アメジローのつれづれ(最新)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(12)「女が見ていた」

横溝正史「女が見ていた」(1949年)は一読、いつもの横溝とは違う雰囲気の作品になっている。敗戦後の都会を舞台にしたミステリーで、本作は「時事新報」の昭和二十四年五月五日号から十月十七日号まで連載された新聞小説である。

いつもの横溝らしからぬ作風になっているのは、本作が新聞連載の長編で横溝が普段より書き慣れていない脱稿形式であり、翌日分の続きを新聞読者に毎回期待させ継続して読ませるための小さなヤマの謎提示で盛り上げて終わらせる毎日の連載結語の余韻工夫や、発表が一般紙の新聞なため「エロ・グロ・ナンセンス」や猟奇なもの、特に横溝が好みの近親相姦の性的タブーの不道徳なものは絶対に避けねばならず、比較的常識的な推理ミステリーで勝負しなければならない内容制約が、あらかじめ作者に働いたからだと思われる。探偵小説の新聞連載というのは様々な条件があり、書き手にとってなかなか難しい。

しかしながら本作を創作時の横溝正史は、どこまでも前向きである。「女が見ていた」の新連載にあたり、「新聞小説の構想」を談話する横溝によると、

「人にはそれぞれの素質があることだから、いまさら自分の作風を変えるというわけにもいくまいが、しかし、自分でもときどき、もっと平常な雰囲気の中に、謎をえがいて見たいと思うことがある。われわれの身辺にザラに見られるような人物と、日常生活の中に終始起こっているような事件、つまり同じ殺人でも、新聞の社会面にしょっちゅう現れているような事件をつかまえて来て、その中に大きな謎を空想してみたいと思うことがある」

都会の日常身辺の謎のミステリー、今回は社会派で行く。人にはそれぞれの素質があり、いまさら自分の作風を変えるわけにはいかないけれど、普段の自身の作風とは全く異なるものをあえて書く。ここに後々まで長く書き続けるベテランで息の長い探偵小説家の強靭な足腰、創作への尽きない意欲の持続力を読み取ろうとするのは、横溝ファンの贔屓目(ひいきめ)過ぎる見方だろうか。

横溝正史「女が見ていた」のあらすじは次のようになる。

「酔い痴れて夜の歓楽街をさまよい歩く啓介は、絶えず誰かの視線を感じていた。女だった。それも三人が入れ替わりながら彼のあとを執拗につけてくる。朦朧(もうろう)とする頭の中で、彼はそのことだけをはっきりと意識していた。外出中に妻を殺害され、しかも現場には啓介がいつも持ち歩いていたはずの愛用のシガレット・ケースが!妻殺しの重要容疑者にされ愕然(がくぜん)となった作家の風間啓介。自分のアリバイを証明する謎の三人の女を必死に探索する。だが、その中の一人をやっと見つけた時、彼女は…」

読後にしみじみと感じるのは、本作は「ミスディレクション文学の秀作」という感慨だ。横溝正史は最初から犯人を決めて書いている。その上で真犯人の結末想定がありながら、全く別の複数の容疑者に「この人物は明らかに怪しい、言動から何から何まで全てが見るからに不審すぎる」と読み手の疑惑を一身に彼らに引き付け、さんざん煽(あお)ってミスディレクション(誤読)で読者を強く誘導しておいて、連載中途の作中にて有力な真犯人と思われていた彼らを次々とあっさり、いきなり殺して読み手の推理予測のはしごを外す。当時、リアルタイムで新聞初出の連載を毎日読んでいた読者は、有力容疑者の彼らが中途で次々に殺害され真犯人候補から突如消える急展開に、この推理ミステリーの新聞紙面の当日ニュースに案外、驚いたのではと思われる。目まぐるしく転回する横溝によるミスディレクション(誤誘導)の手際(てぎわ)が、とりあえず素晴らしい。

その他、敗戦後の都会の雑踏を舞台にしたミステリーで「リンタク、サマータイム、パンパン」の戦後の都市風俗の言葉もあるし、衆人(衆視)恐怖症のトピックも盛り込んで、江戸川乱歩が言うところの「群衆の中のロビンソン・クルーソー」的趣向もあり、かつ横溝定番の私立探偵の金田一耕助も出てこないため、いつもの横溝とは違った作風になっている。最後に真相を明かす真犯人の告白がカタカナ表記の供述書風で、これは後に社会派推理の松本清張が定番で好んでよく使う小説結末の終わらせ方記述と同じであり、図(はか)らずも本作「女が見ていた」は「横溝正史による社会派ミステリー」といった感じに仕上がっている。肝心の話のオチはタイトル「女が見ていた」の逆を突く、「女が見ていた」のを彼女の背後でさらに「男が見ていた」というアイディアに尽きる。

再読 横溝正史(11)「蜃気楼島の情熱」

横溝正史の中編「蜃気楼島の情熱」(1954年)は戦後に発表の作品で、本作に「獄門島」(1948年)と「悪霊島」(1980年)を合わせ、その筋の正統な横溝ファンから「島ミステリー三部作」と称されているらしい。「蜃気楼島の情熱」は何よりもタイトルが素晴らしい。最初の「蜃気楼」(しんきろう)の語感の響きが、まず良い。そして、その語にそのまま「島」を付けて「蜃気楼島」とするネーミングの妙に、さらに続けて「の情熱」と来る。「蜃気楼島の殺人」とか「蜃気楼島の惨劇」など、探偵小説だからといって安易に「殺人」や「惨劇」の、ありきたりな言葉を継がない。あえてはずして「情熱」とつなぐ所が、これまた心憎い。

「蜃気楼島の情熱」は非常に深みのある良タイトルで、横溝の探偵小説の歴代タイトルの中でも「車井戸はなぜ軋(きし)る」(1949年)に匹敵で次点に位置するくらいの「いかにも」な雰囲気ある私的に好みのタイトルだ。しかも、このタイトルと小説の内容とが絶妙にリンクしており、「なるほど、だから蜃気楼島の『情熱』なのか」、同様に「だから『車井戸は軋る』のだな」と読後に納得し非常に合点(がてん)がいく、うれしい仕組みとなっている。

横溝正史「蜃気楼島の情熱」では、まず私立探偵の金田一耕助が登場する。それから金田一のパトロンの久保銀造も登場する。さらには金田一とは旧知の岡山県警の磯川警部まで出てくる(笑)。横溝正史は、本作にて金田一ファンの読者へのサーヴィス精神が満点である。本作の読み所は、前述のように「蜃気楼島の情熱」の名タイトルに絡(から)み、その題名が見事に探偵小説の中身と結びついている点であり、タイトル結語の「情熱」が「一体、誰の何に対する何ゆえの情熱であるのか」その辺りが話の急所で「ネタばれ」を防ぐため、作中にての金田一耕助の発言をあえて一部伏せ字にして引用すると、「警部さん、ごらんなさい。あのうつくしい蜃気楼を…」「××にとってあの蜃気楼はそれだけのねうちがあったんです」。

「蜃気楼島の情熱」は「獄門島」と「悪霊島」と並んで「島ミステリー三部作」を構成するだけあって、「獄門島」にて丁寧に描かれた「狭い閉鎖的な島だからこそ、その島に住む人達の排他的心情に由来する余所者(よそもの)へ向けての悪意が生む悲劇」のモチーフを逃すことなく見事に捉え、探偵推理の殺人事件に組み入れて書かれている。しかも本作は、じっくり書き込んで話を膨(ふく)らませるには困難な中編で紙数制約があるにもかかわらず、「閉鎖的な島の排他的心情で余所者に対する悪意の悲劇」を横溝はギリギリの所で書き切っているので、毎度のことながら「今作でも横溝は相当に上手いな」の読後の感想余韻が鮮(あざ)やかに残る。探偵小説としては、「死体の移動」による殺害現場の錯覚による犯人らの現場不在証明(アリバイ)トリックが出色であり、「被害者の夫にとっての死体となった妻の遺体移動の現実の残酷さ」と来たら。ぜひ本作を読んで確かめて頂きたい。

この探偵小説から学び私達が日々の生活にて実際に活かすことのできる人生の教訓といえば、もし、ある人に対し裏切りや不義があったとしても、真実を告白することで相手を苦しめ、その人が被る絶望の精神的ダメージの深さをあらかじめ考えるなら決して全てを明かし謝ってはいけない。むしろ相手に真実を明かさず謝罪せず、そのまま黙って隠し通し、どこまでも真実は自分の胸のうちに深くしまって、いわゆる「墓場にまで持っていく」べきということだ。裏切りや不義を黙って隠しておくのは相手に悪いからと中途で全てを正直に白状し安易に謝罪したくなるのは、本当は相手のためを思っての故でなく、単に告白し謝罪して自身が楽になりたいだけだ。もしくは「隠すことなく正直に全てを告白し誠実に謝罪する自分」の自己の良イメージ回復をやって今さらながら自分を救いたいだけであり、つまりは、それは相手のためではなく自分のためにやる偽善でしかない。そうしたことで突然に自己本位な勝手な都合で告白謝罪されても、真実を知って一方的に謝られる相手はショックでなすすべなく途方に暮れ、ただただ苦しむだけである。中途半端に告白せず、そのまま黙っていてくれてた方がどれだけ「思いやり」があり、当人は主観的に「幸せ」だったか。

もし今、あなたが誰かに対し裏切り続けていたり不義を重ねていたとしても、絶対に安直に全てを明かして謝ってはいけない。「正直者の告白謝罪主義の偽善」に乗っかってはならない。告白・謝罪されて絶望し苦しむ相手の姿を想像できるなら隠して隠して隠しぬいて最後まで嘘をつき通せ。墓場にまで全部持っていけ!

本作「蜃気楼島の情熱」にても、犯罪なすりつけの罠に陥れるために、ある人物との過去の不貞を当人の前で白状すれば必ずや彼は絶望の崖下に叩き落とされるに違いないことを知った上で、今さらながらあえて「正直」にわざと「告白」し、しらじらしく「謝罪」してみせて結果、相手を計画通り苦しめる「偽善」、この「正直者の告白謝罪主義の偽善」な行為が出てくる。実に卑劣な憎むべき悪の所業である。

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローのつれづれ」(※以前に別の場所でやっていたブログ記事をそのまま移動しているため全く同じ文章があります。しかし、それは赤の他人の第三者によるコピーとか盗作・剽窃(ひょうせつ)ではありません。当ブログを書いているのは前のブログ主と同一人物です)

本ブログ「アメジローのつれづれ」は全三部よりなります。第一部は「生活のたのしみ」、第二部は「音楽のたのしみ」、第三部は「読書のたのしみ」。

第一部の「生活のたのしみ」は、現在の日々の生活(ライフスタイル)について。最初は精神態度とかバイクとかファッションなど私の基本の生活スタイルである、いわゆる「モッズ」についての特集「モッズな生活」から。そして過去に遡(さかのぼ)って、以前に私は京都に住んでいたことがあるので特集「京都喫茶探訪」。昔よく行った京都のタンゴ喫茶「クンパルシータ」の思い出など。

第二部は「音楽のたのしみ」で、スカパラについての特集「東京スカパラダイスオーケストラ大百科」、つづいてYMO(イエローマジック・オーケストラ)に関する特集「YMO伝説」、さらには特集「フリッパーズ・ギター・小沢と小山田」「天才・岡村靖幸」「ピチカート・ファイヴの小西康陽」「懐かしのルックアウト・レコード」など。

第三部は「読書のたのしみ」。別ブログ「アメジローの岩波新書の書評」で収録できなかった岩波新書以外の書籍に関することを。まずはトキワ荘出身漫画家で私が大好きだった寺田ヒロオの「テラさん」についての「特集・寺田ヒロオ」から始めて、比較的長いシリーズ「大学受験参考書を読む」、それから海外の探偵小説・ミステリーの「シャーロック・ホームズ」「アルセーヌ・リュパン」「エラリー・クイーン」ら諸探偵の短編集の書評を。加えて、日本探偵小説界の巨星・横溝正史と江戸川乱歩の特集「再読・横溝正史」「江戸川乱歩・礼賛(らいさん)」。そして日々愛読している太宰治全集より特集「太宰治を読む」へ。

お探しの記事やお目当ての特集は、本ブログ内の検索にて特集タイトル(の一部フレーズ)を入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

京都喫茶探訪(1)クンパルシータ

今回から始まる新シリーズ「京都喫茶探訪」である。以前に京都でよく行った純喫茶のことなどを。ただ昔よく行った喫茶店への私の思いを書いているだけで、「あの店の由来や歴史はこうで」のタメになる話や「得々メニューはこれだ!」のようなお薦め情報はないので、読んでいて正直うっとうしいと思う。一般に他人の私的な思い出話ほど第三者が聞いて本当にどうでもよくて、なおかつうっとうしいものはないので。だが、このブログはほとんど人が来ないから(笑)。人に読んでもらうのが目的ではなく、自分のためだけに書いているので、それがせめてもの救いだ。

以前、京都の木屋町に「クンパルシータ」というタンゴ喫茶があった。昼間は開いてなくて夕方から深夜に開いている喫茶店だった。映画館でレイトショーを観たり、晩飯を食べて一杯やった後によく行っていた。何だか好きで本当に頻繁に寄っていた、クンパルシータには。

狭い路地の風俗店に囲まれた場所にあるので、呼び込みのオッサンの「どうですか?サービスしますよ」の怪しい勧誘の声を毎度かいくぐって(笑)、クンパルシータのドア開ける。左手にカウンター兼厨房の小さなスペースあって、カウンターの上壁に飾りでトランペットが置いてあり、さらにカウンターの奥にオーディオセットが見えて(といってもCDプレイヤーはなく、アナログのレコードプレイヤーとカセットデッキだ)、店の左壁にトイレのドアがあって、そのドアの左手の電気のスイッチの辺りに藤沢嵐子の直筆サイン色紙が飾ってある。椅子は特注で作らせた赤い薔薇(ばら)のビロードのような高級な造りで、店の奥の中央に暖炉があってテーブルは8つくらい。歩くと硬い床が上品にコツコツと鳴る。店内の改装は昭和30年代に一度やったと言っていた。店内の様子を説明し出すとキリがないが、今でもハッキリ覚えている。店の感じとか空気とか、その時聴いたタンゴとか、もちろんコーヒーの味も。

女主人のママが一人でやっていて、コーヒー1杯を淹(い)れるのに時間がかかってね(笑)。先客がいるときは1時間待ちは普通。だが、昔は私も時間がたくさんあったので苦にならなかった。いつも一人で入店して本を読んだり音楽を聴いたりして、ずっと待っていた。近所に「みゅーず」という名曲喫茶でクラシックを聴かせる店があって、そこはコーヒーもすぐ出て来るしアルバイトの人も多くて、しっかりした店だったけれど、なぜか待たされるクンパルシータの方が好きだった。「コーヒーの濃さは、いかが致しましょうか?」と注文のときに細かく聞いて1杯ずつ淹れてくれた。コーヒーの味は苦いシブイ感じだ。私は常にブラックでしかコーヒーを飲まないので、苦いシブイ味のコーヒーが好きなのだ。

私がクンパルシータに通っていた1990年代当時、タンゴの音楽では正統より少し外れたアストル・ピアソラ(Astor・Piazzolla)やヨーヨー・マ(Yo-Yo・Ma)が流行っていて(おそらくCMや映画音楽にて彼らの楽曲が当時よく使われていたため)、だが、なぜか通ぶって藤沢嵐子や阿保都夫(あぼ・いくお)らをリクエストしていた。だいたい、まず嵐子さんを頼んでかけてもらって、その後、変則でわざと「美輪明宏お願いします」と言ったりして。私は、本当はタンゴには全く詳しくはないのだが(笑)。でも、よせばいいのに調子に乗って「やっぱり嵐子さんは上手いですね。嵐子さんだと安心して聴けますねぇ」などと言ったりするので、ママも「この人は、かなりのタンゴ好きな人」と勘違いされていたと思う。すみません。しかし、藤沢嵐子は当時から「かなり上手い」と思って私は好きだったのだけれど。最近は「歌姫」と呼ばれる人は多いが、私のなかで「歌姫」といえば真っ先に思い浮かぶのは藤沢嵐子だ。あと阿保都夫の「スキヤキ」(「上を向いて歩こう」)もクンパルシータで何度も聴いたな。阿保郁夫も本当に洗練されていて日本人の発声とは思えないくらい藤沢嵐子同様、実に巧(たく)みで上手いのだ。

ママともよくお話しした。もうだいぶ時間も経っているのでママとの当時の会話の内容もここに書いてもよいと思うけれど、敗戦後まもなくの頃、映画会社の人たちが店の奥でヒロポンをやっていて当時、店を一緒にやっていたママのお母さんが怒った話。敗戦後まもなく京都四条の美松会館付近の闇市にカレーライスを食べに行った時の話。まだ大映でスターとして売れる前の勝新太郎がクンパルシータの店に来て、店の公衆電話で話す「もしもし勝だけど」の声が聞こえて来て「勝って変な名前だなぁ」とママが思っていたら、勝新太郎が「僕はタンゴよりもジャズが好きでねぇ」と言った話。あとは市川雷蔵の話なども。あの頃は周防正行監督の「Shall ・Weダンス? 」(1996年)が劇場上映された時代で、ママも昔はタンゴを踊る人だったらしく、それを観に行った時の話。映画の面白場面とあらすじを最後まで詳しく話してくれた。結構、繰り返し何度もね。

クンパルシータも今では閉店でもう行けないが、最近でもたまに思い出す、店の感じやコーヒーの味、当時聴いていたタンゴ、藤沢嵐子や阿保都夫の「スキヤキ」、そしてママのことを。特に藤沢嵐子はその後、普通にCDを購入して聴いたけれど、なぜかしっくりこない。家で聴いても車の中のカーステでかけても、これが不思議と駄目なのだ。嵐子さんを聴くのならクンパルシータに行って聴かないと。音楽も音楽みずから聴かれる場所を選ぶのか?

そういったわけで藤沢嵐子も久しく聴いていない。藤沢嵐子と「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」の音源など。本当に今となっては去っていった昔の記憶だけ、懐かしくて楽しい思い出だけだ。後には実物は何も手元に残らない。クンパルシータは、嶽本野ばらの小説「カフェー小品集」(2001年)のなかにも出てくる。最後はセンチメンタルで懐古な感傷モードで非常に湿っぽく、誠にすみません。

モッズな生活(3)ホンダ ジョルカブ

最近、イギリスでの、いわゆる「モッズ」たちによるスクーター・ランの雑誌記事を見た。皆さん、かなりカスタムしてデコレーションを入れた状態のよい「ベスパ」(Vespa)や「ランブレッタ」(Lambretta)を所有していて、モッズ=「貧しい労働者階級のリアルな怒りの若者文化」というよりは「デザイナーや業界人など比較的裕福な階層による最新の流行ファッション」という印象を正直、私は持った。

いまやモッズといえば当たり前のように「べスパやランブレッタのスクーターが必須アイテム」のような話になっていて、その類のスクーターに乗っていると「あなたモッズですか?」とすぐ周りの人達に言われそうだが(笑)、もともとモッズの若者は最初から「スクーター好き」だったわけではない。本当はモッズも初めのうちは四輪の自家用車を購入して乗り回したかった。しかし、モッズは底辺の労働者階級の若者文化だから彼らに金なく、残念ながら車が買えなかった…だから車体価格が割安なスクーターに乗っていただけのことだ。

バイクに乗るとき排気ガスで自慢のモッズスーツが汚れるので、軍の払い下げのパーカーをモッズコートとして汚れよけに着ていたくらいお洒落には神経質だった若者たちだから、モッズな若者で金があったら普通にスーツが汚れない四輪の車を購入して乗る。事実、1960年代後半から四輪の価格が安くなり、自家用車人気が高まるとイタリアのランブレッタ社はバイクが売れなくなり、1971年にスクーター生産をやめている。

さてイギリス本国ではどうなのか分からないけれど、今や日本でベスパやランブレッタ所有するのは、かなり大変である。まず車体価格が高いし、しかも近所にべスパやランブレッタを扱う専門店などそうそうないし、部品調達や修理メンテナンスの面でおそらく素人には無理だ。またベスパは故障しやすい、たとえ新車でも一度バラして再度、組み立て直してから乗らないとすぐ不調になるのウワサ(真偽は不明)も時に聞く。

映画「さらば青春の光」とテレビドラマ「探偵物語」の工藤ちゃん(松田優作)の影響で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも、メンテナンスの手間や車体購入の経済的負担の金銭面で思いかなわず、私は今デザインがべスパやランブレッタぽいホンダの「ジョルカブ」に乗っている。そんなわけで愛車の赤のジョルカブにフロント・キャリアとバンパーを付けてみた(画像のような感じ)。

さすがにフロント・キャリアとバンパー完備の赤のジョルカブに、モッズスーツとモッズコートを着用で街乗りして信号待ちなどしていると「おまえはモッズか?」「もしかしたら映画『さらば青春の光』やバンドのコレクターズのファンの方ですか?」のような、無言ないしは有言の車中や通行人からの声が時に掛かって困る(笑)。

ジョルカブは、見かけはジョルノのデザインにカブのエンジンを積んでいるので「ジョルノ+カブ=ジョルカブ」なのだが、ステップに4速のギアが付いていて、足元でガチャガチャやりながら走る操作性が面白い。また、エンジンがホンダの「カブ」だから汎用性が効いて交換・代替部品も豊富にあるし、近所のバイク店でオイル交換などのメンテナンスも気軽に日常的にできる。それに何しろホンダのカブは「ストップ・ゴー」を日常的に頻繁に繰り返す郵便や新聞配達の業務用バイクに採用されるくらい故障が少なくエンジンが強く、総走行距離もかなり長くまで行けて末永く乗れるらしいので、モッズな方で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも思いかなわずな人に私は強くお薦めしたい。

ジョルカブはもう生産中止だが、まだ中古車で日本国内にてそこそこの車体数は流通しているし、価格的にもそこまで高騰の「幻の車種ではないらしいので、お薦めです。

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再読 横溝正史(10)「びっくり箱殺人事件」

横溝正史「びっくり箱殺人事件」(1948年)の概要は以下だ。

「箱の蓋(ふた)をはね上げ、バネ仕掛けの人形のように男が飛び出した。だが瞬間、まえのめりに倒れこむと激しく痙攣(けいれん)し始めた。男の胸には、箱の中に強いスプリングでとめられた鋭い短剣が突きささって…。スリラーふう軽演劇『パンドーラの匣(はこ)』の舞台で起った、恐怖の殺人事件!名推理で犯人を追いつめる等々力警部の活躍は?」

この作品は、金田一耕助と共に行動し捜査に当たる等々力警部が出て来て活躍する(金田一は本事件に登場しない)、金田一探偵譚の番外編(スピンオフ)のような話になっている。私は横溝作品に関しては、特集「再読・横溝正史」のタイトル名に反しないよう毎回、必ず文字どおり事前に横溝作品を「再読」してそれから書評を書くようにしているのだが、「びっくり箱殺人事件」に関しては以前もそうであったように読了するのに非常に苦労した。本作を読み終わるまでに相当に骨が折れた。「びっくり箱殺人事件」は、これまでの横溝正史の作風と明らかに趣向の読み味が異なり、正直に白状すれば私は本作が昔からあまり好きではないのである。

この小説は後に書き直してラジオドラマ用に脚本化され、江戸川乱歩、木々高太郎、大下宇陀児、高木彬光らが総出演する日本推理作家協会の忘年会余興の出し物としてやられたらしい。しかし、ラジオドラマ用の脚本の書き直しにわざわざしなくても、元から本作がドラマ脚本らしく非常に記述が薄く横溝の他作品と比べて恐ろしく読み応(ごた)えに欠ける。ラジオ劇のように多人数の登場人物の台詞回しのみで主に話をつないでおり、まさにラジオドラマ観劇幕間の設定解説のように時おり地の文が数行しばらく入って、それからまた登場人物たちの台詞のみのやり取りが長々と続く。下手な人が小説を書くと、登場人物の発言台詞ばかり先行して地の文の描写記述が極端に少なくなって、まるで脚本のような薄い「小説もどき」になってしまうことがよくある。そういうのは「脚本小説」と内心ひそかに呼んで出来るだけ読むのを避けるよう私は日頃から腐心しているのだけれと、本作はそうした薄い「脚本小説」の感じがする。

話の内容も「スリラーふう軽演劇『パンドーラの匣』の舞台」で起った作中劇の中での連続殺人事件でナンセンス、ユーモア、ドタバタの連発だ。だいいち登場人物の名前設定からして、葦原小群(よしわら・しょうぐん)、半紙晩鐘(はんし・ばんしょう)、灰屋銅堂(はいや・どうどう)など作者の横溝が率先して相当にふざけているため、軽演劇のパーティ余興の雑な味で正直、閉口する。例えば以下のような作中会話の掛け合いの下りがある。

「わしか。わしは深山幽霊谷じゃよ」「嘘をつけ!ちがうぞ、幽谷先生はそんな声じゃないぞ」…「いや、わしはたしかに幽谷じゃよ。実は入歯をとばしたんでな。灰屋君、すまんがその辺りに入歯が落ちておらんか探してくれたまえ」…「あっはっはっ、先生、その顔は…(ガリガリ)あっ、いけねぇ、先生の入歯をふんじゃった」

この場面、横溝はわざと狙って笑いを取りにいっているのだと思うが、「実は入歯をとばしたんで」変声したとか「…(ガリガリ)あっ、いけねぇ、先生の入歯をふんじゃった」とか、何だか「バナナの皮に滑ってコケた」と同程度の全く面白くない笑いで読んでいて私は少しもクスリともならず逆にだんだん深刻な真顔になっていく。

横溝正史「びっくり箱殺人事件」は、敗戦直後の時期に「獄門島」(1948年)と同時進行で執筆連載された作品で、「横溝は真面目な本格の探偵小説の傑作をもちろん書けるが、実はこういった肩の力を抜いてリラックスしたパーティ余興な通俗読み物の軽い面白ミステリーも同様に書ける。そうした作家の一面も持つ」という探偵小説家・横溝正史の懐(ふところ)の深さの多才さの誇示、横溝の作家評価にハクをつける作品といった印象を本作「びっくり箱殺人事件」を読むたびに私は拭(ぬぐ)えない。

ついで「びっくり箱殺人事件」は、作品全体に漂うナンセンス、ユーモア、ドタバタな雰囲気から「おバカなミステリー」、ないしは「バカバカしいミステリー」の通称「バカミス」の範疇(はんちゅう)に属する作品だと思えなくもない。

再読 横溝正史(9)「蝶々殺人事件」

探偵小説にて私立探偵の金田一耕助が登場する、日本の地方の閉鎖的共同体の因習や祖先一族の因縁に絡(から)めたドロドロな本格長編ではなくて、都会が舞台で都市生活の個人主義的なスッキリ洗練された大人な本格推理が読みたい人には、「横溝正史などに執心せず、海外のエラリー・クィーンやアガサ・クリスティ、国内なら鮎川哲也あたりを無難に読んでおけ」といった話になるのだが、どうしても横溝作品にて洗練された都会ものの本格推理を味わいたい人向けには「蝶々殺人事件」(1947年)あたりになるのだろうか。

横溝正史「蝶々殺人事件」に関しては、以前に坂口安吾が「スマートな語り口と謎解きの妙味で『蝶々』を書いた横溝は世界のベスト・ファイブ級の才能」と海外の探偵推理ミステリーに比肩する負けず劣らずの日本の本格推理として絶賛している。本作については、その執筆経緯に以下のような事情があったといわれている。

敗戦を迎え、それまで検閲制限されていた探偵小説を思う存分に自由に書くことができ、「さあ、これからだ。これから新しい本格推理を思いっきり書いてやろう」と意気揚々で創作に取り組んだ戦後の横溝正史。私立探偵・金田一耕助という新キャラクターを創出し、「本陣殺人事件」(1946年)の連載を始める。その間、旧知の小栗虫太郎の訃報が横溝の元に届く。今後の日本の探偵小説界の期待を一身に担っていた小栗虫太郎の、あまりに若すぎる早すぎる逝去の知らせに横溝はショックのあまり数日間、寝込む。そして小栗は新連載「悪霊」(1946年)の執筆中で、彼の急逝のため連載に穴があいてしまった。小栗の連載中止の穴埋めピンチヒッターに横溝へ連載依頼がくる。その時、横溝は「本陣殺人事件」を執筆中で連載を抱えていたにもかかわらず、「これはどうしても書かねばならぬ」と決意する。というのも以前に横溝が喀血して原稿を飛ばした時、小栗にピンチヒッターで穴埋めしてもらった恩義があったから。「今度お前さんが病気するようなことがあったら、私が代わって書いてあげる」と後に小栗に話した横溝であった。そのため、横溝は「本陣」の連載を抱えながら並行して「蝶々」の連載も引き受ける。小栗との生前の約束を果たすため、かつての小栗の恩義に報いるために。

硬派で本格な探偵推理の書き手だった小栗虫太郎のピンチヒッターで代わりを務めるからには、内容も変格や「奇妙な味」ではなく、論理的な本格推理長編でなくてはならない。「蝶々殺人事件」を執筆当初の、横溝正史の並々ならぬ心意気である。後に横溝自身が語っていわく、「そのときの私の気持ちでは、小栗君の弔い合戦のつもりであった。それだけにがっちりしたもの、堂々としたもの、そしてまた、戦後の自分の方針であるところの、論理的な本格ものを書きたかったのである。少なくとも、小栗君のピンチヒッターとして恥ずかしくない程度のものにしたかったのである」。

この小栗のピンチヒッターを引き受けたがゆえの「蝶々殺人事件」にての横溝の論理的な本格推理への強い意欲は、彼の普段の他作品以上に精鋭に突出し、横溝は「蝶々」の登場人物に作中で以下のように発言させて、書き手の横溝正史自身の戦後の探偵小説における論理的本格志向の立場を明確に宣言している。

「どうもいままでの日本人には合理性が欠けているように思えるんですな。物事を理詰めに考えて行く習慣、それが欠けていたように思えるんですがどうでしょう。軽い読物にしてからがそうで、もっと理詰めな小説があってもいいように思われますな。理詰めな小説といえばさしあたり探偵小説、それも本筋の奴ですな、それで私どもの方では今後、そういう探偵小説に力瘤(ちからこぶ)を入れて行きたいと思うんですが」

「蝶々殺人事件」に関しては以上のような執筆時の経緯があり、「本陣殺人事件」と同時連載で並行して書かれたため「本陣」の内容と重複しないよう、「本陣」のような日本の地方の閉鎖的共同体の因習や祖先一族の因縁に絡めたドロドロ怪奇色の味付け風味な長編推理ではなく、都会が舞台で都市生活の個人主義的な洗練されたスマートでモダンな本格推理に横溝はあえてしている。また「本陣殺人事件」で私立探偵に、すでに金田一耕助を使ってしまったので、この「蝶々殺人事件」では探偵に「美しい銀髪をふさふさと波打たせた」由利麟太郎とその助手の三津木俊助のコンビを登場させている。二作品が同時連載で並行して創作執筆ゆえ、あたかも「似ていない双子」の二卵性双生児のように「本陣」と「蝶々」は奇(く)しくも対照(コントラスト)をきれいになす対的(ついてき)作品となった。加えて、前述のように「蝶々殺人事件」は「小栗君の弔い合戦のつもり」の強い気持ちを持って創作に着手したため、いつも以上に論理的な本格推理への横溝の思いを託した探偵小説になっている。

そんな「蝶々殺人事件」の話の概要はといえばこうだ。「原さくら歌劇団の主宰者である原さくらが『蝶々夫人』の大阪公演を前に突然、姿を消した…。数日後、数多くの艶聞をまきちらし文字どおりプリマドンナとして君臨していたさくらの死体はバラと砂と共にコントラバスの中から発見された。次々とおこる殺人事件にはどんな秘密が隠されているのか!」

由利先生が活躍する「蝶々殺人事件」を数年おきに読み返すたびに、金田一耕助が登場の探偵譚とは明らかに異なる一味違った都会的モダンでスマートな感じが「蝶々」では存分に味わえ、それがこの作品の大きな一つの魅力になっている。西洋劇の歌劇団の出張公演にて東京と大阪の都市間を移動する、都会の往復を股にかけての殺人事件である。本作は連載時に「懸賞金付き犯人探し」の趣向を有し、歌劇団で起こる事件に合わせて全体に「序曲・本奏・終曲」の音楽の楽曲に掛けたイカした章立て構成が施され、しかも中途に「間奏曲」の短い章を挿入しての場面転回、音符記号の楽譜を直接に掲載し、その暗号を読者に解かせる横溝による雰囲気満点な気の利いた演出趣味がなされている。はたまた「懸賞金付き犯人探し」で読者からの挑戦を受けるにあたり、小説前半のある作中人物の手記が実は巧妙なミスディレクションの「誤読」を誘う仕掛けになっており、作者・横溝正史のあらかじめの周到さである。

あまり言うと「ネタばれ」になるが、「蝶々殺人事件」はアリバイ崩しの話のパターンで、普段から探偵小説を読み慣れている人なら比較的早い最初の段階で犯人は分かると思う。古今東西の探偵推理にありがちな定番のアリバイ工作トリックといえば、例えば並走する鉄道ダイヤの利用または巧みな乗り換え、時に船や飛行機を利用する大胆な移動で時間的・場所的に「不可能」な犯罪を可能にする「ルートの盲点」。変装や替え玉の身代り、一人二役で偽装証言のアリバイ(現場不在証明)演出をする「人物の錯覚」。遺体に細工加工を施したり遺体を移動させて殺害時刻や殺害現場を偽装錯覚させる「時間と場所の錯覚」。機械装置を使った現場不在証明の物的偽装、ないしは遠隔操作殺人の「機械トリック」などが考えられる。本作「蝶々」でのアリバイ偽装トリックも、もしかしたらその内のどれかなのかもしれない(笑) 。

何よりも「蝶々殺人事件」については、本来は演奏して音を出すための楽器なのに、その楽器の中に盗難品の宝石や人間の死体をあえて隠すという横溝の大胆発想に私は一番シビレた。この点において、角川文庫の横溝正史全集の表紙カバー絵を描き続けてきた杉本一文の数ある歴代傑作イラストの中でも、一絵の一画で最初のコントラバス・トランク詰め遺体の殺人状況が即座に分かる「蝶々殺人事件」の杉本による表紙カバーイラストは屈指の大傑作だと思えて、私は感心する他ない。

再読 横溝正史(8)「悪魔が来りて笛を吹く」

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)、昔の角川文庫の表紙カバー裏解説には以下のようにある。

「毒殺事件の容疑者である椿(つばき)元子爵が失踪して以来、椿家に次々と惨劇が起こる。自殺他殺を交え7人の命が奪われた。子爵が娘に残した遺書『これ以上の屈辱、不名誉にたえられない』とは何を意味するのか?悪魔の吹くフルートの音色を背景に、妖異なる雰囲気とサスペンスが最後まで読者を惹(ひ)きつけて離さない」

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」は、従来の金田一耕助探偵譚にて定番な地方の村落共同体の閉鎖的因習の話ではなく、太宰治「斜陽」(1947年)のような敗戦後の都市の没落貴族の雰囲気設定の話なのだが、「ネタばれ」しない程度に本作品の主な構成要素の読み所を挙げてみると、まず主要な見るべき殺人は四つで、しかもその内の一つは密室殺人である。「悪魔が来りて笛を吹く」での密室トリックは、私は昔から好きだ。

次に小説世界と現実世界との架橋がある。本作では、戦後に実際に起きた毒殺強盗の「帝銀事件」を彷彿(ほうふつ)とさせる「天銀堂事件」の話題を冒頭に置き、話を展開させる。薬服用の手慣れた手本自演を介しての計画的な毒殺強盗事件、本格的なモンタージュ作成配布による警察の大々的捜査など本作連載発表時にて、当時未解決で進行中の実際の帝銀事件の題材を取り込んで虚構の小説世界が実際の現実世界と上手い具合にリンクして重なり、不思議なリアリティが生じる。横溝は以前に「八つ墓村」(1951年)でも、実際にあった「津山三十人殺し」を作品内に入れ存分に活用し尽くしており、小説世界と現実世界との架橋錯覚の記述手法は今回も横溝は周到で実に上手い。

さらには「悪魔が来りて笛を吹く」と同タイトルな異様な音階メロディーを持つ特異な指運びのフルート楽曲、「亡霊」の彷徨(ほうこう)、砂占いの儀式にて浮かび上がる火焔太鼓(かえん・だいこ)の「悪魔の紋章」、もしくはラストでの同火焔太鼓「悪魔の紋章」の痣(あざ)など、おどろおどろしい怪奇オカルトの怪しい雰囲気演出、小道具の効果満点な使い方が見られる。しかしながら、それら怪奇色風味はあくまでも表面的(デコレーション)な味付けで、肝心の小説中身の本筋は、どこまでも合理的で論理的な本格の探偵小説である。横溝正史が優れているのは、毎回地方の閉鎖的共同体の因習や親族血縁の因縁など非合理な怪奇オカルト要素を多用し最大限利用しはするが、肝心の小説の中身の基本骨格は理詰めで合理的な本格の探偵推理を貫く所だ。この人は、非合理な怪奇やオカルトを小道具使いするけれど、「あくまでも探偵小説の本筋の正統は理知的で論理的で合理的な近代文学にあること」をよく分かっており、無駄にいたずらに怪奇オカルト記述に深入りして惑溺(わくでき)しない。非合理記述引き際の見極めが非常に優れている。

また作中人物らが死際(しにぎわ)に残す謎のセリフの真意や、小説タイトルに秘められた裏の意味の着想が尋常ではない。本作にて登場人物らは死の最期に際し、皆ことごとく驚くほど不気味な謎の言葉を遺(のこ)して死んでいく。「悪魔ここに誕生す」「わたしは畜生道におちいった」の「呪わしい言葉」である。「悪魔」とは「畜生道」とは一体何か。これらセリフの真意を知りたくて読者は作品に惹きつけられ急いで先を読みたくなる。「悪魔が来りて笛を吹く」の小説世界に熱中する。この読者を引き込む横溝による巧妙セリフの着想は実に上手い。だいいち「悪魔ここに誕生す」の「悪魔」にしても、犯人の容姿や服装や雰囲気が単に「悪魔的」というような漠然とした表現の使い方ではなくて、なぜ「悪魔ここに誕生す」なのであり、なぜ犯人が「悪魔」であるのか。犯人が「悪魔」と呼ばれるのは、まさに「犯人こそは他ならぬ悪魔であって現実に悪魔たりうる」合理的で科学的(生物学的)な確固たる理由があるわけだ。何となくの恐怖雰囲気演出で「悪魔が来りて笛を吹く」ではないのである。加えて、「悪魔が来りて笛を吹く」の小説タイトルに秘められた裏の意味も優れている。本編未読の時は、このタイトルを見ても何とも思わないが、読了するとタイトルに込められた真の裏の意味が分かり、「なるほど、確かに犯人は『悪魔が来りて笛を吹く』だな」と私は深く納得し、昔の角川文庫、杉本一文の傑作カバー絵の「悪魔」がフルートを持つ指の数を思わす確認したくなってしまう(笑)。

「悪魔が来りて笛を吹く」は、作中に出てくる異様な音階メロディーを持つ特異な指運びのフルート楽曲の曲名で、この曲に実は犯人の手がかりが隠されており、しかし私立探偵の金田一耕助は、その楽曲タイトルに込められた裏の意味に気付かず、犯人の「悪魔」に散々に連続殺人を許した後、小説の終盤のラスト近くでやっと気付いて、「僕が最初にもう少し早く気付いていれば、今回の一連の連続殺人の悲劇は未然に防げたはずなんですが」云々で毎度お決まりの、お約束定番な金田一の悔恨もある。だが、探偵の冴(さ)え渡る推理で早い段階に犯人を明かして連続殺人事件を未然に防ぐのは話の都合上、盛り上がりに欠けるわけで。探偵は「名探偵」ではなく、文字通り「迷探偵」で犯人に散々に連続殺人をやらせた上で、最後の最後に犯人明かしをしないと探偵推理のミステリーとして話が盛り上がらないわけである。話の都合上、探偵が冒頭から天才的推理にて犯人が分かって「あなたが犯人ですね」と名指しして問い詰めないところが探偵推理のミステリー話たる所以(ゆえん)だ。そういった意味でいえば、いつも犯人の連続殺人を散々に許して最後の最後で犯人が分かってしまう金田一耕助は、「まさに探偵小説にふさわしい迷探偵である」といえる。

そして、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及(そきゅう)」というものがある。横溝作品の場合、殺人事件が起こっても昨日、今日の偶然で、たまたま発生するものではないのである。数十年前の昔に起こった悲劇や事件がまずあって、現在劇中で起こってる連続殺人は必ずその昔の出来事と関連を持っている。以前の事件や悲劇に引きずられて、今回の殺人は起こるべくして起こるよう運命づけられているのだ。それで、自分の一族や父母や祖先がやらかした昔の事件に翻弄される現在の登場人物たちの悲劇、殺人事件そのものに「人間の運命」や「人生の悲哀」の背景が加味されて話が非常に重くなる。例えば「八つ墓村」なら、津山三十人殺しのような村の悲劇が以前にあり鍾乳洞の秘密があって、それが現在進行中の連続殺人につながるし、「悪魔の手毬唄」(1959年)なら、二十三年前の村での未解決な迷宮入りの殺人事件が確実に引き金になっているわけである。だから横溝正史の探偵小説の場合、物語の後半で必ず金田一耕助が一見、関係ないようにも思える昔の事件を唐突に調べだしたり、容疑者たちの経歴・出自の調査のために遠方まで出向いて行ったりする。すなわち、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」がある。

本作「悪魔が来りて笛を吹く」でも話の後半に「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」があり、「金田一耕助西へ行く」の章にて、金田一が今回の事件関係者の出自の過去の洗い出しのために関西の須磨明石、淡路へと向かう。ここで椿家一族にまつわるドロドロで忌まわしい戦慄の過去が明らかになるわけで、この辺りは人物相関図や家系図のメモを作成しながら、「××は××と××の間に生まれた子であり、他方××は××と××の間の子であって」云々を物語に沿って丁寧に確認し読んでいくと読者は必ず驚くはずだ、今回の現在進行形な連続殺人事件の現在から過去への遡及、並びに過去から現在への由来に。

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」は、少なくとも以上のような読み手を惹きつけ読ませる主な作品構成要素の読むべき読み所があるわけだが、中でも一番強烈なのが最後の「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」にて明かされる驚くべきエピソードだ。この部分要素の内容刺激が非常に突出してインパクトがあり強烈すぎるため、他の読ませ所の各要素も実のところ並の探偵小説のそれと比べ何ら遜色(そんしょく)ない、それなりの高水準なものであるにもかかわらず、現在の事件由来の過去エピソードの衝撃インパクトに押され相対的に、その良さが目立たなくなってしまう。本作にての主要な四つの殺人のうちの一つの密室殺人のトリックや小説世界と現実世界との架橋など、本来なら十分に読むべき物がある、読ませ所となる探偵小説にて盛り上がりの目玉たりうる要素であるにもかかわらず、しかしながら横溝の「悪魔が来りて笛を吹く」は、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」の椿一族の過去の因縁エピソードが異常にドロドロの戦慄で強烈過ぎるため、密室殺人のトリックを始めとして、その他の高水準で優れた「読ませる」探偵小説の要素がともすると印象浅く軽く読み流されるはめになる。

探偵小説を創作するにあたり、小説内の各要素がいずれも高水準でレベルが高すぎ、かつ一つの突出した構成要素の刺激のインパクトが大き過ぎて他の要素を圧倒凌駕してしまっている結果、本来ならよく読まれるべき高水準な他の小説要素を凡庸錯覚にかすめさせる事態になってしまう。まさに天才・横溝正史、探偵小説家として、あまりに出来すぎて優秀すぎるがゆえの作品内にて起こる「悲劇」といえる。

再読 横溝正史(7)「夜歩く」

横溝正史は生涯に少なくとも3度、自作品の自選ベスト企画に回答を寄せている。どの年度でも自薦の上位ベスト3に横溝が好んで常連で挙げているのは「本陣殺人事件」(1946年)と「獄門島」(1948年)と「悪魔の手毬唄」(1959年)である。そして。これら定番上位の次点に来るのが、いつも「蝶々殺人事件」(1947年)か「八つ墓村」(1951年)あたりだ。しかしながら、年度によっては「私のベスト10」に「三つ首塔」(1955年)と「女王蜂」(1952年)と「夜歩く」(1949年)が例外的にランクインする場合もあり、その際には「以上の三作は売り上げで選ぶとベスト10になるが、内容では躊躇(ちゅうちょ)してしまう」といった旨のコメントを横溝は付している。

なるほど、「夜歩く」は一読して「内容では躊躇してしまう」の横溝の自己評価通り、探偵小説としての出来はあまり良くないと正直、私も思う。しかし、そうした出来があまり良くないとは思われる「夜歩く」でも、作品に仕込まれた初読の読者を必ずや、あっと驚かせる大仕掛けトリックのインパクトが大きすぎて小説発表時には評判、売り上げともに上々な作品に結果的になったのではとも思う。

「夜歩く」は、横溝が「坂口安吾の『不連続殺人事件』を読んだ時、よし、この露悪的な書き方をこの作品以上にうまく使ってみようと思った」と後に述懐しているように、坂口安吾「不連続殺人事件」(1948年)の作風をわざと真似て執筆している。

坂口の「不連続殺人事件」というのは、戦中に疎開先の別荘で探偵小説を読んで仲間内で犯人当てゲームに熱中してた純文学の坂口安吾が、「絶対に犯人が当たらない探偵小説を、そのうち書いてみせる」と宣言して、戦後に執筆した坂口の探偵推理作品である。「不連続殺人事件」は「心理の足跡」という犯人の不自然な行動心理記述を安吾が作中に、さりげなく書き入れ、読む人が読めば、そこから犯人が分かる正々堂々としたフェアプレイの長編推理で、これに犯人当ての懸賞金を懸けて安吾が読者の挑戦を受ける形で連載にして雑誌発表する。しかも、その懸賞金は安吾の自腹である。「不連続殺人事件」の小説内での「俗悪千万な人間関係」といった非常に賑(にぎ)やかで醜悪な露悪的人間関係同様、読者に挑戦状を出す作者の坂口安吾も、「おそらく犯人を当てられる人はいないでしょう。誰も分からないでしょう」といった挑戦者の読者を散々、馬鹿にして挑発する露悪的口上を毎回出しながら、いざ解決篇を載せ話が完結して真犯人当ての完答的中者が数人出ると、途端に安吾が、しおらしく謙虚に謝罪して自腹の懸賞金を出し、連載中はあそこまで憎らしく散々に煽(あお)って読者を馬鹿にして不遜でヒール(悪役)だった坂口安吾なのに最後は途端に「いい人になってしまう」、そんな浪花節のプロレス・アングル的な探偵小説だ。

坂口安吾「不連続殺人事件」のあの作風雰囲気が好きな人は、同様に横溝正史「夜歩く」も間違いなく好きになると思う。私は、安吾の「不連続殺人事件」の露悪的書きぶりが好きではない。作品全体にある大変に賑やかでガチャガチャした落ち着きのなさが苦手なので、同様にガチャガチャして落ち着きのない書きぶりの横溝の「夜歩く」も正直、苦手で、あまり好みではないのだが、しかし本作にて使われている初読の読者を必ずや、あっと驚かせる大仕掛けの大トリックは看過できず、探偵小説家・横溝正史の生涯の全仕事の中で「夜歩く」は感得して無心に読むべき物がある。

さて、奇(く)しくもディクスン・カーのデビュー作と同タイトルな、横溝正史「夜歩く」の話の概要はこうだ。

「仙石直記と三文探偵小説家の私は同郷である。直記が愛している古神家の令嬢・八千代にまいこんだ『我、近く汝のもとに赴きて結婚せん』という奇妙な手紙と佝僂(せむし)の写真は、古神家にまつわる陰惨な殺人事件の発端であった。三日後に起きたキャバレー『花』での佝僂画家狙撃事件。そこから始まる首無し連続殺人事件の怪」

(以下、「夜歩く」の犯人と主要トリックに触れた「ネタばれ」です。横溝の「夜歩く」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

前述のように横溝正史「夜歩く」は、坂口安吾「不連続殺人事件」の露悪的な書き方を真似て、夢遊病の「夜歩く女」の奔放ヒロイン、二人の佝僂(せむし)、酒を飲んで日本刀を振り回す当家の酒乱の老家老、年増の色艶な妖怪美人らが次々に登場する。古神家を舞台にした露悪趣味で複雑な人間関係の非常にガチャガチャした落ち着きのない話なのだが、「1つの作品に1つのトリックだけでは物足りない。到底、読み手を満足させられないから複数のトリックを複合技で仕掛ける」横溝の毎度の鮮(あざ)やかな手口がキラリと光る。例えば「殺人犯行で使われそうな日本刀を、あらかじめ事前に関係者立ち会い確認のもと厳重に金庫に入れ事件前に保管していたのに事件後、金庫を開けたら血染めの日本刀が」云々の物的証拠保管にての時間ズレのトリックや、はたまた「八千代」(Yachiyo)と「屋代」(Yashiro)の似ていて混同錯覚しやすいアルファベット(ローマ字)表記の「不思議な相似」着想アイディアの妙など相変わらず横溝は自在に構想して上手いこと書きまくる。

何といってもメインの柱となるトリックの一つは「顔のない死体」である。首から上が切断されている、顔の毀損(きそん)が激しい、腐乱死体となり原形を留めていないなどによる身元判別が不可能な、いわゆる「顔のない死体」の場合、従来型探偵小説の公式結末通り、犯人と被害者の入れ替わりはあるのか否かが焦点になる。しかし、本作では横溝による「顔のない死体」の改良吟味の新発想、新たなパターンの創出がある。ここでは、その詳しい内容は述べないけれど。戦後に本格の探偵小説を再び書き出す横溝正史の、従来型の探偵推理の伝統を破ろうと果敢(かかん)に攻める新パターンのトリック創出の野心の執念の格闘がここにある。特に「顔のない死体」に関しては、まず「黒猫亭事件」(1947年)を読んで、次に「悪魔の手毬唄」を読み、そして最後に本作「夜歩く」の順番で読むとよいと思う。この順序にて「顔のない死体」トリックの横溝による改良の新パターン案出の度合いは次第にエスカレートし究極にまで極まって行くので。だから、最後の「夜歩く」にて出される「顔のない死体」トリックは、確かに今までにない新パターンの「顔のない死体」で新しいけれども、「もうここまでやり尽くすと、さすがに解体芸の究極で打ち止めで『顔のない死体』に関し、今後これ以上の物は出ないだろう」。明らかに「横溝やり過ぎ」な感が正直、私にはある。

要するに横溝正史は、今までに誰も書いたことのないトリック改良の新しいパターン編み出しの野心満載で、とにかく誰よりも一番に自分がやりたいから(笑)、以前にある「顔のない死体」トリックの各要素を一度分解しバラバラにして、それらの組み合わせパターンで未だやられていない新しい組み合わせを無理矢理に強引に見つけ出そうとする。そういった発想の具体的手順にて、「夜歩く」での「顔のない死体」の新パターンも案出されている。それは確かに今までにない新しいパターン創出で見るべきものがあるけれど、ただ未出の新発想組み合わせの新奇な改良トリックが、そのまま読んで味わいがあって面白いかどうか、探偵小説そのものの話の面白さに毎回、直結するとは限らない。「夜歩く」での「顔のない死体」トリックの新パターンも、いよいよ究極の所まで横溝がいじり倒し改良を施して確かに意表を突かれて新しいが、それが探偵推理の話として面白いかといえば、私には疑問が残る。「未出の新しいものが、そのまま無条件に面白いかどうか」の難点はあるだろう。

「夜歩く」にて、もう一つのメインの柱となる大仕掛けの大トリックは、こちらは「ネタばれ」になるが、叙述トリックである。叙述トリックとは、話の内容ではなく話の語りの記述そのものに錯覚があるトリックで、「事件を記述する語り手が実は犯人」という「信頼できない語り手」と呼ばれるものだ。

探偵小説における通常の語りは、三人称で公正で客観的な語り記述なため、多くの読者は、たとえ事件関係者の一人称な説明語りの記述でも警戒なく「公正で客観的」と思い込んでおり、そこであえてその裏をかいて「実は記述者の語り手が犯人で、これまでの記述は全く信頼できない叙述であった」というので、読者の驚きを最後に引き出す意外性が叙述トリックの面白さの醍醐味である。ただ叙述トリックの場合、「事件の記述者=犯人」であり、語り手は物語を記述して読者に接する際、自分が犯罪を実行した犯人であることを常に隠しているから、つまりは肝心な所で自身に都合の悪い所はあえて曖昧(あいまい)にボカしたり、わざと触れずに無視したりして恣意的操作を施し語って記述してしまう。そのため、この「信頼できない語り手」の「事件の記述者=犯人」の叙述トリックには、犯人にとって都合のよい一方的な語り記述のアンフェアの不満が時に読後に残る。それで昔から叙述トリックに関しては、例えば、それを大々的に使ったクリスティの「アクロイド殺し」(1926年)を介してフェア、アンフェア論争が起きたりしている。しかし他方で、叙述トリックは小説の書き手たる話の語り手が、そのまま犯人なので平面的な文字による小説記述なのに、叙述が立体的に飛び出して犯人が読み手に実際に語りかけ迫って来るような「飛び出す小説」な記述の感触が、非常に魅力的で優れていると思う。

そして横溝正史「夜歩く」の場合、あの叙述トリックには明らかな失策の致命的破綻がある。本作では、自称「三文探偵小説家の私」が事件の発生から顛末(てんまつ)まで探偵推理小説の形式に従って語り記述しているが、後半から金田一耕助が出てきて、「語り手の『私』が犯人であること」を見事に看破(かんぱ)する。それから「あの小説、なかなか面白いですよ。尻切れトンボはいけませんね。ぜひ、完結して見せて下さい。しかしこれからあとは小説ではなく、真実の記録をお願いしたいですね」という金田一の勧めに従って、犯人たる「信頼できない語り手」の「私」は、事件の真実の全貌をラストまで書き抜いて小説「夜歩く」を完結させる展開になっている。その際、今回の「夜歩く」の一連の事件に関し、その犯行動機は「自身は軍隊に取られて戦争に行くから、その間に自分の恋人の面倒をみてもらいたい。ただし、彼女にだけは絶対に手を出してくれるな」と、ある男(仙石直記)に頼む。だが、終戦で軍隊から戻ってみると約束は破られ、彼女は「征服」され破滅して精神を病んで廃人になっていた。「探偵小説家の私」は激しく復讐を決意する、それが「夜歩く」事件での犯人の犯行動機である。ここに至って、作中の「仙石直記」に復讐心を露(あらわ)にする「三文探偵小説家」の「私」が、「直記」の名前とは正反対の、まさに叙述トリックにおける「信頼できない語り手」、すなわち「素直な記述者(直記)」では決してないという作者・横溝による、あらかじめの人物氏名設定の伏線に読者は初めて気付くのだ。

ところで、小説の前半で彼の犯行動機となる精神をやられて発狂した恋人のことに触れて語る場面があるのだが、事件の犯人たる記述者の「私」は実際に以下のように書いて、「彼女のことは知らない」旨、明らかに虚偽の記述をしている。恋人の彼女のことを前より愛し知っているにもかかわらず。

「私は急にムラムラと妙な疑惑に胸をどきつかせた。直記の女なら、たいてい私は知っている筈である。直記はとっかえひっかえ女をこさえたが、長くても半年とつづくことは珍しかった。そんな際、いつも尻拭いをするのが私の役目だから、いやでもかれの女といえば、ことごとく知っているわけである。しかし、いままで直記の情婦で、気が狂った女があるなどということは、一度も聞いたことはなかった。…ひょっとすると、それは私が一年ほど軍隊生活をしているあいだに出来た女かも知れない」

叙述トリックの「信頼できない語り手」において、肝心な所で自身に都合の悪い所はあえて曖昧にボカしたり、わざと触れずに無視したりするのは「事件の記述者=犯人」による恣意的語りのアンフェアさとして時に非難されるが、まだ弁護の議論の余地があることも確かだ。しかし、探偵小説における地の文並びに叙述トリックの恣意的語りにて、事実に反する虚偽の記述があるのはフェア、アンフェア以前の重大過失で明らかに失敗の破綻で致命的である。

以上の点からして、いつもは筆が安定し、あからさまな破綻の失敗作が滅多にない横溝にあって、横溝正史「夜歩く」は叙述トリックの執筆過程にて躓(つまず)きの瑕瑾(かきん)ある割合に珍しい作品であると私は思う。そうした叙述トリック破綻の失敗が、冒頭で触れたような「売り上げで選ぶとベスト10になるが、内容では躊躇してしまう」という横溝自身による「夜歩く」への低い作品評価に実のところ、つながっているのかもしれない。