アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(8)「湖畔亭事件」

江戸川乱歩「湖畔亭事件」(1926年)の概要は、およそ次の通りだ。

「湖畔の宿で無聊(ぶりょう)にかこつ私は、浴室に覗き眼鏡を仕掛け陰鬱(いんうつ)な楽しみに耽っていた。或る日レンズ越しに目撃したのは、ギラリと光る短刀、甲に黒筋のある手、背中から赤いものを流してくずれおれる女。夢か現(うつつ)か。たまりかねて同宿の画家にうちあけるが…。警察も匙(さじ)を投げた世にも不思議な『湖畔の怪事件』。五年間の沈黙を破って、湖水の底に葬られた真相を吐露する手記」

江戸川乱歩という人は事前の綿密な構想なく、見切り発車の行き当たりばったりで長編連載を適当に書き継ぐため、執筆される小説はだいたいいい加減なのに(笑)、「年譜」の自身の生涯の記録整理や「自註自解」の過去作品の回想解説は案外、細かく丁寧に律儀(りちぎ)にやっており、後に江戸川乱歩研究をやったり乱歩作品を読む読者にとって参考になり、大変ありがたく非常に重宝する。以下は、そうした乱歩による「湖畔亭事件」についての「自註自解」である。

「大正十五年一月から三月まで『サンデー毎日』に連載したもの。中途で筋に行きつまり、たびたび休載して、当時の編集長・渡辺均さんに大へん迷惑をかけたが、同時に書いていた『苦楽』の『闇に蠢く』は、とうとう中絶してしまった(あとで本にするときに結末をつけた)のに比べて、これはともかくも完結した。しかし、予定よりずっと早く打ち切ったのである。これも『一寸法師』同様、非常に恥ずかしく思っていたのだが、案外評判は悪くなかったようである」

さらに以下は、創元推理文庫「湖畔亭事件」(1995年)に所収の橋本直樹による巻末解説にての「湖畔亭事件」評である。乱歩のことを、わざわざ「乱歩さん」と「さん」付け敬称の表記にしている所に親しみと好感が持てる。

「特に後期の通俗長編執筆時は、同時に何本もの連載を掛け持ちで行なっていた乱歩さんにとっては、さしたる全体のビジョンもなく、出だしのイメージだけで見きり発車的に取り掛かった作品も少なくはなかった。というよりそれがほとんどだったようだ。だからこそ、乱歩さんの連載通俗長編は、常に先のストーリー展開が予想がつかないという危うさと刺激に満ち溢れ、異様な輝きを放っていたといえる。しかし、時にはその危うさが災いして、結果として昭和八年の『悪霊』のように失速して二度と浮かび上がってはこられなかったものすらあるのだけれど」

「この作品(註─「湖畔亭事件」)は、連載にあたり苦慮していた乱歩さんに、夫人がそのプロットなど多大なる助言をした作品としても知られている。連載が終盤を迎え、事件の真相がいざ明らかとなる段になって、乱歩さんは連載を何度か休んでおり、事前に真相の準備がなかったことが窺(うかが)われるが、たたみかけるような解決もテンポよく、持ち味である覗きという異常心理と謎解きが見事に融合した快作である」

なるほど、浴室での覗き眼鏡ごしに短刀による女性刺殺の目撃という事件発覚の「意外な発端」、浴室にべっとり残された血痕(けっこん)、人間一人くらいは入る大きなトランクをもった怪しげな「湖畔亭」宿泊客、犯人の手の甲にある黒い傷痕、宿屋の主人の盗まれた財布、贋作紙幣(がんさくしへい)、注射器によって恋人の血を取って自分の血にまぜ合わせる趣向、死体消失(焼失?)の方法、トランクの獣皮を焼く匂いが人間の焼ける火葬場の匂いなどなど。事前に何ら深く考えることなく、自在に書き散らした数多くの「伏線らしきもの」を連載執筆の同時進行でボロが出ないよう場当たり的にギリギリの綱渡りで何とかまとめ、全ての辻褄(つじつま)を合わせなければならないラストの結末のリミットまでに伏線回収で、それらを拾いに拾いまくって致命的破綻なく奇跡的に書き抜いて見事、話が完結している。まさに「湖畔亭事件」は乱歩によるミラクル、江戸川乱歩、奇跡の作品だ(笑)。

加えて「つまりこの事件には犯罪というほどのものは一つもなく、××のヒステリーと僕の気まぐれから出発して、幾つもの偶然が重なり合い、非常に血なまぐさい大犯罪らしいものができあがってしまったのです」の本作中にての手記での語り(「ネタばれ」を避けるため、一部あえて伏せ字にして引用しています)。手記の語り手たる私が述べる「湖畔亭事件の表面上の物語」の結末と、さらに最後に続けられる後々の打ち明け話。一筋縄では行かない、なかなかスッキリと常識的には話を終わらせない二重底カラクリの重層な思わせ振りな語りである。

何よりも探偵に相当する登場人物が主人公の私と同じく「湖畔亭」に投宿し、「実に偶然に」事件に遭遇して私と一緒に素人探偵捜査に乗り出す画家の男「河野」なる人物のみで、なぜ名探偵の明智小五郎が出てこないのか、私は「湖畔亭事件」を初読の際、終盤まで読み進めていっても探偵の明智君がいっこうに登場する気配がないし、同宿の「探偵もどき」をやる画家の河野が「実は自分は探偵の明智小五郎で」と自ら打ち明け正体をばらす様子もないので、「非常に不思議だ」と警戒しなが読み進めていた。結局のところ、「湖畔亭事件」では最初から最後まで探偵の明智小五郎は出てこない。それが、この小説の構成柱の大きなポイントかと。

最後に一つだけ、「湖畔亭事件」ラストにおける「重大な疑義」を。「三造の死は本当に事故死なの!?もしかしたら××が…」。とりあえず、この探偵小説の題名は、あくまで「湖畔亭事件」であって、決して「湖畔亭殺人事件」ではないのである。そういった何だか微妙にボカした思わせ振りなタイトルも読後には非常に味わい深く、この作品の魅力の一つになっている。