アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(4)「蜘蛛男」

人間は「無知であるがゆえに幸福」ということがある。江戸川乱歩の「蜘蛛男」(1930年)を私は10代の時に初めて読んだが、初読時その結末に驚いた。今でも探偵小説全般に無知だが、当時はさらに探偵小説のことをほとんど知らなかったので「まさか!こんな展開になるとは」と非常に驚いた。

(以下、犯人の正体まで詳しく触れた「ネタばれ」です。乱歩の「蜘蛛男」を未読の方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

内容は、義足の探偵・畔柳(くろやなぎ)博士と犯人「蜘蛛男」の対決である。畔柳博士が「蜘蛛男」の挑戦の犯罪を受けて立つわけだが、この「蜘蛛男」がなかなか手ごわい。博士が追跡して追い詰めても、すぐに逃げて煙のように蒸発してしまう。誘拐予告を受けて美女を病室に隔離し厳重に見張っていても、あっという間に「蜘蛛男」にさらわれてベッドにはマネキンが残るのみ。畔柳博士と波越警部が捜査の相談をしていれば、警部の帽子の中にいつの間にか「蜘蛛男」からの挑戦状が入っている。探偵の畔柳博士、警察ともに「蜘蛛男」にことごとく裏をかかれ完全にもて遊ばれる。

読んでいて非常に不思議なわけだ、「蜘蛛男」の神出鬼没な万能ぶりが。しかし、話の後半で洋行帰りの日焼けした探偵・明智小五郎が登場する場面まできて何となく分かってきた。つまり、探偵役の畔柳博士が「蜘蛛男」だった(笑)。確かに探偵が犯人なら常に現場にいるわけだから一人二役の自作自演、マッチポンプであらゆる犯行が可能だ。

当時はそうした大仕掛けなトリックを知らないので、「探偵は犯人を捕まえる人」の先入観があるため「探偵が犯人」の裏技を使われても。それでこの「探偵が、すなわち犯人」というトリックがわかった後でも面白いので「蜘蛛男」を読み返すのだが、最初に「探偵が犯人ということは絶対にあり得ない」という先入観を読み手に植えつけて、ミスディレクション(誤誘導)で読者の誤読を誘う乱歩の手際がなかなかである。

畔柳博士は話の前半で何気ない新聞の短い求人広告から異常を読み取り、犯罪の匂いを鋭(するど)く嗅(か)ぎつける。この新聞広告から事件を嗅ぎ付けるやり方がドイルのシャーロック・ホームズと同じだ。しかも畔柳博士の最初の登場での紹介場面の記述はこうである。

「畔柳博士は日本のシャーロック・ホームズとも云うべき、民間の犯罪学者で兼ねて素人探偵でもあったのだが、ホームズのように何でも引き受けるという半営業的な探偵ではなく、…だが一度引き受けた事件は、必ず解決して見せる所や、博士の人となりが、一種の奇人であった所は、小説のホームズそっくりと云ってもよかった」

もう直接的に「畔柳博士は日本のシャーロック・ホームズ」と書いている。本家ドイルのホームズ・シリーズにて「実は探偵のホームズがワトソンを裏切って事件の犯人だった」など絶対に100パーセント、天地がひっくり返ってもあり得ない(笑)。物語前半の乱歩の周到な書きぶりによって、「畔柳博士は日本のホームズと呼ばれるほどの名探偵。つまりは畔柳博士が犯人では絶対にありえない」と強く印象づけられ、読み手の誤読を誘うミスディレクション(誤誘導)の巧妙な仕掛けになっているのだ。乱歩は実に上手いと思う。

しかし、その一方でヴァン・ダインの「探偵小説二十則」に「探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない」というのがある。畔柳博士は過去に「一度引き受けた事件は必ず解決して見せる」とあるのに、なぜ今回の「蜘蛛男」の事件にだけ限って「急変」で、これは「探偵自身が突然犯人に急変してはいけない」原則に引っ掛かるのでは、と今にして思えばフェアでない気がする。あと話全体に乱歩の、いわゆる「活人形趣味」(生きた美女をマネキンに見立てて活人形のマネキンで蜘蛛男がパノラマ館を作ろうとする)があるが、私は「エロ・グロ・ナンセンス」が好きではないので、そちらの趣向にはあまり反応しなかった。