アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(7)「夜歩く」

横溝正史は生涯に少なくとも3度、自作品の自選ベスト企画に回答を寄せている。どの年度でも自薦の上位ベスト3に横溝が好んで常連で挙げているのは「本陣殺人事件」(1946年)と「獄門島」(1948年)と「悪魔の手毬唄」(1959年)である。そして。これら定番上位の次点に来るのが、いつも「蝶々殺人事件」(1947年)か「八つ墓村」(1951年)あたりだ。しかしながら、年度によっては「私のベスト10」に「三つ首塔」(1955年)と「女王蜂」(1952年)と「夜歩く」(1949年)が例外的にランクインする場合もあり、その際には「以上の三作は売り上げで選ぶとベスト10になるが、内容では躊躇(ちゅうちょ)してしまう」といった旨のコメントを横溝は付している。

なるほど、「夜歩く」は一読して「内容では躊躇してしまう」の横溝の自己評価通り、探偵小説としての出来はあまり良くないと正直、私も思う。しかし、そうした出来があまり良くないとは思われる「夜歩く」でも、作品に仕込まれた初読の読者を必ずや、あっと驚かせる大仕掛けトリックのインパクトが大きすぎて小説発表時には評判、売り上げともに上々な作品に結果的になったのではとも思う。

「夜歩く」は、横溝が「坂口安吾の『不連続殺人事件』を読んだ時、よし、この露悪的な書き方をこの作品以上にうまく使ってみようと思った」と後に述懐しているように、坂口安吾「不連続殺人事件」(1948年)の作風をわざと真似て執筆している。

坂口の「不連続殺人事件」というのは、戦中に疎開先の別荘で探偵小説を読んで仲間内で犯人当てゲームに熱中してた純文学の坂口安吾が、「絶対に犯人が当たらない探偵小説を、そのうち書いてみせる」と宣言して、戦後に執筆した坂口の探偵推理作品である。「不連続殺人事件」は「心理の足跡」という犯人の不自然な行動心理記述を安吾が作中に、さりげなく書き入れ、読む人が読めば、そこから犯人が分かる正々堂々としたフェアプレイの長編推理で、これに犯人当ての懸賞金を懸けて安吾が読者の挑戦を受ける形で連載にして雑誌発表する。しかも、その懸賞金は安吾の自腹である。「不連続殺人事件」の小説内での「俗悪千万な人間関係」といった非常に賑(にぎ)やかで醜悪な露悪的人間関係同様、読者に挑戦状を出す作者の坂口安吾も、「おそらく犯人を当てられる人はいないでしょう。誰も分からないでしょう」といった挑戦者の読者を散々、馬鹿にして挑発する露悪的口上を毎回出しながら、いざ解決篇を載せ話が完結して真犯人当ての完答的中者が数人出ると、途端に安吾が、しおらしく謙虚に謝罪して自腹の懸賞金を出し、連載中はあそこまで憎らしく散々に煽(あお)って読者を馬鹿にして不遜でヒール(悪役)だった坂口安吾なのに最後は途端に「いい人になってしまう」、そんな浪花節のプロレス・アングル的な探偵小説だ。

坂口安吾「不連続殺人事件」のあの作風雰囲気が好きな人は、同様に横溝正史「夜歩く」も間違いなく好きになると思う。私は、安吾の「不連続殺人事件」の露悪的書きぶりが好きではない。作品全体にある大変に賑やかでガチャガチャした落ち着きのなさが苦手なので、同様にガチャガチャして落ち着きのない書きぶりの横溝の「夜歩く」も正直、苦手で、あまり好みではないのだが、しかし本作にて使われている初読の読者を必ずや、あっと驚かせる大仕掛けの大トリックは看過できず、探偵小説家・横溝正史の生涯の全仕事の中で「夜歩く」は感得して無心に読むべき物がある。

さて、奇(く)しくもディクスン・カーのデビュー作と同タイトルな、横溝正史「夜歩く」の話の概要はこうだ。

「仙石直記と三文探偵小説家の私は同郷である。直記が愛している古神家の令嬢・八千代にまいこんだ『我、近く汝のもとに赴きて結婚せん』という奇妙な手紙と佝僂(せむし)の写真は、古神家にまつわる陰惨な殺人事件の発端であった。三日後に起きたキャバレー『花』での佝僂画家狙撃事件。そこから始まる首無し連続殺人事件の怪」

(以下、「夜歩く」の犯人と主要トリックに触れた「ネタばれ」です。横溝の「夜歩く」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

前述のように横溝正史「夜歩く」は、坂口安吾「不連続殺人事件」の露悪的な書き方を真似て、夢遊病の「夜歩く女」の奔放ヒロイン、二人の佝僂(せむし)、酒を飲んで日本刀を振り回す当家の酒乱の老家老、年増の色艶な妖怪美人らが次々に登場する。古神家を舞台にした露悪趣味で複雑な人間関係の非常にガチャガチャした落ち着きのない話なのだが、「1つの作品に1つのトリックだけでは物足りない。到底、読み手を満足させられないから複数のトリックを複合技で仕掛ける」横溝の毎度の鮮(あざ)やかな手口がキラリと光る。例えば「殺人犯行で使われそうな日本刀を、あらかじめ事前に関係者立ち会い確認のもと厳重に金庫に入れ事件前に保管していたのに事件後、金庫を開けたら血染めの日本刀が」云々の物的証拠保管にての時間ズレのトリックや、はたまた「八千代」(Yachiyo)と「屋代」(Yashiro)の似ていて混同錯覚しやすいアルファベット(ローマ字)表記の「不思議な相似」着想アイディアの妙など相変わらず横溝は自在に構想して上手いこと書きまくる。

何といってもメインの柱となるトリックの一つは「顔のない死体」である。首から上が切断されている、顔の毀損(きそん)が激しい、腐乱死体となり原形を留めていないなどによる身元判別が不可能な、いわゆる「顔のない死体」の場合、従来型探偵小説の公式結末通り、犯人と被害者の入れ替わりはあるのか否かが焦点になる。しかし、本作では横溝による「顔のない死体」の改良吟味の新発想、新たなパターンの創出がある。ここでは、その詳しい内容は述べないけれど。戦後に本格の探偵小説を再び書き出す横溝正史の、従来型の探偵推理の伝統を破ろうと果敢(かかん)に攻める新パターンのトリック創出の野心の執念の格闘がここにある。特に「顔のない死体」に関しては、まず「黒猫亭事件」(1947年)を読んで、次に「悪魔の手毬唄」を読み、そして最後に本作「夜歩く」の順番で読むとよいと思う。この順序にて「顔のない死体」トリックの横溝による改良の新パターン案出の度合いは次第にエスカレートし究極にまで極まって行くので。だから、最後の「夜歩く」にて出される「顔のない死体」トリックは、確かに今までにない新パターンの「顔のない死体」で新しいけれども、「もうここまでやり尽くすと、さすがに解体芸の究極で打ち止めで『顔のない死体』に関し、今後これ以上の物は出ないだろう」。明らかに「横溝やり過ぎ」な感が正直、私にはある。

要するに横溝正史は、今までに誰も書いたことのないトリック改良の新しいパターン編み出しの野心満載で、とにかく誰よりも一番に自分がやりたいから(笑)、以前にある「顔のない死体」トリックの各要素を一度分解しバラバラにして、それらの組み合わせパターンで未だやられていない新しい組み合わせを無理矢理に強引に見つけ出そうとする。そういった発想の具体的手順にて、「夜歩く」での「顔のない死体」の新パターンも案出されている。それは確かに今までにない新しいパターン創出で見るべきものがあるけれど、ただ未出の新発想組み合わせの新奇な改良トリックが、そのまま読んで味わいがあって面白いかどうか、探偵小説そのものの話の面白さに毎回、直結するとは限らない。「夜歩く」での「顔のない死体」トリックの新パターンも、いよいよ究極の所まで横溝がいじり倒し改良を施して確かに意表を突かれて新しいが、それが探偵推理の話として面白いかといえば、私には疑問が残る。「未出の新しいものが、そのまま無条件に面白いかどうか」の難点はあるだろう。

「夜歩く」にて、もう一つのメインの柱となる大仕掛けの大トリックは、こちらは「ネタばれ」になるが、叙述トリックである。叙述トリックとは、話の内容ではなく話の語りの記述そのものに錯覚があるトリックで、「事件を記述する語り手が実は犯人」という「信頼できない語り手」と呼ばれるものだ。

探偵小説における通常の語りは、三人称で公正で客観的な語り記述なため、多くの読者は、たとえ事件関係者の一人称な説明語りの記述でも警戒なく「公正で客観的」と思い込んでおり、そこであえてその裏をかいて「実は記述者の語り手が犯人で、これまでの記述は全く信頼できない叙述であった」というので、読者の驚きを最後に引き出す意外性が叙述トリックの面白さの醍醐味である。ただ叙述トリックの場合、「事件の記述者=犯人」であり、語り手は物語を記述して読者に接する際、自分が犯罪を実行した犯人であることを常に隠しているから、つまりは肝心な所で自身に都合の悪い所はあえて曖昧(あいまい)にボカしたり、わざと触れずに無視したりして恣意的操作を施し語って記述してしまう。そのため、この「信頼できない語り手」の「事件の記述者=犯人」の叙述トリックには、犯人にとって都合のよい一方的な語り記述のアンフェアの不満が時に読後に残る。それで昔から叙述トリックに関しては、例えば、それを大々的に使ったクリスティの「アクロイド殺し」(1926年)を介してフェア、アンフェア論争が起きたりしている。しかし他方で、叙述トリックは小説の書き手たる話の語り手が、そのまま犯人なので平面的な文字による小説記述なのに、叙述が立体的に飛び出して犯人が読み手に実際に語りかけ迫って来るような「飛び出す小説」な記述の感触が、非常に魅力的で優れていると思う。

そして横溝正史「夜歩く」の場合、あの叙述トリックには明らかな失策の致命的破綻がある。本作では、自称「三文探偵小説家の私」が事件の発生から顛末(てんまつ)まで探偵推理小説の形式に従って語り記述しているが、後半から金田一耕助が出てきて、「語り手の『私』が犯人であること」を見事に看破(かんぱ)する。それから「あの小説、なかなか面白いですよ。尻切れトンボはいけませんね。ぜひ、完結して見せて下さい。しかしこれからあとは小説ではなく、真実の記録をお願いしたいですね」という金田一の勧めに従って、犯人たる「信頼できない語り手」の「私」は、事件の真実の全貌をラストまで書き抜いて小説「夜歩く」を完結させる展開になっている。その際、今回の「夜歩く」の一連の事件に関し、その犯行動機は「自身は軍隊に取られて戦争に行くから、その間に自分の恋人の面倒をみてもらいたい。ただし、彼女にだけは絶対に手を出してくれるな」と、ある男(仙石直記)に頼む。だが、終戦で軍隊から戻ってみると約束は破られ、彼女は「征服」され破滅して精神を病んで廃人になっていた。「探偵小説家の私」は激しく復讐を決意する。それが「夜歩く」事件での犯人の犯行動機である。ここに至って、作中の「仙石直記」に復讐心を露(あらわ)にする「三文探偵小説家」の「私」が、「直記」の名前とは正反対の、まさに叙述トリックにおける「信頼できない語り手」、すなわち「素直な記述者(直記)」では決してないという作者・横溝による、あらかじめの人物氏名設定の伏線に読者は初めて気付くのだ。

ところで、小説の前半で彼の犯行動機となる精神をやられて発狂した恋人のことに触れて語る場面があるのだが、事件の犯人たる記述者の「私」は実際に以下のように書いて、「彼女のことは知らない」旨、明らかに虚偽の記述をしている。恋人の彼女のことを前より愛し知っているにもかかわらず。

「私は急にムラムラと妙な疑惑に胸をどきつかせた。直記の女なら、たいてい私は知っている筈である。直記はとっかえひっかえ女をこさえたが、長くても半年とつづくことは珍しかった。そんな際、いつも尻拭いをするのが私の役目だから、いやでもかれの女といえば、ことごとく知っているわけである。しかし、いままで直記の情婦で、気が狂った女があるなどということは、一度も聞いたことはなかった。…ひょっとすると、それは私が一年ほど軍隊生活をしているあいだに出来た女かも知れない」

叙述トリックの「信頼できない語り手」において、肝心な所で自身に都合の悪い所はあえて曖昧にボカしたり、わざと触れずに無視したりするのは「事件の記述者=犯人」による恣意的語りのアンフェアさとして時に非難されるが、まだ弁護の議論の余地があることも確かだ。しかし、探偵小説における地の文並びに叙述トリックの恣意的語りにて、事実に反する虚偽の記述があるのはフェア、アンフェア以前の重大過失で明らかに失敗の破綻で致命的である。

以上の点からして、いつもは筆が安定し、あからさまな破綻の失敗作が滅多にない横溝にあって、横溝正史「夜歩く」は叙述トリックの執筆過程にて躓(つまず)きの瑕瑾(かきん)ある割合に珍しい作品であると私は思う。そうした叙述トリック破綻の失敗が、冒頭で触れたような「売り上げで選ぶとベスト10になるが、内容では躊躇してしまう」という横溝自身による「夜歩く」への低い作品評価に実のところ、つながっているのかもしれない。