アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

モッズな生活(2)「さらば青春の光」

「モッズ」とは、1950年代後半から60年代のイギリスの労働者階級の若者の生活形態、ライフスタイル全般をさす。

代々家庭は労働者階級であり、就業仕事は誰にでも出来る単純作業のルーティン・ワークで所得は低いし、学歴もあまり高くない。心情的には王室と貴族を嫌悪か興味なし。興味はあっても、そこらのタブロイド紙の王室ゴシップ記事を読むくらい。英国サッカーは好きで時にフーリガンも兼ねる。

そして夜や週末はバーやクラブに行って遊びまくる。クスリでキメたりもする。移動手段はイタリア製のスクーター「ランブレッタ」(Lambretta)や「ベスパ」(Vespa)だ。服装は細身の三つボタンスーツでキメる。バイクに乗るとき、排気ガスで自慢のモッズスーツが汚れるの嫌なので軍物の払下げのミリタリーパーカー、いわゆる「モッズコート」をスーツの上に着ている。夏はだいたいポロシャツである。ワイシャツとなるとアイロンをかけたり、クリーニング出さないといけないので手間と金かかるから労働階級の服はポロシャツだ。特にポロシャツは「フレッド・ペリー」(Fred・Perry)のものなら、なお良し。髪型は長髪を嫌ってショートにしている。このモッズに「ドクター・マーチン」(Dr・Martens)のブーツを履かせ頭を丸坊主にして英国愛国主義の移民への排他主義、極右の思想を持たせたら、たぶんスキンズになると思う。

(以下、映画「さらば青春の光」のあらすじとラストに触れた「ネタばれ」です。未鑑賞の方は、これから本作を観る楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

映画「さらば青春の光」は、モッズ青年の青春の破綻の終わりまでを描いた作品だ。主人公のジミーはモッズな青年で、昼間は広告代理店にて冴(さ)えないメッセンジャー・ボーイ(書類など他の部署に配達する何でも屋で雑用係のトホホな仕事)をやっている。ジミーの仲間たちも車の修理工とかスーパーのレジ打ちなど比較的・長時間で低所得な仕事に従事である。だが、仕事が終われば夜はカスタムしたランブレッタに乗り、モッズスーツを着てクラブで踊りまくり、クスリをキメまくりで楽しむ。

モッズに対立するグループとして「ロッカーズ」というのがいる。ロッカーズは、エンジンむき出しのゴツいバイクに乗る黒の革ジャンのいけすかない奴らだ。よくモッズにチョッカイを出してジミーの仲間も散々やられている。

そんなある日、「今度の週末にブライトン・ビーチ(英国の避暑地)でイベントがあるのでモッズのみんなで行こう!」ということになって、前日に現地で楽しむためのクスリも苦労して調達しブライトンに行く。そしてブライトンでまたまたロッカーズと対立抗争したり、警察が検挙しにきて逃げまくったりする。そこで主人公のジミーは、このブライトン行きを境(さかい)に自身が写った暴動の写真が新聞の一面に載るわ、逮捕されて裁判で罰金刑をくらうわ、友達に恋人を取られるわ、勢いで上司に暴言を吐いて仕事をクビになるわ、父親とケンカして家を追い出されるわ、愛車のカスタムしたランブレッタも郵便配達車と激突し(モッズなジミーとは正反対の15年間無事故の堅実な公務員の運転する車だ!)、事故ってオシャカになるわで、すべてがことごく裏目になる。

さらには憧れてたモッズの「エース」(エース・フェイスの名で、彼は文字通りモッズの「エース」の「顔」役、まさにモッズ仲間から憧れられ一目おかれるモッズであった)、スティング(Sting)が昼間はホテルの「ベルボーイ」の仕事をやって従順に働いているところを目撃してしまう。もう憧れのモッズへの幻想は崩壊である。それで最後、もう一度ブライトンに行ってエースの盗んだバイクを崖から海に突き落として、「さらば青春の光」という結末だ。

この映画は、よくよく考えたら1979年公開なので「ネオ・モッズ」か「モッズ・リバイバル」の時代のものだ。音楽評論家のピーター・バラカン(Peter・Barakan )とか本気で怒るのである。「あんなコテコテなデコレーションしたランブレッタに乗っているのはモッズじゃない。単なる流行ファッションの映画。本当のモッズは、もっとシンプルで、まさに『モダン』でゆえにモッズで、さりげない生活センスのよさがあり、当時マイナーな黒人音楽とかスカをあえてハズして聴くのが信条」のような(笑)。

確かに、この映画を観ていると「まずモッズ・スーツやスクーターなどのファッションありき」で、どうも見た目から入っているような気がする。ジミーがモッズ・スーツオーダーするとき、「もっと細くして!」とか言っているし、ジミーのランブレッタも相当カスタムで派手にデコレーションされている。

しかし逆にいうと、映画「さらば青春の光」は「モッズな若者のファッションや風俗を漏(も)らさず劇中本編に必ず盛り込む」という映画の作り手の気迫の意地のようなものを私は感じるな。コテコテのデコレーションしたランブレッタ、しかもすぐに故障しやすい、いかにも燃費が悪そうな当時のランブレッタ(笑)。オーダーの細身のモッズ・スーツやフレッド・ペリーのポロシャツの上に払下げの軍物のモッズコートを合わせるファッション・スタイル。「リーバイス」(Levis)のジーンズを濡らしてピッタリ履く方法。理髪店でカットしてスプレーなしで髪型キメる。グリースをコテコテに塗るとダサいロッカーズになるから。テレビ音楽番組の「レディ・ステディー・ゴー」。個室の視聴ブース完備な街のレコード店。軍隊の徴兵から除隊で解放され、余暇の時間ができた若者たち。両親が夜出かけてる隙(すき)に家に友達を呼び、レコードを大音量で流してドラッグをキメる男女のホームパーティ。イギリス人が大好きな地下賭博の闇ボクシングなどなど、すべて劇中に出てくる。

主人公のジミーもガキというか、精神的に幼い子どもなので、最後の「青春の終わり」は自業自得なところがある。モッズのエース役でスティングが出てくるが、スティングの方がカッコよい。結局、イギリス本国の本家のモッズは単なる表層のモードなファッションでは決してなくて、下層の労働者階級(ワーキング・クラス)の本質的な若者文化なわけで、いわゆる「ベルボーイ」で堅実にホテルで働いているエースの方が、いかにもモッズらしい。労働者ならではの洗練されたモッズの誇りがあるような気がする。

昼間は低賃金で長時間労働のベルボーイで働くけれど、夜や週末は「貧しい労働者階級だが、モダンに最高に楽しんでやろう!人生の日々、毎日の生活をお洒落にスマートにキメてやろう!」という前向きなモッズの精神の実践である。しかも下層のワーキングクラスだから、安易に保守の権力になびかない。エースはブライトンで逮捕・拘束されても、裁判で悪態つきながら小切手を切って自分の稼いだ金で自由を堂々と取り戻す。

さて、映画のラストでジミーがブライトンの崖からスクーターを落として大破させ、彼もスクーターともども崖から海にダイブして死んでしまったのか、果たしてその後、ジミーはどうなったかというと。この点については、「コレクターズ」(Collectors)の加藤ひさしによる有名な「さらば青春の光」その後の解釈がある。

「オープニング・シーンって、ジミーが夕陽をバックに海辺のところをとぼとぼ歩いてくるじゃないですか。そこにつながっている。ファースト・シーンがラスト・シーンだと思うんですよ。みんなジミーは死んじゃったと思ってるけど。あれはスクーターを落としてから、夕方までジミーは青春の終わりをじっくりと味わうんですよ、あの崖の上で。ジミーは青春のシンボルを破壊して、もうモッズをやめて大人にならなくちゃいけない。それまでの半日がラスト・シーンとオープニングの間にあるんですよ」

加藤ひさしと同様、私もジミーは「ベルボーイ、ベルボーイ」とつぶやきながら放心状態で一晩をブライトンの海岸で過ごした後、そのまま家に帰って父親に謝罪して、これまでのことを全て許してもらう。そして「もうモッズをやめて大人にならなくちゃいけない」、ぶっ壊れた愛車のランブレッタを修理せず買い直さずに手放して、今までのモッズな仲間とつるまず、悪友らとの付き合いもスッパリやめ真面目に働いて、やがてはジミーも自分の父親と同じように労働者階級(ワーキング・クラス)の冴(さ)えない大人になったのだと思う。これこそ、すなわち「さらば青春の光」。