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大学受験参考書を読む(67)秋山仁「数学講義の実況中継」

私が高校生だった1980年代に当時、駿台予備学校の数学科に在籍していた秋山仁の数学の大学受験参考書が流行ったことがあった。その時の秋山仁の数学参考書といえば、例えば駿台文庫「発見的教授法による数学シリーズ」全7巻(1989─95年。森北出版から2014年に復刻・復刊)や、「数学講義の実況中継・問題の戦略的解法」上下巻(1987年)などだ。

秋山の数学書籍が優れていたのは、漠然と何となくの慣れの手癖で解く数学ではなくて、「なぜそうなるのか」とか「より効率的で上手に美しく解ける方法はないか」を主体的に模索し工夫して考える数学の思考や発想法を教える数学だったから。後に私は気付いたが、秋山仁の数学参考書は丸善出版の古典の名作、ポリア「いかにして問題を解くか」(1975年)を(おそらくは)相当参考にしている。

高校生であった当時、私は学校で教わる教科書や副読問題集レベルの数学では校内の中間・期末テストでは高得点がとれるけれども、校外模試やそれこそ本番の大学受験の数学の入試問題にはほとんど対応できないことに気付いていた。実際に標準的な高校の普通科で通常カリキュラムとして教えられる数学と、校外の大学入試で出される受験の数学とでは明らかにレベルが異なる。大学入試レベルの数学の方が高校の通常授業での数学よりも遥(はる)かに難しい。そして、その難しさは「なぜそうなるのか」とか「より効率的で上手に美しく解ける方法はないか」を学生自身が主体的に模索し工夫して考えさせる数学であり、標準的な高校の普通科で通常カリキュラムとして教える数学は、毎度漠然と何となくの慣れの手癖で解けてしまう惰性の数学だった。

高校の数学の授業時に副読本として数研出版の「チャート式」シリーズを買わされて、私はよくやっていたけれど、あれは「漠然と何となくの慣れの手癖で解く数学」の典型であって、もちろん全くの高校数学の基礎が分かっていない学生は教科書ともども、そこから始めるしかないが、実はその教科書レベルのチャート式レベルの数学では、到底「数学を知っている」ことにならないし、「数学の本質を理解している」ことには全くならないのである。

最近よく聞く話で、「公文式の算数・数学をやっていた子どもは小中学生までは算数・数学が得意でよい成績を修めるが、高校の数学で突然に伸び悩んで大学受験の数学でつまづき失敗することが多い」というのがある。あれは公文式の算数・数学は、徹底した基礎計算の反復練習の指導だけであって、まさにチャート式の数学のような「漠然と何となくの慣れの手癖で解く数学」のみであるので毎度惰性で機械的に数学問題を解こうとし、「なぜそうなるのか」とか「より効率的で上手に美しく解ける方法はないか」を学生自身が主体的に模索し工夫して考える数学的思考や発想法の本質要素の育成に欠けているから、本当の意味での数学の学力養成に寄与しないのだと私は思う。

私の高校時代を振り返っても、例えば二次方程式があったとして、すぐに因数分解したり平方完成させたりしようとするし、その方法手順も手癖で覚えていてそれとなく出来るけれど、「なぜ二次方程式があったら即座に因数分解や平方完成しなければならないのか」そのことの意味を私は全く理解していなかった(笑)。本当は、「関数には(1)方程式で書き示す代数的アプローチと、(2)グラフで図示する幾何学的アプローチの2つがもともとあって、一般的に数式で示されているものは(1)の方程式で書き示す代数的アプローチであるから、それを(2)のグラフで図示する幾何学的なそれに移行する際の必要作業に因数分解や平方完成が該当するため」云々のことを根本から理解していなければ、「数学の二次方程式が本当に分かった」とか「二次方程式をそこそこ使いこなせる」ということには決してならないのである。

こうした「漠然と何となくの慣れの手癖で解く数学」(基本の最低限の基礎)と、「『なぜそうなるのか』『より効率的で上手に美しく解ける方法はないか』を主体的に模索し考える数学」(数学の本質)の2つの面からの習得が必須な数学において、後者の内容は特に重要であると思う。

秋山仁の一連の数学の大学受験参考書「数学講義の実況中継・問題の戦略的解法」らを最初に読んだ時、「これは数学の本質を受験生に教える主体的に考えて解く本格派の数学講義だ」と率直に思えた。ただし、秋山仁の大学受験の数学参考書のレベルは相当に高く、私には難しい(苦笑)。秋山の駿台文庫「発見的教授法による数学シリーズ」は、かなりの名著であるにもかかわらず長い間、絶版・品切れで多くの人が読めなかったが近年、森北出版から復刻・復刊されている。「やはり名著の名参考書は皆に切望されて、後によみがえるのだな」の納得の思いが私はした。