先日、コナン・ドイル、シャーロック・ホームズ・シリーズの「バスカヴィル家の犬」(1901年)を読み返してみた。本作は過去に何度も読んでいて結末も犯人も全て知っている。しかし、そうした「ネタばれ」の状態であっても、長編ホームズの中では「バスカヴィル家」は例外的に面白いと思う。
ドイルはシャーロック・ホームズに関し5つの短編集(「冒険」「思い出」「帰還」「最後の挨拶」「事件簿」)以外にも、長編をいくつか執筆している。それらは発表順で、「緋色の研究」(1887年)、「四つの署名」(1890年)、「バスカヴィル家の犬」(1901年)、「恐怖の谷」(1914年)の4編である。
長編ホームズの中では「バスカヴィル家の犬」が、頭一つ抜けて面白い。理科の圧力単位に「パスカル(pa)」があることから、本作「バスカヴィル家の犬」に関し、「パスカヴィル家の犬」と勘違いしている人がたまにいるが(笑)、正確なタイトルは「パスカヴィル」ではなくて、「バスカヴィル」である。一応、念のため。
本作の概要はこうだ。
「昔の呪われた伝説が、いまなお生きているのか。西部イングランドの名門、バスカヴィル家の当主が突然、謎の変死をとげる。死体には外傷がないが、その顔は恐怖にゆがみ、かたわらには巨大な犬の足跡がついていた。闇にきらめく灯火、火を吐く魔の犬の跳梁(ちょうりょう)!荒涼たる一寒村を舞台に、恐怖と怪異にみちた妖犬に挑戦するホームズは?」(東京創元文庫版・表紙解説)
イギリスはイングランド南西部、デボン州ダートムーアの領主、バスカヴィル家に伝わる呪われた伝説とは、犬にまつわる「魔犬伝説」である。当地の名門、バスカヴィル家の先祖が悪徳な人物で、村の女性を拉致するという蛮行をした際、どこからともなく現れた大きな犬に喉笛(のどぶえ)を噛(か)みちぎられて殺され、悪行仲間もその後死んだり発狂したりするといった、たたりの伝説ががあって、「子牛ほどもある黒犬が、口から火を吹き大きなするどい目を輝かせて夕暮れに現れ、その姿を見た者は必ず夜明けまでに死ぬ」という言い伝えが、この地には昔からあった。
そうしてバスカヴィル家の現当主が、ある夜、敷地内で殺され、死体には他殺による外傷はなかったが、その顔は恐怖にゆがんでいた。そして、あの魔犬伝説を裏付けるかのように、死体のそばには巨大な犬の足跡が!それから怪死した当主の正統な後継者にあたる、遠縁の若きバスカヴィル卿が爵位と莫大な財産を相続すべく、ロンドンにやって来る。しかし、そのロンドンの地で、ダートムーアのバスカヴィル家の屋敷に赴くな(「生命と常識を大切にするならば荒野から遠ざけよ」)と警告する差出人不明の脅迫文が届く。だが、科学的合理論者で理性的な今般バスカヴィル家当主となる若き後継者は、かの地に伝わる魔犬伝説に恐怖することなく、脅迫文にも屈せずにダートムーアの領地に出向くことにする。そこで、ロンドンのベイカー街にいる私立探偵、シャーロック・ホームズと、その友人であるワトソンに探偵依頼の話が持ち込まれるのだが。
私が毎度、英国のドイル「バスカヴィル家の犬」を読むたびに思うのは、これは日本の横溝正史「八つ墓村」(1951年)と話のプロット(筋書き、骨組み)が全く同じであるということだ。もちろん、横溝「八つ墓村」の方が時代的に四十年以上遅く、後発の横溝はドイルの「バスカヴィル家」は既読で知っているはずだから、これは横溝正史が「八つ墓村」を構想・執筆する際に、ドイルの「バスカヴィル家の犬」をかなり参考にし大胆に真似た、ほぼ翻案小説といってよいのである。
イングランドの寒村、ダートムーア地方に伝わる、領主の祖先がやらかした問題行動に端を発した「魔犬伝説」。かたや日本の山陰、岡山地方に伝わる、かつて戦国の時代に大金を携えて村に敗走した落武者を、村人たちが欲に目が眩(くら)み惨殺して強奪。以来、この村では、首謀者の子孫が突然に発狂して村人を虐殺する惨事が繰り返される。まさに直近に岡山で実際にあった「津山三十人殺し」(1938年)のように、という偶然にしては、あまりにも一致しすぎる怪奇伝説モチーフ(主題)の同一プロットである(苦笑)。
そうして、それら忌まわしい怪奇伝説が伝わる当地へ、年若い遠縁の正統な後継者が、事前に命の危険を警告する無署名の脅迫文が届けられたにもかかわらず、彼は相続のために、かの地へ足を踏み入れてしまう。そこから伝説にまつわる奇怪な殺人事件が発生して、という話の展開まで、そのまま同じだ。
その他、ダートムーアの荒野にて、監獄から脱獄した男の姿が散見され、村の事件関係者がなぜか彼をかくまうような不可解な行動を重ねる。それが「この関係者が真犯人、もしくは犯人を知る共犯の重要参考人で、この人が明らかに怪しい」という記述をさんざんに重ね、読者に「この人が犯人に違いない!」と思わせるも、しかし中途でハシゴを外し、「その人は犯人でも共犯者でもなかった。一連の不可解な行動は別の合理的理由によるもの」とする誤誘導(ミスディレクション)の手法。このドイル「バスカヴィル家の犬」で使われているものは、横溝正史の今度は「獄門島」(1948年)での島に潜伏して、しばしば目撃される復員兵の海賊の派手な立ち回りと、彼をなぜか助けようとする島の事件関係者による不可解な行動のミスディレクションと、これまたほぼ同じなのである。
「横溝さん、日本の探偵小説のベテランで大家なのに、海外のコナン・ドイル、ホームズ・シリーズの『バスカヴィル家の犬』から舞台設定や話の展開や誤誘導推理のアイデアを盗みすぎ」と思うのは、私だけだろうか(苦笑)。
ドイル「バスカヴィル家の犬」は、探偵推理として、犯人による殺害方法と犯行動機は納得できるもので、全体の話の筋も細部も何ら破綻してはいない。事件推理の骨格たる単なる殺人事件だけでなく、英国はダートムーアの荒れ地に渦巻く霧、馬をも飲み込むほどの底なし沼、数少ない住人たちの閉鎖性と、それぞれに謎に包まれた隠された過去。そうして当地、バスカヴィル家に代々伝わる忌まわしい魔犬伝説のオカルト演出が光る名作だ。
特に、作中での「バスカヴィル家の犬」は、「とてつもなく巨大な真っ黒い犬で、大きく開いた口からは火を吹き、目は光っていて、鼻から首筋にかけて、ゆらゆら炎が燃えている」様相の伝説的な言い伝えであり、実際に作中では、そのような悪魔の犬が登場する。「本作執筆時の二十世紀初頭にて、いくら何でもそうした非合理で恐怖なオカルトは実際にありえないだろう」と科学合理主義の社会に生きる当時の読者はリアルタイムで読んで誰もが思ったはずで、だから最後に「真っ黒い犬が、大きく開いた口からは火を吹き、目は光っていて、鼻から首筋にかけて、ゆらゆら炎が燃えている(ように現実に見えた)」理由の合理的なトリックをドイルはきちんと書き入れており、これもなかなか近代の怪奇幻想風味な探偵小説の理にかなった落とし所の、さすがの書きぶりである。










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