アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(39)堀木博禮「入門編 現代文のトレーニング」

以前に代々木ゼミナールの現代文講師であった堀木博禮(ほりき・ひろのり)が、同じく元代ゼミ同僚の英語講師、西きょうじの書店売り参考書「ポレポレ英文読解プロセス50」(1993年)に関し、「人の参考書を読み通したのは初めてだ。英語は読めなかったが、説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるようだった」と西に直接に伝え誉(ほ)めていた話を西きょうじが語っていた。西きょうじにしてみれば、「堀木先生からの、あのほめ言葉は、いまだに私の支えとなっています」ということになるらしいが、この話を聞いた時、私は「なるほど」という納得の心持ちがした。

ある人がある人を誉めるというのは、その誉める人の中に自身が常日頃から望ましいと思って「自分もこうありたい」と願っている要素を相手の内に発見するから人はその時に相手を誉めるのである。「人が自分以外の他者を誉める」というのは原理的に言えば、そういうことだ。このことを疑う人は、堀木博禮「入門編・現代文のトレーニング」(2003年)を無心に読んでみたまえ。他ならぬ堀木の「入門編・現代文のトレーニング」の参考書の中に、西の「ポレポレ英文読解プロセス50」への堀木の称賛たる「説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるようだ」という参考書執筆の理想を発見できるから。

堀木「入門編・現代文のトレーニング」が絶版品切になっておらず、現在でも書店店頭にて比較的安価な定価の新刊本で購入できるのは誠に幸運である。あの参考書はZ会出版から出ているが、どうやら堀木が以前にZ会の問題を作問していたからであるらしい。堀木博禮は当時は代ゼミに在籍し、「東大現代文」を始めとする主に難関大学の上級者レベルの現代文指導をしていたが、その他にもZ会の添削問題作成や模試の出題、旺文社「大学受験ラジオ講座」(通称「ラ講」)の講師を幅広く務め活躍していた。堀木「入門編・現代文のトレーニング」を読むと分かるが、本書は、まさに「説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるような」感触である。変に説教臭くなく説明過多でなく、安直で表面的な読解ルールや解法テクニックの連発・羅列にも走らない。大変に美しく丹念に精密に考え抜かれた良心的な現代文の大学受験参考書だ。本書に掲載の演習問題は、ほぼ堀木によるオリジナルの創作問題である。「入門編・現代文のトレーニング」に掲載の演習問題が実際の大学入試過去問ではなく、氏のオリジナルの創作問題であることに関し、堀木博禮は「はじめに」で次のように述べている。

「ほとんどの参考書・問題集は大学の入試問題を使っていますが、現代文のための学力を根本から養うためには入試問題は不適切です。目標に到達するための過程と目標そのものとを混同しては効果があがらないのです。このために本書は最後の総合問題を除いて、すべて著者の創作問題としました」

なるほど、「現代文のための学力を根本から養うためには入試問題は不適切」である。出題者の意図を加味した創作問題とその出題者の意図を踏まえた解答解説を堀木博禮は、こなれて周到にやるの好印象だ。この人は非常にオーソドックスな、ある意味、当たり前で正攻法で正統な現代文講義をやる。特異な方法論や解法のテクニック、公式ルールを連発しない所が良い。

堀木博禮は、講義の際に面白話の雑談の脱線や教壇上での突飛で派手なパフォーマンスは皆無で、独特の口調で堅実真面目に淡々と現代文講義をやっていた。そもそも「堀木の現代文」は、非常に細かなことを子細に時にクドいくらいまでに切々と口頭で説明する。板書やテキストを用いた図式解説などしない。また代ゼミでの最後の方は、高齢のため発声弱く教室の後ろまで声が通らなかったという。以上のことから聴講している学生が眠くなり、それで「堀木の子守唄」と一部の代ゼミの学生や同僚講師らから言われていたらしい。これは、あくまでも噂の話であり、事実なのか私は量(はか)りかねるが、もしそれが本当だったとして、確かに1980年から90年代に代々木ゼミナールが隆盛を極め絶好調だった時代には予備校講師のタレント化が進み、ただ講義をするだけでなく脱線の雑談を長々とやったり、教壇上でカラオケをやったりするような受験勉強を教える以外のことで受験生を笑わせたり楽しませたりするサーヴィス精神旺盛なカリスマ人気のタレント予備校講師が多くいた。特に代ゼミには、そうしたタレント講師が多数在籍していた。

また堀木の現代文は、課題文に記号を書き入れて「イイタイコト」を探したり(藤田修一)、具体例や対立にて何度も繰り返される「作者の主張」を見極めたり(出口汪)、「論理とは分けることとつなぐこと」だから事柄を必ず二つに分けて対立展開図を順次板書していったりする(酒井敏行)ような、特異な読み方教授ではなかった。堀木の指導は「文章を読んでいって、ここで何に注目してどう思考するか」極めてオーソドックスで、ある意味、当たり前で正攻法な現代文講義であった。そういった予備校産業レジャー化と特異な読解の方法論が持てはやされる風潮の中で、真面目に熱心に大学受験指導をやっている教師が、例えば堀木博禮のような堅実で真面目な正統派の予備校の先生が、真面目さゆえに「堀木の子守唄」などと揶揄(やゆ)されるのは非常に残念だし、何よりも堀木博禮その人に対し大変に失礼であり誠に気の毒な思いがする。

堀木の「入門編・現代文のトレーニング」は、設問形式別(段落、指示語、空欄補入、傍線部説明、内容判定、要約)の、ほぼ氏の独自のオリジナル創作問題からなるが、最後の問題だけはこれまでの設問形式別学習の成果を見極めるために実際の大学入試過去問が掲載され、力試しの総合演習となっている。その際に著者の堀木は読者に向け以下のように述べて、最後の総合問題演習に受験生を誘導するのであった。

「ここまでで現代文の主要な問題形式別の解説と問題は終わりです。次にあげるのは実際の大学入試問題を使っての総合的な学習です。また、同時に、ここまで学習してきたことで、どれくらいみなさんの実力がついたのかのテストでもあります。僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」

この文章を読んで、「学生に主に勉強を教える日常的に若い学生に接する学校の先生は性善説なのだなぁ」と、いつもしみじみと私は思う。もし私が現代文参考書を執筆するとして、もし私だったら、こうした文章は絶対に書かないし絶対に載せないだろう。「僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」など読み手の受験生に期待を持たせ、しかし、いい加減に本書を読んで最終問題の実力見極め演習にて完答から程遠く、その不本意な成績結果を他人のせいにして「著者の参考書記述の教え方が良くない」のクレームが読者から入る危険性があるからだ。また仮にクレームがなくとも、「結局は参考書を通しての著者の教え方が悪い」など、私の教師の力量が不当に軽く見積もられてしまうからだ。そうしたいい加減な読み手の学生は残念ながら少なからず必ずいる。だが、堀木博禮は参考書を読んで勉強している学生を信頼し、自身の保身を考えずに性善説の立場から「僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」などと書いてしまう。

学校の先生に対し、後に同窓会にて同席再会したり街中で偶然に久々に見かけた時、「私より先に生まれた年上の『先生』であるはずなのに、いつまでも若い。ある意味、幼い。妙に変に社会ズレしていない変わらない純真さ、人を信頼する性善説の善良さ」を人によっては感じてしまうことがある。学校の教師は明らかに私たち一般の社会人とは人間が違うと時に思える。普通の人は学校を卒業して社会に出たら多少は汚いこともやる。もちろん犯罪や不正行為はやらなくても、多少の狡猾(こうかつ)さは持つ。人間不信や性悪説に至らないまでも、他人に対して警戒するし、互いのリスクとコストを考えて自分(たち)が有利になるよう時に駆け引きもする。相手と不信や決裂に至る最悪状況も一応は想定して常に事に臨む。大人の社会人とはそういうものだ。しかし、若い学生に接する学校の先生は違う。教師が性悪説の立場で、学生を疑って信頼せず警戒して接するようでは困る。それは教育上、好ましくない。学校の教師は大人になっても、いつまでも性善説で人を信頼して理想主義的であり、私はそれが時に羨(うらや)ましく思う。堀木博禮はいかにも先生らしい先生であり、教師であるという印象を私は持つ。

実は私は、そもそも代々木ゼミナールの堀木博禮の現代文講義を実際に受講したこともないし、堀木博禮にお会いしたこともない。だがしかし、氏が執筆の大学受験参考書「入門編・現代文のトレーニング」を読んだり、氏の噂話を耳にする度になぜか堀木先生のことが気になってしまう。不思議なものである。

大学受験参考書を読む(38)今井健仁「現代文の解法 東京大学への道」

今井健仁「現代文の解法・東京大学への道」(2009年)は副題が長く、「東大法学部生が明かす読解力不問の論述パターン学習」というサブタイトルがついている。また「東京大学法学部・現役東大生が明かすパターン学習による完全現代文攻略本」ともあり、高校教師やプロ予備校講師ではなく、実際に東大に合格した現役東大生が自身の受験勉強の経験から「東京大学への道」として東大二次現代文の過去問を研究し、その攻略法を伝授する、本書は東大現代文対策の大学受験参考書である。

本書での現代文読解の主な方針は「意味内容のブロック化」であり、従来は文章の流れとして何となく曖昧(あいまい)に流して読んでいた課題文を意味ブロックの集合体として細かく単位分割し、各段落内での文章の集合をそれぞれ「問題提示、筆者の主張、対立意見、反論、まとめ」の5つの意味ブロックに随時振り分け、部分としてのブロックごとの内容把握を重ねていくことで結果、課題文全体の構成が理解できるようになるというものだ。課題の現代文を読む際に、例えば「この段落のこの部分は問題提示の意味ブロックである」とか「ここから対立意見の意味ブロックが始まって対立意見紹介の内容記述に移る」など、まさに「ブロック化」し各部分を意味要素に分けて常にメリハリをつけて読んでいく読解法である。

著者による、この意味ブロック分割の読み方は「なるほど」と思えて大変によいのだけれど、ただこの人の場合、その意味ブロック分割を用いた課題文読解の具体的手順や、それに基づく解答作成の方法を読者に詳しく教授する段階になると、公式ルールの連発羅列で著者が本書にて提示する「原則、鉄則、テクニック」の数提示が多すぎる。「論述パターン学習」として、本書では「大原則が3、鉄則が17、課題文解読のテクニック(課テク)が30、解答作成のテクニック(解テク)が40」それぞれ挙げられている。それら全90個の方針やルール、公式を覚えて実際の読解の読みにて使えるのか。少なくとも私はできない。単純にまず90もある公式ルールを覚えきれない(笑)。東大現代文の過去問演習にて解答解説の際、著者は「解答作成のポイント」で各設問ごとに「使用テクは解テク36と解テク15」など、その問題にて駆使すべき公式ルールを逐一書き出し解説している。しかし本書にて東大過去問を解き続けていると、この問題では「使用テク・なし」の場合も割合に相当な確率で頻繁に散見され、「原則や鉄則、公式ルールを90個も出してあるのにそれでも対応できない取りこぼしの問題を結構、残す定式化のパターン学習なのか」の不信の思いは正直、残る。

大学受験指導では例えば数研出版の「チャート式」シリーズなど、昔から公式ルール化の教授方法は定番であるけれど、それに際し「公式ルールは出来るだけコンパクトで簡潔で数少なく、しかしどんな問題にも例外少なく普遍的に適用できる。ゆえに使い勝手がよくて有用」という公式ルール化するにあたっての基本の意図を著者は分かっていない。初歩の段階から明らかに公式ルール化設定の根本の方針意図を踏み外しているような気がする。

文章を読む読解は一文字、一文章をその都度、目で追って読み続ける瞬間的な認知反応の連続作業ではあるけれど、その過程で一字や一文の部分を狭(せま)く細かに読んでいても、同時に段落全体や文章構成も広く大きく意識しているし、また一文を読んで前の既読内容を思い出し連想して結びつけ理解しながら、同時に先の未読内容をイメージし展開予測もつけて実は読んでいる。そういった瞬間的な認知から幾つもの思考を同時進行でやる、複雑で有機的な一連の連続的動作の組み合わせである読解に関し、いちいち公式ルール化して個々の課題や設問パターンに対する一方針で一対応の「1対1」提示で、ひとつの解法にてバラバラに分割して対応しようとする分割還元主義は、ある複雑な物事や有機的な実体を理解するのに、各所の関係性や相互浸透による変化の実態を全く勘案せず踏まえておらず、いたずらに「困難は分割せよ」で物事の相互の関係性を断ち部分要素にズタズタに分割し、それら部分を後に集め再構成すれば元の複雑有機的な物事や実体にそのまま戻ると素朴に信じて疑わない思考に他ならず、従来のマルクス主義の唯物論的弁証法講義にて定番で繰り返し指摘されるところの、弁証法的唯物論の立場からする機械論的唯物論に対する批判の議論が私には想起され、よりシリアスに誠実に考えて、複雑で有機的な認知思考動作の読解力に関し、安易で安直な公式ルール化の90個羅列は様々な問題をはらむと思われる。

だがこの著者の場合、「東大法学部生が明かす読解力不問の論述パターン学習」と副題にあるように「そもそも読解力とは何か」、そして「どうしたらその読解力が個人に身に付くのか」という本質的で重要な問いを完全に忌避し回避して、最初から「読解力不問」で、ゆえに読解力は不要だから「論述パターン学習」として原則、鉄則、課テク、解テクの公式ルール90個の連発羅列な対応を余儀なくされているわけである。読解力そのものを本格的に追究し受験生にじっくり教えようとすると袋小路の泥沼にはまり込みそうだし、かといって安易で安直な公式ルール化に徹したパターン学習では学習効果に疑問が出るし、現代文の教授指導は実際のところ難しいという思いが本参考書の読後に残る。

大学受験参考書を読む(37)青木裕司「世界史講義の実況中継」

語学春秋社の「××講義の実況中継」シリーズは、予備校での生の講義を(おそらくは)その場で録音し講師のしゃべりをそのままテープ起こしした大学受験参考書であり、私が学生の時にはすでにあった。

ところで、学校を卒業してからも授業中に先生が脱線して熱心に話してくれた雑談を異様に鮮明に、なぜかいつまでも印象深く覚えていたりすることがある。私の場合、学生時分に読んだ青木裕司の「世界史講義の実況中継」(1991年)がまさにそれだった。その中で青木裕司が中国近代史の、いわゆる「毛沢東の長征・大西遷」について語るところが昔から強く印象に残っている。非常に熱心に青木が語る。

毛沢東の共産党軍が「北上抗日」の方針を決め、南の根拠地・端金を放棄して北の延安まで行軍する。しかし、日本を含む欧米列強諸国が駐留支配の沿岸地域は避けねばならず、内陸アジアの険(けわ)しい山岳地帯を経て北上するしかない。中途は難所の連続で山あり谷ありの道なき道である。行軍の途中で同志が次々と谷底に落ち、大雪山でバタバタと凍え死に、大湿原の底なし沼にズブズブと足を取られ皆が脱落していく。1万2千キロを踏破し18の山脈を越え数百回に渡る国民党軍との戦闘を経て、いよいよ目的地の延安に到着。だがその時には、かなりの同志が死んで紅軍の数は大幅に減っていたという。

「世界史講義の実況中継」なので紙上の間接講義なのだが、なぜかこの話の部分がとても印象深かった。それで最近また青木裕司の改訂版「世界史講義の実況中継」を手に入れて読んでみたら昔と同じ(笑)、以前と変わらず青木先生は「毛沢東の長征」について熱く語っていた。

近年、改訂の「世界史講義の実況中継」(2005年)を数十年ぶりに読んでみた。講義内容の大枠は昔の版とは、あまり変わっていない。しかし少し気になる個所もあった。これまた中国近代史の「南京虐殺事件」に関する記述だ。改訂版には「補足」があって、偕行社「南京戦史」(1989年)と「南京戦史資料集」(1993年)の書籍紹介や、南京虐殺事件について「虐殺があった事実は動かしがたい。虐殺された人数など数の問題は関係ない」とした三笠宮崇仁(昭和天皇の弟)の発言引用がある。私が昔、数十年前に読んだ旧版にはなかった記述だ。

おそらく青木裕司は、版を重ねるうちに右派・保守や歴史修正主義な人達からしつこく言われ、またウンザリするほど耳にしたのだろう、「虐殺被害者の人数が事実と異なり多すぎる。30万人虐殺説は嘘…だから、南京虐殺はないに等しい事件」という類(たぐ)いの定番で強引な詭弁を(註)。だから改訂版にて「南京戦史」の史料紹介をしたり、わざわざ「虐殺の事実はあった。被害者の人数の問題ではない」とする皇族関係者の発言を「補足」で載せたりする。今や日本国内での「南京虐殺事件」に関する歴史認識も、そうした「量を質に転化させる」量質転化もどきな歴史修正主義のデタラメ議論の免責論が横行するほどの堕落ぶりである。そんな現在の堕落した歴史認識問題にいちいち律儀(りちぎ)に対応して、改訂版に新たな「補足」説明まで加える青木裕司は「非常に気の毒だ」。そういった感慨を正直、私は持った。

最後に数十年来、疑問に思っていることを。青木裕司の自己紹介文「1956年、スターリン批判の年に福岡県久留米市に生まれる」。あれは何なの?自分の生年に、あえて「スターリン批判の年」という文言をつけるのが意味不明で昔から訳が分からない。


(註)「南京虐殺事件の被害者の数が事実とは違い不当に多く報告されている」と被害人数の把握がデタラメなことに固執し、粘着に「数」を批判し続けることで論点をズラし、南京虐殺をやった加害国の日本の方が、むしろ被害人数を不当に水増しされ常に糾弾され続ける「被害国」であると主張して、結果、少なからずあった日本軍の戦時の市民暴力の「虐殺行為の事実」が見事うやむやになって、いつの間にか免責されるという歴史修正主義者が好んでよく使う「量質転化もどき」な、ごまかし詭弁(きべん)の強引な手口。

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローのつれづれ」(※以前に別の場所でやっていたブログ記事をそのまま移動しているため全く同じ文章があります。しかし、それは赤の他人の第三者によるコピーとか盗作・剽窃(ひょうせつ)ではありません。当ブログを書いているのは前のブログ主と同一人物です)

本ブログ「アメジローのつれづれ」は全三部よりなります。第一部は「生活のたのしみ」、第二部は「音楽のたのしみ」、第三部は「読書のたのしみ」。

第一部の「生活のたのしみ」は、現在の日々の生活(ライフスタイル)について。最初は精神態度とかバイクとかファッションなど私の基本の生活スタイルである、いわゆる「モッズ」についての特集「モッズな生活」から。そして過去に遡(さかのぼ)って、以前に私は京都に住んでいたことがあるので特集「京都喫茶探訪」。昔よく行った京都のタンゴ喫茶「クンパルシータ」の思い出など。

第二部は「音楽のたのしみ」で、スカパラについての特集「東京スカパラダイスオーケストラ大百科」、つづいてYMO(イエローマジック・オーケストラ)に関する特集「YMO伝説」、さらには特集「フリッパーズ・ギター・小沢と小山田」「天才・岡村靖幸」「ピチカート・ファイヴの小西康陽」「懐かしのルックアウト・レコード」など。

第三部は「読書のたのしみ」。別ブログ「アメジローの岩波新書の書評」で収録できなかった岩波新書以外の書籍に関することを。まずはトキワ荘出身漫画家で私が大好きだった寺田ヒロオの「テラさん」についての「特集・寺田ヒロオ」から始めて、比較的長いシリーズ「大学受験参考書を読む」、それから海外の探偵小説・ミステリーの「シャーロック・ホームズ」「アルセーヌ・リュパン」「エラリー・クイーン」ら諸探偵の短編集の書評を。加えて、日本探偵小説界の巨星・横溝正史と江戸川乱歩の特集「再読・横溝正史」「江戸川乱歩・礼賛(らいさん)」。そして日々愛読している太宰治全集より特集「太宰治を読む」へ。

お探しの記事やお目当ての特集は、本ブログ内の検索にて特集タイトル(の一部フレーズ)を入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

京都喫茶探訪(1)クンパルシータ

今回から始まる新シリーズ「京都喫茶探訪」である。以前に京都でよく行った純喫茶のことなどを。ただ昔よく行った喫茶店への私の思いを書いているだけで、「あの店の由来や歴史はこうで」のタメになる話や「得々メニューはこれだ!」のようなお薦め情報はないので、読んでいて正直うっとうしいと思う。一般に他人の私的な思い出話ほど第三者が聞いて本当にどうでもよくて、なおかつうっとうしいものはないので。だが、このブログはほとんど人が来ないから(笑)。人に読んでもらうのが目的ではなく、自分のためだけに書いているので、それがせめてもの救いだ。

以前、京都の木屋町に「クンパルシータ」というタンゴ喫茶があった。昼間は開いていなくて夕方から深夜に開いている喫茶店だった。映画館でレイトショーを観たり、晩飯を食べて一杯やった後によく行っていた。何だか好きで本当に頻繁に寄っていた、クンパルシータには。

狭い路地の風俗店に囲まれた場所にあるので、呼び込みのオッサンの「どうですか?サービスしますよ」の怪しい勧誘の声を毎度かいくぐって(笑)、クンパルシータのドア開ける。左手にカウンター兼厨房の小さなスペースあって、カウンターの上壁に飾りでトランペットが置いてあり、さらにカウンターの奥にオーディオセットが見えて(といってもCDプレイヤーはなく、アナログのレコードプレイヤーとカセットデッキだ)、店の左壁にトイレのドアがあって、そのドアの左手の電気のスイッチの辺りに藤沢嵐子の直筆サイン色紙が飾ってある。椅子は特注で作らせた赤い薔薇(ばら)のビロードのような高級な造りで、店の奥の中央に暖炉があってテーブルは8つくらい。歩くと硬い床が上品にコツコツと鳴る。店内の改装は昭和30年代に一度やったと言っていた。店内の様子を説明し出すとキリがないが、今でもハッキリ覚えている。店の感じとか空気とか、その時聴いたタンゴとか、もちろんコーヒーの味も。

女主人のママが一人でやっていて、コーヒー1杯を淹(い)れるのに時間がかかってね(笑)。先客がいるときは1時間待ちは普通。だが、昔は私も時間がたくさんあったので苦にならなかった。いつも一人で入店して本を読んだり音楽を聴いたりして、ずっと待っていた。近所に「みゅーず」という名曲喫茶でクラシックを聴かせる店があって、そこはコーヒーもすぐ出て来るしアルバイトの人も多くて、しっかりした店だったけれど、なぜか待たされるクンパルシータの方が好きだった。「コーヒーの濃さは、いかが致しましょうか?」と注文のときに細かく聞いて1杯ずつ淹れてくれた。コーヒーの味は苦いシブイ感じだ。私は常にブラックでしかコーヒーを飲まないので、苦いシブイ味のコーヒーが好きなのだ。

私がクンパルシータに通っていた1990年代当時、タンゴの音楽では正統より少し外れたアストル・ピアソラ(Astor・Piazzolla)やヨーヨー・マ(Yo-Yo・Ma)が流行っていて(おそらくCMや映画音楽にて彼らの楽曲が当時よく使われていたため)、だが、なぜか通ぶって藤沢嵐子や阿保都夫(あぼ・いくお)らをリクエストしていた。だいたい、まず嵐子さんを頼んでかけてもらって、その後、変則でわざと「美輪明宏お願いします」と言ったりして。私は、本当はタンゴには全く詳しくはないのだが(笑)。でも、よせばいいのに調子に乗って「やっぱり嵐子さんは上手いですね。嵐子さんだと安心して聴けますねぇ」などと言ったりするので、ママも「この人は、かなりのタンゴ好きな人」と勘違いされていたと思う。すみません。しかし、藤沢嵐子は当時から「かなり上手い」と思って私は好きだったのだけれど。最近は「歌姫」と呼ばれる人は多いが、私のなかで「歌姫」といえば真っ先に思い浮かぶのは藤沢嵐子だ。あと阿保都夫の「スキヤキ」(「上を向いて歩こう」)もクンパルシータで何度も聴いたな。阿保郁夫も本当に洗練されていて日本人の発声とは思えないくらい藤沢嵐子同様、実に巧(たく)みで上手いのだ。

ママともよくお話しした。もうだいぶ時間も経っているのでママとの当時の会話の内容もここに書いてもよいと思うけれど、敗戦後まもなくの頃、映画会社の人たちが店の奥でヒロポンをやっていて当時、店を一緒にやっていたママのお母さんが怒った話。敗戦後まもなく京都四条の美松会館付近の闇市にカレーライスを食べに行った時の話。まだ大映でスターとして売れる前の勝新太郎がクンパルシータの店に来て、店の公衆電話で話す「もしもし勝だけど」の声が聞こえて来て「勝って変な名前だなぁ」とママが思っていたら、勝新太郎が「僕はタンゴよりもジャズが好きでねぇ」と言った話。あとは市川雷蔵の話なども。あの頃は周防正行監督の「Shall ・Weダンス? 」(1996年)が劇場上映された時代で、ママも昔はタンゴを踊る人だったらしく、それを観に行った時の話。映画の面白場面とあらすじを最後まで詳しく話してくれた。結構、繰り返し何度もね。

クンパルシータも今では閉店でもう行けないが、最近でもたまに思い出す、店の感じやコーヒーの味、当時聴いていたタンゴ、藤沢嵐子や阿保都夫の「スキヤキ」、そしてママのことを。特に藤沢嵐子はその後、普通にCDを購入して聴いたけれど、なぜかしっくりこない。家で聴いても車の中のカーステでかけても、これが不思議と駄目なのだ。嵐子さんを聴くのならクンパルシータに行って聴かないと。音楽も音楽みずから聴かれる場所を選ぶのか?

そういったわけで藤沢嵐子も久しく聴いていない。藤沢嵐子と「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」の音源など。本当に今となっては去っていった昔の記憶だけ、懐かしくて楽しい思い出だけだ。後には実物は何も手元に残らない。クンパルシータは、嶽本野ばらの小説「カフェー小品集」(2001年)のなかにも出てくる。最後はセンチメンタルで懐古な感傷モードで非常に湿っぽく、誠にすみません。

モッズな生活(3)ホンダ ジョルカブ

最近、イギリスでの、いわゆる「モッズ」たちによるスクーター・ランの雑誌記事を見た。皆さん、かなりカスタムしてデコレーションを入れた状態のよい「ベスパ」(Vespa)や「ランブレッタ」(Lambretta)を所有していて、モッズ=「貧しい労働者階級のリアルな怒りの若者文化」というよりは「デザイナーや業界人など比較的裕福な階層による最新の流行ファッション」という印象を正直、私は持った。

いまやモッズといえば当たり前のように「べスパやランブレッタのスクーターが必須アイテム」のような話になっていて、その類のスクーターに乗っていると「あなたモッズですか?」とすぐ周りの人達に言われそうだが(笑)、もともとモッズの若者は最初から「スクーター好き」だったわけではない。本当はモッズも初めのうちは四輪の自家用車を購入して乗り回したかった。しかし、モッズは底辺の労働者階級の若者文化だから彼らに金なく、残念ながら車が買えなかった…だから車体価格が割安なスクーターに乗っていただけのことだ。

バイクに乗るとき排気ガスで自慢のモッズスーツが汚れるので、軍の払い下げのパーカーをモッズコートとして汚れよけに着ていたくらいお洒落には神経質だった若者たちだから、モッズな若者で金があったら普通にスーツが汚れない四輪の車を購入して乗る。事実、1960年代後半から四輪の価格が安くなり、自家用車人気が高まるとイタリアのランブレッタ社はバイクが売れなくなり、1971年にスクーター生産をやめている。

さてイギリス本国ではどうなのか分からないけれど、今や日本でベスパやランブレッタ所有するのは、かなり大変である。まず車体価格が高いし、しかも近所にべスパやランブレッタを扱う専門店などそうそうないし、部品調達や修理メンテナンスの面でおそらく素人には無理だ。またベスパは故障しやすい、たとえ新車でも一度バラして再度、組み立て直してから乗らないとすぐ不調になるのウワサ(真偽は不明)も時に聞く。

映画「さらば青春の光」とテレビドラマ「探偵物語」の工藤ちゃん(松田優作)の影響で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも、メンテナンスの手間や車体購入の経済的負担の金銭面で思いかなわず、私は今デザインがべスパやランブレッタぽいホンダの「ジョルカブ」に乗っている。そんなわけで愛車の赤のジョルカブにフロント・キャリアとバンパーを付けてみた(画像のような感じ)。

さすがにフロント・キャリアとバンパー完備の赤のジョルカブに、モッズスーツとモッズコートを着用で街乗りして信号待ちなどしていると「おまえはモッズか?」「もしかしたら映画『さらば青春の光』やバンドのコレクターズのファンの方ですか?」のような、無言ないしは有言の車中や通行人からの声が時に掛かって困る(笑)。

ジョルカブは、見かけはジョルノのデザインにカブのエンジンを積んでいるので「ジョルノ+カブ=ジョルカブ」なのだが、ステップに4速のギアが付いていて、足元でガチャガチャやりながら走る操作性が面白い。また、エンジンがホンダの「カブ」だから汎用性が効いて交換・代替部品も豊富にあるし、近所のバイク店でオイル交換などのメンテナンスも気軽に日常的にできる。それに何しろホンダのカブは「ストップ・ゴー」を日常的に頻繁に繰り返す郵便や新聞配達の業務用バイクに採用されるくらい故障が少なくエンジンが強く、総走行距離もかなり長くまで行けて末永く乗れるらしいので、モッズな方で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも思いかなわずな人に私は強くお薦めしたい。

ジョルカブはもう生産中止だが、まだ中古車で日本国内にてそこそこの車体数は流通しているし、価格的にもそこまで高騰の「幻の車種」ではないらしいので、お薦めです。

太宰治を読む(8)「兄たち」

太宰治の本名は津島修治である。太宰は⻘森県北津軽郡⾦⽊村の出⾝である。太宰の⽣家は県下有数の⼤地主であった。津島家は「⾦⽊の殿様」と呼ばれていた。⽗は県議会議員も務めた地元の名⼠であり、多額の納税により貴族議員にもなった。津島家は七男四⼥で、太宰の上には⻑兄と次兄と三兄の三⼈の兄がいた。

太宰の⽗は、彼が学⽣の時に早くに亡くなっている。太宰治は七⼈いる男兄弟の六男である。太宰の上には本当は五⼈の兄がいた。だが⻑男と次男が早世したため、三男の兄・⽂治が実質上の⻑兄となり、津島家の家督を継いで家⻑となった。⽗と同様、⻑兄も地元の名⼠であった。⻑兄は家⻑として津島家を継いで⽴派に切り盛りした。太宰の上の三兄と下の弟は若くして病死しており、残された男兄弟は⻑兄と次兄と太宰の三⼈のみであった。太宰は家⻑である⻑兄を特に頼りにしていた。

太宰治が⽣前、誰よりも畏(おそ)れていた⻑兄・津島⽂治が弟・太宰治への⼼情を⽣涯に⼀度だけ告⽩した。津島⽂治は元⻘森県知事、元参議院議員(⾃⺠党)。昭和48年、参議院議員当時の談話である。

「太宰が死んでから、もう25年にもなりますか。これまでは随分と多くの⼈から太宰についての取材の申し込みがありましたが、全てお断りし、ノーコメントで終始させていただきました。実際、彼について話をするのが嫌だったのです。ほんとうに世間に多⼤のご迷惑をお掛けして申し訳ない、というのが私の偽らざる気持ちであり、とにかく、ああいう⼤将が⼀家から出てしまいますと⼀族の者は弱ってしまいます。仮に今、私が『おれの弟は⼤⽂学者で』などということを語りますと、さらに世間に迷惑を及ぼすことになると思うのです。かといって『おれの弟はとんでもない⼤バカ者で』と⾔ったところではじまりません。私が覚えていることをポツポツお話いたします」

「私⾃⾝は弟・修治の⼩説は、ほとんど読んでいません。読んだのは『津軽』と『右⼤⾂実朝』くらいです。いくら何でも『右⼤⾂実朝』には家のことや私のことは出てこないだろう、と思って読んでおりましたら、やっぱり出てきて閉⼝した記憶があります。私には修治のものを読んで家のことに触れた箇所が来ると、『あーまたここで弟にやられてしまった』などと思っていたものです。私個⼈といたしましては、⽇本の⼩説家で⼀番好きなのは⾕崎潤⼀郎さんで、とくにあの⽅の随筆は⽇本⼀では、と思っています。もちろん⼩説も繰り返し読みました。こう申し上げると⼈さまは、『⾃分の末弟を不良といったり、その作品を不良の⽂学というなら、⾕崎だって不良じゃないか』と、あるいはおっしゃられるかもしれません。しかし、実際に⾃分の⾝内から不良が出たとなると、⾃ずから話はちがってきますよ」

「とは申せ、修治とて何も最初から不良であったわけではありません。正直、私の五⼈の兄弟の中で、修治は学業は⼀番優秀でした。ですから親にしてみれば憎かろうはずはなく、とくに⽗の源右衛⾨は『修治、修治』といって、かわいがっていました。修治は⼩学校は無⽋席、成績優秀でとおし、⻘森中学でも成績はよく、弘前⾼校に⼊ったのですが、そこで何やら不良性が芽⽣えたようで、左翼運動にはしったり、『桃⾊』に狂ったりしたのです。でも⼤学に⼊るまでは体は丈夫で健康でした。それが⼤学に進んで、おおいに本格的な不良性を発揮し、胸の病気や、俗にいうところの『親不孝病』になったわけです」

「⾃分の⽣家のことを、ことさら⼤げさに⾔うつもりはないのですが、あの地⽅ではかなり名の知れた私の家から⼩説家というか、⼩説家という冠(かんむり)をいただいた極道者が出てしまったことは本当につらいことです。申し上げておきますが、私は何も⼩説家そのものや⽂芸⾃体が悪いなどというのではないのです。これでも当時の家⻑としては、かなり理解を持っていたと思います。しかし修治という男は、その理解をはるかに超えたところで⾏動してしまい、事件を起こし続けたのです。⾼等学校時代の修治は、幼い左翼思想に⼈並みにかぶれ、茶屋酒の味を覚え、戯作の世界にのめりこんでいったとはいえ、とにかく卒業はしてくれました。私は不明のいたすところで、そんな修治でも東京に出たら⾃分を修正し、真⾯⽬に⽂学なら勉強をしてくれると考えていました。結果は、もう皆さんのご存知のとおりの体たらくで、まことに若い家⻑の⼿に余る存在でした」

「左翼運動といい、初代のことといい、鎌倉の情死騒ぎといい、⼼配をかけっぱなしだった太宰でしたが、なんといっても驚いたのは⿇薬常習のときでした。誰からか修治が⿇薬中毒になっていると聞いたのかどうかは忘れましたが、仰天しました。あのときは、私は修治の⼊院の際に初めて脳病院というところに⾏って、その悲惨な患者の状態を⾒て、これは⼤変なことになったと慌てました。えーと、なんというか…看護⼈ですね、暴れる患者を取り押さえる⼈たちに修治を引き渡してきた⽇のことは忘れられない印象として残っています。以後も、まだまだいろいろな事件が修治に付随して起こり、その都度、周囲の⽅々に多⼤の迷惑をかけてまいりましたが、私はいつしか『修治は結局、畳の上では往⽣しない』と思い込むようになりました」

「太宰は私には⼿紙も⾃分の本も送っては寄こさないのですが、姉の『きょう』には、よく便りを送ったそうです。きょうと中畑君と私の三⼈が集まっては彼の⼿紙を読んで笑いあったものです。というのは、太宰の⼿紙というのは、『反省している』とか『⽴派にやっている』とか、まるで聖⼈君⼦にでもなったような⽂句が多いのです。ですから『修ちゃんの⼿紙は⼿紙じゃなくて⼩説だ』といって笑いました」

「きょうが嫁に⾏った先は私の家と四、五軒ほどしか離れていませんでした。修治はよくここへ遊びにいったそうですよ。私の家で⼀杯ひっかけていい気分になって出かけて⾏き、笑いながら話してくるらしいのです。きょうの話によればですねえ、ご機嫌になった修治は『紙ないかな』と⾔って、何か書くものを借りて字を書くらしいのです。そして『あと⼆⼗年もたてば⼤変な値打ちが出るから⼤事にしまっておけ』なんてホラを吹くそうです。彼⼥は、『今⽇は修ちゃんが来て、えらくホラを吹いて帰っていった。でも上機嫌でした』なんてよく話していましたね。よく⼈から、太宰の関係したもので何か残っていないか?と訊ねられますが、そのようにして書き散らしたものなら、まだ出てくるかもしれません」

「修治の疎開中のことで印象に残っているのは、よく印刷物がきていたことかな。なんといいますか、ファンの⽅からとか、雑誌社とか出版社からの連絡とか、まあ、毎⽇、驚くほど舞い込んでいました。『修治のやつ、えらくもてるんだな』と思っていましたよ。それともう⼀つ、若い頃はめったに⼈前で本を読まなかった修治が⾷事の前などに、⼀⼼不乱に、それもものすごい勢いで読書していましたな。必ず読んでいましたよ。私達が本を読む速度なんか⽐較にならないのではないでしょうかね。私が早稲⽥に⾏っている頃、兄弟中で⼀番読書好きだった修治に本を送ってやった記憶がありますな。修治からも、いつだったか、私宛に佐藤春夫先⽣の本を送ってくれたことがあったけねえ」

「太宰が死んでから⼆⼗五年間、私は沈黙してきました。桜桃忌も⾏かなければ記念碑も⾒に⾏っていません。墓にも⾏ってないです。太宰について⼈さまになにか申し上げるのが本当にイヤでした。そういう私が今になって弟は偉い奴だったというのも変だし、バカな奴だったといってもお答えにはならんでしょう。修治が⽟川上⽔に⼊⽔して⾏⽅不明になったと聞いた時、私はかねて覚悟していた『畳以外での往⽣』にいよいよなるんだな、とこう申し上げるのもなんですが、感慨ひとしおであったと告⽩しなければなりません」

「⾊々お話はしましたが、太宰の⼩説はやはり⾁親が読んで楽しいものでは決してないと思います。話を終わらせていただくにあたりまして、あらためて修治が世間さまに与えたご迷惑を深くお詫び申し上げます。また尊い命を失われた⽅のご冥福を⼼よりお祈り申し上げます。また修治が⽣前、お世話にな った幾多の⽅々へ、厚く御礼を申しあげたいと存じます」

太宰治を読む(7)「兄たち」「鉄面皮」

「太宰治全集」にて私には⼀時期、太宰と⻑兄で家⻑たる兄・⽂治とのやりとりがある作品箇所だけ、わざと選んで読み返す楽しみの趣向があった。太宰治の本名は津島修治である。太宰は⻘森県北津軽郡⾦⽊村の出⾝である。太宰の⽣家は県下有数の⼤地主であった。津島家は「⾦⽊の殿様」と呼ばれていた。⽗は県議会議員も務めた地元の名⼠であり、多額の納税により貴族議員にもなった。津島家は七男四⼥で、太宰の上には⻑兄と次兄と三兄の三⼈の兄がいた。太宰の⽗は、彼が学⽣の時に早くに亡くなっている。

「⽗がなくなったときは、⻑兄は⼤学を出たばかりの⼆⼗五歳、次兄は⼆⼗三歳、三男は⼆⼗歳、私が⼗四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして⼤⼈びていましたので、私は、⽗に死なれても、少しも⼼細く感じませんでした。⻑兄を、⽗と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯⽗さんの様に思い、⽢えてばかりいました。私が、どんなひねこびた我儘(わがまま)いっても、兄たちは、いつも笑って許してくれました」(「兄たち」1940年)

太宰治は七⼈いる男兄弟の六男である。太宰の上には本当は五⼈の兄がいた。だが⻑男と次男が早世したため、三男の兄・⽂治が実質上の⻑兄となり、津島家の家督を継いで家⻑となった。⾦⽊町⻑、県会議員、⻘森県知事、地元選出の国会議員を歴任し、⽗と同様に⻑兄も地元の名⼠であった。⻑兄・⽂治は本当は⻑男ではないのに、⼈には⽣まれながらの資質とともに当⼈が置かれた環境ならびに知らぬ間に背負わされた周囲からの期待と責務に応(こた)えるべく、⼈は⾃然とそのように成⻑していくものである。⻑兄は家⻑として津島家を継いで⽴派に切り盛りした。太宰の上の三兄と下の弟は若くして病死しており、残された男兄弟は⻑兄と次兄と太宰の三⼈のみであった。太宰は家⻑である⻑兄を特に頼りにしていた。

「私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう。その遺産と、亡⽗の政治上の諸勢⼒とを守るのに、眼に⾒えぬ努⼒をしていたにちがいありませぬ。たよりにする伯⽗さんというような⼈も無かったし、すべては、⼆⼗五歳の⻑兄と、⼆⼗三歳の次兄と、⼒を合せてやって⾏くより他に仕⽅がなかったのでした。⻑兄は、⼆⼗五歳で町⻑さんになり、少し政治の実際を練習して、それから三⼗⼀歳で、県会議員になりました。全国で⼀ばん若年の県会議員だったそうで、新聞には、A県の近衛公とされて、漫画なども出てたいへん⼈気がありました。⻑兄は、それでも、いつも暗い気持のようでした。⻑兄の望みは、そんなところに無かったのです。⻑兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから⽇本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。⻑兄⾃⾝も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを⼀室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の⻑兄の顔は、しんから嬉しそうに⾒えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、⻑兄の戯曲は、たいてい、宿命の悲しさをテエマにしているような気がいたしました」(「兄たち」)

⻑兄・⽂治とは違い、弟の太宰は⽂学者に憧れ作家を⽬指し上京して、⼩説家として⽣活できるまで⻘森の実家からの仕送りや津島家の財産分与を常にアテにしていた。また⾃⾝の薬物中毒や結婚や⼼中と⾃殺未遂の後始末にその都度、⻘森の実家は奔⾛した。⻑兄の⽂治が弟・修治の⽗親代わりであったのだ。左翼の⾮合法運動に⾜を突っ込んで学校を退学されそうになると退学処分回避のために実家の兄が裏から学校に⼿をまわす。薬物中毒になり、いよいよ⼿がつけられなくなると実家の兄が精神病院への⼊院を⼿配する。⼥性と⼼中の⾃殺未遂をやり太宰は助かり、しかし相⼿の⼥性は亡くなって修治が⾃殺幇助の罪に問われそうになると実家の兄が官権の警察と⼥性の遺族とに裏から⼿をまわして、またもや太宰の⾃殺幇助罪の起訴猶予に尽⼒する。太宰治は⽗親代わりの実家の兄・⽂治にさんざん迷惑をかけている。太宰は⻑兄に頭が上がらないのである。

そんな弟・修治と⻑兄・⽂治とのやりとりを描いた太宰治の短編に「鉄⾯⽪(てつめんぴ)」(1943年)という作品がある。「鉄⾯⽪」とは「恥知らずで厚かましい」という意味だ。太宰は兄の前では「鉄⾯⽪」である。⾃分からそう申告している。「この作品に題して⽈(いわ)く『鉄⾯⽪』。どうせ私は、つらの⽪が厚いよ」の太宰のボヤキである。以下、恥知らずで厚かましい「鉄⾯⽪」たる太宰と⻑兄・⽂治とのやりとり。

「⼩説家というものは恥知らずの愚者だという事だけは、考えるまでもなく、まず決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の⽼⺟が死んだので、私は⼗年振りに帰郷して、その時、故郷の⻑兄に、死ぬまで駄⽬だと思え、と⼤声叱咤(しった)されて、⼀つ、ものを覚えた次第であるが、『兄さん、』と私はいやになれなれしく、『僕はいまは、まるで、てんで駄⽬だけれども、でも、もう五年、いや⼗年かな、⼗年くらい経(た)ったら何か⼀つ兄さんに、うむと⾸肯(しゅこう)させるくらいのものが書けるような気がするんだけど。』兄は眼を丸くして、『お前は、よその⼈にもそんなばかな事を⾔っているのか。よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。五年?⼗年?俺にうむと⾔わせたいなんて、やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという⾺⿅な事を考えているんだ。死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ。』『だって、』何が、だってだ、そんなに強く叱咤されても、⼀向に感じないみたいにニタニタと醜怪に笑って、さながら、蹴(け)られた⾜にまたも縋(すが)りつく婦⼥⼦の如く、『それでは希望が無くなりますもの。』男だか⼥だか、わかりやしない。『いったい私は、どうしたらいいのかなあ。』いつか⽔上(みなかみ)温泉で⽥舎まわりの宝船団とかいう⼀座の芝居を⾒たことがあるけれど、その時、額のあくまでも狭い⾊男が、舞台の端にうなだれて⽴って、いったい私は、どうしたらいいのかなあ、と⾔った。それは『⾎染(ちぞめ)の名⽉』というひどく無理な題⽬の芝居であった。 兄も呆れて、うんざりして来たらしく、『それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。』と⾔って座を⽴ってしまった」(「鉄⾯⽪」)

これはヒドい(笑)。まさに「売り⾔葉に買い⾔葉」である。そして最後は兄からの痛烈な罵倒の連続だ。「よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。…やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという⾺⿅な事を考えているんだ。死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ」など、もう破れかぶれである(笑)。そうして「兄も呆れて、うんざりして来たらしく、『それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。』と⾔って座を⽴ってしまった」とまである。⻘森の実家に⺟の葬儀で帰郷の折りに実際に太宰と⻑兄との間で、こうした応答が本当にあったかどうかは問題ではない。たとえ、それが誇張の創作であっても構わない。ただ太宰が⻑兄との、こうした会話のやりとりを作品に書いて世間に公表することが重要なのであって、「鉄⾯⽪」という作品を介して、そこに込められた太宰治から⻑兄・⽂治への伝⾔たる裏メッセージが明らかにあるのだ。

太宰治、この男は実⽣活に無能で恐ろしく破綻しているが、しかし⼩説を書くのが案外、上⼿い。なかなか達者な⼩説を書く誠に⽴派な⽇本近代⽂学の⽂学者である。ただし、太宰は⻑編⼩説と完全虚構のフィクションが書けない作家であった。これを疑う⼈は「太宰治全集」を無⼼に読んでみたまえ。収録作品はほとんどが短編、⻑くてもせいぜい中編⽌まりの枚数しか、この男は書けない。確かに⻑編も希(まれ)にあるが、だいたい失敗している。太宰治は⻑いものが書けない。しかも完全フィクションの虚構も書けないから作品の内容は古典⽂学の本歌取(ほんかどり)やパロディ、他⼈の⼿紙や⽇記や⼿記を元にしたもの、そして⼩説の素材がなく、いよいよ困った時は⾃⾝の家庭の⽇常や来客交友のエピソード、⾃分の過去の思い出話、時に恥ずかしい「恥の思い出」も⾃虐の覚悟で蔵出しする。まさに⽂字通り「⾃分の⾝を削って作品をひねり出す」⽂学者の鏡のような(?)、「⽂学⾺⿅⼀代」とでも称すべき、⾃分を削ってのたうち回りながら泥⽔をすすって⽂学創作を続けた満⾝創痍(まんしんそうい)な「傷だらけの天使」ならぬ「傷だらけの太宰治」である。

フィクションの完全創作が出来ないから結局のところ、そのように題材に⾏き詰まれば⾃⾝のことや近親の家族や親族や友⼈達のことを⼩説に書くしかなく、作品創作に⾃⾝の⾝も⼼も、最期は結果的に⾃分の命さえも捧げてしまった太宰治であったが、他⽅でこの男はギリギリの所で⾃⾝の⾯⼦(めんつ)や世間体のイメージを相当に気にする所もあった。例えば「⾃分の恥の⼈⽣遍歴」を題材に作品を書く⾃伝的作品の場合であっても、最後には「⾃⾝を救う」イメージ回復の余地を巧妙に残すような「最後の最後に⾃分を守る」、そうした技術(テクニック)も太宰治には⼩説家の⼒量として確かにあった。「⼈間失格」などと⾔いながらも最後は⾃分があまりにも救いきれないほど憐(あわ)れで、みじめにならないよう毎度、⼿加減して乗りきり終わらせるテクニックは持ち合わせていた。太宰治の全作品を連続して読んでいると、そうしたフシは⼀貫して感じられる。

しかしながら「鉄⾯⽪」の作品だけは違った。これは別格である。「いつもの太宰治とは明らかに違う」と(少なくとも私には)思えた。⾃⾝の⾯⼦もプライドも捨てて全⼒で「相当に⾃虐的」とも思えるほど、あからさまに書いている。「最後には『⾃⾝を救う』イメージ回復の余地を巧妙に残すような『最後の最後に⾃分を守る』そうしたテクニック」、いつものあれが、この「鉄⾯⽪」にはないのである。何しろ太宰治「鉄⾯⽪」は、「よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。…やめろ、やめろ、…死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。…何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り」などと実の兄から直に⾔われた「⾃⾝の恥」を何ら隠すことなく臆することなしに恥ずかしげもなく全⼒で披露し書き抜く⼩説だから(笑)。

「鉄⾯⽪」は太宰治の秀作「右⼤⾂実朝」(1943年)の執筆時に同時に書かれた。「右⼤⾂実朝」は、太宰が「来年は私も三⼗五歳ですから、⼀つ、中期の佳作をのこしたいと思います」と意気込んで相当に⼒を⼊れて書いた渾⾝(こんしん)の⼊魂の作である。この時期の太宰治は「実朝をわすれず」と⽇常でも絶えず呟(つぶや)いていたに違いない。それほどの献⾝の作であった、太宰にとって「右⼤⾂実朝」は。事実、太宰の「右⼤⾂実朝」を読むと⾮常に優れている。⼤変によく出来ている。太宰治の全⽣涯の書き仕事の中で確実に五本の指に⼊ると私は思う、太宰治「右⼤⾂実朝」は。

太宰は近⽇中に発表の次作「右⼤⾂実朝」に相当な⾃信があったに違いない。そう、まさに今までさんざん迷惑をかけてきた、内⼼では愛想を尽かされ⾒捨てられそうになりながらも⻘森の実家からの援助や救援でいつも奔⾛尽⼒してくれた⻑兄・⽂治に対して「兄さん、僕はいまは、まるで、てんで駄⽬だけれども、でも、もう五年、いや⼗年かな、⼗年くらい経ったら何か⼀つ兄さんに、うむと⾸肯させるくらいのものが書けるような気がする、否(いな)、そうした作品が今書けた。それが今般の『右⼤⾂実朝』だ」というような太宰の⼼持ちである。「右⼤⾂実朝」のイントロとなる作品「鉄⾯⽪」を介しての太宰から兄への伝⾔の裏メッセージである。太宰治は渾⾝の⾃信作であった「右⼤⾂実朝」を誰よりも⻘森の実家の⻑兄に、まずは読んでもらいたかったに相違ない。そして誰よりも⾃⾝の⽗親代わりであった兄・⽂治に⾸肯し認めてもらいたかったはずだ。

太宰治を読む(6)「パンドラの匣」

太宰治は、すぐに薬物中毒になったり何度も自殺未遂を繰り返したりで「生れて、すみません」の陰気な暗い男であり、よって彼の作品も「斜陽」(1947年)や「人間失格」(1948年)のような暗い陰気な小説が多いように一般に思われがちだが、実はそうではない。太宰治の作品には、さわやかで前向きな若者の青春文学もあるのであって、その系統の代表的な太宰文学として「太宰は暗くて陰気で堕落で無頼派」と未だ誤解している読者諸氏に向け、太宰の「正義と微笑」(1942年)と「パンドラの匣(はこ)」(1946年)の二編を私は激しくお薦めしたい。そして、今回は後者の「パンドラの匣」についての書評である。

太宰治「パンドラの匣」は、本当にさわやかで前向きな読後感が爽快な青春小説である。このことを読む前に確かめたいなら、とりあえず最後の結語文だけ最初にこっそり読んでみればよい。

「僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねにひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。『私はなんにも知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当るようです。』さようなら。十二月九日」

どこまでも、さわやかである(笑)。若者の青春文学の手本のような前向きの爽快さ。「この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。『私はなんにも知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当るようです』」。青春小説にて模範的な締め括りの結語だ。

太宰治「パンドラの匣」は新聞連載小説である。以下は連載開始の際に太宰が読者に向けて書いた「作者の言葉」である。

「この小説は、『健康道場』と称する或(あ)る療養所で病いと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛(あ)てた手紙の形式になっている。手紙の形式の小説は、これまでの新聞小説には前例が少なかったのではなかろうかと思われる。だから、読者も、はじめの四、五回は少し勝手が違ってまごつくかも知れないが、しかし、手紙の形式はまた、現実感が濃いので、昔から外国に於(お)いても、多くの作者に依(よ)って試みられて来たものである。…甚(はなは)だぶあいそな前口上でいけないが、しかし、こんなぶあいそな挨拶(あいさつ)をする男の書く小説が案外面白い事がある」

次回新連載の自作広告として、これは文句のつけようがない満点の出来だ。「甚だぶあいそな前口上でいけないが、しかし、こんなぶあいそな挨拶をする男の書く小説が案外面白い事がある」など、読み手に期待させて新連載を読ませる誘導に長(た)けている。また、太宰自身も今度の「パンドラの匣」の作品内容に相当な手応えの自信があったに違いない。何しろ「しかし、こんなぶあいそな挨拶(あいさつ)をする男の書く小説が案外面白い事がある」とまで言い放っているのだから。太宰治、この男は現実の生活能力がなくて大人の社会人としては全くダメな人だが、案外文学仕事は優秀にこなす。そして当の太宰も自身の文学仕事の出来栄えやその能力に関しては密(ひそ)かに自信の自負を抱いているのであった。

太宰による「作者の言葉」通り、「パンドラの匣」は結核療養のための「『健康道場』と称する或る療養所で病いと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛てた手紙の形式」になっている。三人称による地の文ではなくて一人称の手紙形式である。しかも、書き手の青年と親友との往復書簡であり、あえて書き手の青年の手紙のみ、往復書簡の「往」だけを太宰が執筆して掲載の体(てい)である。だから、本小説にての青年の手紙は「さっそくの御返事、なつかしく拝読しました」や「昨日の御訪問、なんとも嬉(うれ)しく存じました」などの書き出しから毎回始まる、本当は相手の友人と相互のやり取りがあるはずだが、あえて「往」のみの書簡掲載になっている非常に凝(こ)った形式である。

結核療養所である「健康道場」では院長のことを「場長」と呼び、副院長以下の医師は「指導員」、看護師たちは「助手」、入院患者は「塾生」と呼ばれる。相部屋同室の入院患者の塾生と看護師の指導員らが共に生活する一つの大きな家のようなものだ。毎日、朝から晩まで屈伸鍛練や布摩擦や講話聴講などをやって過ごす。「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「ようし来た」など挨拶代わりの激励が道場の廊下ですれ違うたび互いに交わされる。そんな道場では小さな事件も、ちらほら。例えば「女性看護師の化粧が濃い」問題の道場患者有志らによる糾弾事件があったりする。そこで手紙の書き手であり、本作の主人公たる「ひばり」がそうした道場の日常を友人に書簡を通して語り、小説「パンドラの匣」の読者は、ひばりの手紙を読んで知る形式である。

道場にて日々起こる事件の中でも、二十歳の青年・ひばりにとっての「大事件」であり、最大の関心事は男女の恋愛だ。道場にて毎日、日常的に接する若い患者と年頃の看護師との間に自然と男女間の恋愛感情が芽生えてしまうことは何ら不思議ではない。毎日、顔を付き合わせていると情が通い、いつの間にか互いに気になり意識してしまう。ひばりと同室の「つくし」(三十五歳の、ひょろ長い「つくし」のような上品な紳士。既婚で妻帯者。おとなしそうな小柄の細君が時々、見舞いに来る)に、助手の「マア坊」(十八歳の東京の府立の女学校を中途退学して本道場に来た若い看護師)が密かに思いを寄せていた。また、ひばりも助手の「竹さん」に好意を寄せている。ひばりが思いを寄せると竹さんは、どういった女性なのか。ひばりの友人への手紙によれば、

「塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈(たけ)が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。けれども、このひとの笑い顔には特徴がある。これが人気の第一の原因かも知れない。…それから、たいへん働き者だという事も、人気の原因の一つになっているかも知れない。とにかく、よく気がきいて、きらきりしゃんと素早く仕事を片づける手際(てぎわ)は、『まったく、日本一のおかみさんだよ』。何しろ、たいへんな人気だ。…大阪の生まれだそうで、竹さんの言葉には、いくらか関西訛(なまり)が残っている。そこがまた塾生たちにとって、たまらぬいいところらしい」

そんな竹さんもどうやら人知れず、ひばりに思いを寄せている。しかし、竹さんは父親の勧めで道場の場長との縁談が決まってしまう。同僚看護師のマア坊によれば、「竹さんは二晩も三晩も泣いてたわ。お嫁に行くのは、いやだって。…竹さんはね、ひばりが恋しくて泣いたのよ、本当よ」。それから竹さんの結婚が決まった後、摩擦療法の後にひばりと竹さんが初めて言葉を交わす場面である。以下の記述が本作「パンドラの匣」の中でも最高潮(クライマックス)、最大の読み所といってよい。

「やはり、夢ではなかった。『竹さん、おめでとう。』と僕が言った。竹さんは返辞をしなかった。黙って、うしろから寝巻をかけてくれて、それから、寝巻の袖口(そでぐち)から手を入れて、僕の腕の附け根のところを、ぎゅっとかなり強く抓(つね)った。僕は歯を食いしばって痛さを堪えた。何事も無かったように寝巻に着換えて、僕は食事に取りかかり、竹さんは傍で僕の絣(かすり)の着物を畳(たた)んでいる。お互いに一ことも、ものを言わなかった。しばらくして竹さんが、極めて小さい声で、『かんにんね。』と囁(ささや)いた。その一言に、竹さんの、いっさいの思いがこめられてあるような気がした。『ひどいやつや。』と僕は、食事をしながら竹さんの言葉の訛(なまり)を真似(まね)てそっと呟(つぶや)いた。そうしてこの一言にも、僕のいっさいの思いがこもっているような気がした。竹さんはくすくす笑い出して、『おおきに。』と言った。和解が出来たのである。僕は竹さんの幸福を、しんから祈りたい気持になった。『いつまでここにいるの?』 『今月一ぱい。』『送別会でもしようか。』『おお、いやらし!』竹さんは大袈裟(おおげさ)に身震いして、畳んだ着物をさっさと引出しにしまい込み、澄まして部屋から出て行った。どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう」

当のひばり本人も含めて「どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう」。太宰治「パンドラの匣」は、どこまでもさわやかで前向きな読後感が爽快な青春小説なのである。竹さんとの相思相愛な「ひばりの青春」の恋愛は少しだけほろ苦い、しかし後に引きずらない輝かしい恋愛のよい思い出だ。ひばりは今後とも、この往復書簡のやり取りが終わった後でも生きている限り、ずっと竹さんのことを忘れずに思い返して、末長く彼女の幸福をまっすぐな気持ちで願うだろう。

男女の恋愛とは殊更(ことさら)に大袈裟に告白したり、わざわざ一緒に出歩いたり、同棲して共に暮らしたり、結婚を前提にした交際をすることだけではない。毎日、顔を付き合わせて挨拶を交わすだけで自然と声が弾んで笑顔になる。互いに好意があることを知っていながら、あえて先へは進展しない。そして互いの恋愛感情は何ら具体的な形で成就せず、やがて二人の関係も自然と切れてしまう。それでも、それは男女の恋愛に相違ない。太宰治「パンドラの匣」は、そういった輝かしい男女の恋愛の話である。