アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集ドイル(3)「シャーロック・ホームズの帰還」

戦後の探偵小説評論にて中島河太郎の功績は外せないと思うが、戦前にも優れた探偵小説の本格評論を書く人はいた。井上良夫である。井上はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」について、ホームズ短編群を読み返した後、次のように書いている。

「読み返して全体の印象は、想像していたより余程面白くなかったということである。私はこのように思った。もしヴァン・ダインとかチェスタトンとかの書いた探偵小説を大人のためのお伽話であるとするならば、ドイルのホームズ物は少年読物である。…ホームズ物は他の探偵小説に較べてむつかしい理屈が少なく、描き出されている事件も殺人事件などは稀れな方で、雰囲気も凄惨とか陰鬱とかいうことがない。出て来る人間もただそれぞれの役割が無事に務め得られるように描いてあるだけで、それらの大多数がトリックを成功させるに好都合な極々単純で人のいい連中ばかりである。これらの点は今日眺めてみると非常に物足りない。ドイルはこんなにつまらなかったのかと呆れ、読み返すのには非常な忍耐が必要であった」(「探偵小説のプロフィル」)

「ドイルはこんなにつまらなかったのかと呆れ、読み返すのには非常な忍耐が必要であった」など、井上良夫はホームズに対し相当に厳しい。井上の本格書評や探偵小説概論の解説の類を全般的に読んでいて特に、このドイルのホームズ短編に対する酷評はインパクトがある。初めて読んだとき、私は軽いショックであった(笑)。もちろん、他の箇所にて「ドイルのホームズの探偵小説史における功績と意義」を井上が述べるくだりもあるが、全体にドイルのホームズを否定的に評価している。

井上良夫はヴァン・ダインやチェスタトンとドイルを比べている。ヴァン・ダインやチェスタトンの頃には、すでに探偵小説のある程度の傑作作品の蓄積があって、また彼らはかなりのやり手で過去作品を研究し尽くしており、相当に考え込んで書かれた最高級な練りに練った本格派だから単純に彼らと比べられる、比較的探偵小説初期の作家のコナン・ドイルが非常に気の毒な感じが私はする。確かに後に出てくる探偵小説やミステリーと比べればドイルのホームズは単純で素朴な所はあるが、その探偵小説というジャンルが成立し成熟していく中で、初期の素朴で単純(シンプル)な所が話がスッと頭に入って読んで気軽に楽しめる。私はそうした所が好きで、ホームズの諸短編を気に入り何度も愛読しているのだが。

それにしても井上良夫は「本格のフェアプレイ」にとてもこだわりがある人で、いわゆる「奇妙な味」に関しては割合、無関心な人という印象が彼の探偵小説評論を読んでいると強く残る。

さて、短編連作集の第三作「シャーロック・ホームズの帰還」(1905年)である。もう探偵小説は辞めて新しく心霊物や冒険小説を書きたくてホームズをライヘンバッハの滝壺に落とし、シリーズを強引に終わらせたドイルであったが、しかし読者からの人気の強い要望でホームズの復活、すなわち「シャーロック・ホームズの帰還」となる。現代の私逹は後に連続してホームズ短編集を一気に読むため見落としがちだが、注目すべきはホームズの「帰還」(1905年)まで、前作の「思い出」(1894年)の「最後の事件」から約十年間の空白期間を経てのシリーズ再開であることだ。現代の私達はホームズの「思い出」から「帰還」へと連続して読んで、この二冊の間に十年の隔たりがあったとはドイルの筆致からはとても推測できないのだけれど。そして読者や出版社の求めに応じ、やや不本意ながら十年ぶりにホームズを「帰還」の復活させたドイルが決して手を抜いていないこと、以前と同様に創作工夫をしてホームズ短編を書き連ね積み重ねていっている点を井上良夫とは異なり、私は高く評価したい。

具体的にはべーカー街のホームズの下宿にてのハドソン夫人ならびに警視庁のレストレード警部ら、ホームズを取り巻く周辺常連のキャラクターの充実がまず挙げられる。ホームズ譚の物語世界がさらに安定してくる。前者のハドソン夫人は確か「冒険」と「思い出」の初期短編には出てこないし(要確認、もしかしたら出てるかも)、「ホームズの帰還」以降、レストレード警部らスコットランドヤードの警視庁面々みずからが、わざわざ私立探偵のホームズに難事件や怪事件を相談で持ち込んで話が展開するパターンが増えた。

(以下、「シャーロック・ホームズの帰還」各話の核心トリックに触れた「ネタばれ」です。「ホームズの帰還」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「空家の冒険」、これは「思い出」の「最後の事件」からホームズを復活で「帰還」させる、辻褄合わせのエピソードである。しかし「モリアティ教授とともに滝壺に転落死したはずのホームズが実は生きていた」という説明記述が、いかにも不自然で嘘らしくならないよう細心の注意を払って書いているドイルの筆遣いが良いのではないか。あと「窓に人形のシルエットを写しておいて、ハドソン夫人が定期的に人形の向きを変えて狙撃犯をおびき寄せて捕らえる」云々の後半の下りは、確かに児童向けジュヴナイルの「少年少女読物」のような微笑ましい素朴さを感じさせる。本作には最初に密室殺人が出てくるが、いたずらに無駄に密室殺人を創作せず、「なぜ現場が結果として密室になってしまったのか」のホームズを介してのドイルによる最後の事後説明記述も丁寧で優れている。

「踊る人形」はズバリ「暗号解読」である。英語のアルファベットでは「E」の文字が一番よく出てきて頻繁に使われるというのに私は昔から感心する。加えて「事件由来の外部世界への遡及(そきゅう)」=「今起こっている事件の由来原因は、イギリス国外のアメリカやインドやアフリカなどの外部世界に求められ、そのため話が大きく展開する」というドイルが好んで多用する仕掛けも、この「踊る人形」には加味されている。同様に「黒ピーター」も「事件由来の外部世界への遡及」なパターンの話だ。

「プライオリ学校」は、有名令息誘拐事件の顛末で、あらかじめラストの話の落とし所まで考えて最初から書いているフシが随所に見受けられ、ドイルの伏線ばらまきと回収の記述の周到さに思わず唸(うな)る。自転車の、あらゆるタイヤのパターンをホームズが熟知しており、現場に残された轍(わだち)から推理を進める科学的な捜査はフリーマンのソンダイク博士の科学的で実証的な捜査手法を読んで思い起こさせる。

「六つのナポレオン」はホームズ短編の中でも特に有名で、さすがに名作だと思う。ポオの「盗まれた手紙」(1844年)の系譜を引く、いわゆる「意外な隠し場所」プラス「奇妙な発端」の話である。「奇妙な発端」というのは、盗難や殺人の事件が最初に起きて探偵や警察が推理や捜査に乗り出すマンネリ・パターンを避けるための工夫で、最初に事件にすらならない「奇妙な」出来事がまず起こり、それを合理的に説明しタネ明かししていく展開のさせ方である。「六つのナポレオン」なら、ナポレオン像をわざわざ盗みに入った犯人が、なぜか路上で即座にせっかく盗んできたナポレオン像を粉々に割って壊しまくるという連続盗難事件の「奇妙さ」不可解さが読者の興味を惹(ひ)き付け牽引して、ぐんぐん先へと読ませる。

そういえば、エラリークィーンが短編集「クィーンの冒険」の「一ペニィ黒切手の冒険」(1934年)で、ドイルの「六つのナポレオン」のパロディの本歌取(ほんかどり)をやっていて、あの「一ペニィ黒切手の冒険」も本当に素晴らしくて見事だった。ついで言うと「美しき自転車乗り」も「赤髪組合」と同様なドイルによる「奇妙な発端」の典型だ。「美しき自転車乗り」ではホームズが別の難事件捜査で多忙なため、代わりに助手のワトソンが田園田舎に出張調査に出向くが、ロンドンに帰って来てのワトソンの報告内容と調査方法にホームズが遠慮なくダメ出ししてワトソン君が軽くヘコむのは読んでの笑い所である。

「金縁の鼻眼鏡」と「アベ農園」は、事件関係者の虚偽の証言をホームズが論理的・合理的に見破る話であり、先のホームズ酷評の井上良夫は、フェアプレイで話が作者の御都合主義でなく論理的破綻がない点で「金縁の鼻眼鏡」は好意的に評論している。

「犯人は二人」と「第二の汚点」はイギリス社交界の夫人の脅迫ゆすりのエピソードだ。イギリスは階級社会で社交の秘密、上流階級の夫人の不義や恋愛事件などの醜聞(スキャンダル)で大いに賑わう社会なので、ドイルのホームズ短編でもこの手の恐喝事件の話は多い。「犯人は二人」の「犯人」とは、実は恐喝犯の屋敷に忍び込んだホームズとワトソンであり(笑)、こういった変則で変わり種な単純推理ではない話もシリーズ連載に繰り込むあたり、「読者を存分に楽しませよう」とするドイルのサーヴィス精神の心意気を感じる。だから前述のように読者と出版社の求めに応じてドイルは不本意ながらシャーロック・ホームズを再開させてはいるが、手を抜いて惰性でホームズ短編を書いているわけでは決してないのである。