アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローのつれづれ」。本ブログ「アメジローのつれづれ」は全三部よりなります。第一部は「生活のたのしみ」、第二部は「音楽のたのしみ」、第三部は「読書のたのしみ」。

第一部の「生活のたのしみ」は、現在の日々の生活(ライフスタイル)について。最初は精神態度とかバイクとかファッションなど私の基本の生活スタイルである、いわゆる「モッズ」についての特集「モッズな生活」から。そして過去に遡(さかのぼ)って、以前に私は京都に住んでいたことがあるので特集「京都喫茶探訪」。昔よく行った京都のタンゴ喫茶「クンパルシータ」の思い出など。

第二部は「音楽のたのしみ」で、スカパラについての特集「東京スカパラダイスオーケストラ大百科」、つづいてYMO(イエローマジック・オーケストラ)に関する特集「YMO伝説」、さらには特集「フリッパーズ・ギター・小沢と小山田」「天才・岡村靖幸」「ピチカート・ファイヴの小西康陽」など。

第三部は「読書のたのしみ」。別ブログ「アメジローの岩波新書の書評」で収録できなかった岩波新書以外の書籍に関することを。まずはトキワ荘出身漫画家で私が大好きだった寺田ヒロオの「テラさん」についての「特集・寺田ヒロオ」から始めて、次に海外の探偵小説・ミステリーの「シャーロック・ホームズ」「アルセーヌ・リュパン」「エラリー・クイーン」ら諸探偵の短編集の書評を。加えて、日本探偵小説界の巨星・横溝正史と江戸川乱歩の特集「再読・横溝正史」「江戸川乱歩・礼賛(らいさん)」。そして日々愛読している太宰治全集より特集「太宰治を読む」から、最後に比較的長いシリーズ「大学受験参考書を読む」へ。

お探しの記事やお目当ての特集は、本ブログ内の検索にて特集タイトル(の一部フレーズ)を入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

京都喫茶探訪(1)クンパルシータ

今回から始まる新シリーズ「京都喫茶探訪」である。以前に京都でよく行った純喫茶のことなどを。ただ昔よく行った喫茶店への私の思いを書いているだけで、「あの店の由来や歴史はこうで」のタメになる話や「得々メニューはこれだ!」のようなお薦め情報はないので、読んでいて正直うっとうしいと思う。一般に他人の私的な思い出話ほど第三者が聞いて本当にどうでもよくて、なおかつうっとうしいものはないので。だが、このブログはほとんど人が来ないから(笑)。人に読んでもらうのが目的ではなく、自分のためだけに書いているので、それがせめてもの救いだ。

以前、京都の木屋町に「クンパルシータ」というタンゴ喫茶があった。昼間は開いていなくて夕方から深夜に開いている喫茶店だった。映画館でレイトショーを観たり、晩飯を食べて一杯やった後によく行っていた。何だか好きで本当に頻繁に寄っていた、クンパルシータには。

狭い路地の風俗店に囲まれた場所にあるので、呼び込みのオッサンの「どうですか?サービスしますよ」の怪しい勧誘の声を毎度かいくぐって(笑)、クンパルシータのドア開ける。左手にカウンター兼厨房の小さなスペースあって、カウンターの上壁に飾りでトランペットが置いてあり、さらにカウンターの奥にオーディオセットが見えて(といってもCDプレイヤーはなく、アナログのレコードプレイヤーとカセットデッキだ)、店の左壁にトイレのドアがあって、そのドアの左手の電気のスイッチの辺りに藤沢嵐子の直筆サイン色紙が飾ってある。椅子は特注で作らせた赤い薔薇(ばら)のビロードのような高級な造りで、店の奥の中央に暖炉があってテーブルは8つくらい。歩くと硬い床が上品にコツコツと鳴る。店内の改装は昭和30年代に一度やったと言っていた。店内の様子を説明し出すとキリがないが、今でもハッキリ覚えている。店の感じとか空気とか、その時聴いたタンゴとか、もちろんコーヒーの味も。

女主人のママが一人でやっていて、コーヒー1杯を淹(い)れるのに時間がかかってね(笑)。先客がいるときは1時間待ちは普通。だが、昔は私も時間がたくさんあったので苦にならなかった。いつも一人で入店して本を読んだり音楽を聴いたりして、ずっと待っていた。近所に「みゅーず」という名曲喫茶でクラシックを聴かせる店があって、そこはコーヒーもすぐ出て来るしアルバイトの人も多くて、しっかりした店だったけれど、なぜか待たされるクンパルシータの方が好きだった。「コーヒーの濃さは、いかが致しましょうか?」と注文のときに細かく聞いて1杯ずつ淹れてくれた。コーヒーの味は苦いシブイ感じだ。私は常にブラックでしかコーヒーを飲まないので、苦いシブイ味のコーヒーが好きなのだ。

私がクンパルシータに通っていた1990年代当時、タンゴの音楽では正統より少し外れたアストル・ピアソラ(Astor・Piazzolla)やヨーヨー・マ(Yo-Yo・Ma)が流行っていて(おそらくCMや映画音楽にて彼らの楽曲が当時よく使われていたため)、だが、なぜか通ぶって藤沢嵐子や阿保都夫(あぼ・いくお)らをリクエストしていた。だいたい、まず嵐子さんを頼んでかけてもらって、その後、変則でわざと「美輪明宏お願いします」と言ったりして。私は、本当はタンゴには全く詳しくはないのだが(笑)。でも、よせばいいのに調子に乗って「やっぱり嵐子さんは上手いですね。嵐子さんだと安心して聴けますねぇ」などと言ったりするので、ママも「この人は、かなりのタンゴ好きな人」と勘違いされていたと思う。すみません。しかし、藤沢嵐子は当時から「かなり上手い」と思って私は好きだったのだけれど。最近は「歌姫」と呼ばれる人は多いが、私のなかで「歌姫」といえば真っ先に思い浮かぶのは藤沢嵐子だ。あと阿保都夫の「スキヤキ」(「上を向いて歩こう」)もクンパルシータで何度も聴いたな。阿保郁夫も本当に洗練されていて日本人の発声とは思えないくらい藤沢嵐子同様、実に巧(たく)みで上手いのだ。

ママともよくお話しした。もうだいぶ時間も経っているのでママとの当時の会話の内容もここに書いてもよいと思うけれど、敗戦後まもなくの頃、映画会社の人たちが店の奥でヒロポンをやっていて当時、店を一緒にやっていたママのお母さんが怒った話。敗戦後まもなく京都四条の美松会館付近の闇市にカレーライスを食べに行った時の話。まだ大映でスターとして売れる前の勝新太郎がクンパルシータの店に来て、店の公衆電話で話す「もしもし勝だけど」の声が聞こえて来て「勝って変な名前だなぁ」とママが思っていたら、勝新太郎が「僕はタンゴよりもジャズが好きでねぇ」と言った話。あとは市川雷蔵の話なども。あの頃は周防正行監督の「Shall ・Weダンス? 」(1996年)が劇場上映された時代で、ママも昔はタンゴを踊る人だったらしく、それを観に行った時の話。映画の面白場面とあらすじを最後まで詳しく話してくれた。結構、繰り返し何度もね。

クンパルシータも今では閉店でもう行けないが、最近でもたまに思い出す、店の感じやコーヒーの味、当時聴いていたタンゴ、藤沢嵐子や阿保都夫の「スキヤキ」、そしてママのことを。特に藤沢嵐子はその後、普通にCDを購入して聴いたけれど、なぜかしっくりこない。家で聴いても車の中のカーステでかけても、これが不思議と駄目なのだ。嵐子さんを聴くのならクンパルシータに行って聴かないと。音楽も音楽みずから聴かれる場所を選ぶのか?

そういったわけで藤沢嵐子も久しく聴いていない。藤沢嵐子と「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」の音源など。本当に今となっては去っていった昔の記憶だけ、懐かしくて楽しい思い出だけだ。後には実物は何も手元に残らない。クンパルシータは、嶽本野ばらの小説「カフェー小品集」(2001年)のなかにも出てくる。最後はセンチメンタルで懐古な感傷モードで非常に湿っぽく、誠にすみません。

モッズな生活(3)ホンダ ジョルカブ

最近、イギリスでの、いわゆる「モッズ」たちによるスクーター・ランの雑誌記事を見た。皆さん、かなりカスタムしてデコレーションを入れた状態のよい「ベスパ」(Vespa)や「ランブレッタ」(Lambretta)を所有していて、モッズ=「貧しい労働者階級のリアルな怒りの若者文化」というよりは「デザイナーや業界人など比較的裕福な階層による最新の流行ファッション」という印象を正直、私は持った。

いまやモッズといえば当たり前のように「べスパやランブレッタのスクーターが必須アイテム」のような話になっていて、その類のスクーターに乗っていると「あなたモッズですか?」とすぐ周りの人達に言われそうだが(笑)、もともとモッズの若者は最初から「スクーター好き」だったわけではない。本当はモッズも初めのうちは四輪の自家用車を購入して乗り回したかった。しかし、モッズは底辺の労働者階級の若者文化だから彼らに金なく、残念ながら車が買えなかった…だから車体価格が割安なスクーターに乗っていただけのことだ。

バイクに乗るとき排気ガスで自慢のモッズスーツが汚れるので、軍の払い下げのパーカーをモッズコートとして汚れよけに着ていたくらいお洒落には神経質だった若者たちだから、モッズな若者で金があったら普通にスーツが汚れない四輪の車を購入して乗る。事実、1960年代後半から四輪の価格が安くなり、自家用車人気が高まるとイタリアのランブレッタ社はバイクが売れなくなり、1971年にスクーター生産をやめている。

さてイギリス本国ではどうなのか分からないけれど、今や日本でベスパやランブレッタ所有するのは、かなり大変である。まず車体価格が高いし、しかも近所にべスパやランブレッタを扱う専門店などそうそうないし、部品調達や修理メンテナンスの面でおそらく素人には無理だ。またベスパは故障しやすい、たとえ新車でも一度バラして再度、組み立て直してから乗らないとすぐ不調になるのウワサ(真偽は不明)も時に聞く。

映画「さらば青春の光」とテレビドラマ「探偵物語」の工藤ちゃん(松田優作)の影響で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも、メンテナンスの手間や車体購入の経済的負担の金銭面で思いかなわず、私は今デザインがべスパやランブレッタぽいホンダの「ジョルカブ」に乗っている。そんなわけで愛車の赤のジョルカブにフロント・キャリアとバンパーを付けてみた(画像のような感じ)。

さすがにフロント・キャリアとバンパー完備の赤のジョルカブに、モッズスーツとモッズコートを着用で街乗りして信号待ちなどしていると「おまえはモッズか?」「もしかしたら映画『さらば青春の光』やバンドのコレクターズのファンの方ですか?」のような、無言ないしは有言の車中や通行人からの声が時に掛かって困る(笑)。

ジョルカブは、見かけはジョルノのデザインにカブのエンジンを積んでいるので「ジョルノ+カブ=ジョルカブ」なのだが、ステップに4速のギアが付いていて、足元でガチャガチャやりながら走る操作性が面白い。また、エンジンがホンダの「カブ」だから汎用性が効いて交換・代替部品も豊富にあるし、近所のバイク店でオイル交換などのメンテナンスも気軽に日常的にできる。それに何しろホンダのカブは「ストップ・ゴー」を日常的に頻繁に繰り返す郵便や新聞配達の業務用バイクに採用されるくらい故障が少なくエンジンが強く、総走行距離もかなり長くまで行けて末永く乗れるらしいので、モッズな方で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも思いかなわずな人に私は強くお薦めしたい。

ジョルカブはもう生産中止だが、まだ中古車で日本国内にてそこそこの車体数は流通しているし、価格的にもそこまで高騰の「幻の車種」ではないらしいので、お薦めです。

 

大学受験参考書を読む(123)「ちくま小説入門 高校生のための近現代文学ベーシック」

私は10代の高校生の頃から、それとなく日本の近代文学や同時代の現代小説を読み始めたのだが、当初はただ話の面白さの筋と結末、作中に登場する人物(キャラクター)の魅力らに心惹(ひ)かれて、どこまでも自己流の無方法の方法で小説に向かって漠然と奔放(ほんぽう)自由に読み重ねていた。しかし、ある時ふと自分の文学の読み解きの力量見識を見定め確認してみたくなり、後に「文学入門」「文学鑑賞の手引き」のような書籍を一時期、集中的にかなりの冊数を連続して読んでみたことがある。

読書論にてよく言われることだが、自分が知りたい事柄に関しては、そのことが書かれた書籍を一冊読んだだけで終わらせず、続けて複数冊を重複し読んでみるとよい。そうすれば異なる著者により書かれたことであっても、皆が当たり前の事のように指摘し自著に書いて合致する内容が自然と分かってくる。そして異なる著者であるにもかかわらず、本を執筆し出版する程のその分野に明るい複数の人が各自、自由に書いて結果、それでも複数書籍にて合致し見事に重複している内容であるなら、決してそれは新説・珍説の類(だぐい)でなく、そのテーマ分野にてかなり信頼性のある普遍的な真理だと、とりあえずは見なしてよい。

ところで文学における小説、俳句・短歌や詩や髄筆(エッセイ)ではない小説(フィクション、物語)の勘どころは、作中人物の感情表出である。ただし書く方は、登場人物の感情表出たる心の動きを直接的に書いてはいけない。人間の感情には「喜怒哀楽」があるが、「喜びの感情」などと直(じか)に言葉にして決して書き入れてはいけないのである。人間感情の「喜怒哀楽」を直接に言葉にすれば、たちまちそれは平板で嘘っぽいものになってしまう。だから、そうした人間の感情表出は直接的な言葉にせずに、その人の発言ら言葉によるものではなくて、情景描写とか人的雰囲気などの叙述を介して間接的に暗に、だが着実に読み手に説得力をもって伝えるのが「文学における小説の作法」である。

小学生に作文を書かせるとよく、「遠足に行って楽しかった」「友達とゲームをして負けて悔(くや)しかった」などと平然と書いたりする。また最近ではそこそこの年齢の大人であっても、「今日は楽しかった」など言ったりする。作文を書く小学生は子どもだからまだよいとして、実際に大人を通じて、こうした感情表出の直接的な言葉を聞いて私は旋律(せんりつ)せずにいられない。「楽しい」とか「悔しい」といった人間の感情をそのまま言葉にして伝えることは、それら感情が直に言葉に変換された途端に、たちまち平板で嘘くさくなってしまう原理を何ら知らず、そのリスク(危険性)を何ら回避していないからだ。こういう人は、いわゆる「文学的素養のない」、野暮(やぼ)な人である。

そもそも人間の感情には「喜怒哀楽」の四つの種別はあるが、人の感情の内実は、例えば単に「楽しい」「悲しい」だけではなくて、「楽しいのだけれど、同時に何だか悲しい」とか、逆に「悲しいのだけれど、どこか楽しい気持ちがある」というような、「楽と同時に悲」や「悲の中の楽」といった名状しがたい、言葉では何とも言い表せない複雑感情もある。そういった複雑な人間の感情を小説の叙述を通して如何に読み手に伝えるか、それが文学が目指す高みの本領である。加えて、それら人の複雑感情は場面の展開や時間の経過により、同じ人物であっても刻々と変わりゆく。そうした細かな人の心の機微(きび)を逐次精密に書いていくのも、これまた文学が目指す高みの本領といえよう。

さて前述のように、以前に私が「文学入門」「文学鑑賞の手引き」等の書籍を集中的に複数冊、読んだ際に各書にだいたい重複してあった「小説の創作・読解の方法」内容は、少なくとも以下の3点に集約される。

(1)心情一致、(2)言動の背後、(3)伏線回収

(1)の「心情一致」とは、小説内にて登場人物の心情と周りの情景とが一致することである。先に記したように、人間感情の「喜怒哀楽」を直に言葉にすれば、たちまちそれは平板で嘘っぽいものになってしまう。だから、そうした人間の感情は直接的な言葉にせず、その人の背後にある情景描写に暗に重ねて、間接的に自然に感情表出させる。

例えば作中で、ある人物が泣きたいような辛(つら)い気持ちであっても、彼は特に泣き出さないし、自身がそうした心持ちである「泣きたい気持ち」の説明の発言もしない。ただ黙ってうつむいていて、その場面の小説記述では彼の背後で雨が降るのみである。これが「心情一致」で、人の内面の「心」情をわざと外部の「情」景に投影し「一致」させる小説の技法である。文学の小説はあくまでも物語(フィクション、作り物)だから、必ず心情一致するわけで。現実世界では人が泣きたいくらいの悲しい時に決まって雨が降るとは限らない。人間の内面心情とは独立して、情景の天気は勝手に自由に移り変わる。だが文学の小説では、人が泣きたい気持ちの時には、人間の悲しい内的心情を外部の雨の情景に投影し一致させる「心情一致」にて、誠に都合よく雨が降り出すのである(笑)。

(2)の「言動の背後」も、人間感情の「喜怒哀楽」を直接に言葉にすれば、たちまちそれは平板で嘘っぽいものになってしまうので、そうした人間の感情は直接的な言葉にせず、今度はその人の言動に暗に重ねて感情表出させる手法である。

小説の作中にて、ある人物が仮に「うれしい」感情を有していても、彼は直接的に「私はうれしい」とは絶対に発言しない。また小説の書き手は、「彼はうれしかったのだ」の説明的な文章は書き入れない。ただ「目が輝いている」「声がはずんでいる」などの人物の言動描写を通して、書き手は読者に間接的に伝えるだけである。だから小説の読み手は、そうした作中人物の「言動の背後」まで読み取り、物語世界の内部により深く没入していかなければならない。

(3)の「伏線回収」は、叙述のなかで「あいまいな応答」「真意をはかりかる不可解な行動」などが、ある人物にあって(これが伏線の張り巡(めぐ)らし)、後の記述で「なぜあいまいな応答に終始したのか」「あの時の不可解な行動には、どういった真意や意図があったのか」を明かし、伏線を回収するものである。

小説における伏線の張り巡らしと回収は、伏線を事前に張る際に、それが伏線であると読者に目立って悟られないこと。また後の伏線の回収でも、読み手が忘れた頃に鮮やかに回収し不可解の事情や真意を明かして、読み手に新たな発見や驚きや納得感を与えること。これが小説における「上手い伏線回収」と高く評価される。

以上のことは、文学に明るい、ある程度の知識がある、その筋の専門家が書いて結果、複数書籍にて重複して指摘される事柄であるから十分に信頼に足りるのである。そして、この3つの「文学における小説の作法」を踏まえて、大学入試の現代文の小説問題を改めて見てみると、なるほど、小説文の出題は、いずれもこれら小説の原理に基づく実に理にかなった問題作成になっていることに気付く。小説中の情景や人物の言動の描写文に引かれた下線部から読み取れる、登場人物の心情を記号選択で選ばせる、ないしは直接に記述式で書いて説明させる型(タイプ)の設問、先の3点でいえば、(1)の「心情一致」と(2)の「言動の背後」を利用したものが、大学入試の現代文の小説問題では非常に多い。というかほとんどが、このパターンである。

なお大学入試の小説問題にて、(1)の「心情一致」と(2)の「言動の背後」の多用とは対照的に、(3)の「伏線回収」に依拠した設問パターンがほとんど見られないのは、伏線回収は短編であれ長編であれ、小説の最初の方で伏線が張り巡らされて、後に回収されるまでに相当な字数を要する文学的仕掛けであるため、長い小説の短いある場面部分を切り取り作成した入試問題現代文では、「伏線回収」を考えさせる作問が困難であるからだと思われる。

大学受験参考書を読む(122)霜栄「現代文 小説 読み解き講座」

以前に、芥川賞受賞作家の宮本輝が、自身が執筆の小説を問題にしたセンター試験・国語の過去問を自分が特集のムック本での編集者の持ち込み企画で解いてみたところ結構、間違えて完答には程遠く、宮本輝も編集者も大笑いということがあった。

宮本輝は賢明で、いわゆる「空気の読める人」なので、「えっ、なぜこの選択肢を選んだら間違いなの(怒)」とか執拗に食い下がっていて面白かった。あれは企画持ち込みの編集部の意図を汲(く)んで、「小説を書いた本人で全て知り尽くしているはずなのに、自身の作品を用いた現代文の入試問題を作家当人が解けない」を体現することで、場が盛り上がり読者が喜ぶよう、宮本がワザと大げさにやっているフシが私には感ぜられた。宮本輝は賢明で実に空気の読める人で、「この人は周囲の人へ配慮ができる優秀な作家だ」と私は思った。

ただ、これは宮本輝の名誉のために即刻に言い添えておきたいが、小説を執筆した作家の当人が自作品を素材にした大学入試問題を仮に解けなかったとしても、それが作家本人の自作に対する無理解とか、浅い認識といったことには絶対にならない。入試問題の現代文が解けるというのは、問題になっている課題文そのものに関する理解の広さと深さ以外の所で、課題文に付されている設問選択肢の見極め知識のコツを知らなければ、完答することは到底、無理なのである。

つまりは先の宮本輝の話でいえば、宮本は小説を書いた本人だから、そこらへんの一般読者よりは、はるかに作品のことを、かなり広く深く隅から隅の裏の裏まで知り尽くしているわけである。何しろ、小説を無の白紙の状態から構想し、それなりの時間と労力とを費やして原稿用紙に一文字ずつ書き入れ執筆した創作の張本人なわけだから。にもかかわらず、センター試験・国語での自分の小説を素材にした現代文の問題が解けないのは、宮本が課題の小説本文に関しては大変よく知ってはいるけれども他方、設問にある選択肢の見極め方を知らないからである。より詳細にいって、「最も適切なものを選べ」の択一問題にて各選択肢に関する、「これは明らかに不適切で、これを選べは不正解になる」「これは不適切パターンの典型タイプ(型)に該当するので、正解ではない」といった選択肢の見極め知識やコツを、宮本が(おそらく)過去に大学入試現代文を解いたことがなく、全く知らないことによる。だから宮本輝はプロの作家なのに、自作を素材にした入試現代文に対し、「えっ、なぜこの選択肢を選んだら間違いなの(怒)」というような事態になってしまう。

入試現代文を解けるというのは、課題文そのものへの読みの広さと深さに加えて、設問にある選択肢群の見極め知識の両方が必要である。事実、標準的な大学入試現代文の参考書では、課題文の読みの解説をやりながら、同時に設問を見て、客観式の択一問題の場合には、正解選択肢にたどり着くために残りの誤選択肢の「どこの何が不適切なのか」逐一明確に指摘するの指導手順である。いくら課題の現代文を確かな読解力で正確に読めても、他方で設問での選択肢群に関する「適切か不適切か」の判別知識がなければ原理的に大学入試現代文は解けない。

センター試験もしくは後の共通テスト・国語対策の受験参考書で評論問題を扱った書籍は多くあるが、小説問題に特化したものが少ないとは昔からよく言われる。だが近年では、霜栄「現代文・小説・読み解き講座」(2024年)など、現代文の小説問題のみを集め解説したものも多く出されている。

小説問題に特化した現代文の大学受験参考書が少ないのは、小説は論理以前に作中の登場人物の人間の感情を扱ったものであり、論理的な要旨の読み解きであるよりは、感覚的で主観的な作品鑑賞の面が強いと一般に目(もく)されているからなのかもしれない。しかし、そうした私的な文学鑑賞の楽しみで主観的に読む小説であっても、大学入試の小説問題は感情抜きで厳密に読まれなけれはいけない。そうしなければ、その時々の場当たり的な主観の読みでは毎回、確実に正解にたどり着いて高得点ということにはならいからだ。

前述のように、センター試験や共通テスト・国語の小説問題にて現代文が解けるというのは、問題になっている課題文そのものに関する読みに加えて、課題文に付されている設問設択肢の見極め知識のコツが必要である。これまで遊びでセンター試験・国語の小説の過去問を解いてきた私の経験からして、小説での「最も適切なものを選べ」の択一問題での選択肢は、「小説本文に引かれた下線部から読み取れる登場人物の心情」と「作中の人物がそのような心情に至った原因・理由や背景の説明」の二つの要素により、ほぼ構成されている。すなわち、

「小説問題の設問選択肢=小説本文に引かれた下線部から読み取れる登場人物の心情+作中の人物がそのような心情に至った原因・理由や背景の説明」

であるわけだから、各選択肢をこの二つのブロックに分けて吟味すればよい。正解選択肢ならば、「小説本文に引かれた下線部から読み取れる登場人物の心情」と、「作中の人物がそのような心情に至った原因・理由や背景の説明」の二つが共に妥当で適切である。その他の不正解の不適切な選択肢は、必ず「小説本文に引かれた下線部から読み取れる登場人物の心情」か、「作中の人物がそのような心情に至った原因・理由や背景の説明」のどちらか、ないしは両方ともに不適切な内容であるはずだ。

そして「小説本文に引かれた下線部から読み取れる登場人物の心情」は、現代文の読解力があるとか、普段より小説を読み慣れている云々以前に、人間の普通の洞察の心があれば、小説内の文章記述を読んで登場人物の心情は簡単に読み取り理解できる。生まれながらの性格資質で、どこまでも自分中心で他人に配慮し他者を思いはかることが一切ないとか、対人経験の訓練の社会性が希薄で相手の気持ちが分からない、ないしは発達障害や心的な病気のため、そもそも他人の気持ちが全く理解できないといった問題がない限り、普通の人なら小説の作中人物の心情を理解し、その作中人物に感情移入しながら読める。とすれば、センター試験や共通テスト・国語の現代文の、小説問題での盲点になりがちな案外、重要なポイントは、各選択肢中の「作中の人物がそのような心情に至った原因・理由や背景の説明」のブロック要素の方の適切さ判断の勝負になるのではないか。

また小説の客観式の択一問題では、「小説本文に引かれた下線部から読み取れる登場人物の心情」と、「作中の人物がそのような心情に至った原因・理由や背景の説明」の二つ要素からなる選択肢のものだけでは問題の多様さに欠けるからか、その他の出題パターンとして、例えば擬人法や体言止めや比喩、擬声語・擬態語の多用、あえて短い文の連続など、課題文である小説中にて主に使われている修辞(レトリック)の効果の読み取りをさせる新たなタイプの設問が、近年のセンター試験や後の共通テスト・国語にて毎年定番になりつつあるように思う。

大学受験参考書を読む(121)瓜生豊・篠田重晃「大学受験スーパーゼミ 全解説 頻出英文法・語法問題 1000」

私が高校生の時、高校の必携の副教材で買わされた桐原書店の上垣暁雄「大学入試・英語頻出問題総演習・即戦ゼミ」(1990年)という問題集があって、それをよくやっていた。今回の「大学受験参考書を読む」は、その桐原の「大学入試・英語頻出問題総演習・即戦ゼミ」と同じシリーズで後継書籍にあたる、瓜生豊・篠田重晃「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」(1993年)を取り上げてみたい。

本書は大学受験英語にて定番頻出の文法・語法問題をタイトル通りの1000題、つまりは1000個のポイントを網羅するものである。実際に出題された大学入試の文法・語法問題の過去問が、出題大学名も付して別冊の問題冊子に四択の記号選択形式の問題としてある。ここは、いちいち律儀(りちぎ)に問題を解いてから、後に解答・解説を参照するのではなくて、もう問題は解かずに最初から1000の文法・語法のポイント解説を直接に読んで、手っ取り早く1000個の英語ポイントをつぶしていくのが良いと思える、

結局のところ、英語の文法・語法の問題は「知っているか/知らないか」に尽きる。その文法ルールや語の用法を知らなければ、新たに学んで知ってしまえばよいだけのことである、そして、本書「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」に掲載されてある1000個の文法・語法ポイントを知っていれば、現行の大学受験英語の問題は、だいたい解けるとは思う。だから早いところ、本書に掲載の1000個の文法・語法のポイントを「1から1000まで」読み内容理解をして、実際の入試問題に対応できるようにしておけばよい。話は簡単である。

例えば、「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」でのポイントの「250」は、「動詞の語法」のうちでの「他動詞・discuss─discuss+O」である。動詞の「discuss(議論する)」は自動詞ではなく他動詞で、他動詞は自動詞よりも後ろに来る目的語(O)との結びつきが深いから、その深い親和性からして「Oについて議論する」は、「discuss+O」である、例えば「discuss・the・Plan」(その計画について議論する)というように。

ただ、この「discuss」の語を日本語訳で考えると、「discuss」(××について議論する)だから「××について」の日本語に引きづられて、「discuss+about+O」にしてしまいがちだ。だが「discuss」は他動詞なので、目的語の間に前置詞の「about(ついて)」をかませずに、直後に目的語を置く「discuss+O」の型で覚えておくべきである。ついでに言うと、「議論する」で前置詞の「about」を使うパターンは、自動詞の「talk」を使う「talk・about+O」(Oについて議論する)になる。

この手の、だいたいこのくらいの長さで簡潔理解できる文法・語法のポイント事項が1000個、ざっと網羅されている「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」である。

本書は1日20個くらいポイントを学んで、それを毎日やって50日ほどで一冊全てを終わらせるのがよいのではないか。その上で念には念を入れて、あと2周ほど(50日✕2)、新たに100日(3ヶ月強)くらいかけて、本書「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」を繰り返しやり込めば、大学受験英語の文法・語法問題がほぼ解けるのみならず、その他、入試以外での英文読解の際にも役立ち、英語力養成の実力アップにつながるはずである。

大学受験参考書を読む(120)中原道喜「英語長文問題精講」

中原道喜「英語長文問題精講」(1990年)は、昔からある大学受験の英語の長文読解の問題集で、私は前から知っていた。1980年代当時、高校の友人が、特に高校の副教材でもないのに、本書の旧版をなぜか学校に持ってきて、休み時間や放課後に自習でやっていた。あの黄色の表紙の、旺文社から出されている、前から見覚えのある「英語長文問題精講」である。

そこで先日、中原道喜「英語長文問題精講」の新版を購入してやってみた。本書は大学入試の英語長文問題の過去問が全60題収録されている。私は1日1題、毎日の昼食後に読むルーティーンで2か月(60日)ほどかけて一冊やった。その期間は自分の中では、それなりに充実した英語学習の時間で何だか楽しかったな。

私が購入した中原「英語長文問題精講」は、2016年出版の「新装版」の最新版である。本書の帯には「受験生とともに80年。問題精講シリーズ・累計1200万部突破!不滅の名著」とある。本シリーズの初版は何と!1933年で、現行の「問題精講」の体裁になったのは1982年からであるという。「英語長文問題精講」に付されている「標準問題精講」というサブタイトルから、本書は「標準」レベルの基礎的な英語長文読解の問題集かと思っていたら、帯の別の箇所には「難解大レベル」とあって、一応は難解大学対策の上級レベルの英文読解問題集であるらしい。

本書は、大学入試で以前に出題された過去問の英語長文を掲載しているが正直、私が毎日読んでそこまで難しい英文とは思えなかった。まさに「標準的」な、そこそこ平易な英語である。また別の英語問題集で以前に読んだ記憶がある英文も散見され、日本の大学入試では昔から定番で有名な英語長文を広く収録しているものと思われる。

私は英語を日常的に話したり、書いたり、聞いたりするような職業や生活環境に今も昔もない。ただ趣味的に、英語版の「ウィキペディア(Wikipedia)」や、洋楽ロックが好きなので海外の音楽雑誌記事を英語で軽く読む程度でしかない。それらに掲載の英語は、一般の英米人のネイティブが日常的に書く、案外とりとめのない簡潔英語で、そこから一転、日本の大学入試英語の格調高い(?)、やや文語的であり、倒置構文や「It…that」の強調構文、助動詞過去形がマーカー(目印)である仮定法らが頻出で、しかも英語の論理構造(対立、抽象具体、因果関係)が、しっかりとしている評論文の英語に接すると身が引き締まる思いがする。

通常の一般の英米人のネイティブが日常的に書く、とりとめのない英語では、倒置構文や「It…that」の強調構文、助動詞過去形がマーカー(目印)である仮定法など、めったにないから(苦笑)。これは日本人が使う日常的な日本語で同様に考えてみれば分かると思うが、私達の日本語での日常的な会話や記述の文章にて、倒置法とか強調法とか仮定法など使う機会は、めったにないのである。むしろ、日常的な会話と文章で倒置法や強調法や仮定法らの修辞を多用する人がいれば、その人は格式ばった、やや面倒くさいイヤミったらしい人として敬遠されるだろう。

しかし大学入試の受験英語は、倒置法とか強調構文や仮定法などが頻繁に出てくる非日常的な文語的英語であるので、読んでいて何だか新鮮だ。

大学受験参考書を読む(119)田中結也「日本史探求」(その2)

ここ数日で、ネットに上げられている大学受験指導の「たたよび・文系チャンネル」内での日本史講義の動画、田中結也「日本史・プレミアム全講義」の原始・古代から近現代までの全44回を視聴した。

この人の日本史講義の特徴は、どうやら受験日本史を教える際に「歴史用語を羅列の機械的な暗記や、無理矢理の語呂合わせで覚えさせる」を回避して、「なぜそうなのか内容から教えて理解させる。結果、受験生は無理なく日本史知識を覚える」の指導の面が強いように思う。つまりは教科書記載の、入試に出る表面的な歴史用語の知識を単にピックアップするだけでなく、それら用語の背後にある歴史的背景や歴史知識のより詳しい内容、用語同士の関係性にまで掘り下げ適時触れて、時代の因果の流れや他時代との対比を意識させる講義を田中師はやる。

その上で田中師の場合、日本史講義でそれら用語の背後にある歴史的背景や歴史知識のより詳しい内容に触れて解説した後に、山川出版社「詳説・日本史」や実教出版「日本史B」での該当記述を読み上げ、学生に再度、歴史事項の内容確認をさせる。

これは確かに理にかなった合理的な、日本史の教え方であると思う。実際に山川出版社「詳説・日本史」にしても、実教出版「日本史B」でも学校現場で使われている公的教材たる日本史教科書は、実によく正解に書かれている。ここでいう「正解な」教科書記述というのは、教科書執筆者が書きたい歴史項目に関する知識・解釈や個人的な歴史観ではなく、はたまた学生に歴史に興味関心を持ってもらうための日本史の裏話や蘊蓄(うんちく)のような細かな話を教えるということでは全くない。

つまりは、現行の高校日本史教科書での正確記述というのは、教科書執筆者が、大学や学会でやられていて実績と蓄積のある、戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍を参照した上で、その専門的な学術内容を全て詳細に書いているわけではないが、明らかに戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍の内容に依拠しながら、暗にその典拠に基づくものであることを、時にそれとなく匂(にお)わせる絶妙な筆致で一貫して周到に書き抜かれているのである。

ゆえに現行の高校教科書の記述に、昨今流行りの歴史ミステリーや陰謀論的でセンセーショナルな、俗にいう「トンデモ歴史」語りのものは皆無であるし、一部学者が主張している新説・珍説も取り上げてはいない。また現在まだ決着がついていない論争下にあるもの、専門家・学会の間で概(おおむ)ね妥当と認められていない新奇の学説も盛り込まれていない。戦後に大学や学会で研鑽(けんさん)され積み重ねられてきた日本史研究の成果内容に悉(ことごと)く即して、妥当な専門性に典拠する形での、本格的な日本史学習にはほぼ初学である高校生向けの日本史教科書であるのだ。

このことを逆から言うと、高校教員が高校生に対し、また予備校講師が受験生に向けて「正確に」その結果、適切に日本史を教えるということは、自分が教えたい歴史内容や自身の個人的な歴史観を学生に勝手気ままに教えるということでは決してない。どこまでも戦後の大学や学会にて積み重ねられてきた専門的な日本史研究の諸論文・研究書籍を暗に踏まえた上で、そうした戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍の内容に依拠しながら教えなければならないのである。だから、例え高校生や大学受験生に初学レベルの日本史を教える教師の側は、原始・古代から近現代までの、大学や学会にて認められ主流である日本史研究の専門知識を最低限、学び知っておかなければならないということになる。

ただ、これは高校生・浪人生に受験日本史を教える際、入試問題が解けて志望校に合格することが目的の受験勉強であるので「ここは、とりあえず暗記して試験対応できるようにしておけ。晴れて大学合格し無事に大学生になってから、より高度で専門的な日本史を後に学べば良いのだから」の旨での歴史用語羅列の無味乾燥な暗記学習、それでは決して済ませずに歴史内容にまで突っ込み、掘り下げて理解させる形で(田中師のように)詳しく教える場合に限るのだが。

例えば、近現代史の自由民権運動の項目で、山川出版社「詳説・日本史」には、「士族民権」「豪農民権」の用語が掲載されている。実際、私が高校生の時に習った日本史ではそうであったし、仮に今、私が高校生や大学受験生に近現代史の自由民権運動を教える際には、それら「士族民権」「豪農民権」らの用語を押さえて、自由民権運動史を「士族民権(上流民権)→豪農民権→農民民権(激化事件)→大同団結」という運動の中心的担い手変遷の4時期区分で教えるだろう。また大学入試の日本史論述で「自由民権運動の概要」を書かせる問題の場合、この4時期区分をまずやってから、その上で4つの時期についての主要な事件や運動要求内容をそれぞれ詳しく書き入れる論述構成にしなければ、ほとんど点数をもらえないだろう。

そして、この自由民権運動に関し「士族民権(上流民権)→豪農民権→農民民権(激化事件)→大同団結」の4時期区分で説明し理解する教科書記述は、私は大学進学後に専門の自由民権運動研究を広く読んで改めて気付いたのだが、戦後の大学や学会にて積み重ねられてきた専門的な日本史研究の諸論文・研究書籍を踏まえたもので、その専門研究に依拠して高校生向けの教科書記述が一貫してなされているということであった。

事実、日本近現代史での自由民権運動研究は1960年代の民衆史ブームに支えられていた。当時その民衆史の手法を取り入れて、自由民権運動研究を牽引(けんいん)したのは色川大吉を始めとして、安丸良夫、ひろたまさき、鹿野政直の各氏、民衆史専攻の歴史研究者だった。1960年代は日本史研究の現場でも主要人物や事件や政治テーマに関するものは戦後歴史学の中で既に一通りやられており、いわば「歴史研究は一周した」感があった。そこで著名な為政者や思想家、歴史的事件や法制の政治システムではない、無名の被支配層の民衆の実態や郷土史に連なる各地方のあり様へ、これまで未着手であった分野に研究テーマが拡がった。

かつ当時の現実社会でも安保闘争を介した学生運動や労働運動、地域の反基地闘争、地域住民による公害訴訟、女性解放運動(ウーマン・リブ)、消費者運動など、まさに1960年代は同時代にて市民運動の時代であり、それが歴史における民衆発掘の民衆史の動きにそのまま連動していた。当時、自由民権運動の研究に接する者は、中江兆民や植木枝盛の頂点思想家に関するもののみならず、かつての明治の民権運動にての在野の無名な民衆の歴史的姿を、そのまま現在の各種の市民運動に奮闘する無名の市民たる自分たちに暗に重ねて読んでいた。

そうして現在でも、自由民権運動についての研究で色川大吉ら専門研究の多くの著作・諸論文を読むと、民権運動の概観は、かの「士族民権(上流民権)→豪農民権→農民民権(激化事件)→大同団結」という、運動の中心的担い手変遷の4時期区分で当たり前のように書かれている。おそらくこの4時期区分での論じ方は専門の自由民権運動研究にて、多くの研究者が同意する妥当な自明の事柄であって、この4区分に即していない民権運動研究者ないしは研究は「モグリ」とか「素人研究」と一刀両断に切り捨てられる程のものがあると思う。

この自由民権運動についての教科書記述の事例に見られるように、現行の高校日本史教科書の執筆者が、大学や学会でやられていて実績と蓄積のある、戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍を参照した上で、明らかに戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍の内容に依拠しながら、暗にその典拠に基づくものであることを、時にそれとなく匂わせる絶妙な筆致で一貫して実に周到に書き抜いているのだ。だから山川出版社「詳説・日本史」を始めとした日本史教科書は、直接的に明確に書かれざる行間まで読んで、よくよく精読されなければならないし、教科書を用いての日本史授業は有効である。

そして、大学受験指導の「たたよび・文系チャンネル」内での日本史講義の動画、田中結也「日本史・プレミアム全講義」にての、田中師による、用語の背後にある歴史的背景や歴史知識のより詳しい内容に触れ解説した後に、山川出版社「詳説・日本史」や実教出版「日本史B」で該当の教科書記述を読み上げ、学生に再度、歴史事項の内容確認をさせるといった教科書を用いた日本史講義の効果的な進め方に、私は強い賛同とかなりの好感を持った。