アメジローのつれづれ(最新)

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再読 横溝正史(10)「びっくり箱殺人事件」

横溝正史「びっくり箱殺人事件」(1948年)の概要は以下だ。

「箱の蓋(ふた)をはね上げ、バネ仕掛けの人形のように男が飛び出した。だが瞬間、まえのめりに倒れこむと激しく痙攣(けいれん)し始めた。男の胸には、箱の中に強いスプリングでとめられた鋭い短剣が突きささって…。スリラーふう軽演劇『パンドーラの匣(はこ)』の舞台で起った、恐怖の殺人事件!名推理で犯人を追いつめる等々力警部の活躍は?」

この作品は、金田一耕助と共に行動し捜査に当たる等々力警部が出て来て活躍する(金田一は本事件に登場しない)、金田一探偵譚の番外編(スピンオフ)のような話になっている。私は横溝作品に関しては、特集「再読・横溝正史」のタイトル名に反しないよう毎回、必ず文字どおり事前に横溝作品を「再読」してそれから書評を書くようにしているのだが、「びっくり箱殺人事件」に関しては以前もそうであったように読了するのに非常に苦労した。本作を読み終わるまでに相当に骨が折れた。「びっくり箱殺人事件」は、これまでの横溝正史の作風と明らかに趣向の読み味が異なり、正直に白状すれば私は本作が昔からあまり好きではないのである。

この小説は後に書き直してラジオドラマ用に脚本化され、江戸川乱歩、木々高太郎、大下宇陀児、高木彬光らが総出演する日本推理作家協会の忘年会余興の出し物としてやられたらしい。しかし、ラジオドラマ用の脚本の書き直しにわざわざしなくても、元から本作がドラマ脚本らしく非常に記述が薄く横溝の他作品と比べて恐ろしく読み応(ごた)えに欠ける。ラジオ劇のように多人数の登場人物の台詞回しのみで主に話をつないでおり、まさにラジオドラマ観劇幕間の設定解説のように時おり地の文が数行しばらく入って、それからまた登場人物たちの台詞のみのやり取りが長々と続く。下手な人が小説を書くと、登場人物の発言台詞ばかり先行して地の文の描写記述が極端に少なくなって、まるで脚本のような薄い「小説もどき」になってしまうことがよくある。そういうのは「脚本小説」と内心ひそかに呼んで出来るだけ読むのを避けるよう私は日頃から腐心しているのだけれと、本作はそうした薄い「脚本小説」の感じがする。

話の内容も「スリラーふう軽演劇『パンドーラの匣』の舞台」で起った作中劇の中での連続殺人事件でナンセンス、ユーモア、ドタバタの連発だ。だいいち登場人物の名前設定からして、葦原小群(よしわら・しょうぐん)、半紙晩鐘(はんし・ばんしょう)、灰屋銅堂(はいや・どうどう)など作者の横溝が率先して相当にふざけているため、軽演劇のパーティ余興の雑な味で正直、閉口する。例えば以下のような作中会話の掛け合いの下りがある。

「わしか。わしは深山幽霊谷じゃよ」「嘘をつけ!ちがうぞ、幽谷先生はそんな声じゃないぞ」…「いや、わしはたしかに幽谷じゃよ。実は入歯をとばしたんでな。灰屋君、すまんがその辺りに入歯が落ちておらんか探してくれたまえ」…「あっはっはっ、先生、その顔は…(ガリガリ)あっ、いけねぇ、先生の入歯をふんじゃった」

この場面、横溝はわざと狙って笑いを取りにいっているのだと思うが、「実は入歯をとばしたんで」変声したとか「…(ガリガリ)あっ、いけねぇ、先生の入歯をふんじゃった」とか、何だか「バナナの皮に滑ってコケた」と同程度の全く面白くない笑いで読んでいて私は少しもクスリともならず逆にだんだん深刻な真顔になっていく。

横溝正史「びっくり箱殺人事件」は、敗戦直後の時期に「獄門島」(1948年)と同時進行で執筆連載された作品で、「横溝は真面目な本格の探偵小説の傑作をもちろん書けるが、実はこういった肩の力を抜いてリラックスしたパーティ余興な通俗読み物の軽い面白ミステリーも同様に書ける。そうした作家の一面も持つ」という探偵小説家・横溝正史の懐(ふところ)の深さの多才さの誇示、横溝の作家評価にハクをつける作品といった印象を本作「びっくり箱殺人事件」を読むたびに私は拭(ぬぐ)えない。

ついで「びっくり箱殺人事件」は、作品全体に漂うナンセンス、ユーモア、ドタバタな雰囲気から「おバカなミステリー」、ないしは「バカバカしいミステリー」の通称「バカミス」の範疇(はんちゅう)に属する作品だと思えなくもない。