アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです

特集ドイル(7)「バスカヴィル家の犬」

先日、コナン・ドイル、シャーロック・ホームズ・シリーズの「バスカヴィル家の犬」(1901年)を読み返してみた。本作は過去に何度も読んでいて結末も犯人も全て知っている。しかし、そうした「ネタばれ」の状態であっても、長編ホームズの中では「バスカヴィル家」は例外的に面白いと思う。

ドイルはシャーロック・ホームズに関し5つの短編集(「冒険」「思い出」「帰還」「最後の挨拶」「事件簿」)以外にも、長編をいくつか執筆している。それらは発表順で、「緋色の研究」(1887年)、「四つの署名」(1890年)、「バスカヴィル家の犬」(1901年)、「恐怖の谷」(1914年)の4編である。

長編ホームズの中では「バスカヴィル家の犬」が、頭一つ抜けて面白い。理科の圧力単位に「パスカル(pa)」があることから、本作「バスカヴィル家の犬」に関し、「パスカヴィル家の犬」と勘違いしている人がたまにいるが(笑)、正確なタイトルは「パスカヴィル」ではなくて、「バスカヴィル」である。一応、念のため。

本作の概要はこうだ。

「昔の呪われた伝説が、いまなお生きているのか。西部イングランドの名門、バスカヴィル家の当主が突然、謎の変死をとげる。死体には外傷がないが、その顔は恐怖にゆがみ、かたわらには巨大な犬の足跡がついていた。闇にきらめく灯火、火を吐く魔の犬の跳梁(ちょうりょう)!荒涼たる一寒村を舞台に、恐怖と怪異にみちた妖犬に挑戦するホームズは?」(東京創元文庫版・表紙解説)

イギリスはイングランド南西部、デボン州ダートムーアの領主、バスカヴィル家に伝わる呪われた伝説とは、犬にまつわる「魔犬伝説」である。当地の名門、バスカヴィル家の先祖が悪徳な人物で、村の女性を拉致するという蛮行をした際、どこからともなく現れた大きな犬に喉笛(のどぶえ)を噛(か)みちぎられて殺され、悪行仲間もその後死んだり発狂したりするといった、たたりの伝説ががあって、「子牛ほどもある黒犬が、口から火を吹き大きなするどい目を輝かせて夕暮れに現れ、その姿を見た者は必ず夜明けまでに死ぬ」という言い伝えが、この地には昔からあった。

そうしてバスカヴィル家の現当主が、ある夜、敷地内で殺され、死体には他殺による外傷はなかったが、その顔は恐怖にゆがんでいた。そして、あの魔犬伝説を裏付けるかのように、死体のそばには巨大な犬の足跡が!それから怪死した当主の正統な後継者にあたる、遠縁の若きバスカヴィル卿が爵位と莫大な財産を相続すべく、ロンドンにやって来る。しかし、そのロンドンの地で、ダートムーアのバスカヴィル家の屋敷に赴くな(「生命と常識を大切にするならば荒野から遠ざけよ」)と警告する差出人不明の脅迫文が届く。だが、科学的合理論者で理性的な今般バスカヴィル家当主となる若き後継者は、かの地に伝わる魔犬伝説に恐怖することなく、脅迫文にも屈せずにダートムーアの領地に出向くことにする。そこで、ロンドンのベイカー街にいる私立探偵、シャーロック・ホームズと、その友人であるワトソンに探偵依頼の話が持ち込まれるのだが。

私が毎度、英国のドイル「バスカヴィル家の犬」を読むたびに思うのは、これは日本の横溝正史「八つ墓村」(1951年)と話のプロット(筋書き、骨組み)が全く同じであるということだ。もちろん、横溝「八つ墓村」の方が時代的に四十年以上遅く、後発の横溝はドイルの「バスカヴィル家」は既読で知っているはずだから、これは横溝正史が「八つ墓村」を構想・執筆する際に、ドイルの「バスカヴィル家の犬」をかなり参考にし大胆に真似た、ほぼ翻案小説といってよいのである。

イングランドの寒村、ダートムーア地方に伝わる、領主の祖先がやらかした問題行動に端を発した「魔犬伝説」。かたや日本の山陰、岡山地方に伝わる、かつて戦国の時代に大金を携えて村に敗走した落武者を、村人たちが欲に目が眩(くら)み惨殺して強奪。以来、この村では、首謀者の子孫が突然に発狂して村人を虐殺する惨事が繰り返される。まさに直近に岡山で実際にあった「津山三十人殺し」(1938年)のように、という偶然にしては、あまりにも一致しすぎる怪奇伝説モチーフ(主題)の同一プロットである(苦笑)。

そうして、それら忌まわしい怪奇伝説が伝わる当地へ、年若い遠縁の正統な後継者が、事前に命の危険を警告する無署名の脅迫文が届けられたにもかかわらず、彼は相続のために、かの地へ足を踏み入れてしまう。そこから伝説にまつわる奇怪な殺人事件が発生して、という話の展開まで、そのまま同じだ。

その他、ダートムーアの荒野にて、監獄から脱獄した男の姿が散見され、村の事件関係者がなぜか彼をかくまうような不可解な行動を重ねる。それが「この関係者が真犯人、もしくは犯人を知る共犯の重要参考人で、この人が明らかに怪しい」という記述をさんざんに重ね、読者に「この人が犯人に違いない!」と思わせるも、しかし中途でハシゴを外し、「その人は犯人でも共犯者でもなかった。一連の不可解な行動は別の合理的理由によるもの」とする誤誘導(ミスディレクション)の手法。このドイル「バスカヴィル家の犬」で使われているものは、横溝正史の今度は「獄門島」(1948年)での島に潜伏して、しばしば目撃される復員兵の海賊の派手な立ち回りと、彼をなぜか助けようとする島の事件関係者による不可解な行動のミスディレクションと、これまたほぼ同じなのである。

「横溝さん、日本の探偵小説のベテランで大家なのに、海外のコナン・ドイル、ホームズ・シリーズの『バスカヴィル家の犬』から舞台設定や話の展開や誤誘導推理のアイデアを盗みすぎ」と思うのは、私だけだろうか(苦笑)。

ドイル「バスカヴィル家の犬」は、探偵推理として、犯人による殺害方法と犯行動機は納得できるもので、全体の話の筋も細部も何ら破綻してはいない。事件推理の骨格たる単なる殺人事件だけでなく、英国はダートムーアの荒れ地に渦巻く霧、馬をも飲み込むほどの底なし沼、数少ない住人たちの閉鎖性と、それぞれに謎に包まれた隠された過去。そうして当地、バスカヴィル家に代々伝わる忌まわしい魔犬伝説のオカルト演出が光る名作だ。

特に、作中での「バスカヴィル家の犬」は、「とてつもなく巨大な真っ黒い犬で、大きく開いた口からは火を吹き、目は光っていて、鼻から首筋にかけて、ゆらゆら炎が燃えている」様相の伝説的な言い伝えであり、実際に作中では、そのような悪魔の犬が登場する。「本作執筆時の二十世紀初頭にて、いくら何でもそうした非合理で恐怖なオカルトは実際にありえないだろう」と科学合理主義の社会に生きる当時の読者はリアルタイムで読んで誰もが思ったはずで、だから最後に「真っ黒い犬が、大きく開いた口からは火を吹き、目は光っていて、鼻から首筋にかけて、ゆらゆら炎が燃えている(ように現実に見えた)」理由の合理的なトリックをドイルはきちんと書き入れており、これもなかなか近代の怪奇幻想風味な探偵小説の理にかなった落とし所の、さすがの書きぶりである。

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローのつれづれ」。本ブログ「アメジローのつれづれ」は全三部よりなります。第一部は「生活のたのしみ」、第二部は「音楽のたのしみ」、第三部は「読書のたのしみ」。

第一部の「生活のたのしみ」は、現在の日々の生活(ライフスタイル)について。最初は精神態度とかバイクとかファッションなど私の基本の生活スタイルである、いわゆる「モッズ」についての特集「モッズな生活」から。そして過去に遡(さかのぼ)って、以前に私は京都に住んでいたことがあるので特集「京都喫茶探訪」。昔よく行った京都のタンゴ喫茶「クンパルシータ」の思い出など。

第二部は「音楽のたのしみ」で、スカパラについての特集「東京スカパラダイスオーケストラ大百科」、つづいてYMO(イエローマジック・オーケストラ)に関する特集「YMO伝説」、さらには特集「フリッパーズ・ギター・小沢と小山田」「天才・岡村靖幸」「ピチカート・ファイヴの小西康陽」など。

第三部は「読書のたのしみ」。別ブログ「アメジローの岩波新書の書評」で収録できなかった岩波新書以外の書籍に関することを。まずはトキワ荘出身漫画家で私が大好きだった寺田ヒロオの「テラさん」についての「特集・寺田ヒロオ」から始めて、次に海外の探偵小説・ミステリーの「シャーロック・ホームズ」「アルセーヌ・リュパン」「エラリー・クイーン」ら諸探偵の短編集の書評を。加えて、日本探偵小説界の巨星・横溝正史と江戸川乱歩の特集「再読・横溝正史」「江戸川乱歩・礼賛(らいさん)」。そして日々愛読している太宰治全集より特集「太宰治を読む」から、最後に比較的長いシリーズ「大学受験参考書を読む」へ。

お探しの記事やお目当ての特集は、本ブログ内の検索にて特集タイトル(の一部フレーズ)を入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

京都喫茶探訪(1)クンパルシータ

今回から始まる新シリーズ「京都喫茶探訪」である。以前に京都でよく行った純喫茶のことなどを。ただ昔よく行った喫茶店への私の思いを書いているだけで、「あの店の由来や歴史はこうで」のタメになる話や「得々メニューはこれだ!」のようなお薦め情報はないので、読んでいて正直うっとうしいと思う。一般に他人の私的な思い出話ほど第三者が聞いて本当にどうでもよくて、なおかつうっとうしいものはないので。だが、このブログはほとんど人が来ないから(笑)。人に読んでもらうのが目的ではなく、自分のためだけに書いているので、それがせめてもの救いだ。

以前、京都の木屋町に「クンパルシータ」というタンゴ喫茶があった。昼間は開いていなくて夕方から深夜に開いている喫茶店だった。映画館でレイトショーを観たり、晩飯を食べて一杯やった後によく行っていた。何だか好きで本当に頻繁に寄っていた、クンパルシータには。

狭い路地の風俗店に囲まれた場所にあるので、呼び込みのオッサンの「どうですか?サービスしますよ」の怪しい勧誘の声を毎度かいくぐって(笑)、クンパルシータのドア開ける。左手にカウンター兼厨房の小さなスペースあって、カウンターの上壁に飾りでトランペットが置いてあり、さらにカウンターの奥にオーディオセットが見えて(といってもCDプレイヤーはなく、アナログのレコードプレイヤーとカセットデッキだ)、店の左壁にトイレのドアがあって、そのドアの左手の電気のスイッチの辺りに藤沢嵐子の直筆サイン色紙が飾ってある。椅子は特注で作らせた赤い薔薇(ばら)のビロードのような高級な造りで、店の奥の中央に暖炉があってテーブルは8つくらい。歩くと硬い床が上品にコツコツと鳴る。店内の改装は昭和30年代に一度やったと言っていた。店内の様子を説明し出すとキリがないが、今でもハッキリ覚えている。店の感じとか空気とか、その時聴いたタンゴとか、もちろんコーヒーの味も。

女主人のママが一人でやっていて、コーヒー1杯を淹(い)れるのに時間がかかってね(笑)。先客がいるときは1時間待ちは普通。だが、昔は私も時間がたくさんあったので苦にならなかった。いつも一人で入店して本を読んだり音楽を聴いたりして、ずっと待っていた。近所に「みゅーず」という名曲喫茶でクラシックを聴かせる店があって、そこはコーヒーもすぐ出て来るしアルバイトの人も多くて、しっかりした店だったけれど、なぜか待たされるクンパルシータの方が好きだった。「コーヒーの濃さは、いかが致しましょうか?」と注文のときに細かく聞いて1杯ずつ淹れてくれた。コーヒーの味は苦いシブイ感じだ。私は常にブラックでしかコーヒーを飲まないので、苦いシブイ味のコーヒーが好きなのだ。

私がクンパルシータに通っていた1990年代当時、タンゴの音楽では正統より少し外れたアストル・ピアソラ(Astor・Piazzolla)やヨーヨー・マ(Yo-Yo・Ma)が流行っていて(おそらくCMや映画音楽にて彼らの楽曲が当時よく使われていたため)、だが、なぜか通ぶって藤沢嵐子や阿保都夫(あぼ・いくお)らをリクエストしていた。だいたい、まず嵐子さんを頼んでかけてもらって、その後、変則でわざと「美輪明宏お願いします」と言ったりして。私は、本当はタンゴには全く詳しくはないのだが(笑)。でも、よせばいいのに調子に乗って「やっぱり嵐子さんは上手いですね。嵐子さんだと安心して聴けますねぇ」などと言ったりするので、ママも「この人は、かなりのタンゴ好きな人」と勘違いされていたと思う。すみません。しかし、藤沢嵐子は当時から「かなり上手い」と思って私は好きだったのだけれど。最近は「歌姫」と呼ばれる人は多いが、私のなかで「歌姫」といえば真っ先に思い浮かぶのは藤沢嵐子だ。あと阿保都夫の「スキヤキ」(「上を向いて歩こう」)もクンパルシータで何度も聴いたな。阿保郁夫も本当に洗練されていて日本人の発声とは思えないくらい藤沢嵐子同様、実に巧(たく)みで上手いのだ。

ママともよくお話しした。もうだいぶ時間も経っているのでママとの当時の会話の内容もここに書いてもよいと思うけれど、敗戦後まもなくの頃、映画会社の人たちが店の奥でヒロポンをやっていて当時、店を一緒にやっていたママのお母さんが怒った話。敗戦後まもなく京都四条の美松会館付近の闇市にカレーライスを食べに行った時の話。まだ大映でスターとして売れる前の勝新太郎がクンパルシータの店に来て、店の公衆電話で話す「もしもし勝だけど」の声が聞こえて来て「勝って変な名前だなぁ」とママが思っていたら、勝新太郎が「僕はタンゴよりもジャズが好きでねぇ」と言った話。あとは市川雷蔵の話なども。あの頃は周防正行監督の「Shall ・Weダンス? 」(1996年)が劇場上映された時代で、ママも昔はタンゴを踊る人だったらしく、それを観に行った時の話。映画の面白場面とあらすじを最後まで詳しく話してくれた。結構、繰り返し何度もね。

クンパルシータも今では閉店でもう行けないが、最近でもたまに思い出す、店の感じやコーヒーの味、当時聴いていたタンゴ、藤沢嵐子や阿保都夫の「スキヤキ」、そしてママのことを。特に藤沢嵐子はその後、普通にCDを購入して聴いたけれど、なぜかしっくりこない。家で聴いても車の中のカーステでかけても、これが不思議と駄目なのだ。嵐子さんを聴くのならクンパルシータに行って聴かないと。音楽も音楽みずから聴かれる場所を選ぶのか?

そういったわけで藤沢嵐子も久しく聴いていない。藤沢嵐子と「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」の音源など。本当に今となっては去っていった昔の記憶だけ、懐かしくて楽しい思い出だけだ。後には実物は何も手元に残らない。クンパルシータは、嶽本野ばらの小説「カフェー小品集」(2001年)のなかにも出てくる。最後はセンチメンタルで懐古な感傷モードで非常に湿っぽく、誠にすみません。

モッズな生活(3)ホンダ ジョルカブ

最近、イギリスでの、いわゆる「モッズ」たちによるスクーター・ランの雑誌記事を見た。皆さん、かなりカスタムしてデコレーションを入れた状態のよい「ベスパ」(Vespa)や「ランブレッタ」(Lambretta)を所有していて、モッズ=「貧しい労働者階級のリアルな怒りの若者文化」というよりは「デザイナーや業界人など比較的裕福な階層による最新の流行ファッション」という印象を正直、私は持った。

いまやモッズといえば当たり前のように「べスパやランブレッタのスクーターが必須アイテム」のような話になっていて、その類のスクーターに乗っていると「あなたモッズですか?」とすぐ周りの人達に言われそうだが(笑)、もともとモッズの若者は最初から「スクーター好き」だったわけではない。本当はモッズも初めのうちは四輪の自家用車を購入して乗り回したかった。しかし、モッズは底辺の労働者階級の若者文化だから彼らに金なく、残念ながら車が買えなかった…だから車体価格が割安なスクーターに乗っていただけのことだ。

バイクに乗るとき排気ガスで自慢のモッズスーツが汚れるので、軍の払い下げのパーカーをモッズコートとして汚れよけに着ていたくらいお洒落には神経質だった若者たちだから、モッズな若者で金があったら普通にスーツが汚れない四輪の車を購入して乗る。事実、1960年代後半から四輪の価格が安くなり、自家用車人気が高まるとイタリアのランブレッタ社はバイクが売れなくなり、1971年にスクーター生産をやめている。

さてイギリス本国ではどうなのか分からないけれど、今や日本でベスパやランブレッタ所有するのは、かなり大変である。まず車体価格が高いし、しかも近所にべスパやランブレッタを扱う専門店などそうそうないし、部品調達や修理メンテナンスの面でおそらく素人には無理だ。またベスパは故障しやすい、たとえ新車でも一度バラして再度、組み立て直してから乗らないとすぐ不調になるのウワサ(真偽は不明)も時に聞く。

映画「さらば青春の光」とテレビドラマ「探偵物語」の工藤ちゃん(松田優作)の影響で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも、メンテナンスの手間や車体購入の経済的負担の金銭面で思いかなわず、私は今デザインがべスパやランブレッタぽいホンダの「ジョルカブ」に乗っている。そんなわけで愛車の赤のジョルカブにフロント・キャリアとバンパーを付けてみた(画像のような感じ)。

さすがにフロント・キャリアとバンパー完備の赤のジョルカブに、モッズスーツとモッズコートを着用で街乗りして信号待ちなどしていると「おまえはモッズか?」「もしかしたら映画『さらば青春の光』やバンドのコレクターズのファンの方ですか?」のような、無言ないしは有言の車中や通行人からの声が時に掛かって困る(笑)。

ジョルカブは、見かけはジョルノのデザインにカブのエンジンを積んでいるので「ジョルノ+カブ=ジョルカブ」なのだが、ステップに4速のギアが付いていて、足元でガチャガチャやりながら走る操作性が面白い。また、エンジンがホンダの「カブ」だから汎用性が効いて交換・代替部品も豊富にあるし、近所のバイク店でオイル交換などのメンテナンスも気軽に日常的にできる。それに何しろホンダのカブは「ストップ・ゴー」を日常的に頻繁に繰り返す郵便や新聞配達の業務用バイクに採用されるくらい故障が少なくエンジンが強く、総走行距離もかなり長くまで行けて末永く乗れるらしいので、モッズな方で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも思いかなわずな人に私は強くお薦めしたい。

ジョルカブはもう生産中止だが、まだ中古車で日本国内にてそこそこの車体数は流通しているし、価格的にもそこまで高騰の「幻の車種」ではないらしいので、お薦めです。

 

大学受験参考書を読む(121)瓜生豊・篠田重晃「大学受験スーパーゼミ 全解説 頻出英文法・語法問題 1000」

私が高校生の時、高校の必携の副教材で買わされた桐原書店の上垣暁雄「大学入試・英語頻出問題総演習・即戦ゼミ」(1990年)という問題集があって、それをよくやっていた。今回の「大学受験参考書を読む」は、その桐原の「大学入試・英語頻出問題総演習・即戦ゼミ」と同じシリーズで後継書籍にあたる、瓜生豊・篠田重晃「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」(1993年)を取り上げてみたい。

本書は大学受験英語にて定番頻出の文法・語法問題をタイトル通りの1000題、つまりは1000個のポイントを網羅するものである。実際に出題された大学入試の文法・語法問題の過去問が、出題大学名も付して別冊の問題冊子に四択の記号選択形式の問題としてある。ここは、いちいち律儀(りちぎ)に問題を解いてから、後に解答・解説を参照するのではなくて、もう問題は解かずに最初から1000の文法・語法のポイント解説を直接に読んで、手っ取り早く1000個の英語ポイントをつぶしていくのが良いと思える、

結局のところ、英語の文法・語法の問題は「知っているか/知らないか」に尽きる。その文法ルールや語の用法を知らなければ、新たに学んで知ってしまえばよいだけのことである、そして、本書「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」に掲載されてある1000個の文法・語法ポイントを知っていれば、現行の大学受験英語の問題は、だいたい解けるとは思う。だから早いところ、本書に掲載の1000個の文法・語法のポイントを「1から1000まで」読み内容理解をして、実際の入試問題に対応できるようにしておけばよい。話は簡単である。

例えば、「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」でのポイントの「250」は、「動詞の語法」のうちでの「他動詞・discuss─discuss+O」である。動詞の「discuss(議論する)」は自動詞ではなく他動詞で、他動詞は自動詞よりも後ろに来る目的語(O)との結びつきが深いから、その深い親和性からして「Oについて議論する」は、「discuss+O」である、例えば「discuss・the・Plan」(その計画について議論する)というように。

ただ、この「discuss」の語を日本語訳で考えると、「discuss」(××について議論する)だから「××について」の日本語に引きづられて、「discuss+about+O」にしてしまいがちだ。だが「discuss」は他動詞なので、目的語の間に前置詞の「about(ついて)」をかませずに、直後に目的語を置く「discuss+O」の型で覚えておくべきである。ついでに言うと、「議論する」で前置詞の「about」を使うパターンは、自動詞の「talk」を使う「talk・about+O」(Oについて議論する)になる。

この手の、だいたいこのくらいの長さで簡潔理解できる文法・語法のポイント事項が1000個、ざっと網羅されている「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」である。

本書は1日20個くらいポイントを学んで、それを毎日やって50日ほどで一冊全てを終わらせるのがよいのではないか。その上で念には念を入れて、あと2周ほど(50日✕2)、新たに100日(3ヶ月強)くらいかけて、本書「大学受験スーパーゼミ・全解説・頻出英文法・語法問題・1000」を繰り返しやり込めば、大学受験英語の文法・語法問題がほぼ解けるのみならず、その他、入試以外での英文読解の際にも役立ち、英語力養成の実力アップにつながるはずである。

大学受験参考書を読む(120)中原道喜「英語長文問題精講」

中原道喜「英語長文問題精講」(1990年)は、昔からある大学受験の英語の長文読解の問題集で、私は前から知っていた。1980年代当時、高校の友人が、特に高校の副教材でもないのに、本書の旧版をなぜか学校に持ってきて、休み時間や放課後に自習でやっていた。あの黄色の表紙の、旺文社から出されている、前から見覚えのある「英語長文問題精講」である。

そこで先日、中原道喜「英語長文問題精講」の新版を購入してやってみた。本書は大学入試の英語長文問題の過去問が全60題収録されている。私は1日1題、毎日の昼食後に読むルーティーンで2か月(60日)ほどかけて一冊やった。その期間は自分の中では、それなりに充実した英語学習の時間で何だか楽しかったな。

私が購入した中原「英語長文問題精講」は、2016年出版の「新装版」の最新版である。本書の帯には「受験生とともに80年。問題精講シリーズ・累計1200万部突破!不滅の名著」とある。本シリーズの初版は何と!1933年で、現行の「問題精講」の体裁になったのは1982年からであるという。「英語長文問題精講」に付されている「標準問題精講」というサブタイトルから、本書は「標準」レベルの基礎的な英語長文読解の問題集かと思っていたら、帯の別の箇所には「難解大レベル」とあって、一応は難解大学対策の上級レベルの英文読解問題集であるらしい。

本書は、大学入試で以前に出題された過去問の英語長文を掲載しているが正直、私が毎日読んでそこまで難しい英文とは思えなかった。まさに「標準的」な、そこそこ平易な英語である。また別の英語問題集で以前に読んだ記憶がある英文も散見され、日本の大学入試では昔から定番で有名な英語長文を広く収録しているものと思われる。

私は英語を日常的に話したり、書いたり、聞いたりするような職業や生活環境に今も昔もない。ただ趣味的に、英語版の「ウィキペディア(Wikipedia)」や、洋楽ロックが好きなので海外の音楽雑誌記事を英語で軽く読む程度でしかない。それらに掲載の英語は、一般の英米人のネイティブが日常的に書く、案外とりとめのない簡潔英語で、そこから一転、日本の大学入試英語の格調高い(?)、やや文語的であり、倒置構文や「It…that」の強調構文、助動詞過去形がマーカー(目印)である仮定法らが頻出で、しかも英語の論理構造(対立、抽象具体、因果関係)が、しっかりとしている評論文の英語に接すると身が引き締まる思いがする。

通常の一般の英米人のネイティブが日常的に書く、とりとめのない英語では、倒置構文や「It…that」の強調構文、助動詞過去形がマーカー(目印)である仮定法など、めったにないから(苦笑)。これは日本人が使う日常的な日本語で同様に考えてみれば分かると思うが、私達の日本語での日常的な会話や記述の文章にて、倒置法とか強調法とか仮定法など使う機会は、めったにないのである。むしろ、日常的な会話と文章で倒置法や強調法や仮定法らの修辞を多用する人がいれば、その人は格式ばった、やや面倒くさいイヤミったらしい人として敬遠されるだろう。

しかし大学入試の受験英語は、倒置法とか強調構文や仮定法などが頻繁に出てくる非日常的な文語的英語であるので、読んでいて何だか新鮮だ。

大学受験参考書を読む(119)田中結也「日本史探求」(その2)

ここ数日で、ネットに上げられている大学受験指導の「たたよび・文系チャンネル」内での日本史講義の動画、田中結也「日本史・プレミアム全講義」の原始・古代から近現代までの全44回を視聴した。

この人の日本史講義の特徴は、どうやら受験日本史を教える際に「歴史用語を羅列の機械的な暗記や、無理矢理の語呂合わせで覚えさせる」を回避して、「なぜそうなのか内容から教えて理解させる。結果、受験生は無理なく日本史知識を覚える」の指導の面が強いように思う。つまりは教科書記載の、入試に出る表面的な歴史用語の知識を単にピックアップするだけでなく、それら用語の背後にある歴史的背景や歴史知識のより詳しい内容、用語同士の関係性にまで掘り下げ適時触れて、時代の因果の流れや他時代との対比を意識させる講義を田中師はやる。

その上で田中師の場合、日本史講義でそれら用語の背後にある歴史的背景や歴史知識のより詳しい内容に触れて解説した後に、山川出版社「詳説・日本史」や実教出版「日本史B」での該当記述を読み上げ、学生に再度、歴史事項の内容確認をさせる。

これは確かに理にかなった合理的な、日本史の教え方であると思う。実際に山川出版社「詳説・日本史」にしても、実教出版「日本史B」でも学校現場で使われている公的教材たる日本史教科書は、実によく正解に書かれている。ここでいう「正解な」教科書記述というのは、教科書執筆者が書きたい歴史項目に関する知識・解釈や個人的な歴史観ではなく、はたまた学生に歴史に興味関心を持ってもらうための日本史の裏話や蘊蓄(うんちく)のような細かな話を教えるということでは全くない。

つまりは、現行の高校日本史教科書での正確記述というのは、教科書執筆者が、大学や学会でやられていて実績と蓄積のある、戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍を参照した上で、その専門的な学術内容を全て詳細に書いているわけではないが、明らかに戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍の内容に依拠しながら、暗にその典拠に基づくものであることを、時にそれとなく匂(にお)わせる絶妙な筆致で一貫して周到に書き抜かれているのである。

ゆえに現行の高校教科書の記述に、昨今流行りの歴史ミステリーや陰謀論的でセンセーショナルな、俗にいう「トンデモ歴史」語りのものは皆無であるし、一部学者が主張している新説・珍説も取り上げてはいない。また現在まだ決着がついていない論争下にあるもの、専門家・学会の間で概(おおむ)ね妥当と認められていない新奇の学説も盛り込まれていない。戦後に大学や学会で研鑽(けんさん)され積み重ねられてきた日本史研究の成果内容に悉(ことごと)く即して、妥当な専門性に典拠する形での、本格的な日本史学習にはほぼ初学である高校生向けの日本史教科書であるのだ。

このことを逆から言うと、高校教員が高校生に対し、また予備校講師が受験生に向けて「正確に」その結果、適切に日本史を教えるということは、自分が教えたい歴史内容や自身の個人的な歴史観を学生に勝手気ままに教えるということでは決してない。どこまでも戦後の大学や学会にて積み重ねられてきた専門的な日本史研究の諸論文・研究書籍を暗に踏まえた上で、そうした戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍の内容に依拠しながら教えなければならないのである。だから、例え高校生や大学受験生に初学レベルの日本史を教える教師の側は、原始・古代から近現代までの、大学や学会にて認められ主流である日本史研究の専門知識を最低限、学び知っておかなければならないということになる。

ただ、これは高校生・浪人生に受験日本史を教える際、入試問題が解けて志望校に合格することが目的の受験勉強であるので「ここは、とりあえず暗記して試験対応できるようにしておけ。晴れて大学合格し無事に大学生になってから、より高度で専門的な日本史を後に学べば良いのだから」の旨での歴史用語羅列の無味乾燥な暗記学習、それでは決して済ませずに歴史内容にまで突っ込み、掘り下げて理解させる形で(田中師のように)詳しく教える場合に限るのだが。

例えば、近現代史の自由民権運動の項目で、山川出版社「詳説・日本史」には、「士族民権」「豪農民権」の用語が掲載されている。実際、私が高校生の時に習った日本史ではそうであったし、仮に今、私が高校生や大学受験生に近現代史の自由民権運動を教える際には、それら「士族民権」「豪農民権」らの用語を押さえて、自由民権運動史を「士族民権(上流民権)→豪農民権→農民民権(激化事件)→大同団結」という運動の中心的担い手変遷の4時期区分で教えるだろう。また大学入試の日本史論述で「自由民権運動の概要」を書かせる問題の場合、この4時期区分をまずやってから、その上で4つの時期についての主要な事件や運動要求内容をそれぞれ詳しく書き入れる論述構成にしなければ、ほとんど点数をもらえないだろう。

そして、この自由民権運動に関し「士族民権(上流民権)→豪農民権→農民民権(激化事件)→大同団結」の4時期区分で説明し理解する教科書記述は、私は大学進学後に専門の自由民権運動研究を広く読んで改めて気付いたのだが、戦後の大学や学会にて積み重ねられてきた専門的な日本史研究の諸論文・研究書籍を踏まえたもので、その専門研究に依拠して高校生向けの教科書記述が一貫してなされているということであった。

事実、日本近現代史での自由民権運動研究は1960年代の民衆史ブームに支えられていた。当時その民衆史の手法を取り入れて、自由民権運動研究を牽引(けんいん)したのは色川大吉を始めとして、安丸良夫、ひろたまさき、鹿野政直の各氏、民衆史専攻の歴史研究者だった。1960年代は日本史研究の現場でも主要人物や事件や政治テーマに関するものは戦後歴史学の中で既に一通りやられており、いわば「歴史研究は一周した」感があった。そこで著名な為政者や思想家、歴史的事件や法制の政治システムではない、無名の被支配層の民衆の実態や郷土史に連なる各地方のあり様へ、これまで未着手であった分野に研究テーマが拡がった。

かつ当時の現実社会でも安保闘争を介した学生運動や労働運動、地域の反基地闘争、地域住民による公害訴訟、女性解放運動(ウーマン・リブ)、消費者運動など、まさに1960年代は同時代にて市民運動の時代であり、それが歴史における民衆発掘の民衆史の動きにそのまま連動していた。当時、自由民権運動の研究に接する者は、中江兆民や植木枝盛の頂点思想家に関するもののみならず、かつての明治の民権運動にての在野の無名な民衆の歴史的姿を、そのまま現在の各種の市民運動に奮闘する無名の市民たる自分たちに暗に重ねて読んでいた。

そうして現在でも、自由民権運動についての研究で色川大吉ら専門研究の多くの著作・諸論文を読むと、民権運動の概観は、かの「士族民権(上流民権)→豪農民権→農民民権(激化事件)→大同団結」という、運動の中心的担い手変遷の4時期区分で当たり前のように書かれている。おそらくこの4時期区分での論じ方は専門の自由民権運動研究にて、多くの研究者が同意する妥当な自明の事柄であって、この4区分に即していない民権運動研究者ないしは研究は「モグリ」とか「素人研究」と一刀両断に切り捨てられる程のものがあると思う。

この自由民権運動についての教科書記述の事例に見られるように、現行の高校日本史教科書の執筆者が、大学や学会でやられていて実績と蓄積のある、戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍を参照した上で、明らかに戦後の日本史研究の諸論文・研究書籍の内容に依拠しながら、暗にその典拠に基づくものであることを、時にそれとなく匂わせる絶妙な筆致で一貫して実に周到に書き抜いているのだ。だから山川出版社「詳説・日本史」を始めとした日本史教科書は、直接的に明確に書かれざる行間まで読んで、よくよく精読されなければならないし、教科書を用いての日本史授業は有効である。

そして、大学受験指導の「たたよび・文系チャンネル」内での日本史講義の動画、田中結也「日本史・プレミアム全講義」にての、田中師による、用語の背後にある歴史的背景や歴史知識のより詳しい内容に触れ解説した後に、山川出版社「詳説・日本史」や実教出版「日本史B」で該当の教科書記述を読み上げ、学生に再度、歴史事項の内容確認をさせるといった教科書を用いた日本史講義の効果的な進め方に、私は強い賛同とかなりの好感を持った。

大学受験参考書を読む(118)田中結也「日本史探求」(その1)

ここ数日で、ネットに上げられている大学受験指導の「たたよび・文系チャンネル」内での日本史講義動画、田中結也「日本史・プレミアム全講義」の原始・古代から近現代までの全44回を視聴した。講師の田中結也は現在、京都や神戸や福岡ら西日本地域を中心に駿台予備学校らに出講している40代の、そこそこのベテランな日本史講師であるらしい。

今回の「大学受験参考書を読む」で取り上げるのは、そうした駿台日本史科に在籍の田中師による大学受験参考書、田中結也「日本史探求」(2024年)である。

この人の日本史講義の特徴は、どうやら受験日本史を教える際に「歴史用語を羅列の機械的な暗記や、無理矢理の語呂合わせで覚えさせる」を回避して、「なぜそうなのか内容から教えて理解させる。結果、受験生は無理なく日本史知識を覚える」の指導の面がかなり強いように思う。

(※これは教師による教え方の相違で、私も大学受験指導で日本史と世界史を高校(特進コース)で教えていたことがある。あまりに内容に突っ込み、掘り下げて理解させる形で詳しく教えるのは、入試問題が解けて志望校に合格することが目的の受験勉強の本筋より大きく外れるので、「ここは、とりあえず暗記して試験対応できるようにしておけ。歴史の詳しい内容にまで突っ込むと泥沼になる。晴れて大学合格し無事に大学生になってから、より高度で専門的な日本史・世界史を学べば良いのだから。大学受験勉強で社会教科にハマって時間と労力をかけ過ぎると、確実に合格は遠ざかる。今の大学入試では英語と数学が出来ないと絶対に国公立上位、難関私立には受からない。だから日本史・世界史はほどほどに、むしろ英語や数学に力を入れてやりなさい」というようなことを社会科教員なのに(苦笑)、生徒に言っていた。真面目で日本史・世界史にハマってやたら勉強する生徒は学習意欲があり、担当の社会科教員にとっては大変にありがたいことではあるけれども、そういった学生は英語や数学の学習不足で、だいたい大学受験の現役合格に失敗し浪人していた。)

そのため、受験日本史の暗黙のルールで昔からある、「問題作成をし出題する大学側は、受験生が高校で教えられていない日本史教科書に記載のない専門的な歴史知識・理論は基本、問うてはいけない」というのがあるのだが、「なぜそうなのか、内容から理解させて教える」指導の面が強い田中師の場合、山川出版社「詳説・日本史」の教科書よりも、より詳しく内容を突っ込んで細かく記述している、実教出版「日本史B」の方を積極的に取り上げ読み上げる、実教出版の日本史教科書に依拠した解説の日本史講義をやる。

つまりは教科書記載の、入試に出る表面的な歴史用語の知識を単にピックアップするだけでなく、それら用語の背後にある歴史的背景や歴史知識のより詳しい内容、用語同士の関係性にまで掘り下げ随時触れて、時代の因果の流れや他時代との対比を意識させる講義を田中師はやる。これが本書の表紙に大きく書かれている「メタ視点」教授の内実である。この「メタ視点」の教え方の力点は、ネットに上げられている大学受験指導の日本史講義動画「日本史・プレミアム全講義」でも、今般の全国書店売りの参考書「日本史探求」でも同様だ。

田中「日本史探求」では各章の冒頭で、これから学ぶ歴史の流れを俯瞰(ふかん)で大まかに示した簡略年表と箇条形式でのいくつかポイント指摘のまとめがあって、その上で後に詳細な日本史解説に移るの形式になっている。この解説手順と参考書記述は、田中師による日本史講義の動画「日本史・プレミアム全講義」内での電子黒板や(ネット講義の視聴者に向けて一部では配布されているらしい)レジュメ・テキストとほぼ同じものであるようだ。

田中結也「日本史探求」は、暗記一辺倒ではない、歴史の流れと内容を知り理解して学ぶ日本史の受験参考書として有用である。

あと田中結也による受験日本史での文化史に内容を絞った参考書で、「パラダイムシフトでおさえる日本文化史」(2024年)というのもある。別に私は文句を言うつもりはないが(苦笑)、日本史研究の日本文化史で「日本の文化の表層は時代毎に様々に変わって見えても、実は原始・古代より近現代に至るまで日本文化には、どちらかといえば批判的に理解され、やがては克服されるべき日本の文化の独自の決まった型が連続して根強くある」といった旨の、パラダイムシフト否定の日本文化史研究が前よりあるのに(例えば、加藤周一の「雑種文化」とか、丸山眞男の「歴史意識の『古層』」など)、日本文化史を解説する参考書で「パラダイムシフト」(人々の価値観・社会認識の劇的転回)の観点から解説するタイトルの書籍を出すとは、田中師はなかなか勇気があるなと思った。