アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

太宰治を読む(4)「畜犬談」

太宰治「畜犬談」(1939年)は基本、滑稽路線でおもしろい。しかし最後は「芸術の目的」をぽろっと白状して話を締める、よい小説だ。主人公(たぶん太宰)は犬嫌いである。先日、通りすがりの犬にガブッと咬まれた友人の災難を紹介した後、次のように「犬への憎悪」を披露する。

「もしこれが私だったら、その犬、生かして置かないだろう。私は、人の三倍も四倍も復讐心の強い男なのであるから、また、そうなると人の五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、たちどころにその犬の頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛(か)んで、べつと吐き捨て、それでも足りずに近所近所の飼い犬ことごとくを毒殺してしまうであろう」

これは面白い(笑)。後半の「頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕」「眼玉をくり抜き」「ぐしゃぐしゃに噛んで、べつと吐き捨て」挙句の果てに「近所の飼い犬ことごとくを毒殺してしまうであろう」のあたり、太宰は完全に調子に乗っておもしろがって書いている。

ところで、この小説の題名は「畜犬談」だが、なぜ犬が「畜生」なのかというと、

「私は、犬をきらいなのである。早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛(あゆ)追従てんとして恥じず、ぶたれても、きやんと言い尻尾まいて閉口して見せて家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とは、よくも言った。…思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである」

「たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い」云々で、この人、犬に対して人間倫理の面から真面目に説教たれて怒ってるよ(笑)。しかし、犬を「畜生」となじった後に「なんだか自分に似ているところさえあるような気がして」と自身のことを顧みる点に単に言いっぱなしではない、著者である太宰治の謙虚さが垣間見えて好感が持てる。

さて、主人公は「犬は不潔だ。犬はいやだ」といいながら散歩の途中、後からついてくる野良犬を飼うはめになる。しばらく何事もなく平穏無事に共に暮らしていたのだが、ある日、その犬が重い皮膚病にかかってしまう。そこで奥さんに「気持ち悪いから捨ててきて下さい」といわれ、犬を連れて遠方で薬を飲ませて捨てようとするのだが、道すがら犬と同伴して因縁のライバル犬との最後の決闘を見届けたりしているうちに、その犬に情が移ってしまい結局、捨てられず家にまた連れて帰ってくる。そして最後に奥さんにこう言う。

「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪は無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ。…弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが忘れているんだ」

最後のこのセリフ、単に犬を捨てられず連れて帰って来て奥さんに咎(とが)められないための、その場しのぎの言い訳口実のようにも思えるが、案外本音というか、真実がぽろっと出た感じがする。「芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ。…弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ」。私もそう思う。芸術の中でも特に「文学は弱い者の味方で弱者の友」だと私は思う。