アメジローのつれづれ(集成)

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江戸川乱歩 礼賛(15)「暗黒星」

江戸川乱歩「暗黒星」(1939年)は戦前乱歩の明智探偵シリーズ、通俗長編の最後の方のものだ。話の概要は奇人資産家・伊志田鉄造の一家を襲う血の惨劇の物語であり、神出鬼没で万能な犯人に一家は、ことごとく裏をかかれて伊志田屋敷の洋館にて一人また一人と殺人の犠牲者は増えていく。遂には犯人を追う明智小五郎までが凶弾に倒れてしまう。事件の裏に秘められた一家の真実とは、といった内容である。

本作タイトル「暗黒星」は、犯人の正体に関する劇中での以下のような明智のセリフに由来している。

「どこかの天文学者が、暗黒星という天体を想像したことがある。星というものは必ず自分で発光するか、他の天体の光を反射するかして、明かるく光っているものだが、暗黒星というのは、まったく光のない星なんだ。…僕は今度の事件を考えていて、ふとその暗黒星の話を思い出した。今度の犯人は、つい眼の前にいるようで、正体が掴(つか)めない。まったく光を持たない星、いわば邪悪の星だね。だから、僕は心のうちで、この事件の犯人を、暗黒星と名づけていたのだよ」

本作は「暗黒星」たる犯人探しの「真犯人の意外性」に特化した通俗長編の探偵推理であり、確かに一読後、犯人の正体は「意外」ではある。しかし初読にて結末を知らなくても、ある程度の探偵小説の心得がある人なら読み始めて中途ですぐに犯人は分かると思う。中途で真犯人が分かってしまい、一度は犯人の凶弾に倒れ屈したものの、後に治療退院日の虚偽申告をし、相手を油断させて罠に誘い込む作中の名探偵・明智小五郎と同様、おそらくは読者も割合、早い段階で連続殺人事件の真犯人は分かってしまうのである。

というのも乱歩が本作にて、結末に読み手を驚かせようとする「犯人の意外性」に懸命になりすぎて筆を走らせるため、その過剰な「犯人の意外性」趣向から逆にすぐに犯人が分かってしまう(笑)。この辺り、探偵小説にての難しい匙(さじ)加減だ。あたかも探偵推理の古典、ポオ「盗まれた手紙」(1844年)での「相手に見つからないように懸命に隠すと逆に、すぐに見つけられてしまう。一番見つからない方法は、あえて過剰に隠さず、むしろ大胆に眼前に晒(さら)しておくことだ。隠さないことが最良の隠し方」といった隠したいものを故意に隠さないことで相手心理の盲点をつく「盲点心理」の教訓話を思い起こさせる。だから「暗黒星」において乱歩も、一生懸命に目立って「犯人の意外性」を狙い過ぎて逆に結果「犯人が意外ではなくなる」失策の墓穴なのでは、という気はする。

ただそうした犯人探しの意外性に特化した推理長編であったが、結果的に犯人は何ら「意外」でなく読者にすぐに気づかれてしまう難点はありつつも、他方で江戸川乱歩による如何にもな殺人演出、派手な舞台装置やショッキングな小道具の様々な工夫により、「暗黒星」が読んで十分に楽しめる通俗長編の娯楽作になっていることも確かだ。十六ミリ映画の試写のフィルムが突然燃え始め、大写しになった人物顔面の右の眼に黒い点が発生したかと思うと、たちまち眼全体に虚(うつ)ろな大きな穴があく、人物絵画の肖像の右の眼から真っ赤な血のような液体がタラタラと突如として流れ出すなど、手の込んだ映画的手法の視角トリックで伊志田家の人々を恐怖のどん底に陥れる犯人によるショッキングな小道具演出がある。「地底の磔刑(はりつけ)」の上に、さらに水攻めにして苦しめながらジワジワと殺す派手な舞台装置の犯人による残虐な殺人演出もある。

江戸川乱歩、いい年をした社会人の大人なのに、なかなか反社会的で非人道的なことを考える(笑)。結語にて乱歩自身が書いているように、これはまさに犯人の「邪念の結晶」のなせる技(わざ)なのか。背徳でインモラルな江戸川乱歩である。江戸川乱歩は、やはり私達を裏切らない。乱歩作品には読んで読者の期待に応える何かしらの面白い趣向が毎回ある。