アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

太宰治を読む(6)「パンドラの匣」

太宰治は、すぐに薬物中毒になったり何度も自殺未遂を繰り返したりで「生れて、すみません」の陰気な暗い男であり、よって彼の作品も「斜陽」(1947年)や「人間失格」(1948年)のような暗い陰気な小説が多いように一般に思われがちだが、実はそうではない。太宰治の作品には、さわやかで前向きな若者の青春文学もあるのであって、その系統の代表的な太宰文学として「太宰は暗くて陰気で堕落で無頼派」と未だ誤解している読者諸氏に向け、太宰の「正義と微笑」(1942年)と「パンドラの匣(はこ)」(1946年)の二編を私は激しくお薦めしたい。そして、今回は後者の「パンドラの匣」についての書評である。

太宰治「パンドラの匣」は、本当にさわやかで前向きな読後感が爽快な青春小説である。このことを読む前に確かめたいなら、とりあえず最後の結語文だけ最初にこっそり読んでみればよい。

「僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねにひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。『私はなんにも知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当るようです。』さようなら。十二月九日」

どこまでも、さわやかである(笑)。若者の青春文学の手本のような前向きの爽快さ。「この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。『私はなんにも知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当るようです』」。青春小説にて模範的な締め括りの結語だ。

太宰治「パンドラの匣」は新聞連載小説である。以下は連載開始の際に太宰が読者に向けて書いた「作者の言葉」である。

「この小説は、『健康道場』と称する或(あ)る療養所で病いと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛(あ)てた手紙の形式になっている。手紙の形式の小説は、これまでの新聞小説には前例が少なかったのではなかろうかと思われる。だから、読者も、はじめの四、五回は少し勝手が違ってまごつくかも知れないが、しかし、手紙の形式はまた、現実感が濃いので、昔から外国に於(お)いても、多くの作者に依(よ)って試みられて来たものである。…甚(はなは)だぶあいそな前口上でいけないが、しかし、こんなぶあいそな挨拶(あいさつ)をする男の書く小説が案外面白い事がある」

次回新連載の自作広告として、これは文句のつけようがない満点の出来だ。「甚だぶあいそな前口上でいけないが、しかし、こんなぶあいそな挨拶をする男の書く小説が案外面白い事がある」など、読み手に期待させて新連載を読ませる誘導に長(た)けている。また、太宰自身も今度の「パンドラの匣」の作品内容に相当な手応えの自信があったに違いない。何しろ「しかし、こんなぶあいそな挨拶(あいさつ)をする男の書く小説が案外面白い事がある」とまで言い放っているのだから。太宰治、この男は現実の生活能力がなくて大人の社会人としては全くダメな人だが、案外文学仕事は優秀にこなす。そして当の太宰も自身の文学仕事の出来栄えやその能力に関しては密(ひそ)かに自信の自負を抱いているのであった。

太宰による「作者の言葉」通り、「パンドラの匣」は結核療養のための「『健康道場』と称する或る療養所で病いと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛てた手紙の形式」になっている。三人称による地の文ではなくて一人称の手紙形式である。しかも、書き手の青年と親友との往復書簡であり、あえて書き手の青年の手紙のみ、往復書簡の「往」だけを太宰が執筆して掲載の体(てい)である。だから、本小説にての青年の手紙は「さっそくの御返事、なつかしく拝読しました」や「昨日の御訪問、なんとも嬉(うれ)しく存じました」などの書き出しから毎回始まる、本当は相手の友人と相互のやり取りがあるはずだが、あえて「往」のみの書簡掲載になっている非常に凝(こ)った形式である。

結核療養所である「健康道場」では院長のことを「場長」と呼び、副院長以下の医師は「指導員」、看護師たちは「助手」、入院患者は「塾生」と呼ばれる。相部屋同室の入院患者の塾生と看護師の指導員らが共に生活する一つの大きな家のようなものだ。毎日、朝から晩まで屈伸鍛練や布摩擦や講話聴講などをやって過ごす。「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「ようし来た」など挨拶代わりの激励が道場の廊下ですれ違うたび互いに交わされる。そんな道場では小さな事件も、ちらほら。例えば「女性看護師の化粧が濃い」問題の道場患者有志らによる糾弾事件があったりする。そこで手紙の書き手であり、本作の主人公たる「ひばり」がそうした道場の日常を友人に書簡を通して語り、小説「パンドラの匣」の読者は、ひばりの手紙を読んで知る形式である。

道場にて日々起こる事件の中でも、二十歳の青年・ひばりにとっての「大事件」であり、最大の関心事は男女の恋愛だ。道場にて毎日、日常的に接する若い患者と年頃の看護師との間に自然と男女間の恋愛感情が芽生えてしまうことは何ら不思議ではない。毎日、顔を付き合わせていると情が通い、いつの間にか互いに気になり意識してしまう。ひばりと同室の「つくし」(三十五歳の、ひょろ長い「つくし」のような上品な紳士。既婚で妻帯者。おとなしそうな小柄の細君が時々、見舞いに来る)に、助手の「マア坊」(十八歳の東京の府立の女学校を中途退学して本道場に来た若い看護師)が密かに思いを寄せていた。また、ひばりも助手の「竹さん」に好意を寄せている。ひばりが思いを寄せると竹さんは、どういった女性なのか。ひばりの友人への手紙によれば、

「塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈(たけ)が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。けれども、このひとの笑い顔には特徴がある。これが人気の第一の原因かも知れない。…それから、たいへん働き者だという事も、人気の原因の一つになっているかも知れない。とにかく、よく気がきいて、きらきりしゃんと素早く仕事を片づける手際(てぎわ)は、『まったく、日本一のおかみさんだよ』。何しろ、たいへんな人気だ。…大阪の生まれだそうで、竹さんの言葉には、いくらか関西訛(なまり)が残っている。そこがまた塾生たちにとって、たまらぬいいところらしい」

そんな竹さんもどうやら人知れず、ひばりに思いを寄せている。しかし、竹さんは父親の勧めで道場の場長との縁談が決まってしまう。同僚看護師のマア坊によれば、「竹さんは二晩も三晩も泣いてたわ。お嫁に行くのは、いやだって。…竹さんはね、ひばりが恋しくて泣いたのよ、本当よ」。それから竹さんの結婚が決まった後、摩擦療法の後にひばりと竹さんが初めて言葉を交わす場面である。以下の記述が本作「パンドラの匣」の中でも最高潮(クライマックス)、最大の読み所といってよい。

「やはり、夢ではなかった。『竹さん、おめでとう。』と僕が言った。竹さんは返辞をしなかった。黙って、うしろから寝巻をかけてくれて、それから、寝巻の袖口(そでぐち)から手を入れて、僕の腕の附け根のところを、ぎゅっとかなり強く抓(つね)った。僕は歯を食いしばって痛さを堪えた。何事も無かったように寝巻に着換えて、僕は食事に取りかかり、竹さんは傍で僕の絣(かすり)の着物を畳(たた)んでいる。お互いに一ことも、ものを言わなかった。しばらくして竹さんが、極めて小さい声で、『かんにんね。』と囁(ささや)いた。その一言に、竹さんの、いっさいの思いがこめられてあるような気がした。『ひどいやつや。』と僕は、食事をしながら竹さんの言葉の訛(なまり)を真似(まね)てそっと呟(つぶや)いた。そうしてこの一言にも、僕のいっさいの思いがこもっているような気がした。竹さんはくすくす笑い出して、『おおきに。』と言った。和解が出来たのである。僕は竹さんの幸福を、しんから祈りたい気持になった。『いつまでここにいるの?』『今月一ぱい。』『送別会でもしようか。』『おお、いやらし!』竹さんは大袈裟(おおげさ)に身震いして、畳んだ着物をさっさと引出しにしまい込み、澄まして部屋から出て行った。どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう」

当のひばり本人も含めて「どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう」。太宰治「パンドラの匣」は、どこまでもさわやかで前向きな読後感が爽快な青春小説なのである。竹さんとの相思相愛な「ひばりの青春」の恋愛は少しだけほろ苦い、しかし後に引きずらない輝かしい恋愛のよい思い出だ。ひばりは今後とも、この往復書簡のやり取りが終わった後でも生きている限り、ずっと竹さんのことを忘れずに思い返して、末長く彼女の幸福をまっすぐな気持ちで願うだろう。

男女の恋愛とは殊更(ことさら)に大袈裟に告白したり、わざわざ一緒に出歩いたり、同棲して共に暮らしたり、結婚を前提にした交際をすることだけではない。毎日、顔を付き合わせて挨拶を交わすだけで自然と声が弾んで笑顔になる。互いに好意があることを知っていながら、あえて先へは進展しない。そして互いの恋愛感情は何ら具体的な形で成就せず、やがて二人の関係も自然と切れてしまう。それでも、それは男女の恋愛に相違ない。太宰治「パンドラの匣」は、そういった輝かしい男女の恋愛の話である。