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大学受験参考書を読む(18)高田瑞穂「現代文読解の根底」

近年、ちくま学芸文庫より復刻・復刊された高田瑞穂の現代文参考書「新釈・現代文」(1959年)に続く、高田瑞穂「現代文読解の根底」(1982年)である。本書は全十二章からなり、それに高田の筆による「付記・解説」を付す。復刻・再版にあたり高田瑞穂の弟子、石原千秋による解説(「乗り越えてきたもの、受け継いできたもの」)も巻末にある。そして肝心の書き出しは以下である。

「現代文を本当に正しく理解すること、これが年若き学生・生徒諸君に対する私の唯一不変の念願である。その念願をこめて、現代文の確認のために是非知っておかなくてはならないことを、十二章にまとめた。…年若き学生・生徒諸君よ、この手帖を一読することによって、何等かの開眼がもたらされること、それが私の願望である。この手帖と、小著『新釈・現代文』の読解とによって、現代文理解の道は、ほぼ読者の内に確立するであろう」

同様に結語は以下である。

「十二章にわたって連述した近代文学談義をここで終わることとする。最後に是非一言しておきたいことは、文学は人間学であるということである。近代文学にさまざまに表現された人間、それぞれの時を生きた人間のそれぞれの喜びと悲しみとを体得することは、やがて自然に、今日を生きつつある人間、殊に年若き人々にとって、自我確立のための何よりの手助けとなるにちがいない。文学、真の文学を読むこと、これが私の最後の念願である」

書き出しと結語の文章からとりあえず分かるのは、「現代文を本当に正しく理解すること、これが年若き学生・生徒諸君に対する私の唯一不変の念願である…本書にて現代文の確認のために是非知っておかなくてはならないことを、十二章にまとめた。…この手帖と、小著『新釈・現代文』の読解とによって、現代文理解の道は、ほぼ読者の内に確立する。…十二章にわたって連述したのは、近代文学談義である。…最後に是非一言しておきたいことは、文学は人間学であるということ。…殊に年若き人々にとって、自我確立のために文学、真の文学を読むこと、これが私の最後の念願である」ということになる。

本書は現代文の大学受験参考書ではなく、日本近代文学講義の教養書であり、何しろ本文にて現代文の入試過去問やその解答・解説の演習はない。今回、新たに本書を読んだ上での(同時に高田の他著も含めての)率直な感想といえば、「高田瑞穂の相変わらずの白樺派への傾倒ぶり」であり、「高田瑞穂は近代主義者で、氏の近代日本文学を通しての近代化論展開の好み」の再確認であった。

前者の「高田瑞穂の相変わらずの白樺派への傾倒ぶり」というのは、この「現代文読解の根底」を一読してすぐ分かるように白樺派の中でも高田は志賀直哉が相当に気に入っているらしく、頻繁に志賀の小説引用が本文中に出てくる。そして、不思議なことに近代日本文学の論壇派閥のセクト対立からして、志賀直哉を始めとする都心の比較的裕福な上流の家庭の生まれで学習院出身、生活も美しく堅実、理想主義の人格教養主義人道主義でコスモポリタニズムで結果、長寿で大家な白樺派が好きな人は、地方からの上京者で現実的で人間社会の暗部や人間悪そのものを描き、酒飲み女性スキャンダルで放蕩三昧の果てに早世する太宰治無頼派が必ず嫌いな人でもある。事実、太宰と志賀の文壇対立があった。志賀直哉からしてみれば太宰治の文学も嫌いだし、太宰の人間としての生き方そのものが自分とは正反対ゆえに志賀は太宰を忌み嫌っていたはずである。その志賀直哉と同様、志賀の白樺派にのめり込み、現役高校生や大学受験生に理想主義や人格教養主義を説いて「無償の行為」たる「知る喜び」の学問姿勢から立身出世や功利のための勉学を厳しく戒(いまし)める高田瑞穂も、おそらくは太宰治を嫌いであったに違いない。

「新釈・現代文」の巻末に「近代文学の何を読むか」という、高田が学生に向けて若い内に読んでおくべき15の日本近代文学の短編小説を薦める読書ガイドの節がある。学生が若い内に読んでおくべき、それら名作短編に夏目漱石は当然ある。芥川龍之介も、もちろんある。森鴎外川端康成谷崎潤一郎もいる。白樺派からは志賀直哉武者小路実篤有島武郎のなんと三人も入れている。そして日本近代文学での短編の名手である太宰治が高田の推薦リスト「近代文学の何を読むか」には一編も入っていない。「近代文学の何を読むか」に太宰の名前がない。高田瑞穂は人格教養主義者で理想を説く真面目な現代文の先生だから、不道徳で実生活が破綻し、のたうち回りながら泥水をすすって文学をやっていた泥臭い太宰治など「汚ならしくて不潔」に思え、おそらくは嫌いなはずだ。「新釈・現代文」でも「現代文読解の根底」でも、志賀直哉からの引用は頻繁にあるが、太宰治からの引用は皆無だ。近代日本文学史から太宰治を完全無視して黙殺する冷酷非情な高田瑞穂である(笑)。

後者の「高田瑞穂は近代主義者で、氏の近代日本文学を通しての近代化論展開の好み」に関しては、「新釈・現代文」にて「近代主義」を「人間主義・合理主義・人格主義」の三本柱により定義したのと同様、「現代文読解の根底」においても高田は「近代的自我」を「宗教的絶対権威の否定・自然の科学認識・人間の自由と平等の実現」の三点から明確に公式化している。

そもそも近代主義の近代化論というのは、明治以降の日本の国家と社会は自然科学や工業技術など有形な物のみ「近代化」で摂取して、個人主義や人格の観念や人権思想(自由や平等の概念)の無形なものは取り入れなかった。「近代」日本にて、形而上的分野では前近代の封建倫理が依然として残り、近代文明を形作る根本の内面思想が根付かなかった。そうした個人主義や人権思想の「内面的な近代化の不足」から明治以降の日本は天皇制国家の軍国主義に歯止めが効かず、日本は超国家主義となり昭和の天皇ファシズムとなり、軍部の独走で戦争へ暴走するといった日本「近代」化の特殊性、日本の「近代」が西洋の本来的な近代とは異なり正統な近代ではない、つまりは近代日本における「内面的な近代化の不足」を問題とする歴史的考察を指す。そして、本来的な近代の理念から日本「近代」の不足を糾弾する歴史的考察を初めて本格的にやったのが、丸山眞男という東京大学政治学者であった。彼が敗戦直後に発表した「超国家主義の論理と心理」(1946年)という論文にて、戦前・戦中の日本の特殊的「近代」に対する批判と反省の意を込めて近代主義の近代化論を最初に大々的にやった。

この近代主義の近代化論者が昔から定番で引用するのが、夏目漱石現代日本の開化」(1911年)の講演文章である。高田瑞穂も近代日本の「内面的な近代の不足」を糾弾する、日本「近代」の制約された特殊性を指摘する文脈にて漱石の例の有名文章を引用している。「現代文読解の根底」では「第七章・日本の近代」での一連の記述が、それに当たる。しかしながら私は以前に高田「新釈・現代文」を知り、それから大学受験参考書以外の高田瑞穂の文学研究著作にも当たって確認したが、例えば高田「夏目漱石論・漱石文学の今日的意義」(1984年)でも、この「現代文読解の根底」にても、近代化論から「日本の近代」を問題にする論述の内容、文章記述の表現、史料の引用箇所、すべてが前述の丸山論文「超国家主義の論理と心理」と全く同じ引き写しである。「現代文読解の根底」での「第七章・日本の近代」の書き出したるカール・シュミットの「中性国家」の概念説明から、自由民権の河野広中が馬上にてミルの「自由論」を読むエピソードの史料引用、漱石の「それから」の小説引用箇所である代助と嫂(あによめ)との会話まで悉(ことごと)く丸山論文と同一だ。同様に「夏目漱石論・漱石文学の今日的意義」での高田の記述も丸山論文と同じである。

これは高田瑞穂、論文の盗用・流用の引き写しで国文学者として、さすがに不適切ではないか。文学研究に素人な私が読んで普通に気付く程なので高田瑞穂と共に成城大学文芸学部を創設した他の同僚教授(いわゆる「四人組」のメンバー)も、高田の直の弟子で漱石研究をやっている石原千秋も、高田の著作を出す際の出版社の担当編集者も、さすがに高田瑞穂の近代化論ないしは夏目漱石研究にての論述内容、文章表現、引用史料の全てが丸山眞男超国家主義の論理と心理」とそのまま同一なことに当然、気付いているはずだ。なぜ高田瑞穂に誰も何も言わなかったのか。論文や著作が活字になり発表される以前に諌(いさ)めて事前に止めなかったのか。

加えて夏目漱石に関しては、この「現代文読解の根底」にて「漱石は悪魔で自分の考えを貫こうとした」の、例の有名な笑い話(高田が指導していた成城大学・国文学専攻の三年の学生提出のレポートにこのような表現があり、「人間悪のエゴイズムを見つめ『則天去私』と格闘した夏目漱石であったが、最後は自分の考えを貫き自身のエゴに敗北した結果、漱石は悪魔になった」という深い考察かと思い学生本人を呼んで直接に聞いてみたところ、単に「飽くまで」を「悪魔で」と書き間違えていたというオチの話)が掲載されてある。「何だ!成城大学の文芸学部は三回生になっても、そんな初歩的な漢字の書き間違えをする大学生がいて、成城はそういう学生が通う大学なのか」と私はつい率直に思い、「これでは成城大学の世間的評判が下がるのでは」と余計なお世話だが、ついつい心配になってしまう。

とりあえず高田瑞穂については、先の丸山論文の引き写し流用問題と併(あわ)せて「高田瑞穂は夏目漱石に関して悪手の連続」という結論である。