アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(13)「百日紅の下にて」「獄門島」

横溝正史「獄門島」(1948年)は日本における探偵小説の傑作であり、本作に関し私ごときが新たに何かを指摘したり、作品解説をしたり、注文をつけたり苦言を呈したり、今更ながら言うことなどない。横溝の「獄門島」を既読で、すでに内容を知っている人は「以前に読んだ内容を反芻(はんすう)して振り返ること」ができ幸せで、同様に横溝の「獄門島」を未読で、まだ内容を知らない人は「これから新たに読む楽しみ」があり幸せで、何だ!横溝正史「獄門島」に関しては皆が漏(も)れなく幸福感を味わえるじゃないか(笑)。

ただ横溝の「獄門島」について、あえて私から言わせてもらえるならば、本作「獄門島」を読む前に短編「百日紅(さるすべり)の下にて」(1951年)を読んだ上で、続けて長編「獄門島」に当たるのが最良ではないか。

戦後の探偵小説の本格志向の再出発にあたり、横溝正史は「本陣殺人事件」(1946年)にて私立探偵・金田一耕助を新しく創作し非常に精力的に金田一探偵譚を連続して書き継くが、特に戦後初期の頃は金田一探偵事件簿にて、物語世界の時系列構成をかなり厳密に細かく力を入れてやっており、例えば「黒猫亭事件」(1947年)は「本陣殺人事件」の後に起こった後日談であり、地の文や金田一ら登場人物の作中会話にて、それとなく作品毎の事件相互の前後の時系列が読み手に分かるよう横溝は、わざと書いている。「百日紅の下にて」も「獄門島」の事件が発生する直前を描いた話で、ラストがそのまま「獄門島」へ繋(つな)がる形になっている。何しろ「百日紅」の小説結語が、「蒼茫(そうぼう)と暮れていく廃墟のなかの急坂を、金田一耕助は雑嚢(ざつのう)をゆすぶり、ゆすぶり、いそぎあしに下っていった。瀬戸内海の一孤島、獄門島へ急ぐために」なのだから。

「百日紅の下にて」は枚数少ない短編、まさに「上質な小品」と呼ぶにふさわしい作品で、「獄門島」と同じく敗戦後の日本の混乱した社会世相を背景に戦争帰りの「復員者ふうの男」が登場して、といった話だ。事件の背景は同じく横溝の「夜歩く」(1949年)に似て、本作の読み所は、よくマジックで手品師が仕込みのサクラではない、不特定の無関係な観客に自由にトランプのカードを選ばせているように見えて、実は自分が望む札を選択し取るよう暗に仕向ける「ディレクション」の誘導テクニックを彷彿(ほうふつ)とさせる、法事の酒席にて複数あるジンのグラスのうち青酸カリ入りのグラスを誰に取らせて飲ませるか。そんな誘導策略のたくらみ、駆け引き、そして大誤算の話である。それから最後に話を締めるオチは横溝の好みで、これまで自作品にて散々に多用し使い倒してきた例のあれである。「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)や「病院坂の首縊りの家」(1977年)で使用した、横溝の探偵小説にて毎度お馴染みのあれだ(笑) 。

「百日紅の下にて」は、角川文庫では「殺人鬼」に収録されているが、創元推理文庫「日本探偵小説全集9・横溝正史集」(1986年)は同時収録で「百日紅の下にて」の次に「獄門島」と時系列に沿って連続掲載されており一冊で続けて読めて便利だから、角川の杉本一文のいつもの傑作カバー絵も捨てがたいけれど、「獄門島」に関しては創元推理の「日本探偵小説全集9・横溝正史集」の方をあえて選択して読むのも一つの手か、と。

「瀬戸内海に浮ぶ獄門島。南北朝の時代、海賊が基地としていたこの島に悪夢のような連続殺人事件が起った。おなじみ金田一耕助に託された遺言が及ぼす波紋とは?その面白さは三つの殺人にそれぞれ異なった見事なトリックの設定。そのトリックを象徴するに芭蕉の俳句をしつらえ、俳句と殺人の巧みな結びつけは実に圧巻である」(角川文庫版、表紙カバー裏解説)

横溝正史「獄門島」は、テレビドラマや映画にて何度か映像化されており、なかでも監督が市川崑、主演の金田一耕助が石坂浩二の映画「獄門島」(1977年)が大変に素晴らしい映像作品になっている。映像化された歴代の金田一事件簿の中で、確実に上位にくる相当に良質で極上な出来栄えである。映画版「獄門島」は横溝の原作小説と犯人が少し違っている。