アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

ピチカート・ファイヴの小西康陽(1)「大人になりましょう」

私は若い10代の頃から「ピチカートの小西さんが僕の伯父さんだったら」と思わないことはなかった。主に1990年代に青年期を過ごした私らの世代で、「本や音楽や映画や喫茶の趣味が抜群で洗練されたセンスのよい手本となる憧れの文化系の大人」といえば、もう植草甚一ではなくて小西康陽だった。少なくとも私の場合、大人の手本は「ピチカート・ファイヴ」(Pizzicato・Five)の小西康陽だったのだ。

ここで今さらピチカート・ファイヴの音楽の魅力や小西康陽のプロデュース仕事の名曲や名盤の子細を細かに語るのも、何だか野暮(やぼ)な気がする。当の小西康陽もレコード評や音楽コラムをよく書いていて私は昔から楽しみに読んでいたけれど、小西は下手な蘊蓄(うんちく)批評眼や音楽理論的分析や世間の流行に対する説教批判や自身の政治・思想信条の表明なく、おまけに最後は10点満点でレコードに点数をつける採点評価もなく、つまりは「ミュージック・マガジン」の中村とうよう的ではなくて(笑)。

「とにかく素敵な音楽だから、今まで皆が耳にしたことのないような素敵なレコードだから、よかったら聴いてみて!」の音楽リスト提示主義の洗練された大人な人だったからなぁ、ミスター小西は。

もちろん、小西康陽なりの音楽的好みプラス音楽を売るためのプロデューサー戦略は明らかにあるはずで。例えばバート・バカラック(Burt・Bacharach)や筒美京平の過去楽曲を理論的に分析したり、海外サントラなどから元ネタを見つけて大胆にそのまま流用したり、「今期は流行のドラムンベースを取り入れてやる」とか「これからはインストのダンスミュージックよりは、むしろみんなで歌える合唱が流行るから今回は歌づくしでいく」など、彼なりの音楽家としての戦略・戦術はその時々あるはずで。しかし、プロの音楽家の小西康陽は、ある意味レコードを聴くのが純粋に好きなリスナーと同じ目線の姿勢をあえて保っていた。

そんなわけで、小西康陽がらみの音楽リストである。自称「ピチカートマニア!」な私が日々、日常的に繰り返し、よく聴いているものを。小西康陽の仕事で「これさえあれば」の最低限の音源で以下、順位はありません。

 

(1)ピチカート・ファイヴ「オーヴァードーズ」

(2)ピチカート・ファイヴ「Happy・End・of・The・World」

(3)ピチカート・ファイヴ「プレイボーイ・プレイガール」

(4)野本かりあ「カアリイ」

(5)夏木マリ「13シャンソンズ」

(6)カヒミ・カリィ「クロコダイルの涙」

(7)VA(オムニバス)「よりぬきパンチ・ザ・モンキー イン・ザ・ミックス」

(8)Negicco「アイドルばかり聴かないで」

(9)VA(オムニバス)「bossa・nova・1991・shibuya・scene・retrospective」