アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

フリッパーズ・ギター 小沢と小山田(12)コーネリアス(小山田圭吾)「ファースト・クエスチョン・アワード」(その2)

前回からの続きで、ラスト・アルバム「ヘッド博士の世界塔」完成以後の「フリッパーズ・ギター」(FIippers・Guitar)に関し、「フリッパーズ解散の背景理由」と「フリッパーズ解散後のソロが同じバンドでやってたにもかかわらず、小沢と小山田でなぜあんなにも違ってくるのか?」の2点に論点を絞ってやっている。

前者の「フリッパーズ解散の背景理由」について、フリッパーズ・ギターは小沢健二と小山田圭吾の才能とセンスあふれる2人組のバンドだったけれど、楽曲制作において作詞は全部小沢の担当で、小沢のみが歌詞を奔放自在に書きまくっていて小山田はフリッパーズの詞世界に直接的に深く関与していなかった。非常に偏(かたよ)った変則的な分業体制だった。そこからアルバム「ヘッド博士の世界塔」完成の時点で小沢と小山田との間に実はすでに修復できない、もう一緒にはやれないフリッパーズ・ギターを解散して今後はソロで各自やっていくしかない思考の大きな隔(へだ)たりの溝があった。すなわち、アルバム全曲の作詞を担当し「ヘッド博士」の詞世界を構築してやりきった小沢健二は「普遍的で真実的な本当のことが確かに存在する」のBE動詞の存在思考に一足早く完全移行していた。しかしながら、小山田圭吾は前作「カメラ・トーク」での、本来世界は「─であるべきはず」なのに「─ではない」否定の欠落のNOT構文の「個人の気分的なもの」をいまだ引きずっていた疑いが果てしなく強い。

「確かに何かがある!」のBE動詞の「普遍的で真実的なポジティヴな救いの存在」を確信し、その内実を早く明らかにしたい前のめりな小沢は、まだ「─ではない」NOT構文の否定の欠落思考にいた小山田と一緒にやれないから、聴き所の目玉が歌詞にあり全曲の詞を書いた小沢主導でラスト・アルバムの「ヘッド博士」が制作された事情と同様、フリッパーズの解散も、どちらかといえば小沢主導で小沢が無理やり解散に持って行ってバンドを終わらせた可能性が極めて高い。少なくとも小山田よりも小沢の方にフリッパーズ・ギターを早く解散させて終わらせる必然性が強くあった(と私は思う)。

仮に「ヘッド博士の世界塔」以後も無理やりフリッパーズ・ギターを継続させて、もう一度「カメラ・トーク」のようなNOT構文の否定の欠落の青春ネオアコ路線への回帰をフリッパーズの2人に提案したとして、おそらく小山田は応じるとしても小沢は絶対に拒絶したはずだ。「確かに何かがある!」の存在確信に覚醒した小沢は、もう「カメラ・トーク」の時代のような「個人の気分的なもの」を歌うことはできない。だが小山田は、まだまだ「カメラ・トーク」の頃の否定の欠落の甘い青春の季節を自身の中でリバイバルし繰り返し再生できる。つまりは、これこそが前述した「『へッド博士』の詞世界を構築してやりきった小沢は『普遍的で真実的な本当のことが確かに存在する』のBE動詞の存在思考に一足早く完全移行していた。しかしながら、小山田は前作『カメラ・トーク』での本来世界は『─であるべきはず』なのに『─ではない』否定の欠落のNOT構文の個人の気分的なものを、いまだ引きずっていた疑いが果てしなく強い」ということだ。

このことは小山田圭吾の「コーネリアス」(Cornelius)名義の最初のソロデビュー・アルバム「ファースト・クエスチョン・アワード」を一聴すれば明白である。笑ってしまうくらい、すぐに分かる。ソロデビュー・アルバムの1曲目、しかも最初の冒頭の肝心な小山田の歌い出しがこれだから(笑)。

「あらかじめ分かっているさ、意味なんてどこにも無いさ」(「太陽は僕の敵」)

これに小沢健二ソロ第1弾「犬が吠えるがキャラバンは進む」の中の、例えば以下のような歌詞を対置させると「ソロデビュー以後の小沢と小山田の思考のコントラスト」がより明確になるだろう。

「意味なんてもう何も無いなんて僕が飛ばしすぎたジョークさ。神様がそばにいるような時間が続く」(「ローラースケート・パーク」)

「あーダメだこりゃ」(いかりや長介風)。こんなに違う2人なら「ヘッド博士の世界塔」完成後に、いくら周りに迷惑かけても速攻で電撃解散するしかない。小沢と小山田、もう二人で一緒にやれないわ(笑)。小山田は「あらかじめ分かってる自明のことなんだけど、この世界に意味なんてのはどこにも無い」と懐疑の否定のNOT構文でソロ・アルバム冒頭から言い切って突っ走るし、他方、小沢は「かつてフリッパーズの時代に『意味なんて何も無い』なんて言ってたのは、ただのジョーク。この世界に意味はあるし、神様がそばにいるような普遍的で真実的な救いは確実にある」と存在示唆のBE動詞で歌うから。

まさに「フリッパーズ解散後のソロが同じバンドでやってたにもかかわらず、小沢と小山田でなぜあんなにも違ってくるのか?」この2人の大きく違いすぎるほどの違いは、果たしてどこから生じ一体何に由来するのか?その由来の解明については、しばし待て!次回。