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大学受験参考書を読む(9)佐藤優「いっきに学び直す日本史」(安藤達朗「大学への日本史」復刻・復刊によせて)

佐藤優「いっきに学び直す日本史」上下巻(2016年)は、駿台予備学校安藤達朗の名著「大学への日本史」(1973年)のバージョン違いであり、その推薦人及び解説に現在人気なビジネス教養書評を執筆の佐藤優を添えた体裁で、安藤師の「大学への日本史」が思いもかけぬ復刻の復刊を果たす。正直、私は驚いた。

「大学への日本史」出版元の研文書院が廃業で版元消滅のため、奇跡的に復刊できたのだと思う。おそらくは安藤達朗の遺族の同意を得て。もし「大学への日本史」が駿台文庫から出されていたら復刻・復刊は無理であったろう。事実、駿台文庫の名作である安藤達朗「日本史講義」全五巻(1991─96年)は、一冊を除いて未だに絶版・品切の入手困難である。本当によいシリーズであるのに、安藤達朗「日本史講義」全五巻は。同様に「大学への日本史」も絶版・品切の入手困難で古書価格が異常に高騰していたので、今回の佐藤優を推薦人に添えての復刻・復刊 は再び多くの人々に本書が読まれる機会が得られ大変に良かったのではないか。

さて、その復刻された「大学への日本史」だが、読後の感想として本論の安藤師執筆の「大学への日本史」の素晴らしさを再認識すると同時に、今回本書の復刻・復刊に大きな役割を果たした推薦人・佐藤優の作家、書評家、読書人としての底の浅さの馬脚を結果的に悲しくも暴露した形になったと思う。元外交官僚の佐藤優は、腕利き外交官のキャリアゆえか「現在、日本国内で流通している常識は国内でしか通用しないガラパゴス化した日本型スタンダードでしかない。だからこそ世界基準で海外ビジネスで通用して使えるデキる人のビジネスマン教養知識を」とか、「大人の社会人が身につけるべきホンモノの教養を」云々で、近年異常な数の書籍を執筆し、分かりやすい解説本や対談書や書評や「必ず絶対に読んでおくべき」推薦リスト本の上梓で、やたら著作を大量に量産している。また氏も常日頃から多くの本を読む読書家であり、佐藤の本の読み方に一目置いて「読書を通じての教養形成の極意を彼から積極的に学びとるべき」といった風潮に現在なっている。しかし、私は「佐藤優の本読みの読書家としての力量は果てしなく危うくて相当に怪しい」と正直、思う。

書籍というのは内在的に読まれなければいけない。「内在的に読む」というのは、著者が読者に「この本は、こういう思いで書いたので是非ともこういうように読んでもらいたい」という書き手の思いを読み手が察知し共有して、そのように書籍を読むということだ。なかには、まえがきやあとがきにて、「このような思いで本書は上梓したので、そういった著者の思いを少なからず汲(く)んで本書に向き合ってもらいたい」云々を直接書く著者もいるが、優秀で、いわゆる「わかっている」粋(いき)な書き手は、わざわざそんな野暮(やぼ)なメッセージを直接的に書き入れず、くどくど述べずとも、前もっての練(ね)りに練った構成や伏線の張り巡らしや内容の繰り返しの筆の力の入れようで、「私がどのような思いで本書を執筆し、どのように本書を読者に読んでもらいたいか」充分に自然と読み手に伝わるものである。そして、読み手は書き手のそうした思いを察知し共有して、まさに「そのように書物を読む」。そういった当たり前のことが「内在的に書籍を読む」ということであり、「読書を介して著者と読者とが本当の意味で出会う」ということだ。著者の「このように読まれたい、読んでほしい」とする肝心な執筆動機の思いを完全無視して読み手の好みを書物に一方的に押し付け、「自分の好みや自身が読み込みたい内容に合致しているから、この書籍は素晴らしい。名著で広く多くの人に繰り返し長く読まれるべき」などというのは、外部の外から読者の思いを勝手に一方的に押し付けた外在的な読みの読書であって、それは「読書を介して著者と読者とが本当の意味で出会う」内在的で真っ当な読書でない。

佐藤優の手による復刻の安藤達朗「大学への日本史」たる「いっきに学び直す日本史」には下巻の巻頭「本書を強く推薦する・佐藤優」にて、今のこの時代にあえてわざわざ本書を復刻・復刊させた意図、「日本史を学び直すべき、特に日本の近現在史を積極的に学ぶべき」とする、以下のような氏による文章のくだりが掲載されてある。

「(本書復刊時での現首相である)安倍晋三氏が政治の師として尊敬しているのは、祖父の岸信介元首相だ。岸氏は、革新官僚として満州国の建設と運営に深く関与した」。ゆえに「岸氏の業績を高く評価する安倍氏の政治心情」を慎重に警戒しつつ、「本書には戦後の標準的な歴史認識が書かれている」としたうえで、「現下の日本では客観性や実証性を無視し、自分が欲するように世界を理解する反知性主義が強まっている。反知性主義の罠に陥らないためにも、実証性と客観性を重視する本書で日本の近現代史を学ぶことには大きな意味がある」(下巻 4─7ページ)

つまりは旧著・安藤達朗「大学への日本史」を、現在の安倍自民党政治に代表される「客観性や実証性を無視し、自分が欲するように世界を理解する反知性主義」(特に近現代史において日本の都合のいいように全面的に主観的に日本の国家を肯定・賞賛するような歴史認識のたぐい)に対抗させ、現在進行形の日本の保守・反動・右傾化をくい止める意図の役割のもと、佐藤優によって安藤達朗「大学への日本史」は復刻・復刊されているわけである。そのまま佐藤を「強力な推薦人」にして。しかしながら「大学への日本史」や「日本史講義」全五巻を通読し少なからず安藤達朗という人を知っている人からすれば、「何とも的(まと)はずれな」といった感慨を持たざるをえない。

歴史学の歴史研究には「理論化」と「実証性」の二つの操作手続きがある。前者の理論化は、無数にある歴史的事実から因果関係を指摘したり、発展段階の法則を摘出したりの抽象化を経て歴史を理論化する。後者の実証性は、逆に個々の歴史の事実をより細かく子細に具体化で掘り下げ詳しく解明し実証する。思えば、安藤達朗という人は相当に偏(かたよ)って前者の「歴史の理論化」にのみ強烈に力を注ぎ、常に抽象化の理論化の操作観点から日本史に向き合う人であった。事実、安藤師の「日本史講義」第三巻「政治史の整理法」に掲載の冒頭のエッセイ風まえがき「人は必ず死す」の中で、これから「政治史の整理法」を紙面を通して実際に「講義」するにもかかわらず、「極論すれば政治史は歴史ではない」などと安藤達朗は大胆に言い切ってしまう(笑)。

安藤によれば、例えば古代史の壬申の乱について、「天智天皇の後継争いで大海人皇子が吉野を拠点に挙兵した」とか、「その大海人皇子に破れた近江朝廷側の大友皇子は後に明治天皇から弘文天皇の名を送られた」など、細かで実証的な政治史の歴史的事実をいくら知識としてたくさん知っていたとしても、それでは本当の意味で日本の歴史を知り、日本史の歴史学を学んだことにはならない。私達にとって重要なことは、大海人皇子側が勝ってその結果、大友皇子側についた中央の大豪族の没落が促進され天皇の権威が強大化し、次の天武・持統朝にて天皇を中心とする律令体制の整備が急速に進展していったという結果である。政治史の細かで実証的な歴史事実の具体的知識の獲得にのみ溺(おぼ)れ、それに終始して満足することなく、歴史的事実の抽象操作を経て歴史を理論化することこそが大切である。その抽象化の理論化こそが科学としての学問に耐えうる歴史学である、という趣旨のことを安藤師は述べている。そして、先の壬申の乱の例でさらに話を続けるなら、なぜ大化改新を経て日本の古代王朝は律令制度に基づく天皇を中心とする中央集権の律令国家形成を急いで進めようとしたのか。以前の氏姓制度の大和政権のままでは、なぜいけないのか。律令国家と大和政権の根本的な違いは、どこにあるのか。そもそも律令国家とは一体何なのか。歴史の抽象操作の理論化を通して、日本の古代史を根本から突き詰め掘り下げて本質的に考えなければならないはずだ。

同様に「日本史講義」第二巻「時代の特徴と展開」に掲載の冒頭のエッセイ風まえがき「歴史の基本」においても、以下のようなことを述べている。歴史を一回きりの偶発的な出来事生起の連続的事柄で終わらせず、歴史的事実が複雑な条件の中で生起したことを合理的・理論的に説明することこそが歴史学の課題である。ゆえに歴史学が物理学などと同様、科学の学問として成立し成長するためには、歴史的事実の一定の側面にのみ眼を注ぎ、思いきってあとは全て捨象し抽象化する操作が必要である。そのような歴史の理論化の視点によって歴史を分析し、歴史学を科学に成長させるべく努力すること、それ自体が緊急の現代的課題である。そのため細かな個々の歴史の事実に捕らわれず、本巻のように抽象化した理論の大枠から日本史の各時代の「時代の特徴と展開」(それぞれの時代の「歴史の基本」)を押さえ、時に日本史の別時代と比較・考慮して変遷・推移の過程を探ったり、ヨーロッパ史と日本史との相違や共通点を勘案したりして幅広く日本史を学ぶことが必要である。

このように「極論すれば政治史は歴史ではない」などと言い切って、歴史的事実追求の具体的な歴史研究を一刀両断で切り捨て、その一方で抽象操作を経た「時代の特徴と展開」こそが「歴史の基本」で重要だとする、やたら「歴史の理論化」に前のめりになる安藤達朗の姿は今回、佐藤優が復刻・復刊した他ならぬ「大学への日本史」の「第一編・日本史ガイダンス」にて、価値の歴史的被制約性とかプロトコル言明やマルクス唯物史観や各種さまざまな時代区分論の紹介など、正直これらは無事に大学合格を果たした大学生が大学の「史学概論」の講義にて初めて積極的に学ぶべき学術的内容であるのに、それを「大学への日本史」読んでいるこれからの大学受験生に 、やたら詳しく熱心に説明する安藤達朗の、これまた前のめりな執筆姿勢のうちに見事に見受けらる。

安藤達朗は「歴史の理論化」には熱心な反面、個々の具体的な歴史事実や、日本史を学んだことを通しての現在状況の時事問題への還元(例えば、日本の近現代史軍国主義の時代を学んで知っているがゆえに現在の政治状況を反動化の右傾化の「反知性主義」と見なし、「この道はいつか来た道、気がつくと軍靴の足音が」。だからこそ、現政権を警戒し批判して警鐘を鳴らすといった危機感を募(つの)らせた時事的言説)がほとんどなく、私など心配になって最後は脱力して笑ってしまうほど、安藤師は時事論への関心が極端に低い。

近現代史にて日本の天皇ファシズム軍国主義を説明する際にも、それらに対する政治的批判にならぬよう、自身の政治的な立場や考えが明らかにならないように「禁欲」し、あらかじめトーンを抑えて参考書を執筆しているフシが安藤達朗には見受けられる。事実、日本の現在状況に関する安藤の時事認識も異常に弛緩(しかん)し生ぬるくて非常に楽観的である。例えば以下のように。

「現在の日本の発展はめざましい。近代の日本はヨーロッパの模倣から始まった。製糸器械や織物機械、さらには機関車まで、明治の日本人はすぐにヨーロッパの製品を模倣して、比較的簡単な、しかもほぼ同じ機能をもつものをつくりだしたが、現在のきわめて付加価値の高い、木目細かな配慮の行き届いた家電製品などを見ると、それはヨーロッパ近代の産み出した科学技術とは、異なる価値基準によってつくられたものになっているようである。それを使用する人間にとってもっとも使いやすいように、というそれらの工業製品に貫かれている配慮は、神の摂理追体験しようとするヨーロッパの原理とは別ものである。…原理的な面では弱いが、運用経験では優れているという日本の従来からの学問の特性は、ここではうまく生かされている。経済的には、…日本のこの伝統的な特性を生かしていけば、それなりの生き残る道を探すことができるであろう」

これは「日本史講義」第一巻の最終章「これからの歴史」にて、日本史の今後の展望を語った際の安藤師による結語だが、1987年の執筆初出でまだ日本がバブル景気の最中で経済が絶好調の時代を受けての文章なので、経済面への言及も「現在の日本の発展はめざましい。…日本もそれなりの生き残る道を探すことができるであろう」など、弛緩して何とも生ぬるい楽観的な状況認識になっている。そして、この後1990年代の従軍慰安婦問題や戦後50年を経ての日本の戦争責任追及や、いわゆる「自虐史観」の教科書問題、憲法改正論議など、日本の右傾化・反動化による新たな国家主義の台頭を受けて危機感を募らせる時事的・政治的で具体的な発言は安藤達朗において、ない。

以上のように歴史学を他の学問同様、合理的で理論的な科学に成長させたい思いが非常に強く一貫してあり、「歴史の理論化 」に邁進した。ゆえにその反面、具体的で細かな個々の歴史的事実への近接や、時事的・政治的な個人の状況価値判断の披瀝(ひれき)を出来る限り避けていた安藤達朗である。「大学への日本史」や「日本史講義」全五巻を通読し、少なからず安藤達朗という人を知っている人からすれば、現在状況の「反知性主義の罠」に対抗させる時事論・政治論文脈での佐藤優による読みは「何とも的外れな」といった感慨を持たざるをえない。

もちろん、私も佐藤と同様、現在進行形の「客観性や実証性を無視し、自分が欲するように世界を理解」しようとする「反知性主義の罠」には警戒するし、戦中の東条内閣にて商工大臣を務め大陸経営をやり、戦後にまたゾンビのように甦(よみがえ)ってきて安保改定をやった岸信介を自身の政治の師と仰(あお)いで尊敬する安倍晋三安倍内閣に対し、復古の反動の右傾化の危機感は持つ。しかしながら、佐藤優のようにその「反知性主義の抑止のくい止め」にわざわざ「大学への日本史」の安藤達朗を使うことはなかった。

安藤達朗が、少なくも彼の日本史参考書記述の中で終始一貫して力を注いだのは「歴史の理論化」で科学としての歴史学を成立させることであり、従来のように歴史をイデオロギー的神話や個人の恣意的・主観的な昔話の単なる昔語りに終わらせない、物理学など他の学問同様、歴史学を論理的で合理的な理論体系をもつひとつの科学に高め成長させる意図を持つものであった。これは案外昔からある古典的テーマで、どのようにして偶発的雑多に時代時代で無数に生成する(ように思える)歴史的事実に、そういった理論の筋道を一本通し、歴史学をひとつの科学の学問に昇華させるか。その試みとして、例えばヴェーバーは「理念型」という概念を使い、マルクスは「生産様式の矛盾止揚による発展段階説」を説いた。「歴史の理論化」というのは、やはり学術的な修練を積んで、それなりに学問的に鍛えられた人でなければ切実に要求したりはしない。

素人の、いわゆる「歴史好き」な歴史マニアの方は、ただ単に過去の歴史上の人物や特定の事件に興味があって、文字通り単に「歴史が好き」なだけであって、そういう人達は理論は最初から吹き飛ばして「自分が好きで興味ある歴史的人物や事象について、どれだけ詳しく言えるか、自分はどれほど細かなことまで知っているか」、知識の細かさの総量を誇る「歴史の物知り博士」的醜態で終わる。やはり学術的に相当に訓練された人でないと、安藤師のようにかつてのヴェーバーマルクスの仕事を引き継ぐ「歴史の科学化・理論化」の線には行かないのである。学問的に鍛えられていない歴史マニアの素人は、最初から抽象的な理論や科学を投げ捨て、そのまま「歴史好き」の無邪気さから具体的な歴史的対象に没入するだけだ。

そして、こういった「歴史の理論化不在の問題」は、ずっと私達の身近にあったわけである。私たち日本人は諸外国の人達と比べたら実は相当に「歴史好き」な国民で、歴史小説やテレビの大河ドラマ郷土史研究や史跡散策ツアーなど、歴史にのめり込む。だが、その日本人が好きな歴史、日本人に人気の歴史というのは、前述のような「歴史好き」の無邪気さからそのまま具体的な歴史的対象に没入する歴史でしかない。今や歴史の学問でご飯を食べて生活しているプロの大学教授や研究者、大学院生でさえ、「マニアックな歴史好き」延長の様相で自身の専門の研究テーマについては、かなり詳しく細かく実証的に説明できても悲しきかな「専門バカ」、自分の日本史専攻テーマ以外のことや歴史学全般について理論的・総体的に語れる人は、ほとんどいない。私の見解として、かつての安藤達朗のような人が今はいない。

そういった抽象的な理論化不在で、「特定の歴史的人物や事柄に関し、どれだけ細かく詳しく知っているか」最初から最後まで具体性に終始し歴史対象に直接的に没入する、「哲学の貧困」ならぬ、まさに「歴史学の貧困」ともいうべき現代日本で主流の歴史に対する接し方批判として安藤達朗「大学への日本史」の復刻・復刊を持ってきた方がよかったと私は強く思う。そのような「歴史学の貧困」の状況文脈において「大学への日本史」が復刻・復刊され読まれた方が、「こういうように本書は読まれたい」著者の執筆動機にかなって亡くなった安藤師も喜んだと思う。なぜなら「時代の特徴と展開」の歴史の理論化には異常に力が入っていたが、他方「極論すれば政治史は歴史ではない」と言い切ったり、個別の歴史的事象や人物に深く執着せず、また日本史を通して学んだことを現在状況に還元させ危機感を募らせる時事的・政治的発言が、こちらが逆に不安になって脱力して笑ってしまうくらい皆無だった安藤達朗だから。

結局のところ、佐藤優は「歴史の理論化」を終始一貫して強く志向した安藤達朗を理解し踏まえて「大学への日本史」を読んでいないので、「私がどのような思いで本書を執筆し、どのように本書を読者に読んでもらいたいか」を押さえたことにならず、著者の「このように読まれたい、読んでほしい」肝心な執筆動機の思いを知る内在的な読みになっていない。「読書を介して著者と読者とが本当の意味で出会う」まっとうな内在的な読みができてはいない。その代わりに現安倍政権の復古・右傾化への警戒や「反知性主義の罠に陥らないために」といった時事的政治論の文脈で、もともと時事的・政治的な発言が皆無だった安藤師による「大学への日本史」を外部から外在的に読み込み、勝手に利用する。明らかに「大学への日本史」の読み方選択を誤(あやま)っている。近年異常な数の書籍を執筆し、やたら著作を大量に量産し、また同時に常日頃から多くの本を読む読書家の読書人で、佐藤優の書物の読み方に一目置いて世間では「読書を通じての教養形成の極意を彼から積極的に学びとるべき」風潮に現在なってはいるが、今回の「大学への日本史」復刻・復刊の件は、それへの大きな役割を果たした推薦人・佐藤優の作家、書評家、読書人としての底の浅さの馬脚を結果的に悲しくも暴露した形になったという感想の結論だ。

今回の「大学への日本史」の事例だけでなく、佐藤優の読書家の「読み」の力量実力は、実は相当に危うくて怪しいと私は思う。例えば彼は、世界史を学ぶべき、特にキリスト教について深く知っておくべきとかマルクスを幅広く読むべきといったことで、それらに関する著作も出してはいるが、佐藤のキリスト教理解にしても、またマルクス読解に関しても少なからず問題がある。しかし具体的に述べると長くなるので、ここには詳しく書かないのだが。