アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

京都喫茶探訪(5)進々堂

百万遍交差点の東、京大北門前にある「進々堂」には、京大近くには古書店がたくさんあって古書店にて本漁(あさ)りの古書調達の帰りによく寄っていた。

何しろ貧しくて金がないから(笑)、京大前の「吉岡書店」で安い岩波新書の古書ばかりを狙って何冊か購入してから、同軒並びの進々堂に行く。ここもかなりの老舗(しにせ)の喫茶らしく、レトロな洋風建築でまずフロアが広い。ついで外庭もある。また椅子もベンチで机も大きく、硬質な年輪重ねたクラフト木造な調度品で非常によい。行って時間を過ごして爽快(そうかい)な気分になれる喫茶店だ。

進々堂のフロアの広さや天井の高さや床に響く足音がコツコツ鳴るところ、庭からの店内への採光の感じが好きだった。レジ上に飾ってあった関西ご当地DJ・谷口キヨコ(キヨピーさん)のサイン色紙とか(笑)、庭に置いてある店主のゴツいバイクとか、とにかく好きだった。

進々堂に行くと「カレーセット」か「ダブルコーヒー」(量が多い2杯分のコーヒー。1度の注文で長く滞在できる)を頼んで購入したばかりの古書を読んだりしていた。またクラフト調度な木製な幅広の机とベンチだから、ついノートを広げて本格的に勉強したくなるのだけれど。

しかし、もともと私は「喫茶店でノート広げて本格的に勉強する学生を撲滅する会」の会員だから(笑)。喫茶やカフェやファストフード店を自宅の机のように占拠しノートを広げて本格的に勉強している学生ほど、端から見て迷惑でうっとうしいものはない。だいたい街中の、あんな騒がしい場所で勉強しても、うるさくて能率が上がらないだろう。さらには友達と一緒に勉強している、ヘッドフォンを耳にして音楽を聴きながら勉強しているなど。「勉強とは人目に触れない所で、こっそり人知れず孤独に集中して自身の心身を削ってやるものだろう!人混み雑踏にさらされた喫茶やカフェやファストフード店で、やるものではないぞ(怒)。友達と一緒とか、音楽を聴きながら片手間に勉強をやるのも駄目だ。勉強をやるなら人目をはばかって独りきり、こっそり自宅でやれ!」と口外しなくとも、いつも私は思ってしまう。

だから喫茶店では持参の本を読んだりするまでがギリギリで、ノートを広げておおっぴらに勉強したり、ノートパソコン開いてキーボードをカタカタ打って仕事をしたり、セールスの商談をしたりするのは喫茶内の雰囲気を乱すのでよくないと私は思う。少なくとも自分の場合、持参の本読みの読書くらいが自己内許容の精一杯な喫茶店の使い方だ。確かに人によって、その人なりの色々な喫茶利用の仕方はあるとは思うが。

さて百万遍周辺の古書店を巡り、京大前の進々堂に寄った後、さらに時間があれば一乗寺の「恵文社」(けいぶん社)に行く。恵文社は有名で人気なセレクト系の書店で、よく雑誌らメディアに紹介されている。行くたびにギャラリーや雑貨のフロアを増床改装して売り場面積が増え続けているような気が。とにかく人気店なのである。

昔、恵文社で元「ピチカート・ファイヴ」(Pizzicato・Five)の小西康陽の二冊目のコラム集「僕は散歩と雑学が好きだった」(2008年)を購入したのが、自分の中では大ヒットのよい思い出だ。書籍など、どこの書店で買い入れても本そのもの(装丁や内容など)は一緒で同じなのだが、時に「あの本だけは是非ともここの書店で買い求めたい」というような変なこだわりがあるのだ(笑)。

小西康陽の傑作コラム集「ぼくは散歩と雑学が好きだった」は、言わずと知れた植草甚一「ぼくは散歩と雑学がすき」(1970年)のパロディ・タイトルである。主に1990年代に青年期を過ごした私らの世代で、「本や音楽や映画や喫茶の趣味が抜群で洗練されたセンスのよい手本となる憧れの文化系の大人」といえば、もう植草甚一ではなくて小西康陽だった。少なくとも私の場合、大人の手本はピチカートの小西さんであった。