アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(12)「女が見ていた」

横溝正史「女が見ていた」(1949年)は一読、いつもの横溝とは違う雰囲気の作品になっている。敗戦後の都会を舞台にしたミステリーで、本作は「時事新報」の昭和二十四年五月五日号から十月十七日号まで連載された新聞小説である。

いつもの横溝らしからぬ作風になっているのは、本作が新聞連載の長編で横溝が普段より書き慣れていない脱稿形式であり、翌日分の続きを新聞読者に毎回期待させ継続して読ませるための小さなヤマの謎提示で盛り上げて終わらせる毎日の連載結語の余韻工夫や、発表が一般紙の新聞なため「エロ・グロ・ナンセンス」や猟奇なもの、特に横溝が好みの近親相姦の性的タブーの不道徳なものは絶対に避けねばならず、比較的常識的な推理ミステリーで勝負しなければならない内容制約が、あらかじめ作者に働いたからだと思われる。探偵小説の新聞連載というのは様々な条件があり、書き手にとってなかなか難しい。

しかしながら本作を創作時の横溝正史は、どこまでも前向きである。「女が見ていた」の新連載にあたり、「新聞小説の構想」を談話する横溝によると、

「人にはそれぞれの素質があることだから、いまさら自分の作風を変えるというわけにもいくまいが、しかし、自分でもときどき、もっと平常な雰囲気の中に、謎をえがいて見たいと思うことがある。われわれの身辺にザラに見られるような人物と、日常生活の中に終始起こっているような事件、つまり同じ殺人でも、新聞の社会面にしょっちゅう現れているような事件をつかまえて来て、その中に大きな謎を空想してみたいと思うことがある」

都会の日常身辺の謎のミステリー、今回は社会派で行く。人にはそれぞれの素質があり、いまさら自分の作風を変えるわけにはいかないけれど、普段の自身の作風とは全く異なるものをあえて書く。ここに後々まで長く書き続けるベテランで息の長い探偵小説家の強靭な足腰、創作への尽きない意欲の持続力を読み取ろうとするのは、横溝ファンの贔屓目(ひいきめ)過ぎる見方だろうか。

横溝正史「女が見ていた」のあらすじは次のようになる。

「酔い痴れて夜の歓楽街をさまよい歩く啓介は、絶えず誰かの視線を感じていた。女だった。それも三人が入れ替わりながら彼のあとを執拗につけてくる。朦朧(もうろう)とする頭の中で、彼はそのことだけをはっきりと意識していた。外出中に妻を殺害され、しかも現場には啓介がいつも持ち歩いていたはずの愛用のシガレット・ケースが!妻殺しの重要容疑者にされ愕然(がくぜん)となった作家の風間啓介。自分のアリバイを証明する謎の三人の女を必死に探索する。だが、その中の一人をやっと見つけた時、彼女は…」

読後にしみじみと感じるのは、本作は「ミスディレクション文学の秀作」という感慨だ。横溝正史は最初から犯人を決めて書いている。その上で真犯人の結末想定がありながら、全く別の複数の容疑者に「この人物は明らかに怪しい、言動から何から何まで全てが見るからに不審すぎる」と読み手の疑惑を一身に彼らに引き付け、さんざん煽(あお)ってミスディレクション(誤読)で読者を強く誘導しておいて、連載中途の作中にて有力な真犯人と思われていた彼らを次々とあっさり、いきなり殺して読み手の推理予測のはしごを外す。当時、リアルタイムで新聞初出の連載を毎日読んでいた読者は、有力容疑者の彼らが中途で次々に殺害され真犯人候補から突如消える急展開に、この推理ミステリーの新聞紙面の当日ニュースに案外、驚いたのではと思われる。目まぐるしく転回する横溝によるミスディレクション(誤誘導)の手際(てぎわ)が、とりあえず素晴らしい。

その他、敗戦後の都会の雑踏を舞台にしたミステリーで「リンタク、サマータイム、パンパン」の戦後の都市風俗の言葉もあるし、衆人(衆視)恐怖症のトピックも盛り込んで、江戸川乱歩が言うところの「群衆の中のロビンソン・クルーソー」的趣向もあり、かつ横溝定番の私立探偵の金田一耕助も出てこないため、いつもの横溝とは違った作風になっている。最後に真相を明かす真犯人の告白がカタカナ表記の供述書風で、これは後に社会派推理の松本清張が定番で好んでよく使う小説結末の終わらせ方記述と同じであり、図(はか)らずも本作「女が見ていた」は「横溝正史による社会派ミステリー」といった感じに仕上がっている。肝心の話のオチはタイトル「女が見ていた」の逆を突く、「女が見ていた」のを彼女の背後でさらに「男が見ていた」というアイディアに尽きる。