アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(53)渡辺久夫「親切な物理」

渡辺久夫「親切な物理」上下巻(2003年)は、1959年の初版にて後に増刷と改訂を順調に重ねていたが、一時的に絶版・品切となり、だがあまりにも良著で再販復刊を望む声が多くあったため、近年めでたく復刻・復刊を果たした物理の大学受験参考書である。

私は不覚にも本参考書の存在を学生時代に知らなかった。近年、「親切な物理」の復刊を知り入手して読んで非常に驚いた。大学受験の物理参考書で、これほどまでに詳しく丁寧で、別の言葉で言えば、ある意味クドい(笑)、タイトル通りの「親切な」物理参考書を本書以外で読んだことがなかったから。

だが、ここで以下のことを早急に付け加えておきたい。本書「親切な物理」を名著で必読な参考書として、物理の得意な大学受験生や現に今、大学で物理学を専攻して本格的に物理を学んでいる大学生や大学院生の前で絶賛したり推薦したりすると確実に笑われて内心馬鹿にされるので注意が必要だ。つまりは本参考書は、大学や研究者レベルで日々物理を使いこなして本質的に物理学を理解している海千山千の、いわゆる「物理屋さん」が書いた書籍ではなくて、あくまで高校生を相手に物理の分かりやすい授業教授を常に考え工夫し試行錯誤していた「学校の物理の先生」が執筆したものであるからだ。このことは本書の著者である渡辺久夫の経歴を見ると即座に分かる。渡辺久夫は京都学芸大学、現在の京都教育大学を卒業、その後、華頂短期大学らの教員を歴任した人であって、本書での著者紹介にあるように「物理の教育方法の研究に一途に進まれ、身をもって学生や生徒の啓発指導に当たってこられた方」であった。

よって、渡辺久夫「親切な物理」は理系学部の物理学専攻分野に進学して将来も物理を究めようとする高校生や受験生であるよりは、物理が苦手で、しかしどうしても入試科目に物理があり、それを選択せざるをえない「逃げ場のない物理が苦手な高校生や受験生向け」の手取り足取りの親切指導な文字通りの「親切な物理」である。この渡辺「親切な物理」を読んでも「物理がさっぱり分からない」ほどの人なら、もう物理の科目選択と学習は諦めた方がよい。逆に、もともと物理が得意であったり、大人になってからも物理学の研究や物理知識を生かした分野の職種を志望する学生は、本参考書ではなくて、例えば駿台文庫の坂間勇「大学入試必修物理」上下(1979、1980年)か山本義隆「新・物理入門」(2004年)辺りをやっておくべきである。

高校の時に理科科目では物理と化学を選択していたが、中途で文系学部志望に変えた私のような、もともと物理があまり得意ではない学生向けの「親切な物理」であるように思う。私は、大学進学後や学校卒業後にその都度、趣味で大学入試の物理問題を解いていたけれども、坂間勇や山本義隆レベルの大学受験物理の参考書は正直、ハードルが高く完全理解習得には程遠いものがあった(苦笑)。

渡辺「親切な物理」は上下の全2巻で、上巻は力学、物性、熱 、下巻は波動、音波、光波、電磁気、原子の構成になっている。確かに「親切」であるが、あまりにクドいくらいの説明過多で時に親切すぎて、その分、解説も演習問題もページ数は多い。本書の上下巻を最初から終わりまで全部やるのには、かなりの労力と相当な時間がかかるに違いない。だが、初学者や物理が苦手な人が本参考書に本気で臨めば確実に物理の成績は上昇して、とりあえず大学受験科目の物理は入試突破で克服できると思う。そういった意味では渡辺久夫「親切な物理」はあえて名著ではないが、かなりの良心的な良著といえる。

大学受験参考書を読む(52)須藤良「世界史総整理」

大学受験をとうに過ぎて学校を卒業してからも遊びで「大学受験参考書を読む」などやって各種の参考書を読んでいると、「これは高校生や大学受験生の人生を確実に変える良書だ」と思える書籍に時に出会うことがある。

駿台文庫の駿台良「世界史総整理」全3巻(2015年)は、それに該当の良書だ。私は学生時代、不幸にも(!)須藤「世界史総整理」を知らなかった。誠に残念ながら、大学受験を終えて大学進学した後に本参考書のことを知ったのだった。その時、「もし私が高校入学後の早い時期や大学受験の際に須藤『世界史総整理』の存在を知って読んで学習していたなら…。確実に私の人生は変わっていただろうな」とは思う。

この参考書を知って高校在学時の受験前から本書の内容をほとんど理解し覚えることが出来れば、中間・期末試験の世界史はもちろん、校外模試や本番の大学入試にて8割から9割の得点は最低限確保でき、場合によっては完答も狙えるだろう。私が須藤「世界史総整理」で学んで大学受験に臨めたなら、難関私大(関東なら早稲田、慶応、上智大学、関西なら同志社、立命館大学あたり)も滑り止めと遊びの感覚で受験したと思う。仮に英語、国語、社会の3科目300点満点で社会の世界史を選択して90から100点の得点は見込めるからだ。残りの英語と国語で6割5分から7割の最低得点でしくじっても総計8割弱確保で、志望の学部にもよるが、難関私大に合格できる勝算は立つ。

しかしながら運命とは誠に薄情なもので前述の通り、私は学生時代に不幸にも(!)須藤「世界史総整理」を知らなかったのである(笑)。もしこれから大学受験に臨む人ないしは現在高校一年か二年の前途有望な若い人が近くにいる方は、須藤良「世界史総整理」の大学受験参考書を教えてあげたり贈ったりすると、その人の人生を変えて後々まで末長く感謝されるに違いない。それほどまでの良書だ、須藤「世界史総整理」全3巻は。

本書は、語句対応記述にて問われるような標準重要とハイレベルな歴史用語は太字と空欄、また正誤問題で問われるような細かなまぎらわしい歴史事項にはアンダーラインを施してある。その他、直に聞かれる頻出年号や位置確認が必須な地図掲載もある。大学入試世界史にて問われる可能性がある知識、時に教科書や一般的な世界史受験参考書にも書かれていない、しかし難関私大では過去に出題されている知識まで網羅した非常に事細かな丁寧な編集だ。

昔の須藤「世界史総整理」はサブノート式の空欄で別冊解答冊子が付いていて、いちいち自分で空欄に書き入れなければならなかったので面倒だった。それが近年の改訂版では空欄に最初から赤文字で印刷記載されており、しかも付属の赤シートをかぶせると重要用語が隠れるようになっている。使い勝手よく、うまく改良されている。

最後に、駿台文庫公式の本参考書の紹介文を載せておく。

「出題される可能性のある歴史知識や歴史用語をできる限り網羅。全体の構成は時代別と地域別の折衷と言う形式を採用。覚えるべき用語・知識はどれなのかが効率よくわかるように赤字・太字・下線で表示。各章の冒頭に年表を掲載。章末には地図を適宜掲載」

大学受験参考書を読む(51)武井正教「展開する世界史 基礎編」

今でこそ予備校産業は発展して、一等地に派手に最新の大型校舎を構え(かつての名古屋駅前の某大手予備校の複数校舎の増築乱立とか)、大々的に広告を打ったり流したり(ある野球場に某有名予備校が大きな看板広告を出していたり)して派手で明るい予備校イメージであるが、一昔前の予備校といえば裏通りの雑居ビル群の一角にあったりして(以前に福岡・天神の繁華街の通称「親不幸通り」にあった某老舗予備校は有名)、今の人にはあまり信じてもらえないかもしれないけれど、昔は予備校に出入りしていたり浪人しただけで「人生の落伍者」の烙印(らくいん)を押されたようなマイナス・イメージのダメージがあった。そのため、昔は今のように予備校産業が発展しておらず市場規模も小さく、受験生の生徒集め以前に予備校にて受験対策指導する講師の人材確保が大変だったようである。

以前に代々木ゼミナールの世界史講師に武井正教という人がいた。この人が代ゼミの現職の予備校講師になるまでの経歴インタビューを昔に読んだことがある。武井正教は元高校教諭である。氏のインタビュー記事を読むと、都立新宿高校で教えていた時に、代々木ゼミナールの当時の理事長、高宮行男(代ゼミの経営母体は学校法人・高宮学園で創業は高宮行男。高宮没後も高宮一族による経営)が新宿高校に訪ねてきて、「是非とも力を貸してほしい。放課後に出講の補講の形でうちに来て予備校生に受験指導していただきい」。それで武井正教は校長同席の下、高宮理事長の話を聞いて「わかりました。協力します。私が出講しましょう」の旨の返事で話が決まり、後々予備校産業の方が高校よりもバブル的に相当に発展し、やがて武井正教は高校教師を辞めて代々木ゼミナールに完全移籍するのであった。武井当人談のこの話では都立高校の教員の公務員なのに、校長同席の場で私塾の代ゼミへの出講に協力同意とか「公務員の副業・アルバイト禁止の規則」に抵触しないのか、今読むと少し不安になるけれど(笑)、とにかく昔の昭和は緩(ゆる)い時代だったのである。

そういえば、昔の昭和の時代の代々木ゼミナールのベテラン世代の講師陣は皆さん優秀で、主に元は都内の大学合格実績がある進学校で教えていた受験指導に定評がある教諭であった。同じく代ゼミで世界史を教えていた「世界史年代記憶法」(1976年)の名著を出していた山村良橘も元は都立日比谷高校の教諭であったし、代ゼミで物理を教えていた「前田の物理」(1995年)の大学受験参考書を執筆の前田和貞も元々、都立多摩高校の教諭だった。山村良橘も前田和貞も武井正教と同様、元は都立高校教諭から後に予備校講師に転職のパターンである。当時より理事長の高宮行男が相当頻繁に大学合格実績がある新宿高校や日比谷高校や多摩高校ら、都内の多くの高校に直々に出向いて受験指導に名のある教諭に代ゼミへの出講を頼み込み、後に皆さん高宮理事長の勧誘・説得で高校を辞めて代々木ゼミナールの専任講師になったと思われる。

世界史講師の武井正教と山村良橘、物理講師の前田和貞の経歴事例を軽く見ただけでも分かるが、高宮行男は優秀な教諭を引き抜きの前提で都内の高校と密接な関係を持ち、やがて後に自身が経営の代々木ゼミナールにことごとく引っ張ってきている。その他にも代ゼミの英語講師の猪狩博は元は高輪高校教諭、現代文講師の堀木博禮は元々は麻布高校教諭であった。昔の昭和の時代の代ゼミの東大コースら難関大学対策の看板講師には、都内の公立か私立の有名進学校の受験指導経験豊富な元教諭を専任講師としてそろえていた。

恐るべし、有能すぎる代々木ゼミナール創設の初代理事長、高宮行男である。「親身の指導・日々是決戦」で、そりゃ代ゼミの英語科の原秀行も高宮行男と高宮一族に嫉妬で立腹するわな(笑)。

武井正教は公式プロフィールにて「山梨県出身」と前職の「都立新宿高等学校教諭を永年経歴」はよく書いているけれども、自身の出身大学については公式に書いていない。自身が出た大学に関し武井本人が明かしたくないフシが感じられるので、ここでは武井正教の出身大学名は明かさないが、この人はある仏教系大学の出身で(確か)東アジアの宗教史を専攻研究していて、日本仏教史学の大家である辻善之助の指導を受けていた。その上で後に武井正教は高校世界史の教員になった。

武井正教「展開する世界史・基礎編」(1988年)は、大和書房の「受験面白参考書」(略して「オモ参」というらしい)の大学受験参考書シリーズの中の一冊である。「基礎編」のタイトルになっているのは執筆時に、「本書はあくまでも基礎編であり、いずれ近いうちに続編として世界の各地域の横のつながりを明確にした同時代史な立体世界史『展開する世界史』の応用編を執筆出版したい」の思いが著者の武井正教にあったからだと思われる。事実「展開する世界史・基礎編」の続編に当たる武井正教「新編集・武井の体系世界史・構造的理解へのアプローチ」(2006年)が後に出ている。「展開する世界史・基礎編」の続編たる応用編の「新編集・武井の体系世界史・構造的理解へのアプローチ」が数十年ぶりに出て、体系化された武井正教の「展開する世界史」がついに完成なのであった。

最後に、「展開する世界史・基礎編」の表紙表カバーに掲載の「受験生諸君へ」と題された本書はしがきの一部、武井正教の文章を載せておく。

「諸君のなかには、世界史は質量ともに多く厄介で得点が取りにくい学科だと思い込んでいる人がいるようだが、実はとんでもない錯誤である。世界史での受験生が他の同列学科の受験生よりも合格者が多いという事実を見れば判る。学ぶには学び方がある。この本はそこから生まれたものである。もし世界史が思うように上達できないという人は、おつむが冴(さ)えないのではなくて、学び方およびその質量に当を欠くところがあるからである」

大学受験参考書を読む(50)武井正教「新編集・武井の体系世界史」

世界史は日本史の一国史とは異なり、様々な地域の様々な国の歴史を同時進行で押さえ理解しなくてはいけない。

例えばヨーロッパ地域の「ヨーロッパ史」をやり、また同時に中国地域の「中国史」をやりながら双方の東西世界のつながりまで理解する。例えばフランスの歴史をずっと定点観測で時代順に連続的に押さえていく一国史の「タテのつながり」だけでは不十分である。「紀元前6世紀はアジアでは人間精神変革の契機にあたる世紀でインドでブッダ、中国で孔子が同時代に出現した」とか「中国に漢という国があった頃、そのとき西のヨーロッパにはローマ帝国があった」というような、いわゆる「ヨコのつながり」が重要だ。

そうした世界史の「ヨコのつながり」に着目し、丁寧にまとめ教えてくれる大学受験参考書があるとよい。近年なら元東進ハイスクールの斎藤整「ヨコから見る世界史」(1999年)が、そんな同時代史編集視点の参考書に当たると思うが、昔から「ヨコのつながり」の同時代史的世界史の大切さを切々と説いている予備校の先生がいた。元代々木ゼミナール講師の武井正教である。

武井正教は、弟さんの武井正明も代ゼミの地理の講師で「武井兄弟」とか「武井ブラザーズ」と昔は呼ばれていた(笑)。それで近年、書店で武井正教「新編集・武井の体系世界史・構造的理解へのアプローチ」(2006年)を見つけたとき、私は非常に納得して腑(ふ)に落ちた感があった。というのは、武井正教「展開する世界史・基礎編」(1988年)という参考書が以前に出ていた。その著書の前書きに「本書はあくまでも基礎編であり、いずれ近いうちに続編として世界の各地域の横のつながりを明確にした同時代史な立体世界史『展開する世界史』の応用編を執筆出版したい」旨が書いてあった。

それから20年近く経って「新編集・武井の体系世界史」が発売されて、それを書店で発見、「武井先生、粘り強く継続して仕事されて、いよいよ自身の世界史を完成させたんだな。『展開する世界史・基礎編』の続編たる応用編が数十年ぶりに出て、体系化された武井先生の展開する世界史がついに完成か」という思いだ。

しかしながら実際に本書を手に取って見ると、非常に使いづらい。どのように使用してよいか正直、戸惑うところがある。とても細かく、びっしり書き入れられ、まとめられた無機質な年表のようだ。やはり、こういった年表形式のサブノートは、完成したものを印刷し参考書にして一方的に渡されるより、学生が自分で工夫してノート作成したり、武井正教の世界史講義に実際に出席して、その場で直に指導を受けながら一緒にノートを作っていかないと意味がない、受験生の身にならない気がする。

だからなのか、私塾の栄光ゼミナールの栄光出版というあまりメジャーでない出版社から、しかも価格設定がかなり高めで出ている。「新編集・武井の体系世界史・構造的理解へのアプローチ」は正直、そこまで一般ウケしそうにはない世界史の大学受験参考書ではある。

大学受験参考書を読む(49)酒井敏行「酒井の現代文ミラクルアイランド 評論篇」

前回に取り上げた中野清「中野のガッツ漢文・改訂新版」(1996年)同様、酒井敏行「酒井の現代文ミラクルアイランド・評論篇」(1997年)も、以前に大和書房が「受験面白参考書」シリーズで出していたものを近年、情況出版が復刊するという形態になっている。

情況出版といえば、日本共産党から離反した共産主義者同盟(ブント)が出している月刊誌「情況」の出版元だが、なぜその情況出版が代々木ゼミナールの現代文の人気講師、酒井敏行の参考書を復刊するのかといえば、それは中野清と同様、酒井敏行が反戦平和を志向する反体制の左翼心情の持ち主だから。例えば、以下は「酒井の現代文ミラクルアイランド」のはしがき並びに帯に記された文章である。

「大学に受かるためだけの勉強では結局受かりません。それを超えて大学で学ぶための勉強をする意欲で努力していきましょう。人生苦しいときが登り坂です。共に連帯して、大学受験の体制を粉砕し青春の自由解放区を勝ち取ろうよ」

この文面を見ただけで共産主義者同盟の左派の情況出版編集部の面々が、酒井の文章中の「共に連帯」「大学受験の体制を粉砕」「青春の自由解放区を勝ち取る」の各文言に異常に反応し歓喜して、勢いのノリで自社での復刊を決めたであろう情況編集部内の光景が目に浮かぶ(笑)。

酒井敏行の現代文読解の方法は「論理」である。すなわち「理=わける」と「論=つなぐ・まとめる」。だから、評論問題では表現と内容から「理」の「わける」で対立する二つの系統を図式化し板書して、それぞれの系の言い換えや内容の深まりを「論」で「つないで」行く。そして、それら二つの対立系統が次元を高めてより「まとまって」統一されたり、また再び「理」で二つに「わかれ」て展開したりする。

酒井の「わける」と「つなぐ」は、テーゼとアンチ・テーゼがあって、この対立する二つの命題がアウフヘーベン(止揚)されてジンテーゼという弁証法的発展が、おそらくは元ネタである。そもそも「理」の「わける」で対立する二つの系統に枝分かれする図式を毎回、必ず作り込むところが、いかにも「ベタな二項対立思考の近代主義」という感じが正直、私はする。昔からマルクス主義者や左派の理論家は、世界や人間を必ず二つに分けたがる。「観念論と唯物論」「支配する階級と支配される階級」というように。酒井敏行の現代文の読み方教授が反戦平和を志向する反体制の氏の左翼心情的思考に由来し、ある程度、支えられていることは間違いない。

私は昔から思っていたが、酒井敏行の現代文講義を受けた方は実際にテストで評論文を読むとき、いちいち氏が毎回授業で板書しているような、あの枝分かれの系統図式をその都度問題用紙余白などにメモし書き足しながら文章を読み進めていくのか!?それとも酒井の読解アプローチを会得して完璧に自分のものにできれば、いちいちメモなどしなくとも頭の中に、あの枝分かれした系図が自然に浮かんで来て即座にスラスラと評論文が読めて日々の読書にも応用できるものなのか。

酒井敏行は自身が出身の母校、早稲田大学を心底愛していて、特に早稲田の現代文に特化した講義をやる人だ。もちろん、センター試験や一般私大対策も幅広くこなされるのだろうけど、この人の早稲田対策の現代文講義は昔から定評があり評判がよかった。

大学受験参考書を読む(48)中野清「中野のガッツ漢文」

中野清「中野のガッツ漢文・改訂新版」(1996年)は懐かしい大学受験参考書だ。「中野のガッツ漢文」(1987年)という書籍が昔あった。大和書房の「受験面白参考書」シリーズのラインナップのうちの一冊で、「中野のガッツ漢文」は上下二巻にさらに「中野のガッツ漢文」副読の問題集も出ていたはずだ。

復刊が「情況出版」、ここは間違いなく笑うところである。日本共産党から離反した共産主義者同盟(ブント)系の雑誌「情況」を毎月出している情況出版からの復刊である。情況出版は、福岡が生んだ偉大な哲学者でマルクス研究者である廣松渉が、自腹で資金を出して作らせた雑誌「情況」の出版元である。現在でも「情況」は月刊誌形態で刊行されている。私の近所の書店では「情況」と、これまた日本共産党機関誌「前衛」が毎月仲良く書棚に並んで陳列販売されている。

もちろん、「ガッツ漢文」の著者・中野清も左翼関係で反権力な人だ。昔から中野清の参考書を読むと、この人のお上の国家権力に対するアンチな反権力の志向性を氏の漢文講義を通して、その発言の端々に遺憾なく感じ存分に味わい尽くすことができる。例えば、以下は1996年復刊「中野のガッツ漢文・改訂新版」にての、はしがきの中の一文である。

「大学入試センター試験への私立大学の参加は、入学試験の国家統制への道なのではないか、という危惧がますます強まったということなのです」

大学入試センター試験が「入学試験の国家統制への道」とは、さすが元全共闘世代は考えることがスゴい(笑)。共産主義者同盟の情況出版が「中野のガッツ漢文」を改訂新版で出すのも、同じ全共闘「同志」として敬愛の、つながりがあるからだろう。よくよく考えてみると共産左翼の学生運動と予備校講師とは非常に親和性がある。往年の学生運動に参加し活躍していた人は、秀才で優秀な人が多い。頭脳明晰で学問ができるし文献も読める。理論に精通し理知的に思考もできて、おまけに弁も立つ。ただこういう人は、秀才で優秀なのだけれど大学卒業後の進路に困る。頭脳明晰で学問ができるなら、そのまま大学に残って研究者の道に進むこともありだが、普通の大学は学生運動をやって大学の教授会やら学部当局と散々敵対し、「大学解体」などと叫んでいた学生を当然ながら進んで大学の組織内には入れたがらない。いくら秀才で有能でも、せいぜい非常勤講師の数年契約くらいで、将来的に専任として学内人事に積極的に大学側は採用したがらない。彼らが後々、教授や研究職として正式に大学に残る道は、おそらく厳しい。何しろ当時は現役の教授・助教授・講師陣ですら、学生運動を支持すると大学を追われ職を失ったりしていたので。

また一般企業への就職も、華々しく反体制運動をやって「秩序糜爛(びらん)」の疑いで検挙や逮捕歴がある学生を就職採用で積極的に採用するかどうか。さらに、そういった闘争運動をバリバリやっていた人は実際に優秀でプライド高く自信にみなぎる人が多いので企業組織に属することに少なからず抵抗を感じ、自分から新卒正規の就職を拒絶したりもする。

そこで比較的自由が効いて組織の縛り少なくフリー、しかも本人の実力次第でいくらでものし上がれる予備校講師稼業への転身を果たす。最近はどうか知らないが、昔の予備校講師には「左翼でもともと学生運動の闘争を派手にやっていた」ような人が結構いた。受験生の応援色紙に「一点突破・全面展開」など、運動の闘争スローガンをそのまま書いてしまう人、容姿の風貌も長髪ヒゲでヒッピーのような服装の出で立ちで「それ!普通の企業や大学勤めなら風紀的に一発アウトだろ」という人(笑)。しかし、そうした見た目がヒッピーで自由度が高いフリーな人ほど優秀で頭がキレて難しい大学入試問題もスラスラ解けて、しかもバイタリティあって受験生に教えるのが異常に上手い。人は見かけでは判断できない。要は人間は中身だから。

そうした自由人で秀才な予備校講師として私がすぐ思いつくのは駿台予備学校の物理科の山本義隆で、氏は東大の全共闘(全学共闘会議)の元代表だった。また河合塾の現代文講師にも以前に牧野剛という、反権力な名古屋大学出身ゆえ相当に左派の重鎮な方がいた。昔の河合塾は文化活動講演に学生運動シンパの吉本隆明を呼んだり、河合文化教育研究所にマルクス研究の廣松渉を招聘(しょうへい)しようとしたりしていた。

そういったわけで全共闘世代の元学生と予備校講師とは親和性あって、つながりが深い。だから、かつての運動での優秀な学生「同志」の同世代人が多く予備校業界にいる、共産主義者同盟系の情況出版が、反権力で反体制な中野清の「ガッツ漢文」を自社で「改訂新版」として復刊する、その辺りのつながりは大変よく分かるし、私は非常に合点(がてん)が行く。

「中野のガッツ漢文・改訂新版」は漢文を中国語のように厳密に外国語の語法に従って読む、そうすると「なぜこのように送りがな付けて読めて、そのような書き下し文になるのか」漢文の仕組みが原理的に分かる、という氏による漢文読解アプローチである。当然、中野清は全共闘世代の反体制なので、彼からすれば今まであやふやで慣れや反復重視で「何となく」だった素読主義の漢文読解の従来教授に対する「反」(アンチ)の意識が強烈にあるわけだ。そのため、漢文を「なぜそのように読むのか」論理的に原理から分かりたい受験生には中野清「ガッツ漢文」は昔からウケがよい。

ただ私が思うのは、漢文に関して「なぜそう読むのか」とか「そういった書き下し文になるのはなぜなのか」の原理の理屈を詰めていくのは誤りな気がする。漢文や古文の知識は大切で、大学に入ってからも史料読解で必要になるけれど、やはり漢文・古文の類(たぐ)いは「文献読解で使えるか否か」の実用学問スキルで、「なぜそう読むのか」の意味を持たせた原理に深入りする方向は明らかに不健全で誤りな思いがする。

私は今でも古典の歴史史料を読む機会があるが、「なぜそのような読み方になるのか」など原理的に考えることはない。原理的負担なく、もう自然に無意識で読めているからだし、本当は読み方の原理に関し、そこまで拘泥(こうでい)してはいけない。漢文や古文は史料があって原文素材がそのまま出てきた時、即座に読めて意味内容が正確に理解把握できるかどうかが勝負所な、いわゆる「使える道具のスキル科目」であると思う。

大学受験参考書を読む(46)山本充男「世界一わかりやすい京大の日本史 合格講座」

京都大学の二次試験の日本史は、論述(200字以内の論述)と用語記述(空欄補充、一問一答)の2種の問題よりなる。当然、最初に解くべきは用語記述の方であって、これを最初に出来るだけ短時間で早く済ませて、より多くの残り時間を論述に傾注する時間配分が京大日本史攻略のカギとなるに違いない。

京大日本史の過去問にて、空欄補充や一問一答の用語記述問題を連続して解いていて私が気付くのは、用語記述で受験生に書かせたい日本史用語の解答が最初にあって、つまりは解答をまず決めておいて、そこから逆算しその用語が解答になるような下線部の問いや空欄ありの史料を考えたり探すの順序で、大学側は問題作成しているのではないかということだ。京大の日本史の用語記述の問題を年度ごとに解いていると、解答となる日本史用語の選択が毎年、絶妙なのである。山川出版社「日本史用語集」の「頻度3」(十何社ある教科書のうち3社の教科書に書いてある用語。あまりに定番で易しくないが、逆にそこまで高度で細かくもない、適度にそこそこ難しい知識)から「頻度6」まで辺りの用語がほぼ解答になっている。例えば「碧玉製腕飾り(頻度6)」「西大寺(頻度3)」「火除地(頻度5)」など。受験生の誰もが答えて書ける余りにも易しい「頻度10」ではなく、また非常に細かい明らかに高校生レベルを超えた難しい「頻度1」でもない。おそらく京大の関係者は、山川の「日本史用語集」を参照して「頻出3」から「頻出6」くらいの範囲の用語をあらかじめ選択し、そこから逆算して問題作成しているのではないか。

何しろ日本史の用語記述問題は、記号選択式のそれとは違って用語を漢字で正確に書かないと点数はもらえない。漢字の間違いがあれば失点となるし、漢字が分からずあえてひらがなで書くと、かなりの減点になる。だから常日頃から日本史用語を実際に繰り返し書いて覚えるようにした方がよい。特に京大の日本史に関しては、その際に山川の「日本史用語集」を主に使って「頻出3」から「頻出6」くらいまでの用語に集中的に当たりをつけ、内容理解につとめて正確に漢字で書ける勉強を重ねていくとよい。

そういえば、これは京大日本史には関係ないが、昔に立命館大学の日本史で近代の自由民権運動時の「讒謗律(ざんぼうりつ)」を漢字で書かせる問題があって当時、話題になった。これは漢字記述を要求している時点で確かに難問である。「讒謗律」とか普通の大学受験生でもなかなか正確に漢字で書けない。少なくとも私は「讒謗律」を間違えずに書ける自信はない(笑)。

他方、京大日本史の論述はシンプルである。問題文が1行か2行で終わる。付属の史料や図表はない。だいたい「××について具体的に述べよ」か「××を簡潔に説明せよ」の問いになっている。論述の制限字数は200字である。

例えば東京大学の日本史論述は長いリード文や多くの史料・図表を付して、非常に細かく練(ね)りに練って事前に相当に考えて作問しているのに、他方で京都大学は実にシンプルであっさりとしている。東大とは対照的に、京大は即席で問題作成したように時に思えて何だか笑う。京大の論述は大学入試の日本史論述の基本の型であるので対策が容易であるし、実際に書きやすく試験そのものに取り組みやすい。

ただ京大型のシンプルな論述では、そのまま漠然と書き出してしまわないことが肝要である。「××について具体的に述べよ」「××を簡潔に説明せよ」と極めて大まかに聞かれた場合、まず解答にて書くべき項目の内容分けをして、次に各ブロックごとに複数の部分を積み重ねるようにして書く。例えば「国内と国外」「中央と地方」「政治と経済と文化」や、「(複数ある)時間の変化・推移の段階」「他の事柄との共通と相違」「継承面と革新点」「プラスの面とマイナスの面」など、各ブロックに分けて論述するのが基本である。

最後に、山本充男「世界一わかりやすい京大の日本史・合格講座」(2015年)について。京大の日本史過去問の参考書は、近年では教学社の「難関校過去問シリーズ」にて「京大の日本史・20カ年」が出ているけれど、昔は教学社に「東大の日本史」はあっても、まだ「京大の日本史」は長い間なかったのである。そのため京都大学の日本史の過去問を確認したり問題を解くのに、「KADOKAWA(角川書店)」から出ていた山本充男「世界一わかりやすい京大の日本史・合格講座」を以前に私は使っていた。本参考書は解説と論述の模範解答ともに適切であると思う。ただタイトルの「世界一わかりやすい京大の日本史・合格講座」というのがな(苦笑)。著者も出版社も本書の内容にかなりの自信があるのかもしれないが、「本当に『世界一わかりやすい』のか!?『 世界一』など大げさ過ぎて、そんな簡単に『世界中で一番』の最上級を使っていいの !? 」の本書に対する少し悪意のある疑問を、私は抑(おさ)えきれない。

大学受験参考書を読む(45)鈴木和裕「一橋大の日本史 15カ年」

一橋大学の二次試験の日本史論述は、一般に難しいといわれる。その難しさの理由は以下のものがあるからだと考えられる。

(1)前近代ではテーマ史がよく出される。前近代のテーマ史では法制史が毎年定番で頻出。通史ではなくて、テーマ史の勉強を事前にしておかないと対応できない。(2)近世(江戸)と近代(明治・大正・昭和)の経済史がよく出る。本百姓体制や寄生地主制、金本位制らの内容理解は必須。(3)近現代の戦後史(1945年以降)が出る。現役高校生は原始・古代の古い時代からからやる学校カリキュラムの都合上、戦後史まで授業が進まず対策が不十分になるおそれがある。(4)近代の労働運動や女性の人権や被差別部落解放運動の歴史についての内容を結構、踏み込んで詳しく聞かれる。こうしたある意味、特殊分野な社会運動史は前もって対策しておかないとなかなか書けない。

私は一橋大学を過去に受験したことはないし、だから一橋大の卒業生でもなければ、一橋対策の日本史論述指導をやる高校教師や予備校講師でもない。ただ以下は、これまで一橋の日本史論述の過去問を遊びで解いてみての私の感慨である。

もともと一橋大学の日本史論述は前近代(古代から近世・江戸まで)と近現代(明治から大正・昭和まで)の内容的には二部構成である。日本史論述は大問が3題で、第1問は前近代、第2・3問は近現代で例年ほぼ固定されている。一橋大学の日本史は前近代よりも近現代の時代に比重を置く試験なのである。

そして前近代では、ある一つの時代の特定の歴史事項よりも、大きな歴史の流れのつながりや変化の推移を聞きたいためか、古代から近世までの複数の時代にまたがるテーマ史の問題になることが多い。また近世(江戸)と近代(明治・大正・昭和)の社会経済史は毎年、本当によく出題される。これには一橋大学の前身が東京商科大学であり、元は経済学専門の商科大学として創立され出発した一橋大学の建学の精神に裏打ちされたものだといえる。

さらに一橋大学といえば、戦時に天皇制ファシズム下で欧米流の自由な学問教育が制限され、例えば大塚金之助という西洋経済史専攻の教授が、自由な発言・執筆が禁じられ国家により治安維持法で検挙・弾圧されていた。そして敗戦後の1945年以降に大塚ら、戦時に弾圧されていた教授陣が復学して後の一橋大の看板学部となる社会学部の新設に至るわけである。そういった大学の歴史的背景があるため、一橋大は近現代の社会・政治に対する関心意識や、国家(政治権力)に対抗する左派リベラルの市民的自由主義の学風が強い。こうしたことから一橋大学の日本史論述では、他大学入試にはあまり見られない天皇制ファシズムの大日本帝国崩壊後の、1945年以降の戦後史を出題したり、近代の労働運動や女性の人権や被差別部落解放運動の歴史に関する割合、踏み込んだ市民的な社会運動史に関する問題が定番頻出なのだと考えられる。

一橋大学の日本史論述で面白いのは、論述問題一問ごとに指定字数があるのではなくて、1つの大問の中にある3つから5つの設問で合計の字数指定になっている所だ。大学入試の論述問題は指定字数の9割以上は必ず書かなけれならないから、つまりは大問の中に問1から問3まで小問がある場合、分からない問題があっても、その論述は1、2行の短い字数で軽く流して、残りの2つの問いの解答記述で多くの字数を使い詳しく書いて全体の指定字数の9割以上を確保すればよいのである。場合によっては3問中、1問の論述しか分からなくても2問は1、2行の短い字数で軽く流し、その分、残りの1問の論述をかなり詳しく書いて字数を稼ぎ結果、全体の指定字数の9割以上に強引にする荒業(あらわざ)も、一橋の日本史論述のような指定字数形式のものならできる。

おそらく採点する大学側も、各問の字数バランスは評価対象にしていない。ゆえに設問ごとに偏(かたよ)って書いても減点対象にはならない(と思われる)。むしろ自分が分からない論述問題は最低限の字数で周到に回避して、その分、書ける問題で全体の指定字数を稼ぐような、そういった機転の効く賢い学生に合格を出して取りたいのだと思う。そうした大学側の出題に際しての意図は一橋大学の日本史論述問題から感じられる。

最後に、教学社の「難関校過去問シリーズ」にて「一橋大の日本史・15カ年」(2015年)の解説と模範解答を執筆の鈴木和裕について。この人は駿台予備学校の日本史科の講師で、どうやら「東大の日本史・25カ年」(2008年)の著者である塚原哲也の同僚で駿台日本史科での後輩に当たる人であるらしい。氏による本書での解説と模範解答は適切であるとは思うが、「高校教科書に記載されておらず、内容を膨らませるのは難しい」「的確な内容が書けていれば、全ての設問を合わせて8割程度の字数が埋まれば十分」など、一橋大学の日本史論述は非常に難しい旨の発言を解説で連発する所が難点か。

確かに、他大学の日本史論述と比べれば一橋大学の論述は難易度が高い。しかし、そこまで極端に異常に難しいというわけでもない。受験勉強のやり方によっては、一橋の日本史論述でも模範解答に限りなく近い内容で制限字数の9割以上は書ける。一橋大学の日本史論述はかなり特徴があるため、過去問研究を前もってやっておけば十分に対応できるし、事前に問題予測でヤマも張れる。入試本番での問題的中も普通にあり得る。前述のように、とりあえず前近代は法制史を中心としたテーマ史、近現代は戦後史と経済史と社会運動史(労働運動、女性の人権、被差別部落解放運動の歴史ら)を優先して学習しておくとよい。

以前に慶應義塾大学に日本史入試があった時代の、慶應の日本史論述ほどには一橋の論述は難しくはない。昔の慶應の日本史論述は相当に難しかったのである。10代の高校生に書かせる大学入試ではなくて、学部を修了してさらに大学院に進学しようとする院生志望の、大学院入試のような高度な試験であった。かつての慶應の大学入試の日本史論述は。

一橋大学の入試にて、二次試験の英語や国語ら他教科が苦手で、その分、地歴科目の日本史で完答を狙って合格点にまで達しようとする戦略の受験生もいるであろうから、「一橋の日本史は非常に難しい」旨の発言を連発せず、また本参考書執筆時には著者も40代で比較的若い予備校講師であるので、妙に萎縮したり変に弱気になることなく、もっと溌剌(はつらつ)と元気よく、あくまでも完答を目指す姿勢で前向きに受験指導しても良いのではないか。鈴木和裕「一橋大の日本史・15カ年」に関し、そのような感想を私は持った。

大学受験参考書を読む(44)塚原哲也「東大の日本史 25カ年」

教学社から出ている「難関校過去問シリーズ」、塚原哲也「東大の日本史・25カ年」(2008年)に絡(から)み、東京大学二次試験、日本史論述問題の傾向や対策以前に日本史の論述問題への対応として一般的な事柄をまず述べておくとすれば、以下のようになる。

論述問題とは出題者が何を要求して何を書かせたがっているか、解答者が察する問題である。論述問題の答案作成において、学び初めの不慣れな時は特に「内容を掘り下げて密度濃く、かつ幅広く書いてアピールしてできるだけ多く得点しよう」という気になるが、字数制限や行数指定がある論述問題にて、そうそう様々なことを掘り下げて、しかも盛りだくさんには書けないものだ。当然、論述問題を作問している大学側にもあらかじめの模範解答があり採点基準があって、その条件を答案論述中に書いて条件を満たしていれば加点となり、書けずに欠落してれば減点になる。最初から出題者が想定し要求していることを過不足なく書けば、自然と字数と行数を満たす問題になっているはずである。ゆえに論述問題では出題者が何を要求し、どんなことを書かせたがっているか、試験会場の問題初見にて素早く的確に察知して見切り、入学希望大学の出題者の要求通りに適切に書き抜くことが重要となる。

よくよく考えたら学校を卒業して社会に出てから仕事ができる人というのは、要は相手が何を望んでいるのか、上司や顧客の言外の要求を素早く的確に察知して見切り自分から進んで自発的にやる人が、いわゆる「デキる人」である。相手から指示されて初めて気づいて重い腰を上げ、やっと実行に移す人は駄目なわけである。恋愛でもそうだ。口には出さない異性の言外の要求があって、それを事前に察し前もって相手の思う通りにやってあげるのが「異性への優しさ」であり「自身の余裕」であり、それが「大人の恋愛」というものだ。だから大学入試の日本史論述に習熟していると、その辺りの直接的には明示されない相手の言外の暗示的要求を即座に適切に察知する能力が養成され、社会に出て「大変に仕事ができる有能な人」や、恋愛において「非常に異性にモテる羨(うらや)ましい人」になれるかもしれない(笑)。

さて、東大の日本史論述問題は「標準的な高校の授業では、さすがにこれは教えないだろうし、第一こんな歴史事項は教科書や参考書に詳しく載っていないだろう」という傍流で細かな問題も実際に出題されている。しかし、そこで諦(あきら)めずに設問にある史料やリード文を手がかりに日本史の知識がなくても自分なりにその場で考え対応して、答案を作っていく思考力ある学生に合格を出して、東大は入学させたい。「知らなかったらそこで終わりで諦める」硬直した生真面目な融通の効かない、柔軟に軌道修正ができない学生は要らない。たとえ知らなくても自身の中に限られてある知識を駆使し、工夫して柔軟に主体的に考え続ける賢い受験生を東大は自分たちの大学に迎え入れて入学させたいのだと思う。だからなのか、日本史の知識と関係なく、ただ提示の史料から読み取れることを抽象化して簡潔にまとめるだけ、設問の問い方から解答を類推したりする「もはやこれは日本史の問題ではなくて、どちらかと言えば古文や現代文の問題だ」というタイプの論述も正直ある。

例えば2003年度の第1問「律令国家の国家認識と外交姿勢」では、「当時の日本と唐・新羅との関係の意味を、たて前と実際の差に注目しながら説明」させるもので、唐と新羅に対する日本外交の「たて前」と「実際の差」の二つのポイントを押さえてまとめる論述である。一般の教科書レベルでも、またどんなに詳しい日本史参考書にも、そのような「古代の律令国家外交のたて前と実際の差」など載ってはいない。もうこれは問題に付された具体的史実の史料を試験当日その場で読んで対処する、その史料から読み取れる「たて前と実際の差」の内容事柄を自分なりに抽象化して、そのまままとめる古文か現代文の読解問題である。こういうのは、もはや日本史の試験ではない。

ただ、その一方で東大の日本史論述は「論述テーマに沿った自身の中にあらかじめある定番で定型な日本史の前知識」と、「提示されて当日初めて試験会場で見る問題文の誘導や史料から読み取れること」の二つの内容をバランスよく過不足なく両方を、うまく論述答案に繰り込まなければならない。東大の日本史論述にて高得点や完答を狙うには、その配分にひとえにかかっているといえる。前者の定番で定型の日本史の前知識だけで書くと問題文リードや史料を踏まえ活用していない独りよがりの論述解答になるし、また後者の問題文誘導や提示史料から読み取れたことのみで書いて日本史の定番前知識を入れないと、いかにもその場で考えてインスタントに即席でこしらえた深まりのない薄っぺらい論述答案の悪印象を採点者に与えてしまう。東大論述の試験を受ける受験生は、前もって自分の中にある日本史の前知識と問題文や提示史料から当日に読み取れることの二つの要素とを、必ず過不足なくバランスよく答案記述に盛り込む強い意識を持って論述作成するとよい。

真剣に取り組めば、それだけ得るものもある東大の日本史論述であり、過去問を解いていると面白い。例えば2004年度の第2問「中世・近世前期の貨幣流通」、この問題に「永楽通宝が相当数まとまった状態で遺跡から発掘される際の銭貨が土中に埋まるまでの経過」を説明させる論述ある。「なぜ多数の貨幣が土中に埋まった状態にあったのか」。解答は「室町当時、貨幣が流通手段だけでなく、蓄財手段として一般に認識され機能していたから」といった内容を中心に書き抜けばよいわけだが、これは問題作成した人が(おそらくは)経済史をやっている人で、明らかにマルクス「資本論」の「貨幣とは価値尺度、貨幣退蔵、支払手段」云々を踏まえて作成した論述だと思われる。果たして10代の受験生が「貨幣といえば価値尺度、貨幣退蔵、支払手段」と普通に知っているのか。もしくは試験会場での問題初見で「多数の銭貨が土中に埋まっている現象は貨幣の蓄財」と連想で即に気付くのか。案外、難しいところではないか。

史料から読み取れる「多数の銭貨が土中に埋まっている現象は貨幣の蓄財」に加え、あらかじめ知っている日本史の教科書的前知識たる「室町時代には貨幣経済が発展浸透し人々は貨幣蓄財をするようになっていた」論旨にて「問屋や撰銭」の定番な歴史用語も書き入れ、問題文や提示史料から当日に読み取れることと前もって自分の中にある日本史の前知識の二つの要素の二元的構成にて論述を組み立てればよいはずだ。本論述は、まず史料からの読み取りの思考力が試され、次いで日本史の定番知識も問われている良問であるに相違ない。

最後に、教学社の「難関校過去問シリーズ」で「東大の日本史・25カ年」の解説と模範解答を執筆の塚原哲也、この人は駿台予備学校の日本史科の人である。本書にて論述問題の設問(問いかけ)パターンに沿った記述のあり方、解答の作り方の雛型(ひながた)が丁寧に解説されており、氏が作成掲載の模範解答ともども有用である。提示の史料は過不足なく全てを使って必ずそれら史料から読み取れる内容を均等に解答論述に繰り入れること、「変化・変遷・推移」や「展開・経過」の過程を聞かれたら必ず二つ以上の時期を取り上げ、それぞれの事項を対比させコントラストを付けて書くことなど、論述解答の作り方の基本を親切丁寧に教えてくれる。

大学受験参考書を読む(43)船口明「決める!センター現代文」

船口明「きめる!センター現代文」(2014年)は、センター試験・現代文対策の良い大学受験参考書だ。私は読んで大変に勉強になった。近い将来、センター試験・現代文のような客観式選択の国語の大学入試はなくなって別の試験方式になってしまうかもしれないけれど。

「きめる!センター現代文」のタイトル通り、センター試験の現代文(評論と小説)に特化した大学受験参考書であり、ゆえにセンター特有の長い本文と、これまた長い選択肢の見極めの解法を詳しく述べている。特に小説問題の解き方まで詳しく解説されている所が他著にはない、本書の良さだと言える。普通の参考書だと、どうしても評論読解が主で小説問題の対策が手薄になってしまうので。

船口明が執筆の他の現代文の参考書も平行して読んで私が強く感じるのは、もともとこの人は「主語と述語の対応」や「指示語の内容追跡」や「並列では何と何が並べられてセットになっているのか」とか「添加で何が新たに論旨にプラスされたか」など、一文ごとの文構造や一文一文の文章の繋(つな)がりに着目した細かなミクロの読みが非常に上手い。だから「きめる!センター現代文」でも評論読解の場合、傍線部の文章を分節化して着目すべきポイント群に分け、それらポイントの該当部分を本文から探し見つけ出し、それから本文にある主要なポイント要素と選択肢内のポイント内容との対応を吟味して適切でない選択肢をはじいて正解を絞り込むといった氏の独自解説が特に目を惹(ひ)く。

例えば、設問にて「最も適当なものを選べ」といわれた場合、絶対に落としてはいけない、必ず押さえられなければならない並立のポイント要素AとBが2つあったとして、「この選択肢にはAとBの2つがあるけれど、この選択肢にはAのみでBの要素に言及してない欠落があるから不適切。よって選ぶべき正解の選択肢は前者」のような選択肢に対する分析の吟味が素晴らしい。またセンター試験現代文の問題作成をしている出題者も「最も適当なものを選べ」タイプの設問にて、不正解のダミーの不適切な誤選択肢を作る場合、明らかな間違いで本文とは全く異なる逆な内容(いわゆる「バツ」)、一般的で常識的な内容で正しいが問題文中には書かれていない(いわゆる「ナシ」)、極端な強調や限定の表現で内容が逸脱してしまっている(いわゆる「イイスギ」)以外にも、絶対に落とせないポイント要素AとBなどが2つかそれ以上あるのに、あえてAしか書かずBに触れない選択肢を作ることで「最も適当でない」不正解の引っかけのダミーにすること(いわゆる「カケ」)をよくやっている。

そういった間違いのある選択肢作成の仕組みを押さえた船口明のセンター現代文の解説は、出題者による問題作成視点の逆を行く、なるほど理にかなった方法であり、傍線部をポイントに分けて分析し本文から対応する要素を探し出し、それから各選択肢にてその外せない要素の有無を吟味する氏の方法は非常に優れている。

実際、大学入試センター試験の現代文の問題は大変によく考えられ大人数で時間をかけて練(ね)りに練って作成されている。センター現代文の過去問を解いていて少なくとも私は、そう思う。目立った悪問やフィーリングの記号選択で乗り切れる問題は皆無だ。どの設問にも正解の選択肢には必ず正解である確固たる根拠があり、不適切な選択肢は明らかに不正解であって、これを解答に選ぶのは無理があり間違いである根拠が必ずやある。

ところで、現代文のカリスマ(?)人気予備校講師で、かなりのベテランの方で、お名前を直接いうと失礼に当たるのであえて伏せて、昔は「驚異の現代文読解法」で売り出し、近年は「論理エンジン」の教材販売で、やたら著書や参考書を量産の連発で出しまくっている非常に商売熱心な金儲けに精を出している方がおられるが、その人の比較的新刊の参考書での「センター試験型問題の解法」にてセンター現代文の過去問解説の際、「最も適当なものを選べ」タイプ設問の選択肢の吟味が、前述のいわゆる「バツ」と「ナシ」の判断のみで処理されていて、「だから正解はこれで決まり」という明らかに手抜きな解答解説が連続した参考書があって、最近それを読んで私は非常に驚いた。いくら何でもかなりの多くの受験生が受けて社会的にも大いに注目される大学入試センター試験の国語の現代文の入試問題であるから、大人数で時間をかけて本文、選択肢ともに非常に丁寧に精密に作っているはずだ。センター試験の現代文を解く場合の選択肢の吟味で「内容に合致するものを選べ」ではなく「最も適当なものを選べ」タイプの設問の場合、「バツ」と「ナシ」の2つの判断基準のみで対応できて乗り切れて無事に正解にたどり着ける、そんなヤワな問題はさすがにない。「バツ」と「ナシ」だけの判断でセンター現代文の記号選択の全てを説明づけようとするのは、どう考えても明らかに無理がある。問題作成の大学入試センター側も当然もっと深く考えて問題を作っている。

例えば、その人気予備校講師の方の解説を読むと、「これは本文中にない内容だから、この選択肢は『ナシ』で消去できますね」といったことをサラリと書いている。しかしながら、少なくとも私が読んで問題を解いた限り、その内容部分は本文中に書いてある。確かに結果としてその選択肢は間違いで、それを選んだら不正解になるのだけれど、そう判断する基準は本文中に書いていない「ナシ」ではなくて、もっと別の判断で「この選択肢は適切ではない」と本来は処理すべきはずのものだ。私には納得できない、むしろかなり疑問が残る、そういった怪しい解説の現代文の大学受験参考書が最近、実際にあった。

だから、センター試験の現代文も船口明「きめる!センター現代文」のような非常に分析的で細かい手法の良書もあるが、その反面、何だか大ざっぱで微妙に怪しい現代文参考書があることもおそらくは事実だ。その辺り、「現代文の受験勉強の入口と出口」を間違えないように気をつけて(笑)、やったら良いのではないか。ちなみに最近の私のヘビーローテなお気に入りの歌は、昔「サザンオールスターズ」(Southern・All・Stars)の桑田佳祐が高田みづえに提供した名曲「そんなヒロシに騙(だま)されて」。