アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

YMO伝説(5)「テクノデリック」

「YMO」のオリジナル・アルバムのベストを挙げるとすれば、ほとんどの人が中期YMOの「BGM」か「テクノデリック」のどちらかになると思うが、「どちらのアルバムを選ぶか」でその人の音楽的嗜好の趣味や人間性が結構、照らいなく直接的に反映されているような気がする。

アルバム「BGM」は、ジャケット色のブルーな感じからして全体に緊張感があって楽曲群が絶対零度でクールに冷たく攻撃的に整序されている固い感があるし、逆にアルバム「テクノデリック」になるとジャケット色のオレンジな感じから、全体にリラックスしてややくつろいだ、楽曲群が幾分ユーモアの余裕を持って優しく並べられているの印象がある。そしてYMOのオリジナル音源のベストとして「BGM」を挙げる人と「テクノデリック」を挙げる人との間には価値観、美意識その他もろもろで、どうしてもなかなか埋められない根本的な人間的隔たりの対人距離があるような気がする。「互いに人間として異質であること」を身に染みて再認識するような。事実、YMO中期に対立があったメンバー、細野晴臣と坂本龍一それぞれに「一番好きなYMOのアルバムは何か」と聞いたら、細野は「BGM」を選ぶし、坂本は「テクノデリック」を挙げる。「あー細野と坂本、やはり互いに元から人間が違うんだな。何か納得だわ」といつも勝手に私は思ってしまう(笑)。

アルバム「テクノデリック」の頃になると、前作「BGM」のレコーディングでの不和の対立・緊張からメンバー各自が学習したのか、はたまた「もうYMOのプロジェクトは終わりが近い」と皆が静かに悟っていたのか、互いにリラックスして緊張緩和な雪溶けムードのなごやか感が漂う。この頃よく使われてたYMOのロゴマークも「三人の湯けむりのんびり温泉マーク」でワケが分からなかった。「YMOの時は生音は避けて必ず電子楽器のシンセサイザー使う」や「なるべく歌詞なしで曲をやる。仮に歌詞があっても極力、歌詞に意味を持たせないようにする」の初期のバンド制約もいつの間にかなくなって、坂本龍一は「テクノデリック」の「階段」で自然にピアノも弾くし、細野晴臣もベースを弾く。何よりも当時「テクノデリック」期に、「そういえば細野晴臣って、もともとベーシストだったよな。今までYMOでは鍵盤ベースばかりやっていたから忘れていたけれど、彼は弦楽器のベースの人だった」と今さらながらに気づいて私は衝撃だった。「すっかり忘れていたけれど、そういえばあの人、もとはベーシストだったよな。ベースを弾いてたよね」と後々になって驚きつつ思い返すのは、YMOの細野晴臣か、「ドリフターズ」のいかりや長介か、元「ピチカート・ファイヴ」(Pizzicato・Five)の小西康陽くらいだ、私の場合。

YMOの御三方は良い意味で楽器演奏者のアイデンティティのエゴがない、柔軟な人達だから。「俺はギタリストだから必ずギター弾かなければ気がすまない」とか、「自分の受け持ち楽器演奏では誰にも負けない誇りのプロ意識」が希薄な人達である。もともとやりたい自分の理想の音楽があって、「楽器の選択・演奏はそのための手段」と割り切っている人達だから、変な「楽器テクニック至上のバカテク礼賛」にも走らない。

坂本龍一は、昔はギタリストの渡辺香津美と「KYLYN」で一緒にやっていたけれど、途中からいつの間にか疎遠になる。渡辺香津美はギターが上手くてバカテク連発な人だからスゴいのだけれど、今はなきジャズ・フュージョン系の音楽雑誌「アドリブ」の人気ギタリスト投票で渡辺が1位に選ばれたりすると、「あっちの方向に行っちゃって渡辺香津美ヤバいよね」みたいに坂本龍一はなる。坂本において、演奏楽器の選択や演奏技術(テクニック)云々は、あくまでも音楽体現のための一つの手段であって案外、醒(さ)めた目のフラットな意識である。「楽器演奏者のアイデンティティのエゴ」は一種の惑溺(わくでき)でしかない。

細野晴臣も(少なくとも私は)彼がベーシストであることを途中から忘れてしまうくらい、細野は「自分はベース担当のミュージシャン」縛りに全く無頓着である。細野晴臣は自身がYMOの言い出しでメンバーを集めたから、YMO活動時は自分独りだけ「禁欲」してなかなかソロ・アルバムを作らなかったけれど、最後の方になってやっとソロの「フィル・ハーモニー」を解禁して作る。あのアルバムも「俺はベーシスト」云々の縛りが全くなくて、打ち込みで全部ほぼ独りで自由に自在にやっている。それでアルバムのライナーに普通のミュージシャンがバック・バンドのメンバー紹介をするように、逐一細かく使用機材の名前を上げて機材の写真もアップして擬人法(?)でメンバー紹介ならぬ、機材紹介をやっていて、「細野晴臣は楽器演奏者のアイデンティティ束縛がなくて自由でクールでカッコいいな」と率直に私は思った。

細野晴臣のソロで一番好きなのは「ボディ・スナッチャーズ」が入っている「SFX」など、「FOE」プロジェクトの頃の作品だ。FOEは「ミニストリー」(Ministry)のような圧の強い過激なインダストリアル・メタルで、細野の一連のプロジェクト仕事の中で私は特に好きだった。

さて、前述のようにアルバム「テクノデリック」は非常にリラックスして、ややくつろいだ楽曲群なのだけれど、その反面リラックスし過ぎて緊張感がなくダレた内容になっているのも事実だ。何よりも似た感じの楽曲が多い。「新舞踊」と「京城音楽」は曲の感じもリズムも似ているし、「階段」と「灰色(グレイ)の段階」は曲コンセプトが、これまた似たような「階段」と「段階」で重複するから、どちらかをボツにして外すべきだろうと思うが、両曲ともそのままアルバムに収録している。またラストに「前奏」と「後奏」の2曲を連続して無造作に入れているが、アルバムの全体構成の曲順を妥当に考えたら、最初の1曲目に文字通り「プロローグ」の「前奏」を持って来て、その後で2曲目を「ジャム」にして、ラストの終わりの締めくくりで静かに「エピローグ」の「後奏」を配置し聴かせてアルバムを終わらせた方が良いのではないか。私は数十年来YMOの「テクノデリック」に関し、ずっとそう思っていた。

あと「テクノデリック」は、言わずと知れた「サンプラーを本格的に使用した世界初のアルバム」ということになってはいるが、YMOのサンプラーの使い方が玄人プロの使い方で地味すぎる。サンプリング音の切り貼りの使い方が、「工場ノイズのボーリング音」などならインダストリアルで分かりやすくて良いと思うが、その他「大豆缶を叩いた音や、足の関節の裏のふくらはぎを手で押さえて『プッ』って言わせる音をサンプリングして使ってます」と後日談のインタビューにて高橋幸宏が語っていて、サンプラーの使い方がいかにも地味である。「せっかくの新兵器のサンプラーを分かりやすく使わないYMOのサーヴィス精神の欠如、遊び心の精神的余裕のなさ」というものを感じた。もう中期YMOの頃には、初期の「ライディーン」や「テクノポリス」の時のように御三方ともマスに迎合のサーヴィス精神は、あまり発揮してくれなくなっていた。

そして後々になって、トレヴァー・ホーン(Trevor・Horn)の「アート・オブ・ノイズ」(Art・of・Noise)の一枚目を聴いた時、「サンプラーの使い方がうまいな」と私は思った。「車のドアをバタンと閉める音」や「車にキーを差し込んでエンジンを吹かす音」など、分かりやすい派手で大きな音をサンプリングで切り取って大ざっぱに大胆に切り貼りしているから、アート・オブ・ノイズの作品はとても分かりやすい。トレヴァー・ホーンは「ZTTレーベル」の人で、元々あの人は音楽キャリアが長いくせに結構いい加減で大ざっぱな人だから。もちろんリスナーのことを考えて、素人っぽくわざと分かりやすく大胆にサンプラーを使ったわけでは絶対なくて、何も考えず彼なりにいつも通り大ざっぱに雑にやったら、たまたま分かりやすくなっただけのことであるが(笑)。アート・オブ・ノイズの「誰がアート・オブ・ノイズを…」のアルバムは結果的に衝撃的なサンプリング音を使った世界的名盤になった。

そういった玄人で地味なサンプラーの使い方もあって、YMOの「テクノデリック」が「世界初のサンプラー本格導入アルバム」といわれても、当時から私はあまりピンとこなかったわけだが、しかし高橋曲のタイトなリズムの「ジャム」もあるし、坂本曲のファンキーで明るい「体操」も入っているし、「テクノデリック」は、やはり絶対に外せないYMOのアルバムになるのだろう。