アメジローのつれづれ(最新)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(10)「びっくり箱殺人事件」

横溝正史「びっくり箱殺人事件」(1948年)の概要は以下だ。

「箱の蓋(ふた)をはね上げ、バネ仕掛けの人形のように男が飛び出した。だが瞬間、まえのめりに倒れこむと激しく痙攣(けいれん)し始めた。男の胸には、箱の中に強いスプリングでとめられた鋭い短剣が突きささって…。スリラーふう軽演劇『パンドーラの匣(はこ)』の舞台で起った、恐怖の殺人事件!名推理で犯人を追いつめる等々力警部の活躍は?」

この作品は、金田一耕助と共に行動し捜査に当たる等々力警部が出て来て活躍する(金田一は本事件に登場しない)、金田一探偵譚の番外編(スピンオフ)のような話になっている。私は横溝作品に関しては、特集「再読・横溝正史」のタイトル名に反しないよう毎回、必ず文字どおり事前に横溝作品を「再読」してそれから書評を書くようにしているのだが、「びっくり箱殺人事件」に関しては以前もそうであったように読了するのに非常に苦労した。本作を読み終わるまでに相当に骨が折れた。「びっくり箱殺人事件」は、これまでの横溝正史の作風と明らかに趣向の読み味が異なり、正直に白状すれば私は本作が昔からあまり好きではないのである。

この小説は後に書き直してラジオドラマ用に脚本化され、江戸川乱歩、木々高太郎、大下宇陀児、高木彬光らが総出演する日本推理作家協会の忘年会余興の出し物としてやられたらしい。しかし、ラジオドラマ用の脚本の書き直しにわざわざしなくても、元から本作がドラマ脚本らしく非常に記述が薄く横溝の他作品と比べて恐ろしく読み応(ごた)えに欠ける。ラジオ劇のように多人数の登場人物の台詞回しのみで主に話をつないでおり、まさにラジオドラマ観劇幕間の設定解説のように時おり地の文が数行しばらく入って、それからまた登場人物たちの台詞のみのやり取りが長々と続く。下手な人が小説を書くと、登場人物の発言台詞ばかり先行して地の文の描写記述が極端に少なくなって、まるで脚本のような薄い「小説もどき」になってしまうことがよくある。そういうのは「脚本小説」と内心ひそかに呼んで出来るだけ読むのを避けるよう私は日頃から腐心しているのだけれと、本作はそうした薄い「脚本小説」の感じがする。

話の内容も「スリラーふう軽演劇『パンドーラの匣』の舞台」で起った作中劇の中での連続殺人事件でナンセンス、ユーモア、ドタバタの連発だ。だいいち登場人物の名前設定からして、葦原小群(よしわら・しょうぐん)、半紙晩鐘(はんし・ばんしょう)、灰屋銅堂(はいや・どうどう)など作者の横溝が率先して相当にふざけているため、軽演劇のパーティ余興の雑な味で正直、閉口する。例えば以下のような作中会話の掛け合いの下りがある。

「わしか。わしは深山幽霊谷じゃよ」「嘘をつけ!ちがうぞ、幽谷先生はそんな声じゃないぞ」…「いや、わしはたしかに幽谷じゃよ。実は入歯をとばしたんでな。灰屋君、すまんがその辺りに入歯が落ちておらんか探してくれたまえ」…「あっはっはっ、先生、その顔は…(ガリガリ)あっ、いけねぇ、先生の入歯をふんじゃった」

この場面、横溝はわざと狙って笑いを取りにいっているのだと思うが、「実は入歯をとばしたんで」変声したとか「…(ガリガリ)あっ、いけねぇ、先生の入歯をふんじゃった」とか、何だか「バナナの皮に滑ってコケた」と同程度の全く面白くない笑いで読んでいて私は少しもクスリともならず逆にだんだん深刻な真顔になっていく。

横溝正史「びっくり箱殺人事件」は、敗戦直後の時期に「獄門島」(1948年)と同時進行で執筆連載された作品で、「横溝は真面目な本格の探偵小説の傑作をもちろん書けるが、実はこういった肩の力を抜いてリラックスしたパーティ余興な通俗読み物の軽い面白ミステリーも同様に書ける。そうした作家の一面も持つ」という探偵小説家・横溝正史の懐(ふところ)の深さの多才さの誇示、横溝の作家評価にハクをつける作品といった印象を本作「びっくり箱殺人事件」を読むたびに私は拭(ぬぐ)えない。

ついで「びっくり箱殺人事件」は、作品全体に漂うナンセンス、ユーモア、ドタバタな雰囲気から「おバカなミステリー」、ないしは「バカバカしいミステリー」の通称「バカミス」の範疇(はんちゅう)に属する作品だと思えなくもない。

再読 横溝正史(9)「蝶々殺人事件」

探偵小説にて私立探偵の金田一耕助が登場する、日本の地方の閉鎖的共同体の因習や祖先一族の因縁に絡(から)めたドロドロな本格長編ではなくて、都会が舞台で都市生活の個人主義的なスッキリ洗練された大人な本格推理が読みたい人には、「横溝正史などに執心せず、海外のエラリー・クィーンやアガサ・クリスティ、国内なら鮎川哲也あたりを無難に読んでおけ」といった話になるのだが、どうしても横溝作品にて洗練された都会ものの本格推理を味わいたい人向けには「蝶々殺人事件」(1947年)あたりになるのだろうか。

横溝正史「蝶々殺人事件」に関しては、以前に坂口安吾が「スマートな語り口と謎解きの妙味で『蝶々』を書いた横溝は世界のベスト・ファイブ級の才能」と海外の探偵推理ミステリーに比肩する負けず劣らずの日本の本格推理として絶賛している。本作については、その執筆経緯に以下のような事情があったといわれている。

敗戦を迎え、それまで検閲制限されていた探偵小説を思う存分に自由に書くことができ、「さあ、これからだ。これから新しい本格推理を思いっきり書いてやろう」と意気揚々で創作に取り組んだ戦後の横溝正史。私立探偵・金田一耕助という新キャラクターを創出し、「本陣殺人事件」(1946年)の連載を始める。その間、旧知の小栗虫太郎の訃報が横溝の元に届く。今後の日本の探偵小説界の期待を一身に担っていた小栗虫太郎の、あまりに若すぎる早すぎる逝去の知らせに横溝はショックのあまり数日間、寝込む。そして小栗は新連載「悪霊」(1946年)の執筆中で、彼の急逝のため連載に穴があいてしまった。小栗の連載中止の穴埋めピンチヒッターに横溝へ連載依頼がくる。その時、横溝は「本陣殺人事件」を執筆中で連載を抱えていたにもかかわらず、「これはどうしても書かねばならぬ」と決意する。というのも以前に横溝が喀血して原稿を飛ばした時、小栗にピンチヒッターで穴埋めしてもらった恩義があったから。「今度お前さんが病気するようなことがあったら、私が代わって書いてあげる」と後に小栗に話した横溝であった。そのため、横溝は「本陣」の連載を抱えながら並行して「蝶々」の連載も引き受ける。小栗との生前の約束を果たすため、かつての小栗の恩義に報いるために。

硬派で本格な探偵推理の書き手だった小栗虫太郎のピンチヒッターで代わりを務めるからには、内容も変格や「奇妙な味」ではなく、論理的な本格推理長編でなくてはならない。「蝶々殺人事件」を執筆当初の、横溝正史の並々ならぬ心意気である。後に横溝自身が語っていわく、「そのときの私の気持ちでは、小栗君の弔い合戦のつもりであった。それだけにがっちりしたもの、堂々としたもの、そしてまた、戦後の自分の方針であるところの、論理的な本格ものを書きたかったのである。少なくとも、小栗君のピンチヒッターとして恥ずかしくない程度のものにしたかったのである」。

この小栗のピンチヒッターを引き受けたがゆえの「蝶々殺人事件」にての横溝の論理的な本格推理への強い意欲は、彼の普段の他作品以上に精鋭に突出し、横溝は「蝶々」の登場人物に作中で以下のように発言させて、書き手の横溝正史自身の戦後の探偵小説における論理的本格志向の立場を明確に宣言している。

「どうもいままでの日本人には合理性が欠けているように思えるんですな。物事を理詰めに考えて行く習慣、それが欠けていたように思えるんですがどうでしょう。軽い読物にしてからがそうで、もっと理詰めな小説があってもいいように思われますな。理詰めな小説といえばさしあたり探偵小説、それも本筋の奴ですな、それで私どもの方では今後、そういう探偵小説に力瘤(ちからこぶ)を入れて行きたいと思うんですが」

「蝶々殺人事件」に関しては以上のような執筆時の経緯があり、「本陣殺人事件」と同時連載で並行して書かれたため「本陣」の内容と重複しないよう、「本陣」のような日本の地方の閉鎖的共同体の因習や祖先一族の因縁に絡めたドロドロ怪奇色の味付け風味な長編推理ではなく、都会が舞台で都市生活の個人主義的な洗練されたスマートでモダンな本格推理に横溝はあえてしている。また「本陣殺人事件」で私立探偵に、すでに金田一耕助を使ってしまったので、この「蝶々殺人事件」では探偵に「美しい銀髪をふさふさと波打たせた」由利麟太郎とその助手の三津木俊助のコンビを登場させている。二作品が同時連載で並行して創作執筆ゆえ、あたかも「似ていない双子」の二卵性双生児のように「本陣」と「蝶々」は奇(く)しくも対照(コントラスト)をきれいになす対的(ついてき)作品となった。加えて、前述のように「蝶々殺人事件」は「小栗君の弔い合戦のつもり」の強い気持ちを持って創作に着手したため、いつも以上に論理的な本格推理への横溝の思いを託した探偵小説になっている。

そんな「蝶々殺人事件」の話の概要はといえばこうだ。「原さくら歌劇団の主宰者である原さくらが『蝶々夫人』の大阪公演を前に突然、姿を消した…。数日後、数多くの艶聞をまきちらし文字どおりプリマドンナとして君臨していたさくらの死体はバラと砂と共にコントラバスの中から発見された。次々とおこる殺人事件にはどんな秘密が隠されているのか!」

由利先生が活躍する「蝶々殺人事件」を数年おきに読み返すたびに、金田一耕助が登場の探偵譚とは明らかに異なる一味違った都会的モダンでスマートな感じが「蝶々」では存分に味わえ、それがこの作品の大きな一つの魅力になっている。西洋劇の歌劇団の出張公演にて東京と大阪の都市間を移動する、都会の往復を股にかけての殺人事件である。本作は連載時に「懸賞金付き犯人探し」の趣向を有し、歌劇団で起こる事件に合わせて全体に「序曲・本奏・終曲」の音楽の楽曲に掛けたイカした章立て構成が施され、しかも中途に「間奏曲」の短い章を挿入しての場面転回、音符記号の楽譜を直接に掲載し、その暗号を読者に解かせる横溝による雰囲気満点な気の利いた演出趣味がなされている。はたまた「懸賞金付き犯人探し」で読者からの挑戦を受けるにあたり、小説前半のある作中人物の手記が実は巧妙なミスディレクションの「誤読」を誘う仕掛けになっており、作者・横溝正史のあらかじめの周到さである。

あまり言うと「ネタばれ」になるが、「蝶々殺人事件」はアリバイ崩しの話のパターンで、普段から探偵小説を読み慣れている人なら比較的早い最初の段階で犯人は分かると思う。古今東西の探偵推理にありがちな定番のアリバイ工作トリックといえば、例えば並走する鉄道ダイヤの利用または巧みな乗り換え、時に船や飛行機を利用する大胆な移動で時間的・場所的に「不可能」な犯罪を可能にする「ルートの盲点」。変装や替え玉の身代り、一人二役で偽装証言のアリバイ(現場不在証明)演出をする「人物の錯覚」。遺体に細工加工を施したり遺体を移動させて殺害時刻や殺害現場を偽装錯覚させる「時間と場所の錯覚」。機械装置を使った現場不在証明の物的偽装、ないしは遠隔操作殺人の「機械トリック」などが考えられる。本作「蝶々」でのアリバイ偽装トリックも、もしかしたらその内のどれかなのかもしれない(笑) 。

何よりも「蝶々殺人事件」については、本来は演奏して音を出すための楽器なのに、その楽器の中に盗難品の宝石や人間の死体をあえて隠すという横溝の大胆発想に私は一番シビレた。この点において、角川文庫の横溝正史全集の表紙カバー絵を描き続けてきた杉本一文の数ある歴代傑作イラストの中でも、一絵の一画で最初のコントラバス・トランク詰め遺体の殺人状況が即座に分かる「蝶々殺人事件」の杉本による表紙カバーイラストは屈指の大傑作だと思えて、私は感心する他ない。

再読 横溝正史(8)「悪魔が来りて笛を吹く」

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)、昔の角川文庫の表紙カバー裏解説には以下のようにある。

「毒殺事件の容疑者である椿(つばき)元子爵が失踪して以来、椿家に次々と惨劇が起こる。自殺他殺を交え7人の命が奪われた。子爵が娘に残した遺書『これ以上の屈辱、不名誉にたえられない』とは何を意味するのか?悪魔の吹くフルートの音色を背景に、妖異なる雰囲気とサスペンスが最後まで読者を惹(ひ)きつけて離さない」

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」は、従来の金田一耕助探偵譚にて定番な地方の村落共同体の閉鎖的因習の話ではなく、太宰治「斜陽」(1947年)のような敗戦後の都市の没落貴族の雰囲気設定の話なのだが、「ネタばれ」しない程度に本作品の主な構成要素の読み所を挙げてみると、まず主要な見るべき殺人は四つで、しかもその内の一つは密室殺人である。「悪魔が来りて笛を吹く」での密室トリックは、私は昔から好きだ。

次に小説世界と現実世界との架橋がある。本作では、戦後に実際に起きた毒殺強盗の「帝銀事件」を彷彿(ほうふつ)とさせる「天銀堂事件」の話題を冒頭に置き、話を展開させる。薬服用の手慣れた手本自演を介しての計画的な毒殺強盗事件、本格的なモンタージュ作成配布による警察の大々的捜査など本作連載発表時にて、当時未解決で進行中の実際の帝銀事件の題材を取り込んで虚構の小説世界が実際の現実世界と上手い具合にリンクして重なり、不思議なリアリティが生じる。横溝は以前に「八つ墓村」(1951年)でも、実際にあった「津山三十人殺し」を作品内に入れ存分に活用し尽くしており、小説世界と現実世界との架橋錯覚の記述手法は今回も横溝は周到で実に上手い。

さらには「悪魔が来りて笛を吹く」と同タイトルな異様な音階メロディーを持つ特異な指運びのフルート楽曲、「亡霊」の彷徨(ほうこう)、砂占いの儀式にて浮かび上がる火焔太鼓(かえん・だいこ)の「悪魔の紋章」、もしくはラストでの同火焔太鼓「悪魔の紋章」の痣(あざ)など、おどろおどろしい怪奇オカルトの怪しい雰囲気演出、小道具の効果満点な使い方が見られる。しかしながら、それら怪奇色風味はあくまでも表面的(デコレーション)な味付けで、肝心の小説中身の本筋は、どこまでも合理的で論理的な本格の探偵小説である。横溝正史が優れているのは、毎回地方の閉鎖的共同体の因習や親族血縁の因縁など非合理な怪奇オカルト要素を多用し最大限利用しはするが、肝心の小説の中身の基本骨格は理詰めで合理的な本格の探偵推理を貫く所だ。この人は、非合理な怪奇やオカルトを小道具使いするけれど、「あくまでも探偵小説の本筋の正統は理知的で論理的で合理的な近代文学にあること」をよく分かっており、無駄にいたずらに怪奇オカルト記述に深入りして惑溺(わくでき)しない。非合理記述引き際の見極めが非常に優れている。

また作中人物らが死際(しにぎわ)に残す謎のセリフの真意や、小説タイトルに秘められた裏の意味の着想が尋常ではない。本作にて登場人物らは死の最期に際し、皆ことごとく驚くほど不気味な謎の言葉を遺(のこ)して死んでいく。「悪魔ここに誕生す」「わたしは畜生道におちいった」の「呪わしい言葉」である。「悪魔」とは「畜生道」とは一体何か。これらセリフの真意を知りたくて読者は作品に惹きつけられ急いで先を読みたくなる。「悪魔が来りて笛を吹く」の小説世界に熱中する。この読者を引き込む横溝による巧妙セリフの着想は実に上手い。だいいち「悪魔ここに誕生す」の「悪魔」にしても、犯人の容姿や服装や雰囲気が単に「悪魔的」というような漠然とした表現の使い方ではなくて、なぜ「悪魔ここに誕生す」なのであり、なぜ犯人が「悪魔」であるのか。犯人が「悪魔」と呼ばれるのは、まさに「犯人こそは他ならぬ悪魔であって現実に悪魔たりうる」合理的で科学的(生物学的)な確固たる理由があるわけだ。何となくの恐怖雰囲気演出で「悪魔が来りて笛を吹く」ではないのである。加えて、「悪魔が来りて笛を吹く」の小説タイトルに秘められた裏の意味も優れている。本編未読の時は、このタイトルを見ても何とも思わないが、読了するとタイトルに込められた真の裏の意味が分かり、「なるほど、確かに犯人は『悪魔が来りて笛を吹く』だな」と私は深く納得し、昔の角川文庫、杉本一文の傑作カバー絵の「悪魔」がフルートを持つ指の数を思わす確認したくなってしまう(笑)。

「悪魔が来りて笛を吹く」は、作中に出てくる異様な音階メロディーを持つ特異な指運びのフルート楽曲の曲名で、この曲に実は犯人の手がかりが隠されており、しかし私立探偵の金田一耕助は、その楽曲タイトルに込められた裏の意味に気付かず、犯人の「悪魔」に散々に連続殺人を許した後、小説の終盤のラスト近くでやっと気付いて、「僕が最初にもう少し早く気付いていれば、今回の一連の連続殺人の悲劇は未然に防げたはずなんですが」云々で毎度お決まりの、お約束定番な金田一の悔恨もある。だが、探偵の冴(さ)え渡る推理で早い段階に犯人を明かして連続殺人事件を未然に防ぐのは話の都合上、盛り上がりに欠けるわけで。探偵は「名探偵」ではなく、文字通り「迷探偵」で犯人に散々に連続殺人をやらせた上で、最後の最後に犯人明かしをしないと探偵推理のミステリーとして話が盛り上がらないわけである。話の都合上、探偵が冒頭から天才的推理にて犯人が分かって「あなたが犯人ですね」と名指しして問い詰めないところが探偵推理のミステリー話たる所以(ゆえん)だ。そういった意味でいえば、いつも犯人の連続殺人を散々に許して最後の最後で犯人が分かってしまう金田一耕助は、「まさに探偵小説にふさわしい迷探偵である」といえる。

そして、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及(そきゅう)」というものがある。横溝作品の場合、殺人事件が起こっても昨日、今日の偶然で、たまたま発生するものではないのである。数十年前の昔に起こった悲劇や事件がまずあって、現在劇中で起こってる連続殺人は必ずその昔の出来事と関連を持っている。以前の事件や悲劇に引きずられて、今回の殺人は起こるべくして起こるよう運命づけられているのだ。それで、自分の一族や父母や祖先がやらかした昔の事件に翻弄される現在の登場人物たちの悲劇、殺人事件そのものに「人間の運命」や「人生の悲哀」の背景が加味されて話が非常に重くなる。例えば「八つ墓村」なら、津山三十人殺しのような村の悲劇が以前にあり鍾乳洞の秘密があって、それが現在進行中の連続殺人につながるし、「悪魔の手毬唄」(1959年)なら、二十三年前の村での未解決な迷宮入りの殺人事件が確実に引き金になっているわけである。だから横溝正史の探偵小説の場合、物語の後半で必ず金田一耕助が一見、関係ないようにも思える昔の事件を唐突に調べだしたり、容疑者たちの経歴・出自の調査のために遠方まで出向いて行ったりする。すなわち、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」がある。

本作「悪魔が来りて笛を吹く」でも話の後半に「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」があり、「金田一耕助西へ行く」の章にて、金田一が今回の事件関係者の出自の過去の洗い出しのために関西の須磨明石、淡路へと向かう。ここで椿家一族にまつわるドロドロで忌まわしい戦慄の過去が明らかになるわけで、この辺りは人物相関図や家系図のメモを作成しながら、「××は××と××の間に生まれた子であり、他方××は××と××の間の子であって」云々を物語に沿って丁寧に確認し読んでいくと読者は必ず驚くはずだ、今回の現在進行形な連続殺人事件の現在から過去への遡及、並びに過去から現在への由来に。

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」は、少なくとも以上のような読み手を惹きつけ読ませる主な作品構成要素の読むべき読み所があるわけだが、中でも一番強烈なのが最後の「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」にて明かされる驚くべきエピソードだ。この部分要素の内容刺激が非常に突出してインパクトがあり強烈すぎるため、他の読ませ所の各要素も実のところ並の探偵小説のそれと比べ何ら遜色(そんしょく)ない、それなりの高水準なものであるにもかかわらず、現在の事件由来の過去エピソードの衝撃インパクトに押され相対的に、その良さが目立たなくなってしまう。本作にての主要な四つの殺人のうちの一つの密室殺人のトリックや小説世界と現実世界との架橋など、本来なら十分に読むべき物がある、読ませ所となる探偵小説にて盛り上がりの目玉たりうる要素であるにもかかわらず、しかしながら横溝の「悪魔が来りて笛を吹く」は、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」の椿一族の過去の因縁エピソードが異常にドロドロの戦慄で強烈過ぎるため、密室殺人のトリックを始めとして、その他の高水準で優れた「読ませる」探偵小説の要素がともすると印象浅く軽く読み流されるはめになる。

探偵小説を創作するにあたり、小説内の各要素がいずれも高水準でレベルが高すぎ、かつ一つの突出した構成要素の刺激のインパクトが大き過ぎて他の要素を圧倒凌駕してしまっている結果、本来ならよく読まれるべき高水準な他の小説要素を凡庸錯覚にかすめさせる事態になってしまう。まさに天才・横溝正史、探偵小説家として、あまりに出来すぎて優秀すぎるがゆえの作品内にて起こる「悲劇」といえる。

再読 横溝正史(7)「夜歩く」

横溝正史は生涯に少なくとも3度、自作品の自選ベスト企画に回答を寄せている。どの年度でも自薦の上位ベスト3に横溝が好んで常連で挙げているのは「本陣殺人事件」(1946年)と「獄門島」(1948年)と「悪魔の手毬唄」(1959年)である。そして。これら定番上位の次点に来るのが、いつも「蝶々殺人事件」(1947年)か「八つ墓村」(1951年)あたりだ。しかしながら、年度によっては「私のベスト10」に「三つ首塔」(1955年)と「女王蜂」(1952年)と「夜歩く」(1949年)が例外的にランクインする場合もあり、その際には「以上の三作は売り上げで選ぶとベスト10になるが、内容では躊躇(ちゅうちょ)してしまう」といった旨のコメントを横溝は付している。

なるほど、「夜歩く」は一読して「内容では躊躇してしまう」の横溝の自己評価通り、探偵小説としての出来はあまり良くないと正直、私も思う。しかし、そうした出来があまり良くないとは思われる「夜歩く」でも、作品に仕込まれた初読の読者を必ずや、あっと驚かせる大仕掛けトリックのインパクトが大きすぎて小説発表時には評判、売り上げともに上々な作品に結果的になったのではとも思う。

「夜歩く」は、横溝が「坂口安吾の『不連続殺人事件』を読んだ時、よし、この露悪的な書き方をこの作品以上にうまく使ってみようと思った」と後に述懐しているように、坂口安吾「不連続殺人事件」(1948年)の作風をわざと真似て執筆している。

坂口の「不連続殺人事件」というのは、戦中に疎開先の別荘で探偵小説を読んで仲間内で犯人当てゲームに熱中してた純文学の坂口安吾が、「絶対に犯人が当たらない探偵小説を、そのうち書いてみせる」と宣言して、戦後に執筆した坂口の探偵推理作品である。「不連続殺人事件」は「心理の足跡」という犯人の不自然な行動心理記述を安吾が作中に、さりげなく書き入れ、読む人が読めば、そこから犯人が分かる正々堂々としたフェアプレイの長編推理で、これに犯人当ての懸賞金を懸けて安吾が読者の挑戦を受ける形で連載にして雑誌発表する。しかも、その懸賞金は安吾の自腹である。「不連続殺人事件」の小説内での「俗悪千万な人間関係」といった非常に賑(にぎ)やかで醜悪な露悪的人間関係同様、読者に挑戦状を出す作者の坂口安吾も、「おそらく犯人を当てられる人はいないでしょう。誰も分からないでしょう」といった挑戦者の読者を散々、馬鹿にして挑発する露悪的口上を毎回出しながら、いざ解決篇を載せ話が完結して真犯人当ての完答的中者が数人出ると、途端に安吾が、しおらしく謙虚に謝罪して自腹の懸賞金を出し、連載中はあそこまで憎らしく散々に煽(あお)って読者を馬鹿にして不遜でヒール(悪役)だった坂口安吾なのに最後は途端に「いい人になってしまう」、そんな浪花節のプロレス・アングル的な探偵小説だ。

坂口安吾「不連続殺人事件」のあの作風雰囲気が好きな人は、同様に横溝正史「夜歩く」も間違いなく好きになると思う。私は、安吾の「不連続殺人事件」の露悪的書きぶりが好きではない。作品全体にある大変に賑やかでガチャガチャした落ち着きのなさが苦手なので、同様にガチャガチャして落ち着きのない書きぶりの横溝の「夜歩く」も正直、苦手で、あまり好みではないのだが、しかし本作にて使われている初読の読者を必ずや、あっと驚かせる大仕掛けの大トリックは看過できず、探偵小説家・横溝正史の生涯の全仕事の中で「夜歩く」は感得して無心に読むべき物がある。

さて、奇(く)しくもディクスン・カーのデビュー作と同タイトルな、横溝正史「夜歩く」の話の概要はこうだ。

「仙石直記と三文探偵小説家の私は同郷である。直記が愛している古神家の令嬢・八千代にまいこんだ『我、近く汝のもとに赴きて結婚せん』という奇妙な手紙と佝僂(せむし)の写真は、古神家にまつわる陰惨な殺人事件の発端であった。三日後に起きたキャバレー『花』での佝僂画家狙撃事件。そこから始まる首無し連続殺人事件の怪」

(以下、「夜歩く」の犯人と主要トリックに触れた「ネタばれ」です。横溝の「夜歩く」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

前述のように横溝正史「夜歩く」は、坂口安吾「不連続殺人事件」の露悪的な書き方を真似て、夢遊病の「夜歩く女」の奔放ヒロイン、二人の佝僂(せむし)、酒を飲んで日本刀を振り回す当家の酒乱の老家老、年増の色艶な妖怪美人らが次々に登場する。古神家を舞台にした露悪趣味で複雑な人間関係の非常にガチャガチャした落ち着きのない話なのだが、「1つの作品に1つのトリックだけでは物足りない。到底、読み手を満足させられないから複数のトリックを複合技で仕掛ける」横溝の毎度の鮮(あざ)やかな手口がキラリと光る。例えば「殺人犯行で使われそうな日本刀を、あらかじめ事前に関係者立ち会い確認のもと厳重に金庫に入れ事件前に保管していたのに事件後、金庫を開けたら血染めの日本刀が」云々の物的証拠保管にての時間ズレのトリックや、はたまた「八千代」(Yachiyo)と「屋代」(Yashiro)の似ていて混同錯覚しやすいアルファベット(ローマ字)表記の「不思議な相似」着想アイディアの妙など相変わらず横溝は自在に構想して上手いこと書きまくる。

何といってもメインの柱となるトリックの一つは「顔のない死体」である。首から上が切断されている、顔の毀損(きそん)が激しい、腐乱死体となり原形を留めていないなどによる身元判別が不可能な、いわゆる「顔のない死体」の場合、従来型探偵小説の公式結末通り、犯人と被害者の入れ替わりはあるのか否かが焦点になる。しかし、本作では横溝による「顔のない死体」の改良吟味の新発想、新たなパターンの創出がある。ここでは、その詳しい内容は述べないけれど。戦後に本格の探偵小説を再び書き出す横溝正史の、従来型の探偵推理の伝統を破ろうと果敢(かかん)に攻める新パターンのトリック創出の野心の執念の格闘がここにある。特に「顔のない死体」に関しては、まず「黒猫亭事件」(1947年)を読んで、次に「悪魔の手毬唄」を読み、そして最後に本作「夜歩く」の順番で読むとよいと思う。この順序にて「顔のない死体」トリックの横溝による改良の新パターン案出の度合いは次第にエスカレートし究極にまで極まって行くので。だから、最後の「夜歩く」にて出される「顔のない死体」トリックは、確かに今までにない新パターンの「顔のない死体」で新しいけれども、「もうここまでやり尽くすと、さすがに解体芸の究極で打ち止めで『顔のない死体』に関し、今後これ以上の物は出ないだろう」。明らかに「横溝やり過ぎ」な感が正直、私にはある。

要するに横溝正史は、今までに誰も書いたことのないトリック改良の新しいパターン編み出しの野心満載で、とにかく誰よりも一番に自分がやりたいから(笑)、以前にある「顔のない死体」トリックの各要素を一度分解しバラバラにして、それらの組み合わせパターンで未だやられていない新しい組み合わせを無理矢理に強引に見つけ出そうとする。そういった発想の具体的手順にて、「夜歩く」での「顔のない死体」の新パターンも案出されている。それは確かに今までにない新しいパターン創出で見るべきものがあるけれど、ただ未出の新発想組み合わせの新奇な改良トリックが、そのまま読んで味わいがあって面白いかどうか、探偵小説そのものの話の面白さに毎回、直結するとは限らない。「夜歩く」での「顔のない死体」トリックの新パターンも、いよいよ究極の所まで横溝がいじり倒し改良を施して確かに意表を突かれて新しいが、それが探偵推理の話として面白いかといえば、私には疑問が残る。「未出の新しいものが、そのまま無条件に面白いかどうか」の難点はあるだろう。

「夜歩く」にて、もう一つのメインの柱となる大仕掛けの大トリックは、こちらは「ネタばれ」になるが、叙述トリックである。叙述トリックとは、話の内容ではなく話の語りの記述そのものに錯覚があるトリックで、「事件を記述する語り手が実は犯人」という「信頼できない語り手」と呼ばれるものだ。

探偵小説における通常の語りは、三人称で公正で客観的な語り記述なため、多くの読者は、たとえ事件関係者の一人称な説明語りの記述でも警戒なく「公正で客観的」と思い込んでおり、そこであえてその裏をかいて「実は記述者の語り手が犯人で、これまでの記述は全く信頼できない叙述であった」というので、読者の驚きを最後に引き出す意外性が叙述トリックの面白さの醍醐味である。ただ叙述トリックの場合、「事件の記述者=犯人」であり、語り手は物語を記述して読者に接する際、自分が犯罪を実行した犯人であることを常に隠しているから、つまりは肝心な所で自身に都合の悪い所はあえて曖昧(あいまい)にボカしたり、わざと触れずに無視したりして恣意的操作を施し語って記述してしまう。そのため、この「信頼できない語り手」の「事件の記述者=犯人」の叙述トリックには、犯人にとって都合のよい一方的な語り記述のアンフェアの不満が時に読後に残る。それで昔から叙述トリックに関しては、例えば、それを大々的に使ったクリスティの「アクロイド殺し」(1926年)を介してフェア、アンフェア論争が起きたりしている。しかし他方で、叙述トリックは小説の書き手たる話の語り手が、そのまま犯人なので平面的な文字による小説記述なのに、叙述が立体的に飛び出して犯人が読み手に実際に語りかけ迫って来るような「飛び出す小説」な記述の感触が、非常に魅力的で優れていると思う。

そして横溝正史「夜歩く」の場合、あの叙述トリックには明らかな失策の致命的破綻がある。本作では、自称「三文探偵小説家の私」が事件の発生から顛末(てんまつ)まで探偵推理小説の形式に従って語り記述しているが、後半から金田一耕助が出てきて、「語り手の『私』が犯人であること」を見事に看破(かんぱ)する。それから「あの小説、なかなか面白いですよ。尻切れトンボはいけませんね。ぜひ、完結して見せて下さい。しかしこれからあとは小説ではなく、真実の記録をお願いしたいですね」という金田一の勧めに従って、犯人たる「信頼できない語り手」の「私」は、事件の真実の全貌をラストまで書き抜いて小説「夜歩く」を完結させる展開になっている。その際、今回の「夜歩く」の一連の事件に関し、その犯行動機は「自身は軍隊に取られて戦争に行くから、その間に自分の恋人の面倒をみてもらいたい。ただし、彼女にだけは絶対に手を出してくれるな」と、ある男(仙石直記)に頼む。だが、終戦で軍隊から戻ってみると約束は破られ、彼女は「征服」され破滅して精神を病んで廃人になっていた。「探偵小説家の私」は激しく復讐を決意する、それが「夜歩く」事件での犯人の犯行動機である。ここに至って、作中の「仙石直記」に復讐心を露(あらわ)にする「三文探偵小説家」の「私」が、「直記」の名前とは正反対の、まさに叙述トリックにおける「信頼できない語り手」、すなわち「素直な記述者(直記)」では決してないという作者・横溝による、あらかじめの人物氏名設定の伏線に読者は初めて気付くのだ。

ところで、小説の前半で彼の犯行動機となる精神をやられて発狂した恋人のことに触れて語る場面があるのだが、事件の犯人たる記述者の「私」は実際に以下のように書いて、「彼女のことは知らない」旨、明らかに虚偽の記述をしている。恋人の彼女のことを前より愛し知っているにもかかわらず。

「私は急にムラムラと妙な疑惑に胸をどきつかせた。直記の女なら、たいてい私は知っている筈である。直記はとっかえひっかえ女をこさえたが、長くても半年とつづくことは珍しかった。そんな際、いつも尻拭いをするのが私の役目だから、いやでもかれの女といえば、ことごとく知っているわけである。しかし、いままで直記の情婦で、気が狂った女があるなどということは、一度も聞いたことはなかった。…ひょっとすると、それは私が一年ほど軍隊生活をしているあいだに出来た女かも知れない」

叙述トリックの「信頼できない語り手」において、肝心な所で自身に都合の悪い所はあえて曖昧にボカしたり、わざと触れずに無視したりするのは「事件の記述者=犯人」による恣意的語りのアンフェアさとして時に非難されるが、まだ弁護の議論の余地があることも確かだ。しかし、探偵小説における地の文並びに叙述トリックの恣意的語りにて、事実に反する虚偽の記述があるのはフェア、アンフェア以前の重大過失で明らかに失敗の破綻で致命的である。

以上の点からして、いつもは筆が安定し、あからさまな破綻の失敗作が滅多にない横溝にあって、横溝正史「夜歩く」は叙述トリックの執筆過程にて躓(つまず)きの瑕瑾(かきん)ある割合に珍しい作品であると私は思う。そうした叙述トリック破綻の失敗が、冒頭で触れたような「売り上げで選ぶとベスト10になるが、内容では躊躇してしまう」という横溝自身による「夜歩く」への低い作品評価に実のところ、つながっているのかもしれない。

再読 横溝正史(6)「鬼火」

横溝正史の中編「鬼火」(1935年)に関し、本作タイトルとなっている「鬼火」とは、「人間や動物の死体から浮遊する霊魂の火の玉、蒼白い炎、亡くなった後にこの世に未練を残し、いたたまれない『怨』の思いが残って、その怨念が炎の火の玉となり可視化して暗がりや闇の中を目に見えて浮遊したもの」といわれている。

横溝正史「鬼火」について「ネタばれ」にならない範囲で横溝本人や作品そのものの公的なこと、私の読後の印象を幾つか挙げてみる。

まず本作執筆の契機はこうである。横溝が昭和八年に結核悪化のため大喀血して、雑誌「新青年」の読み切り企画を飛ばし転地にて休養に入る。この時、原稿を飛ばして穴になった読み切り企画に横溝のピンチヒッターとして代理掲載されたのが、小栗虫太郎「完全犯罪」(1933年)であった。それが小栗を代々的に世に知らしめる華々しい実質的作家デビューとなった。後日「横溝さん、あんたが病気したおかげで私は世の中に出られたみたいなものだよ」という小栗虫太郎に、「あほなこといいなはんな。わしが病気をしてもせんでも、あんたは立派に世の中に出る人じゃ」と横溝正史は、たしなめた。そういった小栗と横溝の交流話がある。その信州諏訪にての転地療養中に、横溝は「鬼火」を執筆する。健康で調子のよいときには一晩で百枚以上も書けていた横溝が病中病後のこの時は、さすがに身体が弱り疲労困憊(ひろうこんぱい)で筆が進まず一日に三、四枚書くのがやっとの虫の息。三ヶ月あまりかけ、ようやく「鬼火」を書き上げ完成させたという。執筆の際の横溝の一筆ごとの苦しい息遣いが実際に紙面を通して聞こえてきそうな横溝入魂の中編「鬼火」である。

「鬼火」は昭和十年に雑誌初出で、すでにその頃は日本の軍国主義体制下にて、描写の一部が当局の検閲に触れ発表時に一部削除を命じられる。そして敗戦を迎え、戦後に「鬼火」は削除部分を復刻した完全版が出される。その「鬼火」完全版の復刊に寄与したのが、前述の小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」(1934年)と並んで日本三大奇書の一つ、「虚無への供物」(1964年)を書いた中井英夫であった。偶然に幸運にも、中井が当局から検閲削除が入る前の雑誌掲載の当時の幻の完全版「鬼火」をなぜか所有していた。

改めてオリジナル完全版の「鬼火」を読むと、どの部分が発表時、検閲に引っ掛かり削除になったのかが分かる。私が確認する限りでは「エロ・グロ・ナンセンス」な過激性描写や扇情野蛮な猟奇の記述では全くなく、何てことはない、やや反倫理な男女の恋愛の裏切り描写が削除対象の主で、今読むとわざわざ削除するほどのことではない、本当に大したことない記述だと思うが、「鬼火」初出の昭和十年当時で日本の国家は、これほどまでの過剰検閲の思想統制かという感想を正直、私は持つ。敗戦間際の昭和二十年前後、さらなる狂信的な超国家主義の思想統制より十年前の時点で、すでにここまでの過剰干渉の検閲とはの驚きの感がある。

「鬼火」に関しては、雑誌初出時の竹中英太郎の挿絵があって、戦後に復刻した完全版「鬼火」は角川文庫「鬼火」(1975年)と創元推理文庫「日本探偵小説全集9・横溝正史集」(1986年)とがあるが、竹中の初出掲載時挿絵が載っているのは後者の創元推理文庫の方なので、横溝の「鬼火」を読むなら「日本探偵小説全集9・横溝正史集」をお薦めしたい。また竹中英太郎の探偵小説での扉絵・挿絵の一連の仕事については中井英夫「胎児の夢・竹中英太郎」(1980年)があり、中井はその他のエッセイや探偵小説の評論解説にて竹中英太郎のことによく触れ比較的頻繁に書いているので、そういったものも読みどころだと思われる。

肝心な「鬼火」の話の概要は、横溝が転地療養した諏訪を舞台に、その地方の豪家にて幼い頃から一緒に生まれ育ってきた男性二人の対立の憎しみの生涯の物語である。最後に「鬼火」の話導入の枕となる作中人物が語り出しの文章を引用すると、およそ以下である。

「この湖畔に長く住んでいる程の者なら、誰一人この話を知らない者はありますまい。…此の土地の者で私くらいの年輩の人間なら誰でも知っていますが、漆山家というのは、当時諏訪郡きっての豪家で、万造はその本家の一人息子、代助は分家のこれまた一人息子で、二人は同年の生まれでした。私は両方の親達を知っていますが、あんなに仲のいい善良な兄弟を親に持ちながら、どうしてこんな恐ろしい子供達が生まれたのか実に不思議で、二人はまるで、互いに仇敵となり、憎み合い、詛(のろ)いあい、陥(おとし)れ合うためにのみ、この世に生まれて来たようでした。それは既に、彼等が頑是(がんぜ)ない小児の時分からそうなので、それについて私は次のような出来事をお話する事が出来ます」

再読 横溝正史(5)「黒猫亭事件」

横溝正史「黒猫亭事件」(1947年)は、終戦後の「獄門島」(1948年)や「本陣殺人事件」(1946年)に続く作品であり、戦争が終わり「さあ、これからだ。思いっきり思う存分に本格を書いてやろう」と横溝が新しい探偵小説の創作に情熱を燃やし書く作品が傑作連発のハズレなしで、図(はか)らずも横溝の筆に神が降りてきた神がかっていた、まさに「探偵小説家としての横溝正史、奇跡の時代」に当たるので、この時期に執筆された「黒猫亭事件」も従来型探偵小説の伝統の殻を破ろうとする横溝による新趣向の意欲作となっている。

「黒猫亭事件」の読み所として、戦後に創作し「本陣殺人事件」にて初登場させた金田一耕助の活躍を時系列で厳密に構成するシリーズ化の金田一探偵の物語世界構築を案外、横溝が丁寧に力を入れてやっており、「黒猫亭事件」は「本陣殺人事件」を執筆した疎開地の岡山に在住の語り手、つまりは横溝正史本人の元を金田一耕助が訪問する、「もうすこし、ぼくという人間を、好男子に書いて貰いたかったですな」などと金田一が軽口叩きながらの(笑)、横溝と金田一の架空の直接会見を小説冒頭に置く「本陣」の後日談になっている。

加えて、私立探偵の金田一耕助シリーズを書き継ぐにつれ、この「黒猫亭事件」あたりで作者の横溝自身が金田一に書き慣れ、金田一耕助のキャラクターに愛着が増して金田一シリーズ継続の深まり画期となる点が注目される。すなわち横溝正史、後に「黒猫亭事件」を評していわく、

「この小説を書き上げて私が一番嬉しく感じたことは、作中人物であるところの金田一耕助に、作者がようやく親愛の情を持ちはじめることが出来たということである。去年書いた『本陣殺人事件』や、いま書いている『獄門島』では、まだそこまでいっていない。この第三作にいたって、私ははじめてはっきりと、金田一耕助に好意と友情を持つことが出来るようになった。そういう意味で、この小説は今後続々とうまれるであろう金田一耕助シリーズの中でも、私のもっとも愛する作品となってのこるだろうと思っている」

(以下、「黒猫亭事件」のトリックを明かした「ネタばれ」です。「悪魔の手毬唄」のトリックにも軽く触れています。横溝の「黒猫亭事件」と「悪魔の手毬唄」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

本作にて、横溝は最初に探偵小説の主要トリックについて概説的に述べている。横溝によれば探偵小説の王座を占める、作者が読者に挑戦して読み手を驚かせる主なトリックのタイプは三つあるという。「密室の殺人」型と「顔のない屍体」型と「一人二役」型である。そして、この三大トリックのうち前者の二つのタイプは読者が読んでいて途中で気づくものである。「なるほど、これは密室の殺人だな」など。しかしながら最後の「一人二役」型だけはそうでない。「一人二役」の仕掛けは最後まで隠し伏せておくべきトリックであって、「この小説はどうやら一人二役型らしい」と途中で読者に感づかれた時点で探偵小説での勝負は作者の負けである、と。

およそ以上のような探偵推理のトリック類型分析を作中冒頭にて一般的に述べておいて、横溝は「黒猫亭事件」の発生から事件の経過、解決の顛末(てんまつ)までを詳しく記述する。それで、この「黒猫亭事件」の柱となるトリックは「顔のない屍体」型で、酒場「黒猫亭」の敷地内から身元判別不能な「顔のない屍体」が発見され、先に述べた物語冒頭での横溝による周到な探偵小説談義にて、「なるほど、この『黒猫亭』は『顔のない屍体』型の話だな」と読み手は分かるが、そこで横溝は「顔のない屍体」型にさらに工夫を凝(こ)らし複雑にする。つまりは、この「顔のない屍体」型に「一人二役」型の要素をプラスして複合にする。これこそが横溝の「黒猫亭事件」の斬新さであり、この作品の最大の目玉の読ませ所なわけだ。

だから「黒猫亭」を読む人は、読み進めていって分かる目先の「顔のない屍体」の表層トリックにのみ腐心し心奪われて、身元判別不能な屍体の正体は通常被害者と目される人物そのままなのか、それとも従来型の探偵小説トリックの定石(じょうせき)通り、事件の被害者と目される屍体は実は事件の加害者として手配されている人物で、逆に殺害されたと思われている被害者が加害者であり、その「顔のない屍体」の被害者を装った本当の加害者は合法的に社会的抹殺の蒸発を遂げ、すでに上手いこと逃亡してしまっているのか、「顔のない屍体」における被害者と加害者の入れ替わりはあるのかないのか、そのことばかりが気になって小説を読み進めてしまう。そこで作者からの不意打ちで最後の最後に、初めからこっそり仕込んでおいた「一人二役」のトリックを暴露し読み手を驚かせる趣向である。「一人二役」は、読んでいても読者は分からず予測できず、作者が読み手に感づかれないよう細心の注意を払って記述を進め、最後に「一人二役」を暴露して「まさか!この人が一人二役で同一人物だったとは」といった意外性の驚きを読者から引き出すことが醍醐味の味わいトリックなわけだ。「まんまと作者にしてやられた」意外性の爽快(そうかい)さが魅力な「一人二役」トリックである。

横溝の「黒猫亭」の場合、「顔のない屍体」トリックが前面に押し出され、ゆえに初読な読者は(おそらくは)「一人二役」トリックに対し完全に無警戒で想定していないため、最後の「一人二役」の暴露による「作者の横溝に見事してやられた」の読後感の爽快さが余計に鮮(あざ)やかに残る。やはり横溝正史は探偵小説を書くのが上手い。読み手に与える意外性の驚きの効果を事前によく研究し、計算して執筆している。

「黒猫亭事件」での「顔のない屍体」に絡(から)む「一人二役」トリック複合の、およその内容は以下の通りである。まず「顔のない屍体」が発見されて、着衣や持ち物の状況証拠から「被害者はAで加害者はB」と予測され、警察の捜査が開始される。もちろん当然ながら、いわゆる「顔のない」身元判別不能な屍体であるため、被害者と加害者の入れ替わりで、逆に「被害者はBで加害者はAかもしれない」予断も持って一同関係者は捜査に当たるわけだが。ところが「黒猫亭事件」の場合、加害者と目されるBの足取りが全く掴(つか)めない。仮に被害者と加害者の入れ替わりで加害者がAであったとして、そのAの足取りも全然、掴めない。警察による捜査は難航する。そこで私立探偵の金田一耕助が現れて、「黒猫亭事件」のカラクリを見事に打ち破る。すなわち、被害者と目されるA(もしくはB)と加害者と目されるB(もしくはA)が実は「A=B」の「一人二役」で最初から同一人物だった。そして身元判別不能な「顔のない屍体」は全く関係のないCの屍体であった、と。そういった事件の顛末が「顔のない屍体」の従来型の単なる「被害者と加害者の入れ替わり」発想を越えた、「実は被害者と加害者の入れ替わりはなく、被害者と加害者は一人二役の同一人物だった」とする新しいパターン創出ということだ。

より具体的には一人二役のAかつBに当たるのが酒場「黒猫亭」のマダムで、このマダムには殺人の前科があり、また今回、金田一と同窓で友人の風間なる男にマダムが心底から惚(ほ)れに惚れて「黒猫亭」マスターの現夫と別れたいために、そのマスターの現夫を殺害する計画で、事件決行までAとBの二人の人物を一人二役で事前に周囲の者に過剰に見せ、あたかもAとBの二人の別人物が実在しているかのように演出し装った。それから夫殺しを実行し、さらには「顔のない屍体」のCも別件で別の女性を殺害して抜かりなく屍体調達をして、あたかもマダム自身が「顔のない屍体」として殺害されたように偽装し合法的に社会的蒸発を果たし逃亡したかった。結局のところ、「顔のない屍体」殺人にて加害者と被害者に目されていた人物は一人二役で「黒猫亭」のマダムは何ら殺害されず生きているのだから、ここに至って作品タイトルを「黒猫亭殺人事件」とはせず、あえて「黒猫亭事件」とした作者・横溝正史の意図に読者は結末まで読んで納得するだろう。

金田一の友人の風間に惚れた「黒猫亭」マダムの「惚れた女の弱み」が、「顔のない屍体」プラス「一人二役」というミックス複合の周到綿密な犯罪計画実行の動機としてあるわけで、「男に惚れた女の弱み」が犯罪動機ゆえの「黒猫亭事件」とは、いささか純情でメロドラマな切ない話である。

以上のように犯罪動機のメロドラマ的要素や、はたまたタイトルの「黒猫亭事件」の黒猫を作中にて小道具として効果的に活用する「グロテスクな黒猫の使い方」も非常によく出来ている。そして探偵小説の本筋である目玉となるトリックも、「顔のない屍体」プラス「一人二役」の複合で意外性があり、ある程度の驚きは読者から引き出せる。ただ、この「顔のない屍体」に絡む「一人二役」のトリックが、肝心の「顔のない屍体」の正体に直接に結びついていないため、つまりは「顔のない屍体」と目された被害者と加害者のAとBの入れ替わりの方に「A=B」の「一人二役」トリックを使って、だから加害者兼被害者と疑われた人物は生きており、殺された肝心の「顔のない屍体」のCは全く関係のない外部から屍体調達で持ってきて単に事件に添えているだけなので、「顔のない屍体」トリックそのものの原理的弱さの印象は「黒猫亭事件」の場合、否(いな)めない。

そして横溝正史は、後にもう一度「顔のない屍体」プラス「一人二役」の複合トリックを金田一耕助の長編「悪魔の手毬唄」(1959年)にてやる。こちらの方は「黒猫亭事件」とトリック複合の原理は同じで、しかし「一人二役」の使い所の力点がズレて直接に「顔のない屍体」の正体に絡む意外性の驚き満載な「一人二役」となっており、「黒猫亭事件」よりも「悪魔の手毬唄」における「顔のない屍体」プラス「一人二役」の複合トリックの方が、私は好きである。

再読 横溝正史(4)「本陣殺人事件」

「本陣殺人事件」(1946年)は、横溝正史が創出した私立探偵・金田一耕助が初登場の作品だ。金田一の出自(東北の生まれ)や経歴(アメリカ滞在、麻薬中毒、探偵になったきっかけなど)、はたまた金田一の容姿や服装の説明記述が初登場なため他作品と比べ非常に詳しく丁寧であり、それゆえ「本陣殺人事件」は注目すべき作品価値が高いものであるともいえる。「本陣殺人事件」の大まかな話の内容は次の通りである。

「一柳家(いちやなぎけ)の当主・賢蔵の婚礼を終えた深夜、人びとは恐ろしい人の悲鳴と琴の音を聞いた。離れの座敷の新床の上に、血まみれになって倒れた新郎新婦。その枕元には、家宝の名琴『おしどり』と三本指の血痕の残る金屏風があった。宿場本陣の旧家に起こった、雪の夜の惨劇を描く」

(以下、犯人や犯行動機について直接に明らかにしていませんが、本作にて使われる主なトリックに触れた「ネタばれ」です。横溝の「本陣殺人事件」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「本陣殺人事件」にて使われる主要トリックは三つだ。機械トリックを使った密室、絶対に発見されない心理の盲点をついた巧妙な隠し方、そして物語の語り手が犯人である、もしくは犯人や犯行の結末をあらかじめ知っている者が読者に直接に語りかける叙述トリックの三つである。

最初の機械トリックの密室は、いわゆる「凶器消失」タイプの密室で、作中にて横溝は同タイプの凶器消失トリックの海外作品、ドイルのシャーロック・ホームズ「ソア橋」(1922年)に言及している。あの凶器消失の機械トリックを使うことで「本陣」にて結果的に犯行現場が「密室」になる仕掛けは、全くの破綻なく非常に理にかなった密室生成である。また機械トリックにおける小道具の使用が、いかにも日本的なものばかりで(日本刀、琴爪、琴柱、鎌など)、特に密室を作る際に機器の作動で不可避に発音してしまう機械トリックの弱点を、琴の音色の日本的情緒の風味添えにし犯罪の不気味さの怪奇演出に転ずる、「機械トリックのマイナス要素を逆に犯罪演出効果のプラス要素に変えてしまう」横溝の手並みは実に見事という他ない。

次の絶対に発見されない心理の盲点をついた巧妙な隠し方は、ポオの「盗まれた手紙」(1844年)以来の海外探偵小説にある古典由来の伝統テーマだ。本作では「飼い猫の墓」に絡(から)み、一度探して「そこにはない」と既に認知した場所は再び探さない人間心理の盲点をつき、「そこにはないこと」を皆に確認させておいて、その後にわざと再度そこに隠すという「一番安全な隠し場所」の策術が使われている。

最後の叙述トリックは物語の語り手が犯人、いわゆる「信頼できない語り手」と呼ばれるものである。「本陣殺人事件」の物語を終えるに当たり、本編の最後で横溝は語り手にクリスティの「アクロイド殺し」(1926年)の叙述トリックについて、わざわざ言及させている。ただ「本陣」の場合、話の記述の語り手が犯人でないため、実は正統な叙述トリックではない。というのも通常、叙述トリックの「信頼できない語り手」の場合、話の記述者の語り手自身が犯人で「事件の発生から解決の結末まで読者に説明記述する語り手が、まさか犯人であるはずがない」という先入観による思い込みが読み手にあるため誤読を誘って読者が犯人の意外性にまんまとやられ、そのミスディレクション(誤誘導)に引っかかること自体の面白さが叙述トリックの魅力であるからだ。と同時に叙述トリックは犯人である語り手が一見、正直・公正に語っているように見えて、自身と関係ある自分が犯人だと疑われる事柄に関し、わざと都合よく無視して触れなかったり、あえて曖昧(あいまい)にボカしたりで恣意的操作を施して語って記述してしまう。だから「信頼できない語り手」の叙述トリックには常にアンフェアな不満が読後に残る。

横溝は、そういった叙述トリックの読後に残る語り手による都合のよい恣意的語りのアンフェアさをよく知っていて、それをひっくり返したい。そういった発想が横溝の中にまずあって、そのため「本陣」の最後にて「私はわざと二人の男女を殺したとは書かなかったのである。…現場のことを書いところで、そこに男女二人が血みどろで倒れていた光景は云々と書いたが、血みどろで殺されていたとは書かなかった」と語り手自身の過剰でクドい説明にて、「私はクリスティ女史の『アクロイド殺し』のように決して嘘は語らなかったし曖昧さも回避した。どこまでも正確に語った」正直・公正なフェアプレイの主張になる。

だが、よくよく考えてみると、横溝の「本陣殺人事件」では確かに語り手は最初から相当に注意して正確に誤魔化しなく公正に語って記述してはいるが、語り手自身が犯人ではないし、「本陣」の場合、語り手の叙述によって読者は一応だまされる、というか確かに錯覚の誤誘導させられるのだけれど、それは犯人に関してではなくて、いわば「事件の性質」についてのミスディレクションでだまされるだけなので何だか傍流の叙述トリックという印象が私は、どこまでも拭(ぬぐ)えない。叙述トリックが肝心な犯人正体に関する以外のもので薄手なため、単に「語り手が誤魔化しなく公正に語った」というだけの物語記述者の「正直者の告白」でしかないような印象で終わる。最初から犯人の正体についての錯覚核心の叙述トリックの体をなしていないので、最後のクリスティ「アクロイド殺し」云々で叙述トリックに挑戦するのは無理がある、こじつけのようにも私には思えるのだが。しかしながら、元からある叙述トリックの「信頼できない語り手」のアンフェアさを何とかひっくり返しフェアプレイにして探偵小説の伝統を壊したい横溝のギラキラした野心が、そこには確かにあるはずで、その横溝正史の探偵小説家としての野心を私は高く買いたいし、やはり評価したい。

以上のように横溝の「本陣殺人事件」は、機械トリックの密室、巧妙な隠し方、そして「大変に信頼できる語り手」の傍流な叙述トリックもどきの三点により主に構成されているわけだが、なかでもその中心となるのは機械トリックの密室と言ってよい。そして横溝は作中にて、探偵の金田一耕助と探偵推理マニアである容疑者との間で「探偵小説問答」をやらせ、そこで機械トリックの密室について「密室の殺人を扱った探偵小説も沢山あるが、たいていは機械的なトリックで、終わりへいくと、がっかりさせられるんですよ。…つまりは針金だの紐だのを使ってですね。あとから錠だの閂(かんぬき)だのをおろしておいたというんです。こういうのはどうも感心しませんね」と述べる金田一に対し、容疑者の男に次のように反論させている。

「例えばカーという作家がありますね。…『プレーグ・コートの殺人』など、やはり機械的トリックですが、それをカモフラージュするために、苦心惨憺(くしんさんたん)、凝(こ)りに凝っているので、僕は、大いに作者に同情を持っているんです。機械的トリック必ずしも軽蔑したものじゃありませんよ」

この探偵小説マニアの容疑者の発言は作中の金田一に対する反論であると同時に、「本陣殺人事件」を今まさに読んでいる読者へ向けての発言でもあって、また彼の考えは、そのまま他ならぬ作者・横溝正史の考えでもあるわけだ。つまりは、合理的で破綻はないけれど読み進めて最後にタネ明かしされてみれば何だか無味乾燥で、いつも面白味に欠ける一般的な探偵小説における密室の機械トリックに関し、「機械的トリック必ずしも軽蔑したものじゃありませんよ」の探偵小説マニア容疑者の発言が、物語中の台詞であると同時に、そのまま「本陣」の読み手に対する直接的な語りかけというメタ構造の仕掛けになっており、「なぜ『機械トリックの密室が必ずしも軽蔑したものじゃありませんよ』と、そんなことが言えるのか」、今まさに「本陣」を読んでいる読者のこうした疑問に対し、その答えは作中の容疑者にそのように言わせた作者の横溝が書いた「本陣殺人事件」という探偵小説そのものが、「機械トリックの密室は必ずしも軽蔑したものじゃありませんよ」ということを実際に証明し、現実世界の読者は「本陣」を読み進めていくうちに現実の中で、確かに「機械トリックの密室は必ずしも無味乾燥ではなく、苦心惨憺、凝りに凝った書き方の工夫次第では大変に面白くなること」を身をもって体感するというメタな仕組みになっているわけである。すなわち、普通は犯人が作中の探偵や警察や物語を読む読者に対し、これ見よがしに密室を作って誇示し挑戦する密室殺人のトリック発想とは全くの逆を行く、本当は密室殺人などやりたくなくて離れの庭に犯人の足跡をわざわざ残しておいたのに、たまたま事件当夜に雪が降って足跡が消され不幸にも偶然に「密室」になってしまった、犯人からしてみれば誠に不本意な大誤算の「止むを得ざる密室」の成立であり、はたまた、なぜあんな細かで精密な機械トリックの「密室」殺人を犯人は断行しなければならなかったのか、犯人側にある常軌を逸した犯罪動機の異常さである。

「密室の殺人を扱った探偵小説も沢山あるが、たいていは機械的トリックで、終わりへいくと、がっかりさせられる」と一般に評される従来型の無機質、面白味に欠ける機械トリックの密室に横溝は以上のような「密室」生成の大誤算や異常な殺人動機を付け加えて「本陣殺人事件」を書く。おそらくは、それこそが横溝が「本陣」作中にて容疑者に言わせた「苦心惨憺、凝りに凝っていれば機械的トリック必ずしも軽蔑したものじゃありませんよ」の内実だと私は思う。

加えて、冒頭の最初の書き出しから「三本指の男」=「生涯の仇敵」たる、いかにも怪しい謎の男を登場させ、「この男が犯人なのか!?」のミスディレクションで読者を散々に引っ掻き回して混乱させる探偵小説の常套(じょうとう)の手法も見事である。

横溝正史は相当にデキる頭のキレる探偵小説の書き手なので、作中にて使うトリックも一つだけでは不十分で凡庸退屈であることをよく知っている。だから「本陣殺人事件」では中心の柱となる機械トリックの密室以外にも、巧妙な隠し方や叙述トリックもどきら必ず複数のトリックを仕込んで複合技で仕掛けてくる。しかも、それぞれのトリックを吟味改良し、従来型の叙述トリックの弱点克服や機械トリックの密室生成の逆発想など新たな要素を取り入れ探偵小説を創作する。まさに偉大な大横溝(おお・よこみぞ)である。「本陣殺人事件」は、横溝の全作品の中でベスト3の上位に確実に入る極上な出来栄えだと私には思える。

再読 横溝正史(3)「迷路荘の惨劇」

1970年代後半から始まる横溝小説の映像化を受けての社会の「横溝正史ブーム」の中、過去作品の発掘再版だけでなく、一度は筆を折ったはずの横溝自身も意欲的に創作を再開する。すなわち、昭和49年に発表の「仮面舞踏会」(1974年)にて横溝正史は完全復活を果たす。以後「病院坂の首縊りの家」(1977年)、「悪霊島」(1980年)など齢(よわい)70代にして大ベテランの横溝は次々と新作を世に出す。

昭和50年に発表された「迷路荘の惨劇」(1975年)も世間での横溝人気再燃を受け、新人や社会派の台頭で一時は干されのスランプで筆を折っていたが、完全復活を果たし創作に意欲的に取り組んだ本格派・横溝正史、最晩年の仕事の一つに当たるものだ。その内容といえば、

「広大な富士の裾野の近くに、あたりを睥睨(へいげい)するかのごとく建つ豪邸・名琅荘(めいろうそう)。屋敷内の至る所に〈どんでん返し〉や〈ぬけ穴〉が仕掛けられ、その複雑な造りから別名・迷路荘と呼ばれている。知人の紹介で迷路荘を訪問した金田一耕助は、到着後、凄惨な殺人事件に巻き込まれた。被害者は、ここの創建者の孫・古館辰人(ふるだて・たつひと)元伯爵で、後頭部を一撃され、首にはロープで締められた跡が残っていた。やがて事件解明に乗り出した金田一は、二十年前に起きた因縁の血の惨劇を知り、戦慄する」

「広大な富士の裾野の近くに、あたりを睥睨するかのごとく建つ豪邸・名琅荘。屋敷内の至る所に〈どんでん返し〉や〈ぬけ穴〉が仕掛けられ、その複雑な造りから別名・迷路荘と呼ばれている」。「平安の昔、かつての瀬戸内海賊の本拠地で、北の要(かなめ)の北門島(ほくもんとう)の名がなまって獄門島」のような、どこかで聞いたことのある話だ(笑)。そして、こうした仕掛けが屋敷中の至る所に仕掛けられてある「迷路荘の惨劇」の連続殺人である。そうした舞台設定からして書き手の横溝は本作では最初から密室殺人は「断念」しているのか、迷路荘内に「どんでん返し」や「抜け穴」があるため密室が原理的に成立しないからと思いきや、これがまさかの「密室あり」(笑)。しかも、その密室トリックは「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)にて、かつて使ったものと同じであり、横溝晩年の創作なため過去作品の自作流用の再利用が多々ある。もっとも本作は、以前に発表された「迷路荘の怪人」(1956年)に手を入れた自作長編書き直しの体裁ではあるが。

結局のところ「迷路荘の惨劇」にて連続殺人の被害者は三人で、冒頭で金田一耕助が迷路荘に到着する際、今では没落の古館元伯爵一家並びに迷路荘に因縁ある二十年前の過去の「惨劇」関係者たる「尾形静馬」(おがた・しずま)という、これまた「犬神家の一族」(1951年)の「青沼静馬」(あおぬま・しずま)に似たような名前の失踪人物、片腕の男が現れて、たびたび関係者に目撃されては姿をくらまし古館前伯爵一家関係者を震撼させる。迷路荘にかつて出入りしていたが、初代古館当主に刀で左腕を斬り切り落とされて以来、行方不明となった尾形静馬なる人物の再訪か。思えば探偵小説にて「片腕がない」や「赤毛である」の見た目に大きな身体的特徴ある因縁人物が、これ見よがしに不自然なまでに何度も繰り返し目撃されては、しかしまた潜伏し不気味に闇の背後で暗躍するといった場合、その身体的特徴が大ありの人物は本人ではなく、関係者が変装し大袈裟に演技して(腕を片縛りして片腕に見せたり、地毛を隠して赤毛のカツラを被ったり)案外、律儀(りちぎ)にやったりしているわけだ。

本作「迷路荘の惨劇」を読む読者も、よほどの探偵小説ビギナーでない限り、最初から「もう本物の尾形静馬はすでに亡くなっていて、尾形静馬と目される、あまりに派手に何度も目撃される割りにはすぐに消えてしまう片腕の男は迷路荘関係者の変装であり、犯人による捜査撹乱の定石(じょうせき)であるな」と容易に了解してしまう。まさにフィルポッツ「赤毛のレドメイン家」(1922年)にて、そうであったように。

それにしても「迷路荘の惨劇」は物語の進行が異常に遅い。「この先、あとどれくらい自分は執筆できるのか」人生の暮方に近づき、これまでの自身の探偵小説家キャリアの道筋を再確認するかのように横溝が、ゆっくりじっくり楽しんで書いているフシが本作には見受けられる。いわば読者のためだけでなく、「半(なか)ば自分のため」に執筆する横溝正史である。加えて、以前の壮年期のように掲載雑誌の売り上げに腐心することもなく、すでに大家で世間一般での自身の作家評価もあまり気にしなくてもよい、日本の探偵ミステリー文壇の一翼を担う余計な気負いも過剰にないため、自然体で自分の好きなものを「半ば自身のため」に思う存分、心ゆくまで書くことができた最晩年の横溝正史である。

おそらく「迷路荘の惨劇」を始めとする「仮面舞踏会」や「悪霊島」の復活後の一連の作品は、古巣の探偵ミステリー雑誌「宝石」か角川の新雑誌「野性時代」に初出連載のはずだ。横溝は、特に角川書店には「横溝全集」の角川文庫の莫大な売り上げで充分すぎるほど貢献しているから、他誌への連載とは違い、最晩年の横溝は角川の編集者に対して原稿枚数や作品内容に関し、いくらでもワガママがきく恵まれた創作環境下にあったに違いない。「迷路荘の惨劇」や「仮面舞踏会」の復活後の最晩年の作品は、横溝が心ゆくまで楽しんで書いているから話の進行が遅いし例外なく長編だし、内容も以前の横溝の小説にて読んだことがあるような(笑)、書き直しの再構成、既出作品よりのネタ流用や設定の重複が多くなる。

だが、そのように横溝が書く復活後の最晩年の長編群に対し、単純な物語の面白さ享受ではなく、読者のためばかりではなくて非常に楽しんで「半ば自分のため」に執筆する横溝正史の姿を想像しながら読むと、いくら長編で話が長くても、また話の進行が異常に遅くても、さらには過去作品の流用ネタや設定重複が多くあったとしても、横溝ファンなら飽きることなく最後まで楽しんで読めるはずだ。

そういったわけで、この「迷路荘の惨劇」は尾形静馬らしい片腕の因縁の人物が迷路荘に投宿し、しかしすぐに姿をくらまして行方不明となり、その間に古館元伯爵の第一の殺人が起こって警察と金田一が事件関係者全員に順番にいちいち話を聞く関係者聴取の場面が異様に長く、物語の進行が非常に遅いのだが(何と文庫本全500ページ中、第一の殺人と関係者全員に順番聴取の記述で半分近くの200ページも費やしてしまう)、愛ある横溝正史ファンは、迷路荘関連の人物相関図や古館家の家系図メモを作成しながら書き手の横溝同様、じっくりゆっくりと味わって本作を読むことが望まれる。

再読 横溝正史(2)「塙侯爵一家」

横溝正史「塙侯爵一家(ばん・こうしゃくいっか)」(1932年)は、横溝の作品の中では比較的初期にあたり、あまり有名な知られた作品ではない。しかし私は、なぜか昔からこの「塙侯爵一家」が深く印象に残って好きだ。

内容は替え玉ですり替わりの悪徳陰謀小説で、それにいくつかの傷害事件や殺人事件が絡(から)み、おそらくほとんどの読者が事前に予測できずラストに必ず驚くであろう犯人の意外性が「塙侯爵一家」という作品の旨味のコクを出す、横溝による極上小説になっている。「ネタばれ」しない程度に本作の、あらすじを述べると、

「霧深いロンドンの街の片隅で秘密裏に進められたある計画。それは莫大な資産家・塙侯爵の息子で欧州留学中の安道を、思い通りに操れる偽物とすり替える畔沢(くろさわ)大佐の陰謀だった。日本へ戻った偽の安道は見事にその役柄をこなし、ライバルの兄・晴道を押さえて侯爵の信頼を勝ち取った。だが、その頃から偽安道に変化が生じた。大佐の命令に従わず、勝手な行動をとり始めたのだ。そして、あの忌まわしい老侯爵殺害事件が起きた」

「塙侯爵一家」の莫大な資産ならびにその絶大な権力の乗っ取りのため、畔沢大佐の計略でロンドン留学中に麻薬に溺(おぼ)れ中毒で再起不能になった塙侯爵の跡取り息子・安道を、同じくロンドン留学中で貧しく金がなく自殺寸前にまで追い込まれている、しかし容姿が塙安道にそっくりな貧乏青年・鷲見信之助(すみ・しんのすけ)にすり替え、信之助を安道にして畔沢大佐ともども日本に帰国する。現地で知り合った安道のガールフレンドである沢村大使の令嬢・美子も同行して。

そして日本にて偽安道を迎える「塙侯爵一家」の人々は、京都の大道寺家に既に嫁いでる陰気な姉の加寿子、傀儡(くぐつ)で身体が不自由で弟の安道に競争心とコンプレックスを抱いている兄の晴道ら。その他、誕生祝賀会を近日に控え、盛大な催しをする老齢な塙侯爵もいる。さらには新たに紹介されて安道と近づきになる樺山侯爵令嬢の泰子や、日本で再会する信之助のかつての恋人、島崎摩耶子ら。案の定、信之助が扮する偽安道の帰国後に「あれは偽者」の匿名の怪文書が出回り、偽安道は姉の加寿子から「本当に安道なのか」疑われると、その姉が暴漢に襲われ硫酸を顔に浴びせられる事件が起こる。また塙侯爵も誕生祝賀会での衆人監視の庭園テントの中で、一瞬の隙(すき)を突かれピストル射殺されてしまう。果たして犯人は誰なのか。しかも、それら事件の前、帰国した直後から信之助の偽安道が畔沢大佐の言うことを聞かなくなり、勝手に行動して大佐のコントロールが効かなくなる。「もしかしたら全て偽安道による犯行なのでは」、畔沢大佐に不審の疑いが沸々とわき上がる。畔沢大佐が自身で偽安道を利用しているつもりでいて、その実大佐の方が偽安道に利用されているのか。はたまた大佐や偽安道を利用する、さらに別の人物がいるのか。

詳しく述べると「ネタばれ」になるので、どんな場面での誰の発言か一部を伏せ字にしてあえて引用すると、「利用できればそれでいいさ。しかし、利用していると思ったところが、逆に利用されているんじゃないかね」「世の中には自ら好んで肥料になる人間がある。…自分では自分のためになることをしていると思っているのだ。ところが、それは結局、他人を太らせる肥料にすぎないことが、後になってわかるのだ。××はその肥料さ。そしてぼくはその上に咲いた花だよ」のセリフが作中にて飛び交う。

裏の裏は表なのか、その裏の裏の、すなわち表のさらにその裏を読むような複雑なカラクリの人間関係に読み手は翻弄される。作中の畔沢大佐のみならず、「塙侯爵一家」を読んでいる読者も「もしかしたら」偽安道の本当の狙いは何なのか、彼の真意はどこにあるのか混乱して分からなくなる。加えて、姉の加寿子への硫酸顔浴びせと老塙侯爵殺害の犯人は一体誰なのか。この辺り謎が謎を呼び読み手を惹(ひ)きつけ離さず、どんどん読み手の気分をのせ一気に先を読ませる横溝の次々に畳みかける書き方は実に上手いと思う。

このように「塙侯爵一家」は大変おもしろい探偵小説なのだが、如何(いかん)せん横溝の筆が早い。枚数が少ない150ページ程度の中編で展開が早すぎる。だが、さすがは名ストーリーテラーで話を作るのが上手い横溝正史だ。偽安道に隠された秘密や「塙侯爵一家」をめぐる傷害殺人事件の犯人の真相以外にも、随所に読ませ所の仕掛けを数多く散りばめている。例えば、畔沢大佐が属する安道替え玉を画策した謎の謀略組織の存在、兄・晴道の弟・安道に対する積年のコンプレックスで歪んだ競争心理、偽安道が日本でかつての恋人に再会する信之助の過去の清算、ロンドンで以前に安道の手相を見たことがあるという女占い師の再登場など多くの仕掛けがある。

もう少し丁寧にじっくりと書き込んで話を膨(ふく)らませてもよさそうな所であるが、しかしながら枚数が少なく話を早急にまとめる巻きが入っているためか、横溝の記述は全体的に淡白で話の展開が早い。それら枝分かれで、もっと拡げてしかるべき話の各要素を「限られた少ない枚数内でラストまでに全て回収しなければいけない。取りこぼしは絶対に許されない」の切迫したプレッシャーがあるためか、全体に事務的に話の各部要素を早々に回収させ、膨らませることなく終わらせる。だいいちタイトルの「塙侯爵一家」の長たる塙侯爵殺害の場面ですら、あれは小説全体の中では結構なクライマックスの悲劇で謎が深まるヤマの読ませ所だと私は思うが、悲劇や謎を盛り上げる扇情的で丁寧な記述描写はなく、横溝は軽く事務的にさっさと書き流してしまう。

「塙侯爵一家」は、それまで雑誌編集と探偵小説執筆の二足のわらじでやっていた横溝が、いよいよ腹を決めて専業の小説家一本でやって行くことを決めた際に、横溝の古巣の探偵小説雑誌「新青年」が作家専業出発の祝いの餞(はなむけ)に連載の機会を設け、それに横溝が寄稿したものだ。しかし、月刊誌「新青年」に短期の連載だから枚数少なく、前述のように「塙侯爵一家」での横溝の筆は急(せ)かされて自然と早くなる。同じく「新青年」に短期連載の横溝作品といえば、私は「真珠郎」(1937年)を真っ先に思い出す。あの「真珠郎」も内容構想は抜群なのに、短期連載の制約された紙数なため話の展開が早く、拡げた話をさっさと回収して終わらせようとする横溝のやや事務的な処理感が否(いな)めない。

だが「新青年」を毎月購読して月一で楽しみに読んでいた当時の読者や、短期の連載のリズムで執筆脱稿していた当の横溝正史、また横溝に原稿依頼し毎月毎号、最終チェックしていた「新青年」編集部も、あれくらいのスピーディーな話展開の筆の早さで丁度よくて皆が満足で正解なはずだ。現在の私達は初出連載とは違い、後日に文庫になったものをまとめて一気に読むから、月一連載で数回に分けてゆっくり読んでいた当時の読者とは読み方や読後感が相違する。現代の人達が読む「塙侯爵一家」に対する読後の違和は、おそらくはそういったことだろうと思う。

再読 横溝正史(1)「横溝正史読本」

思えば「虚無への供物」(1964年)の中井英夫が江戸川乱歩が好きで、その乱歩好きが高じて、まさに「虚無への供物」という「乱歩愛」一筋の乱歩に捧げた長編密室物を本気を出して書いて、しかし、あまりにも本気を出しすぎて(笑)、この現実の世を徹底的に相対化する天上界のアンチ・ミステリーとなり、「虚無への供物」が本家・江戸川乱歩の書く探偵小説を軽々と凌駕(りょうが)してしまって結果、審査委員長の当の乱歩が意味が分からず見事、中井の「虚無への供物」は江戸川乱歩賞を落選し、結局は中井と乱歩との相思相愛ならずという悲劇な笑い話が戦後の探偵推理ミステリー文壇にてあった。

そうした「悲劇な」中井英夫が江戸川乱歩のことを「大乱歩」(だい・らんぽ)と呼んで称賛しているのに倣(なら)って、僭越(せんえつ)ながら私も横溝正史のことを「大横溝」(おお・よこみぞ)と呼んで日々ひそかに称賛している。江戸川乱歩と横溝正史は「大乱歩」と「大横溝」であり、日本の探偵小説史にて燦然(さんぜん)と輝く二つの巨星だ。そういったわけで今回から始まる新しい特集「再読・横溝正史」である。

横溝が良いのは、まず多作であることで発表された作品数が多く、毎日定期的に読み続けてもなかなか読み尽きない。そう簡単に弾切れにはならない。しかも、多作であるのに破綻の劇的失敗作が少ないため安心して読み続けられる。駄作がそれほどまでになく、横溝の筆が比較的安定している。以前に海外ミステリーでモーリス・ルブランの「怪盗リュパン」のシリーズを、まとめて全作続けて読んだことがあった。南洋一郎の改作ジュヴナイルの「怪盗ルパン」ではなくて、本家ルブランのオリジナルの「リュパン」を。その際にルブランは筆が安定していなくて、特に長編リュパンに関し明らかに出来が良くない、中途で読むのが苦痛になって放り出したくなる作品が、いくつかあって苦労した。やはり前述の中井英夫ではないけれど、「小説は天帝に捧げる果物。一行たりとも腐っていてはならない」。その点、横溝正史は多作の量産作家であるのに比較的筆が安定しており、読み進めて苦痛で読むのを中途で放棄したくなるような、あからさまな破綻の失敗作が少ないため良質な書き手として信頼できる。

あと横溝正史に関しては、以前に角川文庫が横溝作品をほとんど全作、漏(も)れなく完璧に出しまくっていた出版環境があり、しかも昔の角川文庫の横溝作品は表紙絵が杉本一文による上質イラストカバーで、私は杉本のカバーイラストにシビれて横溝の角川文庫を昔からよく購入していた。本当に昔の角川書店はスゴいのである。横溝の代表作はもちろんのこと、まだ当時は横溝は存命だったから、横溝本人にしてみれば今さら読み返されたくない過去の駄作・凡作も、角川は「横溝全集」の完全版を目指して容赦なく片っ端から復刻・再刊して出しまくる。出版社倒産の版元消失で原稿紛失な地方の雑誌に数回掲載のマイナーで傍流な作品でさえも古書店でわずかに流通している古雑誌を発掘し、文字起こしをして角川文庫に強引に入れる。

過去作品の復刻・再版をここまで幅広く執拗に執念深く完全版の勢いで角川にやられ、当の横溝にしてみれば昔の多忙時に乱筆で乱作した、今では封印したい納得できない凡作や失敗作の過去作品もあったはずだ。「横溝さん、大丈夫ですか。さすがに角川はやりすぎだから文句を言った方がよくないですか」。そこまで片っ端に何から何まで全部復刻・再版をやられると、横溝正史の作家評価に傷がつくことを心配した横溝関係者からの角川書店に対する怒りの声も実際あったらしい。当時の角川文庫の、とりあえず横溝の作品なら何でも文庫に収録の、まさに「鬼のような」横溝作品を文庫へ投入の入れ込み方は明らかに異常で常軌を逸していた。

しかし「昭和の横溝ブーム」で横溝正史の本は出せば必ず相当に売れるわけで、角川書店のような野心あるイケイケでやり手の出版社は、ともかく横溝の文庫を「これでもか!」という程に出しまくっていた。横溝ファンとしては「角川の横暴のやり過ぎ」が、多くの横溝過去作品を読めて一読者として嬉しくある反面、横溝本人の「作家の名誉」を考えると横溝関係者の意見と同様、何だか気の毒でもあり正直私は複雑な心境だった。ただ杉本一文による横溝全集、角川文庫の表紙カバーイラストは毎作、実に素晴らしかった。

このように杉本傑作カバーに彩(いろど)られた数多くある角川文庫の横溝正史集は昔の杉本イラストカバーは今や絶版・品切だが、当時の「横溝ブーム」の人気による大量出版で、かなりの冊数が市場に出回ったため現在でも古書で比較的容易に入手できる。だが例外的に版刷が少なく、すぐに品切れで入手困難となり、そのため希少価値が出て古書価格が異常に高騰した書籍も中にはあった。例えば「横溝正史読本」(1976年)の後の文庫本化である。

この本は小説作品ではなくて、横溝正史のファン・ブックのような、まさに「横溝正史読本」の副読本だ。内容は、小林信彦による横溝への長いインタビューや横溝作品の書評が収録されている。本の内容自体は特に大したことはないと私は思うが、熱烈な横溝ファンからすれば「ぜひとも収集して所有しておきたいコレクターズ・アイテム」になるのか。希少の入手困難で一時期は過熱し相当な高額取引をされていたけれど、案外私は醒(さ)めた目で見ていた。「横溝正史読本」は、そこまで内容に価値がある本とは到底、思えなかったから。

次回も「再読・横溝正史」。