アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(2)「塙侯爵一家」

横溝正史「塙侯爵一家(ばん・こうしゃくいっか)」(1932年)は、横溝の作品の中では比較的初期にあたり、あまり有名な知られた作品ではない。しかし私は、なぜか昔からこの「塙侯爵一家」が深く印象に残って好きだ。

内容は替え玉ですり替わりの悪徳陰謀小説で、それにいくつかの傷害事件や殺人事件が絡(から)み、おそらくほとんどの読者が事前に予測できずラストに必ず驚くであろう犯人の意外性が「塙侯爵一家」という作品の旨味のコクを出す、横溝による極上小説になっている。「ネタばれ」しない程度に本作の、あらすじを述べると、

「霧深いロンドンの街の片隅で秘密裏に進められたある計画。それは莫大な資産家・塙侯爵の息子で欧州留学中の安道を、思い通りに操れる偽物とすり替える畔沢(くろさわ)大佐の陰謀だった。日本へ戻った偽の安道は見事にその役柄をこなし、ライバルの兄・晴道を押さえて侯爵の信頼を勝ち取った。だが、その頃から偽安道に変化が生じた。大佐の命令に従わず、勝手な行動をとり始めたのだ。そして、あの忌まわしい老侯爵殺害事件が起きた」

「塙侯爵一家」の莫大な資産ならびにその絶大な権力の乗っ取りのため、畔沢大佐の計略でロンドン留学中に麻薬に溺(おぼ)れ中毒で再起不能になった塙侯爵の跡取り息子・安道を、同じくロンドン留学中で貧しく金がなく自殺寸前にまで追い込まれている、しかし容姿が塙安道にそっくりな貧乏青年・鷲見信之助(すみ・しんのすけ)にすり替え、信之助を安道にして畔沢大佐ともども日本に帰国する。現地で知り合った安道のガールフレンドである沢村大使の令嬢・美子も同行して。

そして日本にて偽安道を迎える「塙侯爵一家」の人々は、京都の大道寺家に既に嫁いでる陰気な姉の加寿子、傀儡(くぐつ)で身体が不自由で弟の安道に競争心とコンプレックスを抱いている兄の晴道ら。その他、誕生祝賀会を近日に控え、盛大な催しをする老齢な塙侯爵もいる。さらには新たに紹介されて安道と近づきになる樺山侯爵令嬢の泰子や、日本で再会する信之助のかつての恋人、島崎摩耶子ら。案の定、信之助が扮する偽安道の帰国後に「あれは偽者」の匿名の怪文書が出回り、偽安道は姉の加寿子から「本当に安道なのか」疑われると、その姉が暴漢に襲われ硫酸を顔に浴びせられる事件が起こる。また塙侯爵も誕生祝賀会での衆人監視の庭園テントの中で、一瞬の隙(すき)を突かれピストル射殺されてしまう。果たして犯人は誰なのか。しかも、それら事件の前、帰国した直後から信之助の偽安道が畔沢大佐の言うことを聞かなくなり、勝手に行動して大佐のコントロールが効かなくなる。「もしかしたら全て偽安道による犯行なのでは」、畔沢大佐に不審の疑いが沸々とわき上がる。畔沢大佐が自身で偽安道を利用しているつもりでいて、その実大佐の方が偽安道に利用されているのか。はたまた大佐や偽安道を利用する、さらに別の人物がいるのか。

詳しく述べると「ネタばれ」になるので、どんな場面での誰の発言か一部を伏せ字にしてあえて引用すると、「利用できればそれでいいさ。しかし、利用していると思ったところが、逆に利用されているんじゃないかね」「世の中には自ら好んで肥料になる人間がある。…自分では自分のためになることをしていると思っているのだ。ところが、それは結局、他人を太らせる肥料にすぎないことが、後になってわかるのだ。××はその肥料さ。そしてぼくはその上に咲いた花だよ」のセリフが作中にて飛び交う。

裏の裏は表なのか、その裏の裏の、すなわち表のさらにその裏を読むような複雑なカラクリの人間関係に読み手は翻弄される。作中の畔沢大佐のみならず、「塙侯爵一家」を読んでいる読者も「もしかしたら」偽安道の本当の狙いは何なのか、彼の真意はどこにあるのか混乱して分からなくなる。加えて、姉の加寿子への硫酸顔浴びせと老塙侯爵殺害の犯人は一体誰なのか。この辺り謎が謎を呼び読み手を惹(ひ)きつけ離さず、どんどん読み手の気分をのせ一気に先を読ませる横溝の次々に畳みかける書き方は実に上手いと思う。

このように「塙侯爵一家」は大変おもしろい探偵小説なのだが、如何(いかん)せん横溝の筆が早い。枚数が少ない150ページ程度の中編で展開が早すぎる。だが、さすがは名ストーリーテラーで話を作るのが上手い横溝正史だ。偽安道に隠された秘密や「塙侯爵一家」をめぐる傷害殺人事件の犯人の真相以外にも、随所に読ませ所の仕掛けを数多く散りばめている。例えば、畔沢大佐が属する安道替え玉を画策した謎の謀略組織の存在、兄・晴道の弟・安道に対する積年のコンプレックスで歪んだ競争心理、偽安道が日本でかつての恋人に再会する信之助の過去の清算、ロンドンで以前に安道の手相を見たことがあるという女占い師の再登場など多くの仕掛けがある。

もう少し丁寧にじっくりと書き込んで話を膨(ふく)らませてもよさそうな所であるが、しかしながら枚数が少なく話を早急にまとめる巻きが入っているためか、横溝の記述は全体的に淡白で話の展開が早い。それら枝分かれで、もっと拡げてしかるべき話の各要素を「限られた少ない枚数内でラストまでに全て回収しなければいけない。取りこぼしは絶対に許されない」の切迫したプレッシャーがあるためか、全体に事務的に話の各部要素を早々に回収させ、膨らませることなく終わらせる。だいいちタイトルの「塙侯爵一家」の長たる塙侯爵殺害の場面ですら、あれは小説全体の中では結構なクライマックスの悲劇で謎が深まるヤマの読ませ所だと私は思うが、悲劇や謎を盛り上げる扇情的で丁寧な記述描写はなく、横溝は軽く事務的にさっさと書き流してしまう。

「塙侯爵一家」は、それまで雑誌編集と探偵小説執筆の二足のわらじでやっていた横溝が、いよいよ腹を決めて専業の小説家一本でやって行くことを決めた際に、横溝の古巣の探偵小説雑誌「新青年」が作家専業出発の祝いの餞(はなむけ)に連載の機会を設け、それに横溝が寄稿したものだ。しかし、月刊誌「新青年」に短期の連載だから枚数少なく、前述のように「塙侯爵一家」での横溝の筆は急(せ)かされて自然と早くなる。同じく「新青年」に短期連載の横溝作品といえば、私は「真珠郎」(1937年)を真っ先に思い出す。あの「真珠郎」も内容構想は抜群なのに、短期連載の制約された紙数なため話の展開が早く、拡げた話をさっさと回収して終わらせようとする横溝のやや事務的な処理感が否(いな)めない。

だが「新青年」を毎月購読して月一で楽しみに読んでいた当時の読者や、短期の連載のリズムで執筆脱稿していた当の横溝正史、また横溝に原稿依頼し毎月毎号、最終チェックしていた「新青年」編集部も、あれくらいのスピーディーな話展開の筆の早さで丁度よくて皆が満足で正解なはずだ。現在の私達は初出連載とは違い、後日に文庫になったものをまとめて一気に読むから、月一連載で数回に分けてゆっくり読んでいた当時の読者とは読み方や読後感が相違する。現代の人達が読む「塙侯爵一家」に対する読後の違和は、おそらくはそういったことだろうと思う。