔力」と「模倣の恐怖」である。内容も、どこか神秘的で幻想的である。この作品には元ネタがある。エーヴェルス「蜘蛛」(1908年)だ。以前に「目羅博士」を読んで後にだいぶ経ってから、立風書房「新青年傑作選・翻訳編」(1970年)にてエーヴェルス「蜘蛛」を読んで「乱歩の目羅博士は、この作品の改作」であることに私は遅まきながら気づいた。

江戸川乱歩もそうだが、横溝正史にしてもこの人たちは自分で探偵小説を創作するだけでなく、海外のものを日頃からよく読んで研究している。以前に横溝のインタビューでカーの「帽子収集狂事件」(1933年)の話題が出た際に、横溝が「帽子収集狂?あーマッド・ハッターね」と言ったとき、「やはり横溝さん、海外の作品が日本に翻訳紹介される以前に、すでに原書で読んでいるのだな」と思った。江戸川乱歩の「類別トリック集成」(1954年)にしても、古今東西の探偵小説を幅広く読んで収集研究しミステリー全般に造詣が深くなくてはできず、あれは骨の折れる大変な仕事だと思う。

そうした研究熱心な日本の探偵小説界を明るく妖(あや)しく照らす二つの巨星・横溝正史と江戸川乱歩、偉大なる「大横溝」(おお・よこみぞ)と「大乱歩」(だい・らんぽ)に私は、ひたすら脱帽だ。

江戸川乱歩 礼賛(4)「蜘蛛男」

人間は「無知であるがゆえに幸福」ということがある。江戸川乱歩の「蜘蛛男」(1930年)を私は10代の時に初めて読んだが、初読時その結末に驚いた。今でも探偵小説全般に無知だが、当時はさらに探偵小説のことをほとんど知らなかったので「まさか!こんな展開になるとは」と非常に驚いた。

(以下、犯人の正体まで詳しく触れた「ネタばれ」です。乱歩の「蜘蛛男」を未読の方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

内容は、義足の探偵・畔柳(くろやなぎ)博士と犯人「蜘蛛男」の対決である。畔柳博士が「蜘蛛男」の挑戦の犯罪を受けて立つわけだが、この「蜘蛛男」がなかなか手ごわい。博士が追跡して追い詰めても、すぐに逃げて煙のように蒸発してしまう。誘拐予告を受けて美女を病室に隔離し厳重に見張っていても、あっという間に「蜘蛛男」にさらわれてベッドにはマネキンが残るのみ。畔柳博士と波越警部が捜査の相談をしていれば、警部の帽子の中にいつの間にか「蜘蛛男」からの挑戦状が入っている。探偵の畔柳博士、警察ともに「蜘蛛男」にことごとく裏をかかれ完全にもて遊ばれる。

読んでいて非常に不思議なわけだ、「蜘蛛男」の神出鬼没な万能ぶりが。しかし、話の後半で洋行帰りの日焼けした探偵・明智小五郎が登場する場面まできて何となく分かってきた。つまり、探偵役の畔柳博士が「蜘蛛男」だった(笑)。確かに探偵が犯人なら常に現場にいるわけだから一人二役の自作自演、マッチポンプであらゆる犯行が可能だ。

当時はそうした大仕掛けなトリックを知らないので、「探偵は犯人を捕まえる人」の先入観があるため「探偵が犯人」の裏技を使われても。それでこの「探偵が、すなわち犯人」というトリックがわかった後でも面白いので「蜘蛛男」を読み返すのだが、最初に「探偵が犯人ということは絶対にあり得ない」という先入観を読み手に植えつけて、ミスディレクション(誤誘導)で読者の誤読を誘う乱歩の手際がなかなかである。

畔柳博士は話の前半で何気ない新聞の短い求人広告から異常を読み取り、犯罪の匂いを鋭(するど)く嗅(か)ぎつける。この新聞広告から事件を嗅ぎ付けるやり方がドイルのシャーロック・ホームズと同じだ。しかも畔柳博士の最初の登場での紹介場面の記述はこうである。

「畔柳博士は日本のシャーロック・ホームズとも云うべき、民間の犯罪学者で兼ねて素人探偵でもあったのだが、ホームズのように何でも引き受けるという半営業的な探偵ではなく、…だが一度引き受けた事件は、必ず解決して見せる所や、博士の人となりが、一種の奇人であった所は、小説のホームズそっくりと云ってもよかった」

もう直接的に「畔柳博士は日本のシャーロック・ホームズ」と書いている。本家ドイルのホームズ・シリーズにて「実は探偵のホームズがワトソンを裏切って事件の犯人だった」など絶対に100パーセント、天地がひっくり返ってもあり得ない(笑)。物語前半の乱歩の周到な書きぶりによって、「畔柳博士は日本のホームズと呼ばれるほどの名探偵。つまりは畔柳博士が犯人では絶対にありえない」と強く印象づけられ、読み手の誤読を誘うミスディレクション(誤誘導)の巧妙な仕掛けになっているのだ。乱歩は実に上手いと思う。

しかし、その一方でヴァン・ダインの「探偵小説二十則」に「探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない」というのがある。畔柳博士は過去に「一度引き受けた事件は必ず解決して見せる」とあるのに、なぜ今回の「蜘蛛男」の事件にだけ限って「急変」で、これは「探偵自身が突然犯人に急変してはいけない」原則に引っ掛かるのでは、と今にして思えばフェアでない気がする。あと話全体に乱歩の、いわゆる「活人形趣味」(生きた美女をマネキンに見立てて活人形のマネキンで蜘蛛男がパノラマ館を作ろうとする)があるが、私は「エロ・グロ・ナンセンス」が好きではないので、そちらの趣向にはあまり反応しなかった。

江戸川乱歩 礼賛(3)「心理試験」

江戸川乱歩「心理試験」(1925年)は初期の短編であり、私が好きな乱歩作品だ。主人公が「心理試験」の裏をかこうとして、逆に自身の無意識の心理によって墓穴を掘る話である。

読み所は、悪知恵で工夫を凝らす主人公が自ら無意識のうちに墓穴を掘り最終的に犯人と断定される、犯行が合理的にばれる倒叙推理の道筋の鮮(あざ)やかさにあるわけで、「心理試験」は犯人である主人公が一見優秀なのだが、「屋根裏の散歩者」(1925年)や「人間椅子」(1925年)と同様、実はやや間抜けで与太郎っぽい馬鹿なところが面白いと私は思う。

(以下、「心理試験」の話の内容に詳しく触れた「ネタばれ」です。乱歩の「心理試験」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

話の内容はこうだ。大学生(苦学生)の主人公が、金を貯め込んでいると近所で噂の金貸しの老婆を殺害して、その金を奪う。その後、容疑者の一人として引っ張られて、検事による「心理試験」を受けることになる。この「心理試験」とは、事件に関係ある言葉をいくつか混ぜておいて順不同で多くの単語(刺激語)を試験官が述べる。そして被験者は、その単語から連想する言葉(反応語)を素早く答える。事件に関する単語が出てきて、そこで応答の反応が遅れたり不自然に言葉に詰まったりすると、これは心理的緊張のせいで「事件に関係している。犯行に手を染めている証拠」となるわけである。

しかし主人公は、この「心理試験」が実施されることを知って事前に練習する。事件関連の単語が出たときに、しどろもどろにならず動揺せずに、あたかも「自分は事件には関係していない」の平静を装えるように。例えば「殺す」といった単語を試験官が出す。すると、ここではナイフによる刺殺で老婆が殺害されていることを事件後の新聞報道で自分は知っているという設定にして(本当は被験者の主人公が自分でナイフで老婆を実際に殺してるのだが)、あえて「ナイフ」と動揺せずスムーズに自然に答える必要があるわけだ。この要領で本番の「心理試験」にて、おそらく出されるであろう事件関連の刺激語を予想しピックアップして「この刺激語が来たら、この反応語で冷静に答える」という練習をしておく。それで本番の「心理試験」では事前の練習の甲斐あって実にうまく自然に答えられ、絶対に自分は怪しまれないと自信を深めていたのだが。

ここで探偵の明智小五郎が出てきて、「心理試験」の結果に疑問をはさむ。それは事件関連の刺激語に対してのみ、主人公の被験者の反応速度が、むしろ不自然なまでに異常に速いことである。それはそうだ(笑)。主人公は「怪しまれないように事件関連の刺激語に対しては、絶対に反応が遅れてはいけない」という無意識下の心理的圧迫があり、しかも「事件関連の刺激語が来た時には反応語として何を答えるか」事前に決めて十分に応答の練習を重ねているので、ついつい早く答えてしまう。馬鹿だなぁ(笑)。

そして、刺激語の「絵」に「屏風」と無意識に反応して答えてしまい、明智君の誘導尋問に乗って「そういえば屏風は前から老婆の家の床の間にありました」と証言する。しかし、その屏風は事件前日に殺害現場に初めて持ち込まれたものだった。主人公は老婆を殺害する瞬間に前日に持ち込まれた屏風を現場で瞬間的に見ていて、無意識のうちに答えてしまったのだ。それで「心理試験」における「絵」から「屏風」の連想が「殺害現場に居合わせて犯罪を実行した者しか知り得ない事柄」の、いわゆる「秘密の告白」になって犯行がばれ犯人に確定してしまう。

「心理試験」は苦学の青年が守銭奴な金貸し老婆を殺害してお金を盗む話で、読み初めは一見ドストエフスキー「罪と罰」(1866年)のようなシリアスさである。「あのおいぼれが、そんな大金を持っているということになんの価値がある。それをおれのような未来のある青年の学資に使用するのは、きわめて合理的なことではないか」といった犯罪動機に関する記述描写も本文中にある。だが、途中から推理ものになって、読後には何だか与太郎の馬鹿話っぽい絶妙な後味が残る。「心理試験」の対策で事前に十分に練習して、しかし練習しすぎて(笑)、逆に自ら墓穴を掘ってボロが出て怪しまれ、さらに殺害現場で当日に目にしたことの無意識な応答告白で犯行がばれてしまう。一見、頭のよい優秀な犯人に見えるが、その練習努力が逆効果で裏目に出るところと最後の最後で自身の無意識に足元をすくわれるところが、ちょっと馬鹿っぽい。

江戸川乱歩「心理試験」は非常に面白いコクがあって味のある作品だ。

江戸川乱歩 礼賛(2)「人間椅子」

江戸川乱歩の小説は探偵推理が土台で、それに大正デモクラシーの「モダニズム・テイスト」か、昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」の表層の味が加わるように思う。私は後者の猟奇で恍惚な「エロ・グロ・ナンセンス」よりも、前者の明るくて馬鹿っぽい「モダニズム・テイスト」のほうが好きなのだが。

大正の時代になると、日本も近代化や都市化が進んで賃金労働者や遊学で地方から様々な人が都市に流れてくる。働かなくても生活できる「高等遊民」という人達も出てくる。特に高等遊民は、仕事をしなくても生活にゆとり(お金)があって基本ヒマだから、なかには馬鹿なこと考えて実行する人も出てくる。

例えば「屋根裏の散歩者」(1925年)の主人公・郷田三郎である。この小説の書き出しはこうだ。「多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、いっこうにこの世が面白くないのでした」。しかも「親許から月々いくらかの仕送りを受けることのできる彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです」。それで下宿を転々として、ついには「屋根裏の散歩」を出して完全犯罪まで思いつく。ヒマで生活に余裕があると人間は馬鹿馬鹿しいことを考えて実行する。

例えば「鏡地獄」(1926年)の主人公・Kの友人である。もともとレンズ偏愛癖の「彼」が親の財産を相続するや、自宅の庭に建てた実験室にて球形の鏡(いわゆる「鏡地獄」)を作り、その中に入りたがる。馬鹿だなぁ(笑)。

例えば「パノラマ島奇談」(1927年)の主人公・人見広介である。「彼はこの世を経験しない先から、この世に飽きはてていたのです」。とはいえ、せっかく身代わりで「蘇生」して莫大な財産を自由に使えるようになったのだから「パノラマ島」の可視の桃源郷など作らずに、自身の事業を立ち上げて投資するとか、慈善チャリティーをやって社会に貢献するとか、家族・友人のために役立てるとか、もう少しマシなお金の使い方、労力や創造の持っていき方があると思うが。

江戸川乱歩、「怪奇幻想小説の旗手」「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」と言われれば「そうかな」と思わないこともないけれども、よくよく冷静に考えると「こんな奴は実際におらんだろう」と思わずツッコミの合いの手を入れたくなる与太郎の与太話は乱歩作品には多い。例えば「人間椅子」(1925年)など。

(以下、「人間椅子」の最後のオチに触れた「ネタばれ」です。乱歩の「人間椅子」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「人間椅子」は、椅子を改造してその中に入って椅子に座る女性との接触肉感を楽しむ変態心理を描いた作品である。しかし、さすがの乱歩も書き進めるうちに「まずいな。自分の趣味に走りすぎたな。実際こんな椅子の中にずっと入っているような馬鹿はおらんだろう」と思ったのではないか。だから、最後に「突然お手紙を差し上げます。ぶしつけを幾重にもお許しくださいまし。…別封お送りいたしましたのは、わたしのつたない創作でございます。原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函しましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。…表題は『人間椅子』とつけたい考えでございます」。つまりは「人間椅子など、あくまでも作中小説の創作のフィクション(作中で主人公に投函発送した「人間椅子」という題名の小説)で、こんな椅子の中にずっと入っているような馬鹿は実在しません」という、どんでん返しのオチを乱歩みずから、わざわざまわりくどくつけたような気が私はする。

江戸川乱歩の「人間椅子」を現代風に真面目に読むと、「粘着質のストーカーによる背筋も凍る偏愛恐怖」のようなことになるのだろうけれど、私からすれば「実際に『人間椅子』を考えて、こんな椅子の中にずっと入っているような馬鹿はおらんだろう」というツッコミ所が満載の、笑える与太郎の与太話にしか思えない(笑)。

江戸川乱歩 礼賛(1)「孤島の鬼」

江戸川乱歩の素晴らしさを誉(ほ)め称(たた)える、時には乱歩の駄目な所にも半畳を入れて無理に誉める、今回から始まる新シリーズ「江戸川乱歩・礼賛(らいさん)」である。

「乱歩の前に乱歩なし、乱歩の後に乱歩なし」。江戸川乱歩である。日本の探偵小説は明治時代の黒岩涙香から始まったと思うが、日本に探偵小説のジャンルを確立させたのは明らかに江戸川乱歩だ。巨匠であり、巨星であり、偉大である。それゆえ敬意を表して時に「大乱歩」(だい・らんぽ)と呼ばれる。

しかし正直、私はこの人は初期に書いた傑作短編群の「遺産」の「貯金」で探偵小説家として食いつないでいたところがあると思う。初期の「屋根裏の散歩者」(1925年)や「D坂の殺人事件」(1925年)や「心理試験」(1925年)は、なるほど傑作で面白い。だが乱歩は中期になると、だんだんいい加減になってくる。これは乱歩自身が後に述べているが、「特に長編に関し、私はあらかじめ話の筋や結末を考えずに書き出すので、連載で書き進めるうちに話の辻褄が合わなくなってきたり、初めに書こうとしたテーマから内容が次第に外れてきて失敗に終わり、いつも自己嫌悪におちいるのである」といった旨を白状していて、「こら(怒)、プロの作家なら事前にプロットや結末を全部決めてから計算して書け」と思う。

言われてみれば、確かに中期の「講談倶楽部」に連載の頃のもの(「魔術師」「恐怖王」「緑衣の鬼」ら)は、読んでも印象に残らない。例えば「恐怖王」(1932年)など、いかにも行き当たりばったりで場当たり的に書いた感触が強く本当にいい加減な話である。昔、創元推理文庫で読んだとき、本編よりも巻末解説の方が「恐怖王」の作品のボケが満載な内容展開、乱歩のいい加減な話の持っていき方にツッコミの合いの手をいちいち執拗に入れる解説で面白かった。事実、乱歩は朝日新聞に「一寸法師」(1927年)連載後、あまりに出来が良くなかったため傷心の自己嫌悪で放浪の旅に出たり、スランプで書けなくなって何度か執筆活動を中断している。

そうした江戸川乱歩の長編のなかで比較的、出来が良いと思うのは「孤島の鬼」(1930年)だ。この作品は世評が良い旨をよく聞くし、「長編に関して、あらかじめ話の筋を最後まで考えてから書き始めたのは『孤島の鬼』と『パノラマ島奇談』だけ」と後に乱歩みずから、これまた正直に白状している。確かに「孤島の鬼」は長編乱歩のなかでは例外的に話に破綻がなく上手くまとまっている。

最初の密室殺人のトリックが私は好きだ。被害者の枕元のチョコレート缶がなくなる例の趣向である。その他、「海水浴場での衆人環視の殺人」「奇妙な日記」「見世物小屋の曲馬団」「系図の暗号」「人外境の悪魔の実験」「洞窟内での宝探し」など、全体に推理と冒険の要素がうまく加味されており、一つの長編としてよく出来ている。英国はドイルのシャーロック・ホームズ「六つのナポレオン像」(1904年)を、乱歩が日本風に翻訳して消化すると「乃木大将の石膏像」になるところが笑いを誘う。

「孤島の鬼」は江戸川乱歩長編の中でも例外的に良くできた面白い作品であり断然、私はお薦めする。

再読 横溝正史(56)横溝の金田一耕助ファンあるある

(1)法事で帰省の際、「犬神家の一族」のスケキヨの白マスクをかぶって帰って、親戚から「もう帰ってくるな!」と叱られる。

(2)夜中に「八つ墓村」の頭に懐中電灯を指し模造刀を持ったコスプレをして、ご近所さん宅に醤油を借りに行って気味悪がられる。

(3)振り袖姿の若い娘さんを見ると、「獄門島」のように木に逆さ吊りにしたり、釣鐘の中に振り袖の娘さんを閉じ込めたい衝動にやたら駆られる。

再読 横溝正史(55)「空蝉処女」

横溝正史「空蝉処女(うつせみおとめ)」(1946年)は、もともと1946年の敗戦直後に横溝が完成させ関係者に送付し後は掲載を待つばかりの短編となっていたが、なぜか雑誌掲載されず未発表のまま長い間放置されていたものを、原稿の保管者から提供されて横溝の死後に発掘発表されたものである。

「終戦によって、ようやく人間らしい感情を取り戻していた私は、何年かぶりで中秋名月を愛(め)でる気になった。五分あまり歩いて大きな池のあたりにさしかかった時、突如として、うら若い女性の美しい唄声が聞こえてきた。声に誘われ竹藪(たけやぶ)の中へ歩を進めた私は、はたとその場に立ち止まった。行く手の小高い段の上に、月光で銀色に輝くワンピースに竹の葉影を斑々(はんばん)とさせて、神秘なまでに美しい女性が佇(たたず)んでいた…。ロマンチシズムの極致。数奇な運命を辿り、今蘇(よみがえ)った横溝文学異色の名作」(角川文庫版・表紙カバー裏解説)

本作は横溝正史の疎開先の岡山を舞台にした短編であるが、殺人も失踪も盗難も何ら事件らしい事件は発生しない。よって金田一耕助や由利麟太郎のような探偵も出てこない。作者である40代男の「私」(執筆当時の横溝だと思われる)が敗戦直後に疎開先の岡山の村落にて、ある夜に出会った、記憶喪失の謎の美しい女性(「空蝉処女」!)の戦争という時局に翻弄(ほんろう)された過酷な運命の話である。もっともラストで記憶喪失の過去は周囲の人々の善意により発掘再生され、彼女は無事幸せになるのだが。

本作では、タイトルの「空蝉処女」に話が集約するように最初から逆算し伏線回収で書かれている。なぜ彼女が「空蝉処女」であるのか!?「空蝉」と「処女」のそれぞれの意味とは何か!?最後まで読むと「なるほど」と読者は納得する仕掛けになっている。

1946年頃に書かれた短編であり、探偵小説とは別のところで、敗戦後の横溝正史ならびに作品に出てくる人々のあいだに共通してあった厭戦ムード(「戦争だけは嫌だ。もう戦争はこりごりだ」)の時代の雰囲気が如実に感じられる。探偵小説家の横溝のものとしては、探偵推理以外の異色の作ではある。

角川文庫「空蝉処女」(1983年)は杉本一文によるイラスト表紙で、そのまま「空蝉処女」の女性が描かれている。私は昔から杉本カバーイラストの「空蝉処女」を所有しているが、近年では本書も希少らしく古書価格が高騰しているようである。

再読 横溝正史(54)「首」

多作の量産作家の作品を何作も連続して読んでいると、状況設定や人物類型やラストの結末の付け方まで、いつの間にか似通り重複していて正直、ツライ時がある。以前に私は松本清張の社会派推理をよく読んでいたけれど、どうしても事件背景や犯行動機や殺人トリックや犯人暴露のオチが類似・重複して、多作な松本清張作品は読んでも印象に残らず、すぐに忘れてしまう。また似たような話が多いので別の作品と混同していたり、確かに読んだはずなのに、ある作品内容に関し全くの思い違いをしていて後々自分ながら驚くことがよくあった。

こうした事情は多作である横溝正史に関しても同様だ。私は一時期、横溝の探偵小説を毎日、連続してほぼ全作読んでいた時期があった。その時に、横溝のような多作の量産作家は、書き連ねていく内に個々の作が状況設定や人物類型や使用トリックや事件の真相と犯人の正体に至るまで、どうしても類似の重複になってしまい、「これと似た話は以前に横溝の作品で読んだことがある」「本作の殺人動機とトリックは、あの作品の使い回しだ」と読んでいる中途で分かってしまい、何となく興ざめなことがあった。

今回の「再読・横溝正史」で取り上げるのは、横溝の「首」(1955年)である。

「滝の途中に突き出た獄門岩にちょこんとのせられた生首。まさに三百年前の事件を真似たかのような凄惨な村人殺害の真相を探る金田一耕助に挑戦するように、また岩の上に生首が…事件の裏の真実とは?」(角川文庫版・表紙カバー裏解説)

やはり、本作は他の横溝作品とかなり似ている(笑)。「休息」と称して岡山の山奥の湯治場に岡山県警の磯川警部が金田一耕助を誘うも、実は以前に発生した迷宮入りの未解決事件の謎を金田一に解かせるためで、私立探偵の金田一耕助がいつの間にか事件解決に乗り出す冒頭の話の入り方は、同じ横溝作品の、例えば「悪魔の手毬唄」(1959年)によく似ている。一年前に起こった生首切断の殺人事件での被害者、山に猟に出かけた村の有力者の若者が一時的に行方不明になる事件の詳細は、同じ横溝作品の「鴉(からす)」(1951年)に酷似している。今回起こった生首切断の事件が三百年前、この地域の名主が何者かに生首切断にて殺害され、後に百姓一揆が発生したという、かの地で語り継がれる歴史上の事件が気味悪く現代に再現されるプロットは、横溝の「八つ墓村」(1951年)と同じであるし、さらに犯行時に犯人はなぜか「首」を切断して胴体と離し放置しておく合理的理由、これは犯人による、ある種の現場不在証明(アリバイ)工作に絡むものであるが、そのトリックは横溝作品の「車井戸はなぜ軋(きし)る」(1949年)に類するパターンのものである。そうしてラストで明かされる今回の一連の殺人事件の真相、真犯人はこれまた横溝の「悪魔の手毬唄」の結末と同一である。

横溝正史「首」は、どうしても他の横溝作品と多くの点が酷似しており、またそのままの使い回しが多いため、全体に薄味な「横溝正史の傍流短編」の悪印象が正直、私には拭(ぬぐ)えない。

本作では時代をまたいで三度の生首切断の殺人事件が起こる。いずれも被害者の首をわざわざ切断し、滝の岩(「獄門岩」!)の上に、これみよがしにさらして人々に見せようとする犯人の意図である。第一の首切り殺人は、三百年前に当地の有力農民(名主)が何者かに首切断で殺害され、これを機に農民らの怒りが爆発し百姓一揆の勃発にまで発展したのであった。続く第二の殺人は金田一がこの湯治場を訪れる一年前、山中に猟に出た村の若者が一時的に行方不明になり、後に首切断され殺害されて「晒(さら)し首」のように生首放置で、あたかも三百年前の事件を再現するような事件である。そうして第三の殺人は金田一らが村に滞在中に、映画撮影で当地を訪れていた関係者が、過去の生首切断事件に興味を示して夜半にかつての犯行現場に探索に出かけた所、またもや首切断で殺害されてしまうという奇異怪々な事件なのであった。しかも、第一と第二の首切り事件は、金田一耕助が当地を訪れるまで長い間、迷宮入りの未解決事件となっていたのだ。

「でもねえ、ただひとつ、ぼくには不思議に思えることがあるんです。…犯人が達夫(註─第二の殺人事件の被害者)の首を斬りおとしたってことね。それが不思議なんです。首を斬りおとすことは容易なことじゃありませんよ。時間もかかるでしょうしねえ。それにもかかわらず、ちょくちょく首なし事件ってのが起こるのは、犯人が被害者の身許(みもと)をくらまそうとするためでしょう。ところが、この事件では犯人はべつに、被害者の身許をかくそうともしなかった。生首は故意か偶然か、獄門岩にのっかっていたし…」

という作中の金田一耕助の発言にあるように、「なぜ犯人はわざわざ遺体の首を切断して、その首を隠すことなく、あえて『晒(さら)し首』のようにして人々に誇示したのか!?」の過去および今回の生首切断殺人の理由(わけ)、「犯人がぜひとも首切断をやらなければならなかった合理的な理由」というのが、横溝正史「首」での話も肝(きも)であり核心である。確かに金田一が指摘するように、普通の探偵推理の殺人事件では首切断の遺体があった場合、犯人は首のほうだけ隠匿(いんとく)して誰の死体か人々に知られないよう工作をする。そうした被害者を身元不明の遺体にするために通常、犯人は遺体の首を切断するのである。ところが、横溝の「首」における二度目と三度目の生首切断の殺人事件は、当地に伝えられる三百年前の歴史上の第一の生首事件を受けての単なる見立て演出の殺人ではない。つまりは、面倒であってもわざわざ遺体の首を切断して、しかもそれを大々的に人々にさらして見せようとする犯人の行為に、ある種の現場不在証明(アリバイ)工作に絡むトリックがあるのであった。ここが本作の何よりの読み所といえる。

最後に横溝の「首」の昔の角川文庫、杉本一文による表紙カバーのイラストは実に素晴らしい。紅葉の滝を背景に切断された人間の生首が岩(切り株にも見えるが…)の上にそのままさらされてある構図の衝撃イラストである。横溝正史「首」に関しては昔の角川文庫、杉本の傑作カバー絵の書籍をぜひとも所有して末永く愛蔵しておきたいものである。

再読 横溝正史(53)「金田一耕助の冒険」

横溝正史「金田一耕助の冒険」(1976年)は、私立探偵の金田一耕助と警視庁の等々力警部のコンビが活躍する探偵譚である。本作は全11編の短編からなり、一つの短編の長さはどれも40ページほど、タイトルは「××の中の女」で全て統一されている。本作は「女シリーズ」とも時に呼ばれる金田一耕助の短編を集めたもので、それらは1957年から58年にかけて雑誌「週刊東京」に断続的に掲載された。当時、横溝正史と島田一男と高木彬光の三氏の交代で一話二回続きの探偵ミステリー作品を本誌では長期連載していたようである。

横溝「金田一耕助の冒険」に収録の11の短編は、連載時の1950年代の敗戦後の東京は銀座あたりを舞台にした事件が主である。そのため物語に登場の事件の被害者も関係者も、夜の店に勤めるホステスとかバーテンダーとかキャバレー経営のオーナーなど、その職種の人が多い。というか登場人物のほとんどが夜の街界隈の関係者である(笑)。

本書は掲載形式が似ているため、ドイルの「シャーロック・ホームズ」やチェスタトンの「ブラウン神父」やクィーンの「エラリー・クリーン」の探偵推理の各短編集のシリーズと比較され、「それら海外ものに比べ、横溝の『金田一耕助の冒険』シリーズはやや劣る」の不名誉な評価をもらうことも多い。これには横溝がこの「女シリーズ」の「金田一耕助の冒険」で、密室殺人やアリバイ(現場不在証明)工作や意外な隠し場所など探偵推理の分かりやすくてインパクトのある王道トリックを狙わずに、殺人や盗難の事件があって、犯人が第三者に罪を着せようとする事前に練って張り巡らされた複雑な策略の暴露など、どちらかといえば玄人(くろうと)好みな地味で緻密(ちみつ)な細かなストーリー展開に毎作あえて傾注しているからだと思われる。だから、確かに横溝「金田一耕助の冒険」に収録の諸短編は一読、地味で薄味の印象もあるが、破綻なく精密によくよく考えて執筆されていることも確かで、実はそこが本書の良さであり読み所であると私は思う。

そのような比較的地味で玄人好みで緻密な全11編の「女シリーズ」の中でも、「鏡の中の女」は、発端の事件露見の話の導入(金田一と同伴の女性が銀座の喫茶室にて、向かいの席の見知らぬ男女の会話を読唇術で読んで聞いてしまい、それが殺人計画の会話であることをたまたま知る)から、ラストの犯人の意外性と殺人動機の突拍子もなさ荒唐無稽さで後々まで強く印象に残る。この事件の「意外な犯人」は多くの人が初読時には(おそらく)予測できないであろうし、また殺人の動機に関しても「本当にこんなどうしようもない理由の動機で人は殺人まで犯してしまうのか!」の現実には到底ありえない、フィクションの探偵小説ならではの結末というかオチに驚愕させられる。本作にて「現代はそういう時代なんですよ。ストレスの時代なんです。ひとがなにをやらかすかわからんということは…」などと金田一耕助は言ってはいるが。

最後に。横溝正史「金田一耕助の冒険」の角川文庫版の杉本一文による表紙絵カバーイラストの金田一耕助は、そのまま歌人で劇作家の寺山修司である。金田一の顔が寺山に似過ぎだ(笑)。