アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

太宰治を読む(5)「トカトントン」(中島敦「悟浄出世」)

特集「太宰治を読む」だが、今回は趣向を変えて中島敦「悟浄出世」(1942年)について。そして最後に少しだけ、本当に少しだけ太宰治「トカトントン」(1947年)のことなど。

中島敦は、かなりよい作家だと思う。この人は病気で三十代で若くして亡くなったため寡作であるが(ちくま文庫の「中島敦全集」は書簡や日記まで全て収録しても全三巻だ)、一つ一つの作品の密度が濃い。無駄に書き散らしてる感じがしない。丁寧で良質な仕事ぶりが一貫して感じられる。なかでも「わが西遊記」(1942年)として、まとめられた短編二編「悟浄出世」と「悟浄嘆異」は私は特に好みだ。

「悟浄出世」の主人公の悟浄は常に独りで考え込み、ウジウジ悩む性格である。「彼は自己に不安を感じ、身を切り刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻される其の哀しい自己苛責が、つい独り言となって洩れる」。それで「一体、魂とは何だ?斯うした疑問を彼が洩らすと、妖怪共は『又、始まった』といって笑うのである。あるものは嘲弄するように、あるものは憐愍の面持ちを以て『病気なんだよ。悪い病気の所為なんだよ』と言うた」。

悟浄は「我は何者か」「魂とは何か」「世界とは、人生とは一体何であるか」日々悩んで悩んで苦しんで自己不安に襲われ、周りの妖怪仲間から馬鹿にされながらも、その答えを求めて求道の旅に出る。しかし、各地で先人の妖怪らに教えを乞うも一向に心の霧は晴れないし、不安は拭い去られない。なかには明らかにペテンの教えを悟浄に滔々(とうとう)と説教する怪しい、自称「悟りを開いた」妖怪にも面し悟浄自身は大変に失望する。

そんな求道の旅の中途で「悟浄の肉体は最早疲れ切っていた」。ある日、悟浄が疲労から道端にぶっ倒れうずくまっていると、どこからともなく声が聞こえる。「悟浄よ。先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め、身の程知らぬ『何故』は、向後一切打ち捨てることじゃ。…悟浄よ、爾(なんじ)も玄奘に従うて西方に赴け。これ爾にふさわしき位置(ところ)にして、又、爾にふさわしき勤めじゃ。途は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空なるものがある。無知無識にして、唯、信じて疑わざるものじゃ。爾は特に此の者について学ぶ所が多かろうぞ」。

かくして悟浄は不思議な天の声に従って、玄奘の三蔵法師のお供をして悟空や八戒らと旅に出る。旅を続け、常に天真爛漫(てんしんらんまん)、考え悩む以前にまず行動の明朗活闥(めいろうかったつ)な悟空を見ているうち、「どうもへんだな。どうも腑(ふ)に落ちない。分からないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか?…とにかく以前程、苦にならなくなったのだけは、有難いが…」。つまりは以前のようにあれこれ悩み、自身や世界に疑いを持ち、独り勝手に不安になる悪い癖が消えた。これ、すなわち沙悟浄の開眼にして出世たる「悟浄出世」。

たまにいる、「自分とは何か。人生とは何か。私が存在してる意味は。人は何のために生きてるのか」など、やたらに考え、時に周りの人にまでそうした質問をしてくる、うっとうしい人が。「人は何のために生きてるのか」「人間が生きる意味とは何か」など、そんなの言葉で簡単に説明できるわけないだろう(怒)。だがウジウジ陰気に考える、作中の悟浄のように。それで作者の中島敦の答えは、「先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め、身の程知らぬ『何故』は、向後一切打ち捨てること」。

結局、一生懸命に生きていないのである。そうした身の程知らずの「何故」が次から次へと噴出して日々不安に苛(さいな)まれ悩んでしまうというのは。まずは毎日を精一杯生きてみろ、そうしたら「自分とは一体何者か」「人が生きる意味とは何か」などは気にならなくなり考えなくなり、自身に信頼感が生まれ明朗活闥になって、すると不思議なことに「自分が生きる意味」を言葉でなく身に染みて感じ体得できるようになる。それこそ「悟浄出世」の中の天真爛漫、明朗快活な孫悟空のように。

泳ぎを覚えたいなら正しいフォームや効果的な息継ぎのやり方の方法理論以前に、とにかくまず水の中に飛び込め。苦しくて沈まないよう、もがいてる内に泳げるようになるよ。仕事でも勉強でもスポーツでも何でも「最初から失敗しないように上手くやろう」「工夫して最小限の努力で最大限の成果を上げるようにしよう」など事前にズル賢く考えずに、まずは素直な気持ちで無心にやってみることではないか。「よく、疑わずして、ただ努めよ」。そんな作者の思いが読む人に伝わるよい作品だ、中島敦「悟浄出世」は。

中島の「悟浄出世」を読むと、いつも私は太宰治「トカトントン」を思い出す。これも仕事や恋愛や政治運動など何かに熱意を持って本腰入れてやろうとすると、どこからともなく金づちで釘を打つ「トカトントン」という音の幻聴が聞こえて来て、たちまち気持ちが萎(な)えて無気力になる、何にもやりたくなくなる、どうしたらよいのでしょうか、という悩み相談の告白手紙の小説である。「行動する前から事前に勝手に悩んで憂鬱(ゆううつ)になって不安に苛まれる」。この悩み告白に対し、太宰は小説の最後で次のように答えている。

「拝復、気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡知よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、『身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを慴(おそ)るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅(ほろぼ)し得る者をおそれよ。』この場合の『慴る』は、『畏敬』の意に近いようです。このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽」

「全く気取った苦悩だ。自身の醜態を避けず、畏れず、事前に余計な叡知を以て考え込まず、まずは勇気を持って無心に打ち込め、とにかく行動してみろ」と太宰治も奇(く)しくも中島敦と同様、言っている。