アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

フリッパーズ・ギター 小沢と小山田(10)小沢健二「ライフ」

(前回からの続き)以上のように、小沢健二ソロに関しては「フリッパーズ・ギター」(FIippers・Guitar)時代のラスト・アルバム「ヘッド博士の世界塔」での「普遍的で真実的なポジティヴで救いのあるものが最終的に存在する…そういうのがないとダメですよ…その辺で僕らはすごく誤解されてる。最終的にそういう救いのあるものは必要なのよ」から始まって、小沢健二ソロ第1弾の「犬は吠えるがキャラバンは進む」で「普遍的で真実的なもの」を「神様」と言い、さらに次作ソロ第2弾の「ライフ」にて、その「最終的に存在するポジティヴな救い」がより明確に具体化されて「愛し愛されて生きるのさ」のような、「恋人や家族や友人たちとの人間的な深いつながり」といったものに着地する。

私の正直な感想として、フリッパーズの「ヘッド博士」から引っ張りソロまで持ってきて散々長く引きずってきて「普遍的で真実的な最終的にあるポジティヴな救い」の内実の中身のフタをいざ開けてみたら、それが「人とのつながりの大切さの自覚」とは、あまりにどハマリな当たり前すぎる、ど真ん中ストライクな答えで拍子抜けな驚きの感じが初めて小沢ソロを聴いた当時もそうだったし、今でもそうした驚きの感じは拭(ぬぐ)えない。「えっ、小沢君が言ってた究極的に存在するポジティヴな救いって、結局『誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ』みたいなこと、そんなのでいいの?」

この点に関し、全く思い当たらないフシがないでもない。「ヘッド博士の世界塔」を制作時にフリッパーズの2人が「プライマル・スクリーム」(Primal・Scream)のアルバム「スクリーマデリカ」が好きで愛聴していたことは、実際に「ヘッド博士」の音を聴いたら「スクリーマデリカ」からのサンプリングしまくり、パクリまくりでよく分かる(笑)。アルバム「スクリーマデリカ」の収録曲に「カム・トゥゲザー」というのがある。「ビートルズ」(Beatles)のアルバム「アビイ・ロード」の1曲目「カム・トゥゲザー」の焼き直しで、当時のイギリスの「セカンド・サマー・オブ・ラブ」や「マッドチェスター・ムーヴメント」を体現した曲だ。この曲についてフリッパーズ時代の小沢いわく、「英国の本場では悪(あ)しき個人主義の時代を再び脱し、カム・トゥゲザーの伝統回帰でマンチェ的な連帯のポジティヴがあるけど、日本の僕らの周りには、もともとカム・トゥゲザーの連帯の伝統すらないからね」。

英国のプライマル・スクリームやその他のUKバンドと違って、同時代の日本のフリッパーズ・ギターは当時、圧倒的に孤独だった。日本のバブルのバンド・ブームの中でフリッパーズは孤立しまくって明らかに浮いてた。そのことを逆手に取り、他バンドの悪口を言ったり、一部の音楽メディアをからかったりして「自分たちが皆から嫌われ者であること」をむしろフリッパーズの2人はネタにして楽しんでいたくらいだから。しかし英国のような「カム・トゥゲザー」のロックの伝統がなく、音楽シーンで孤立しているフリッパーズの他者と連帯してつながりたい心の闇は意外に深かった。この点、おそらくは小山田よりも小沢の方が暗黒だった。

当時、リアルタイムでずっとフリッパーズの2人を見ていての私の感触は、圧倒的に毒があってタチが悪かったのは小山田ではなくて小沢の方だった。一部メディアや他バンドの悪口でも、いつも小沢が考えて相当な確率で横にいた小山田に言わせているようなところがあった。小沢健二は大学に行って勉強できて賢いし、頭がキレて「フリッパーズの悪の参謀」みたいなところがあった(笑)。だが、そんな表向きな「タチの悪さ」とは裏腹に実は小山田よりも小沢の方が圧倒的に孤独で、本当は他者とつながりたい「カム・トゥゲザー」の連帯への渇望が強かった。これには私の勝手な印象の憶測も入るけれど。

まだフリッパーズが5人体制の時、リーダーの小山田が自動車事故で足を骨折して一時期、入院した。その時に残ったバンド・メンバーと小沢が対立し、小沢がバンド内で孤立して、小沢と他メンバーが入れ替わりで小山田の病室に来て互いに文句を言って、「そういうのイヤだから、だったらもうフリッパーズは解散しよう」ということに小山田がなるのだけれど、結局は解散はせず、小山田圭吾は小沢健二を選んでフリッパーズ・ギターは男2人体制で再出発する。だから小沢は後に振り返って、「フリッパーズの頃までは本当に友達と呼べるのは小山田くらいしかいなくて」と語っていたし、その頃の小沢は後の親友の「スチャダラパー」の面々とも、まだ本格的に出会っていなかっただろうし。

つまりは、元から実は他者とのつながり連帯への渇望が強く潜在的に隠し持っていて、しかもそっち方面での人的つながりの経験の免疫がないから小沢健二はソロで「普遍的で真実的な最終的なポジティヴな救いが確かにある!」、それはすなわち「恋人や家族や友人たちとの人間的な深いつながり」と簡単に言い切ってしまって勝手に吹っ切れて、アルバム「ライフ」にて「愛し愛されて生きるのさ」や「ラブリー」になり爆発して暴走する。フリッパーズ時代の懐疑的で皮肉屋で、いつも背後で小山田に色々と言わせていた、かつての「悪の参謀」小沢からは全く想像できない今や見る影もない、まるで別人のような「善人」になって。そして、小山田圭吾の方は「カム・トゥゲザー」の連帯にまだまだ免疫があって懐疑的で、ソロデビュー後も一貫して慎重で堅実であったと思う。

かくしてアルバム「ライフ」以降、小沢健二は「喜びを他の誰かと分かりあう!それだけがこの世の中を熱くする!」(「痛快ウキウキ通り」)の、「人とのつながりが大切」な結論を引きずって、その路線でひたすらソロ活動のソロ街道を突っ走る。フリッパーズ・ギターの時代から小沢を知っている人は、小沢健二ソロでの彼の別人のような豹変のハジけっぷりに賛否両論で、とりあえず「遠い目」をして驚く。 しかし、それでも「犬は吠えるがキャラバンは進む」あたりまでの小沢健二には、まだ凛(りん)とした孤独な吟遊詩人のような雰囲気があって、「犬キャラは真っ直ぐで誠実な良いアルバムであるな」と私は思う。