アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

太宰治を読む(1)「津軽」

太宰治、この男は四回「自殺」未遂をやって、五回目にとうとう逝(い)ってしまう。猪瀬直樹「ピカレスク・太宰治伝」(2000年)を読むと分かるが、太宰治の重ね重ねの「自殺」は決して本気で死にたいと思って「自殺」をやっているわけではない。

太宰の度重なる「自殺」の原因は、一般によくいわれるような「近代自我の不安」など、そんな抽象的で深遠高尚なものではない。太宰は自身がその都度、生活に追い詰められると人生をリセットするために「自殺」を繰り返す。案外、俗な理由からである。すなわち、左翼の非合法運動に足を突っ込んで学校を退学されそうになると「自殺」する。女と別れたいと思って、しかし別れられないと「自殺」する。青森の実家から仕送り援助を打ち切られて東京に居られなくなくなりそうになると「自殺」する。そのため彼の四度の「自殺」は、いずれも第三者にすぐに発見されて、実際に死なずに助かるよう用意周到に手がかりを残す。あらかじめ事前に巧妙に手を打った上での、すぐに発見されて助かる決して死に至らない「自殺」未遂に他ならない

なぜ太宰治は、退学や女性問題や仕送りの打ち切りで東京を離れて郷里の青森に連れ帰えられそうになる窮地に追い込まれると、その都度、必ず助かる「自殺」もどきをやって人生をリセットしたくなるのか。それは太宰治という人は、ひたすら小説家に憧れ、本当に心の底から東京で小説家になりたくてなりたくて仕方のない人だったから。

このように人生の節目で、いわば「リセット」のための「自殺」もどきをその都度繰り返し、東京にへばりつき夢が叶(かな)って憧れの小説家になった太宰にとって、作品「津軽」(1944年)は喜びの絶頂であり、故郷に錦を飾る凱旋(がいせん)の記録に他ならない。しかし、太宰本人は「東京で念願の小説家になって故郷・青森への凱旋の喜び」を読み手に悟られないよう随分、慎重に筆を抑えて書いているフシがある。その太宰治の照れ隠しの書きっぷりが、まずは「津軽」の一つの読み所であるといえる。

故郷の人々はみな優しく、戦時中の物資が少ない時にもかかわらず、お酒や酒の肴(さかな)を調達し小説家・太宰を温かく迎え入れてくれる。「こんど、津軽の事を何か書くんだって?」「ええ」。太宰治、この男もまんざらではない(笑)。最初の笑い所は、書店企画の「新風土記業書」のための取材旅行で小説家になっていよいよ故郷の「津軽」に凱旋を果たそうと東京の家を出る際の、太宰と家人とのやりとりである。

「ね、なぜ旅に出るの?」「苦しいからさ。」「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません。」「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七。」「それは、何の事なの?」「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で、」「そうして、苦しい時なの?」「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ。」

ここは作品「津軽」で最初に笑う所だ。前述の通り、太宰がやるのは常に「自殺」もどきで、自分が本当に死なないように巧妙に細工して必ず生きて発見されるよう仕組んだ上での繰り返しの「自殺」未遂だから、この場面の「正岡子規三十六…芥川龍之介三十六」で自身の早死願望の夭逝(ようせい)示唆は、明らかな太宰治の持ちネタである。この人は決して「死にたい」わけではない。念願の小説家になって自身の夢が叶って、これから作家として脂(あぶら)が乗る四十代、むしろ生きたいはずだ。「苦しいから旅に出る」、いやいや旅に出るのは作品「津軽」の取材旅行のためだろうが(笑)。大学進学で若くして青森から上京し、東京にへばりついて長年苦労と恥を重ね相当に大変な事があって、しかし夢叶ってやっと憧れの小説家になった自分の誇らしい姿を郷里の人々に見せる輝かしい凱旋旅行だろうが!太宰(笑)。

現代の私達からすれば、近代日本文学史における「太宰治」の名前の大きさからして彼は「晩年」(1936年)のデビュー時からすでに有名で、ずっと売れっ子人気作家であったように思われがちだが、それは錯覚で戦前の太宰は「知る人ぞ知る」小説家であった。太宰は、そんなに売れてはいない。彼が作家として最も人気が出て名が知られ世間の耳目を集めて成功したのは、おそらく敗戦後の1945年以降である。

戦時中の「津軽」執筆時の太宰治は、まだ駆け出しの小説家であり、同時代の「小説の神様」たる志賀直哉と比べても、まだまだ小物であった。それゆえ、大家の志賀は装丁も立派な書籍を数多く出し、それに引き換え太宰の出版本は志賀の豪華本に見劣りする粗末な慎ましい書籍である。郷里の文学好きな仲間たちは志賀の豪華本を所蔵し、日々愛読している。そして、太宰に「志賀さんの小説はどうですか?」などと文学談義を吹っかけてくる。太宰からしたら、まったく面白くない。そんな太宰が本文中で「貴族とは」云々で大家の志賀直哉を批判する、後の「如是我聞」(1948年)での志賀批判の前哨戦(ぜんしょうせん)のような(?)内容も出てくる。

「津軽」の旅の前半は、故郷の旧友・幼なじみらと好物の酒を飲みながらのグダグダ旅行である。「無神経な鯛料理」の話など。しかし旅の後半で日程も詰まって、いよいよ生家の金木に近づくと太宰治この男も、さすがに神妙になって緊張してくる。何しろ生家の金木には今まで東京での生活の仕送り援助やら退学騒動、「自殺」騒ぎの後始末やらで散々迷惑をかけた、立派に家を継いだ郷里・青森の名士である父親代わりの長兄がいるから。

「金木の生家では、気疲れがする。また、私は後でこうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない」

さすがに神妙だ。太宰と長兄の関係、兄との日常のやり取りを書いた作品に「庭」(1946年)というのがある。あの短編は、小品ながら太宰治という人の人となりを知って彼を理解するには欠かせない作品で必読である。そして最後の最後、ついには乳母・たけとの念願の再会も果たす。太宰の「津軽」、この小説でよいのは何といってもラストの終わり方である。小説家の夢を叶えた太宰治が、最後にその作家の立場から前向きに読者諸君に語りかける。

「さて、古聖人の獲麟(かくりん)を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの穫友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬」

小説家の夢を叶えて故郷に凱旋した男の自信に満ちた、実にさわやかな結語だ。「苦しいから旅に出る」と東京の家を出る時、かつて言っていた男とは同一人物に思えないほどの(笑)、さわやかさ、清々(すがすが)しさである。私は近代日本文学の中で、ここまでさわやかで清々しい小説の結語を太宰治「津軽」以外で未だに読んだことがない。