アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(5)富田一彦「基礎から学ぶビジュアル英文読解 構文把握編」

結局のところ、大学受験の英語のみならず、要するに私の英語読解嗜好として少なくとも一読しただけでは意味のとれない非常に構文が複雑で面倒で難解な、まさに詰め将棋のように熟考を要する難しい英語を日常的になぜか読みたいわけである、下線部英文和訳にて。英語文化圏のネイティブの人達が通常、使う分かりやすい簡潔な実用英語ではなくて。

そういった同じ英語の言語ではあるが一読できない、もしくは一読しても意味が分からない熟考を要する難解な英文というのは確実にあって、それは日本語でも同様だ。私は日本語に不自由なく日常的に日本語の会話や読み書きができるが、一読しただけでは意味が分からない、一読した後に何度繰り返し読んでみても意味の分からない、そうした日本語の文章もあるに違いない。当然、文法的にも正しく適切な現代文の日本語であるにもかかわらず。

少なくとも私の経験からして、例えば小林秀雄の文芸批評や大江健三郎の随筆エッセイなど軽く一読で済ますには理解するのに難解な日本語文である。それら一読しても容易に意味が分からない熟考を要する日本語文は確実に存在する。大学受験英語の下線部訳の逆パターンで、日本語受験の下線部訳問題にて、小林秀雄や大江健三郎の難解文章を日本語学習や日本語テスト受験の海外の人に無理矢理に読ませるナンセンス(笑)。外国の人が日本で普通に生活し仕事をするための日本語習得にて難解な小林秀雄の日本語文芸批評を読める必要は、ほとんどないにもかかわらず。しかし、そのナンセンスな逆のことを英文読解にて、あえて私はやりたい。

大学入試英語をいくぶん解いた上での私の感触では、そんな非実用でナンセンスな難しい英文解釈を大学入試にていまだ出題するのは国立二次試験の京都大学や大阪大学あたりだ。東京大学の英語の二次試験は現代英語のネイティブ風な「使える英語」に改良されており、問題英語そのものよりも設問の問い方(一文挿入、不要文指摘、段落整序など)が難しく、実は英文それ自体は比較的容易で分かりやすい。他方、京大や阪大の入試で出る英文は昔ながらの文語的硬質な英語で英文そのものが難しく(構文、単語、意味内容の抽象度いずれにおいても難しい)、「これぞ!一読しただけでは意味のとれない非常に構文が複雑で面倒で難解な、まさに詰め将棋のように熟考を要する難しい英文の理想形だ」と私には思える。

近年では、そのような難解英語構文和訳の問題演習や解法解説に特化した親切良書な英文解釈の大学受験参考書は数多く出ており、例えば小倉弘「京大入試に学ぶ英語難構文の真髄」(2016年)や篠田重晃「英文読解の透視図」(1994年)らがある。その中で今回の「大学受験参考書を読む」は、富田一彦「基礎から学ぶビジュアル英文読解・構文把握編」(2003年)を取り上げてみる。

本書は、まず英文読解演習の問題数が多い。難易度も易から難へ全126問の収録である。問題英文は長くても、せいぜい4行から5行程度だが全126問の一冊すべてをやり終わるのに、そこそこ日数かかるため長く使えて有用である。また読解英文も出題大学名を明記してはいないが、おそらくは難関大学の過去問ないしは予備校テキストに定番掲載の受験指導英語にて、その筋では有名な英文だと思われる。それに何よりも全体に英文が難しい。しかも、テクニカルターム(専門的術語)やマイナーな難解語の単に英単語が難しいため和訳が困難というのではなく、構文が複雑で文の意味内容そのものが難しい、いわゆる「意味のある難しさ」だ。

著者の富田一彦による本文解説も単に表面的に日本語訳を置きにいかない、「とりあえず日本語変換して形式的に辞書的に訳せたら、それで良し」とはしない。英文そのものの本質理解を促す解答解説にまで射程をもって説明記述されている所が本書の最大の持ち味の良さになっている。例えば「××してくれるな」と否定文で相手に依頼する意味内容を持つ英文について、以下のような著者による解説記述がある。

「一般化すると、『人はなぜ否定文を言うのか』である。否定文は情報の価値という点ではゼロである。何しろ『─でない』のだから。それなのに、人はよく否定文を言う。それはなぜであろうか。その答えは、『聞き手が肯定を想定していると話し手が予想するから』である」

なるほど、「××してくれるな」となぜ否定文で頼むのかといえば、それはそのように否定文混じりの依頼で頼む話し手が「聞き手は相当な確率で××するに相違ない」という「聞き手が話し手が否定したい事柄とは反対の内容を想定している」とする話し手側の予想が、あらかじめ働くからである。だから、先回りし先制してあえて打ち消す。わざわざ回りくどく「人はよく否定文を言う」、決して「××してくれるな」と。

そして上記の「人は相手が思っていそうなことを先回りして打ち消す性質がある」の解説に続く、与太郎の与太話的な実に馬鹿馬鹿しい具体例与太を用いた以下のような解説記述が、著者の富田一彦による「富田節」炸裂の真骨頂である。

「こういう書き方をするとややこしそうに見えるが、実は簡単なことだ。諸君が少し遅くなって家に帰ってきたとき、聞かれもしないのに『遊んできたわけじゃないよ』ということがあるはずた。だがそのとき諸君は『別にお神輿(みこし)を担いできたわけじゃないよ』とか、『裁判の傍聴に行っていたわけではないよ』などとは、多分言わない。なぜだろう。それは当然諸君が遅くなったことに対し、親が『こいつ遊んできたな』と思っているはずだ、と諸君が想像するからだ。人は、相手が思っていそうなことを、先回りして打ち消す性質がある。諸君の親は『神輿を担いでいたな』とか『裁判を傍聴していたな』とは普通思わない(もちろん特殊な例は除くが)ので、諸君はわざわざそんなことを言おうとさえ思いつかないのだ」

「別にお神輿を担いできたわけじゃないよ」とか「裁判の傍聴に行っていたわけではないよ」とか、実に馬鹿馬鹿しい(笑)。富田一彦、この人はどこまでも悪ノリしてブレーキが効かず、ふざけて暴走する所が氏の大学受験参考書上の紙面にて時々ある。しかしながら、たとえ話は与太で実に馬鹿馬鹿しくても説明内容は理にかなっており、掘り下げて深く考察され解説されていることは確かだ。この辺りの勘所(かんどころ)、単に表面的に日本語訳を置きにいかない、「とりあえず日本語変換して形式的に辞書的に訳せたら、それで良し」とはしない、英文そのものの本質理解を促す解答解説は最良である。

直接の発話であれ間接の記述であれ、言葉は、ある特定の具体的状況下にて、必ず誰かの相手に向けて発信されてあるわけだ。言葉そのものが、ただ漠然とそれ自体完結して孤立してあるわけでは決してない。だから、その言葉はどういう状況の設定下にて、どのような関係の間柄にある相手に対し発せられており、その際に話し手や書き手のどういった思いや反応への予測がその言葉に込められ発せられているのか。そういった発話記述をめぐる言葉の使われ方の文脈状況や人間同士の関係性や主体の発話の背景にある思考や意図など、総体的に分析的に押さえられなければならない。

本書における「××してくれるな」「××じゃないよ」が、話し手による「聞き手はおそらく××と想定しているに違いない」の予測の先制が働いた上で発話記述されるという事例の英文解釈解説以外にも、例えば仮定法の「もし××ならば××」は、裏発想で「現実にないこと」が、あえて裏側から期待願望を込めて、もしくは実現拒絶の不安が働いて述べられているのであって、「仮定法読解の肝要は未だ実現していないことへの言及である」だとか。また強調構文は、ある物事や事柄の多数ある側面項目のうち母集団から、ある1つの強調したい項目だけをあえて取り出し選択して強調しているわけで、「(強調するのは)××ではなくて××の方」という強調したい選択項目と、それ以外のその他の母集団すべての特質項目との対立図式に必ずなる。強調構文を使う話し手の背後には必ずそうした対立発想の思考がある、だとか。そういった書かれた英文の背景にある「直接的には書かれていない」記述者の思考の発想や意図、その英文が使用され解釈理解される文脈状況や他の知識ヒントがなくても単純に記述された英文のみから推測できる話し手と聞き手の間柄や関係性の推測把握、それらを散発的に教えてくれる良心的な英文解釈の大学受験参考書は上級者向けの書籍で、本書の富田「基礎から学ぶビジュアル英文読解・構文把握編」を含め時々は見かけるが、まだそのことに特化し有機的に完全網羅した本格的な英語参考書はないと思うので、そうした英語の学術参考書を将来、私は読んでみたい。

ところで近年、広汎性発達障害のトピックが非常に社会の関心を集めており、その中でもアスペルガー症候群の話題が焦点にされることが多々ある。知的障害ではないが、発達障害の中の一範疇(いち・はんちゅう)であるアスペルガー症候群については、(1)対人相互反応における質的障害(相手の気持ちがつかめない、場に合った行動がとれない、周囲との協調性に欠く)、(2)コミュニケーション障害(言葉の使用の誤り、会話をつなげない、目を合わせないなど視線の不安定)、(3)行動、興味活動が限定反復、常道的(こだわりが強すぎる、状勢に応じた状況的判断・行動ができない、自身のルールや言語の辞書的意味に異常に執着・拘泥する)の特徴が主に挙げられる。

このようなアスペルガー症候群の病状の問題が現代社会にてピックアップされてきたのは、現在の社会にて対人相互反応における質的向上や濃密なコミュニケーションが各人に対し異常に強烈なまでに求められるからであって、その高すぎる社会からの要求ハードルの結果の「不適応」で「症候群(シンドローム)」が社会的に新しく生成される面も少なからずあるはずだ。昔の時代と違い、今の現代社会は幼児期から若年、成年大人に至るまで社会参加の強制強迫が実に熾烈(しれつ)で、学生の学校生活でも社会人の会社勤めでも、対人相互反応の質的優良さや濃密なコミュニケーション(集団生活における協調性、分業・協業作業での相互確認・情報共有のコミュニケーション、画一的・機械的ではない状況と相手に応じた柔軟な個別対応の機転など)、俗にいう「空気を読む」ことが相当に高いレベルまで各人に求められる誠にシビアな非寛容社会である。

そうした現代社会への厳しい参加適応の要請観点からして、アスペルガー症候群における症候論点とされる対人相互反応の質やコミュニケーションの濃密度は、実はアスペルガー症候群以外の人でも現代社会に「適応」し生きる上で必須な能力となるわけで、それら対人相互反応やコミュニケーションの核となる言語活用の能力(スキル)は各人において日々、向上研鑽(こうじょう・けんさん)されるべきものと思われる。

それで富田執筆の本書にあるような「××してくれるな」の意味内容を持つ英文についての解説記述に見られる、辞書的意味の機械的・画一的読解和訳に決して終始しない、相手との関係性を勘案した文脈状況や、その文脈状況にて時に付与される言葉の新たな意味や言外のニュアンス、話し手の背後にある意図・思考を即座に見切る力は、対人相互反応の質的向上や濃密コミュニケーションのための言語活用の能力スキルとして現代の社会にて欠かせないものであり、そうした意味において「大学入試の英文解釈は、若い学生のこれからの人が大いに学ぶべき学びがいのある意味ある有益な学習科目であるし、また大学入試の英文読解は若い人に十分に貢献できるのでは」と大学受験英語への希望を持って私は深く思う。