アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです

クイーン「エラリー・クイーンの冒険」(その2)

前回からの続き。

(以下、短編集「エラリー・クイーンの冒険」(1934年)の核心トリックに触れた「ネタばれ」です。クイーンの「エラリー・クイーンの冒険」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「見えない恋人の冒険」は、美徳があり周囲の皆から好印象の人物が、第一級殺人の罪に問われて収監される。彼が所有の銃から発射された銃弾の条痕(じょうこん)と殺害された被害者の身体を貫通した銃弾のそれとが一致したのである。これは「彼が犯人」であることを指し示す決定的物的証拠であったが、結末は、この殺人事件を捜査する警察の検視官で、遺体を埋葬する葬儀屋でもある男が、皆から好印象の人物と、ある一人の女性をめぐる恋のライバルで(だが、密かに心を寄せて周囲の者の誰もが、検視官で葬儀屋である彼の恋心を知らなかったので、その男こそは「見えない恋人」というオチ)、恋愛ライバルの相手に殺人の罪を着せ陥(おとしい)れるために仕組んだものであったのだ。

この場合、銃弾が被害者を貫通せずに体内に弾丸が残っていれば、検視官で葬儀屋の彼が検視の際に銃弾のすり替えが秘密裏に処理できるので「完全犯罪」は成功であったが、たまたま銃弾が被害者の身体を貫通し、その現象から細かな矛盾に気づいたクイーンにより、検視官の犯罪もくろみが暴露される。本文記述によれば、銃弾が体内を貫通したことが「天の配剤(悪業は、必ず最後には露見して罰せられること)」というわけである。

ところで、探偵小説にて絶対に遵守されなければならない20の規則を以前に挙げた、「ヴァン・ダインの二十則」に「探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない」というのがある。クイーンの「見えない恋人の冒険」を初めて読んだ昔から本作に関しては、「捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない」の原則に反しているように思う。「そりゃ警察の検視官が犯人なら、殺人遺体の体内から取り出した銃弾の条痕などいくらでも細工で改変して、無実の第三者に罪をなすりつけることは容易にできるだろう。でっちあげの冤罪(えんざい)の末の完全犯罪など、捜査員の一人が突然犯人に急変すれば、とても簡単」に思えて、クイーン「見えない恋人の冒険」にはアンフェアで残念な読み味がいつも残る。

「チークのたばこ入れの冒険」は、地味だがエラリー・クイーンの本作中での犯人を辿(たど)る発言と思考が終始、論理的で合理的である。アパートで殺された男性のそばにたばこはあるのに、たばこ入れが見当たらない。と同時に、このアパートで連日、宝石盗難の事件が続発している。盗まれた宝石は紙たばこに巻いて、チーク木材のたばこ入れに窃盗犯が隠していたのだが、そのチークのたばこ入れをめぐり、チークのタバコ入れで似たものが2つある、殺人被害者と非常に似た容姿の兄がいる、などの事柄からエラリー・クイーンが極めて合理的に推論をめぐらし、最後に「Q・E・D(証明終わり)」と告げるクイーンの鮮(あざ)やかさである。また本作では最後の一行で「真犯人は誰か!?」、読み手のほとんどがの人がノーマークで意外な人物が犯人で、初読の際に多くの人が少なからず驚くはず。

「双頭の犬の冒険」は、嵐の晩の旅行中にクイーンが立ち寄った宿屋で出くわす怪奇な殺人の話である。宿の主人が船長と称する、「双頭の犬」という名称の風変わりな建物の宿屋で、以前に犬を連れて投宿した宝石泥棒がそのまま行方不明となり彼の犬は殴打で殺され、それ以来、この部屋に夜な夜な明らかに人間の立てる音ではない、すすり泣くような異様な幽霊の声が聞こえるというのである。

本作の中でエラリー・クイーンはアメリカの作家、エマーソンの言葉を引用し、「知識というのは恐怖の解毒剤」(註─知識があれぱ無駄に恐怖することなく、合理的解釈で正しく理解できるの意)と述べる。話の前半で、「夜な夜な明らかに人間の立てる音ではない、すすり泣くような異様な幽霊の声」の非合理な怪奇話で長く引っ張って、それは実は以前に投宿して姿を消した宝石泥棒は、同じく「双頭の犬」の宿に泊まっていた金物商の出張商人の男に殺害され宝石を略取されて、しかも彼は金物商であるので床板を外す道具や遺体の腐乱防止の生石灰を持っていたため、殺害した宝石泥棒の遺体を宿の床下に隠したのである。それで宝石泥棒が連れていた犬は殺された1匹だけと皆は信じていたが1匹だけでなく、最初から2匹で実は逃げたもう1匹の犬がいて、その生き残りの犬が、床下に埋められている宝石泥棒の主人の遺体に夜ごと引き寄せられ、床を爪で引っ掻いて悲しく吠(ほ)えるので、それが「夜な夜な明らかに人間の立てる音ではない、すすり泣くような異様な幽霊の声」に聞こえていたという怪奇の合理的な解決である。そして偽物の宝石をつかまされた金物商の男が、床下の遺体を再び掘り返そうとした時に、彼は「殺害された主人の仇(かたき)」とばかりに、犬に襲われ亡くなってしまう。

この短編の怪奇話のミソは、「明らかに人間の立てる音ではない、幽霊の声」が、獰猛な飼い犬のそれであり、皆が犬は1匹だと思い込んで、すでに殺されているはずなのに、実は元から2匹いて、その生き残りの1匹という真相であった。なるほど、本短編のタイトルは「双頭の犬の冒険」であり、「双頭の犬」は殺人が起きた宿の屋号であるばかりではなく、「双頭」で「実は犬は2匹いた」のネタばれが最初から堂々とさらされているわけである。そして読み手は、最初はこの「双頭の犬の冒険」タイトルに何とも思わないが、読了し結末まで知ると、「確かに『双頭の犬』だわ(笑)」と妙に納得する絶妙な仕掛けとなっている。そうした宿屋の屋号と今回の一連の事件の核心的事実での「双頭の犬」の符号に関しては、本作ラストにてエラリー・クイーン君も触れている。

「ガラスの丸天井付き時計の冒険」は、事件を解決したエラリー・クイーンに言わせれば、「あまりにも簡単で」「きわめて初歩的なものだ」ということになるらしい。事件は、殺害された骨董品店の店主が死の間際に、殺人犯を皆に知らせようとするのだが、加害者の名を記す筆記用具がなかったために、店内にある水晶と古時計(「ガラスの丸天井付き時計」)を用いて半死半生の中で犯人を暗示する暗号を残した。本作は「ダイイングメッセージ(死者の伝言)」を読み解くタイプの推理短編である。だが、これは犯人が別の関係者に犯罪の濡れ衣を着せようとし、被害者によるものと思われたメッセージに細工する。しかし、この殺人被害者が2月末の閏年(うるうどし)に誕生日で、暦上は4年に1歳しか年をとらない、ないしは通常の人と同等に年を重ねるのに4倍の歳月がかかってしまうという特殊事例があったために、エラリー・クイーン君に犯罪を露見されてしまうという話である。この推理の論理の過程は細かいので、ぜひとも本作を精読して各自で確認してもらいたい。確かに犯人推理の過程に破綻なく、言われてみれば一貫して簡単で、ある意味地味だが本格推理な短編である。

「七匹の黒猫の冒険」は、猫ぎらいのアパートの老婦人が猫嫌いなのに、なぜか毎週一匹ずつ黒猫を買い求めるという、まだ殺人や盗難の事件は発生していないが明らかにおかしい、いわゆる「奇妙な発端」から始まる事件である。その老婦人の妹は猫好きで、資産を持っている姉を頼る他なく姉のもとに身を寄せているが、姉妹の間は険悪でいつも争いが絶えない。その話を聞いてクイーンが老婦人のアパートを訪ねると、姉妹は行方不明で、一匹の黒猫は頭を砕かれ殺されているし、他の六匹の猫もかまどで焼かれて骨になっていた。人間消失と動物虐待の殺伐(さつばつ)とした「奇妙な発端」の典型事件である。

ネタばれすれば、老婦人の姉は険悪な仲の妹が自身の財産相続を狙って、毎日の食事に毒を盛っていると信じて疑わず、猫嫌いの姉は自分の命の防御策として毒見役に黒猫を使っていたという、読み進めてみれば、かなり殺伐とした救いようのない話で(苦笑)。同じ一つ屋根の下で姉妹で同居しながら、互いに不信で殺害される恐れまで疑っていたとは世も末である。クイーンらの捜査の過程で後に老婦人の姉の遺体が見つかり、行方不明となっていた妹も殺害されたであろうことが予測される。ならば姉の食事に毎度、毒を入れて毒見役の黒猫六匹を殺したのは一体誰だったのか!?

実は姉の食事に毒を混入していたのは妹ではなく、老姉妹の部屋に出入りしていた管理人の男であった。彼が毎度食事に毒を入れていたのだが、老婦人の姉の防御で黒猫の毒味があったため目的の毒殺が果たせず、ついには毒見役の黒猫を六匹殺した末に、今度は毒混入の方法を変えて、食べ物の中にではなく、ナイフ、フォークの食器に毒を塗って老婦人の毒殺を果たす。この場合、毒味役の猫はナイフ、フォークの食器を使って食べないから七匹目の毒見役の黒猫は死なない。それで最後は「七匹(目)の黒猫」は従来の毒殺ではなく、例外的に頭を砕かれ管理人の男により殺されたというわけ。

それにしても殺害された老婦人の姉は、「財産目当ての妹に毒を盛られた。私は妹に殺された」と思い無念のうちに亡くなったであろうし、本作の読者も途中までは「食事に毒を入れていたのは同居する妹だ」と、書き手であるクイーンの周到なミスディレクション(誤誘導)により一度はダマされる。しかし最後の最後で「妹が犯人」のハシゴを一気にはずして、読者のほぼ皆がノーマークであったであろう「管理人の男こそが毒混入の真犯人である」と指摘して読み手を驚かせるのである。作者のクイーンの、この手並みの鮮やかさと来たら!

劇中の探偵のエラリー・クイーンを始め、本短編を最後まで読んだ読者の私達は、「老婦人の妹が姉を毒殺の犯人でなくて、別の人で良かった。同じ一つ屋根の下で姉妹で同居しながら、互いに不信で殺し合うとは世も末」の悲しい気持ちが少しは救われて回復される。老婦人の毒殺と七匹の黒猫の殺害は、同居の妹ではなくて、別の人物で本当に良かったと、私としては読了して少しだけホッとする結末の「七匹の黒猫の冒険」である。

クイーン「エラリー・クイーンの冒険」所収の全10編の内、特に出来が良いのは、ドイルのシャーロック・ホームズ「六つのナポレオン」(1905年)とポー「盗まれた手紙」(1844年)への敬意を評したオマージュ的短編の「一ペニイ黒切手の冒険」。怪奇の合理的解決と実はタイトルが、すでにネタばれになっていて読了後に痛快な「双頭の犬の冒険」。あとは、探偵推理における「奇妙な発端」の典型話で、姉妹の不仲と動物虐待な話で殺伐として救いようのない内容ではあるが、ラストでの真犯人の発覚で少しだけ(少なくとも私は)救われた気になる「七匹の黒猫の冒険」あたりである。

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローのつれづれ」。本ブログ「アメジローのつれづれ」は全三部よりなります。第一部は「生活のたのしみ」、第二部は「音楽のたのしみ」、第三部は「読書のたのしみ」。

第一部の「生活のたのしみ」は、現在の日々の生活(ライフスタイル)について。最初は精神態度とかバイクとかファッションなど私の基本の生活スタイルである、いわゆる「モッズ」についての特集「モッズな生活」から。そして過去に遡(さかのぼ)って、以前に私は京都に住んでいたことがあるので特集「京都喫茶探訪」。昔よく行った京都のタンゴ喫茶「クンパルシータ」の思い出など。

第二部は「音楽のたのしみ」で、スカパラについての特集「東京スカパラダイスオーケストラ大百科」、つづいてYMO(イエローマジック・オーケストラ)に関する特集「YMO伝説」、さらには特集「フリッパーズ・ギター・小沢と小山田」「天才・岡村靖幸」「ピチカート・ファイヴの小西康陽」など。

第三部は「読書のたのしみ」。別ブログ「アメジローの岩波新書の書評」で収録できなかった岩波新書以外の書籍に関することを。まずはトキワ荘出身漫画家で私が大好きだった寺田ヒロオの「テラさん」についての「特集・寺田ヒロオ」から始めて、次に海外の探偵小説・ミステリーの「シャーロック・ホームズ」「アルセーヌ・リュパン」「エラリー・クイーン」ら諸探偵の短編集の書評を。加えて、日本探偵小説界の巨星・横溝正史と江戸川乱歩の特集「再読・横溝正史」「江戸川乱歩・礼賛(らいさん)」。そして日々愛読している太宰治全集より特集「太宰治を読む」から、最後に比較的長いシリーズ「大学受験参考書を読む」へ。

お探しの記事やお目当ての特集は、本ブログ内の検索にて特集タイトル(の一部フレーズ)を入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

京都喫茶探訪(1)クンパルシータ

今回から始まる新シリーズ「京都喫茶探訪」である。以前に京都でよく行った純喫茶のことなどを。ただ昔よく行った喫茶店への私の思いを書いているだけで、「あの店の由来や歴史はこうで」のタメになる話や「得々メニューはこれだ!」のようなお薦め情報はないので、読んでいて正直うっとうしいと思う。一般に他人の私的な思い出話ほど第三者が聞いて本当にどうでもよくて、なおかつうっとうしいものはないので。だが、このブログはほとんど人が来ないから(笑)。人に読んでもらうのが目的ではなく、自分のためだけに書いているので、それがせめてもの救いだ。

以前、京都の木屋町に「クンパルシータ」というタンゴ喫茶があった。昼間は開いていなくて夕方から深夜に開いている喫茶店だった。映画館でレイトショーを観たり、晩飯を食べて一杯やった後によく行っていた。何だか好きで本当に頻繁に寄っていた、クンパルシータには。

狭い路地の風俗店に囲まれた場所にあるので、呼び込みのオッサンの「どうですか?サービスしますよ」の怪しい勧誘の声を毎度かいくぐって(笑)、クンパルシータのドア開ける。左手にカウンター兼厨房の小さなスペースあって、カウンターの上壁に飾りでトランペットが置いてあり、さらにカウンターの奥にオーディオセットが見えて(といってもCDプレイヤーはなく、アナログのレコードプレイヤーとカセットデッキだ)、店の左壁にトイレのドアがあって、そのドアの左手の電気のスイッチの辺りに藤沢嵐子の直筆サイン色紙が飾ってある。椅子は特注で作らせた赤い薔薇(ばら)のビロードのような高級な造りで、店の奥の中央に暖炉があってテーブルは8つくらい。歩くと硬い床が上品にコツコツと鳴る。店内の改装は昭和30年代に一度やったと言っていた。店内の様子を説明し出すとキリがないが、今でもハッキリ覚えている。店の感じとか空気とか、その時聴いたタンゴとか、もちろんコーヒーの味も。

女主人のママが一人でやっていて、コーヒー1杯を淹(い)れるのに時間がかかってね(笑)。先客がいるときは1時間待ちは普通。だが、昔は私も時間がたくさんあったので苦にならなかった。いつも一人で入店して本を読んだり音楽を聴いたりして、ずっと待っていた。近所に「みゅーず」という名曲喫茶でクラシックを聴かせる店があって、そこはコーヒーもすぐ出て来るしアルバイトの人も多くて、しっかりした店だったけれど、なぜか待たされるクンパルシータの方が好きだった。「コーヒーの濃さは、いかが致しましょうか?」と注文のときに細かく聞いて1杯ずつ淹れてくれた。コーヒーの味は苦いシブイ感じだ。私は常にブラックでしかコーヒーを飲まないので、苦いシブイ味のコーヒーが好きなのだ。

私がクンパルシータに通っていた1990年代当時、タンゴの音楽では正統より少し外れたアストル・ピアソラ(Astor・Piazzolla)やヨーヨー・マ(Yo-Yo・Ma)が流行っていて(おそらくCMや映画音楽にて彼らの楽曲が当時よく使われていたため)、だが、なぜか通ぶって藤沢嵐子や阿保都夫(あぼ・いくお)らをリクエストしていた。だいたい、まず嵐子さんを頼んでかけてもらって、その後、変則でわざと「美輪明宏お願いします」と言ったりして。私は、本当はタンゴには全く詳しくはないのだが(笑)。でも、よせばいいのに調子に乗って「やっぱり嵐子さんは上手いですね。嵐子さんだと安心して聴けますねぇ」などと言ったりするので、ママも「この人は、かなりのタンゴ好きな人」と勘違いされていたと思う。すみません。しかし、藤沢嵐子は当時から「かなり上手い」と思って私は好きだったのだけれど。最近は「歌姫」と呼ばれる人は多いが、私のなかで「歌姫」といえば真っ先に思い浮かぶのは藤沢嵐子だ。あと阿保都夫の「スキヤキ」(「上を向いて歩こう」)もクンパルシータで何度も聴いたな。阿保郁夫も本当に洗練されていて日本人の発声とは思えないくらい藤沢嵐子同様、実に巧(たく)みで上手いのだ。

ママともよくお話しした。もうだいぶ時間も経っているのでママとの当時の会話の内容もここに書いてもよいと思うけれど、敗戦後まもなくの頃、映画会社の人たちが店の奥でヒロポンをやっていて当時、店を一緒にやっていたママのお母さんが怒った話。敗戦後まもなく京都四条の美松会館付近の闇市にカレーライスを食べに行った時の話。まだ大映でスターとして売れる前の勝新太郎がクンパルシータの店に来て、店の公衆電話で話す「もしもし勝だけど」の声が聞こえて来て「勝って変な名前だなぁ」とママが思っていたら、勝新太郎が「僕はタンゴよりもジャズが好きでねぇ」と言った話。あとは市川雷蔵の話なども。あの頃は周防正行監督の「Shall ・Weダンス? 」(1996年)が劇場上映された時代で、ママも昔はタンゴを踊る人だったらしく、それを観に行った時の話。映画の面白場面とあらすじを最後まで詳しく話してくれた。結構、繰り返し何度もね。

クンパルシータも今では閉店でもう行けないが、最近でもたまに思い出す、店の感じやコーヒーの味、当時聴いていたタンゴ、藤沢嵐子や阿保都夫の「スキヤキ」、そしてママのことを。特に藤沢嵐子はその後、普通にCDを購入して聴いたけれど、なぜかしっくりこない。家で聴いても車の中のカーステでかけても、これが不思議と駄目なのだ。嵐子さんを聴くのならクンパルシータに行って聴かないと。音楽も音楽みずから聴かれる場所を選ぶのか?

そういったわけで藤沢嵐子も久しく聴いていない。藤沢嵐子と「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」の音源など。本当に今となっては去っていった昔の記憶だけ、懐かしくて楽しい思い出だけだ。後には実物は何も手元に残らない。クンパルシータは、嶽本野ばらの小説「カフェー小品集」(2001年)のなかにも出てくる。最後はセンチメンタルで懐古な感傷モードで非常に湿っぽく、誠にすみません。

モッズな生活(3)ホンダ ジョルカブ

最近、イギリスでの、いわゆる「モッズ」たちによるスクーター・ランの雑誌記事を見た。皆さん、かなりカスタムしてデコレーションを入れた状態のよい「ベスパ」(Vespa)や「ランブレッタ」(Lambretta)を所有していて、モッズ=「貧しい労働者階級のリアルな怒りの若者文化」というよりは「デザイナーや業界人など比較的裕福な階層による最新の流行ファッション」という印象を正直、私は持った。

いまやモッズといえば当たり前のように「べスパやランブレッタのスクーターが必須アイテム」のような話になっていて、その類のスクーターに乗っていると「あなたモッズですか?」とすぐ周りの人達に言われそうだが(笑)、もともとモッズの若者は最初から「スクーター好き」だったわけではない。本当はモッズも初めのうちは四輪の自家用車を購入して乗り回したかった。しかし、モッズは底辺の労働者階級の若者文化だから彼らに金なく、残念ながら車が買えなかった…だから車体価格が割安なスクーターに乗っていただけのことだ。

バイクに乗るとき排気ガスで自慢のモッズスーツが汚れるので、軍の払い下げのパーカーをモッズコートとして汚れよけに着ていたくらいお洒落には神経質だった若者たちだから、モッズな若者で金があったら普通にスーツが汚れない四輪の車を購入して乗る。事実、1960年代後半から四輪の価格が安くなり、自家用車人気が高まるとイタリアのランブレッタ社はバイクが売れなくなり、1971年にスクーター生産をやめている。

さてイギリス本国ではどうなのか分からないけれど、今や日本でベスパやランブレッタ所有するのは、かなり大変である。まず車体価格が高いし、しかも近所にべスパやランブレッタを扱う専門店などそうそうないし、部品調達や修理メンテナンスの面でおそらく素人には無理だ。またベスパは故障しやすい、たとえ新車でも一度バラして再度、組み立て直してから乗らないとすぐ不調になるのウワサ(真偽は不明)も時に聞く。

映画「さらば青春の光」とテレビドラマ「探偵物語」の工藤ちゃん(松田優作)の影響で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも、メンテナンスの手間や車体購入の経済的負担の金銭面で思いかなわず、私は今デザインがべスパやランブレッタぽいホンダの「ジョルカブ」に乗っている。そんなわけで愛車の赤のジョルカブにフロント・キャリアとバンパーを付けてみた(画像のような感じ)。

さすがにフロント・キャリアとバンパー完備の赤のジョルカブに、モッズスーツとモッズコートを着用で街乗りして信号待ちなどしていると「おまえはモッズか?」「もしかしたら映画『さらば青春の光』やバンドのコレクターズのファンの方ですか?」のような、無言ないしは有言の車中や通行人からの声が時に掛かって困る(笑)。

ジョルカブは、見かけはジョルノのデザインにカブのエンジンを積んでいるので「ジョルノ+カブ=ジョルカブ」なのだが、ステップに4速のギアが付いていて、足元でガチャガチャやりながら走る操作性が面白い。また、エンジンがホンダの「カブ」だから汎用性が効いて交換・代替部品も豊富にあるし、近所のバイク店でオイル交換などのメンテナンスも気軽に日常的にできる。それに何しろホンダのカブは「ストップ・ゴー」を日常的に頻繁に繰り返す郵便や新聞配達の業務用バイクに採用されるくらい故障が少なくエンジンが強く、総走行距離もかなり長くまで行けて末永く乗れるらしいので、モッズな方で「一度はランブレッタかベスパを所有したい」と思いながらも思いかなわずな人に私は強くお薦めしたい。

ジョルカブはもう生産中止だが、まだ中古車で日本国内にてそこそこの車体数は流通しているし、価格的にもそこまで高騰の「幻の車種」ではないらしいので、お薦めです。

 

大学受験参考書を読む(112)青木裕司「世界史講義の実況中継 文化史」

世界史の大学受験参考書で昔からあって、改訂・増販を重ねている「世界史講義の実況中継」(1991年)の著者である青木裕司は、九州大学文学部史学科出身の方で、本参考書執筆時には河合塾で大学受験の世界史を教えていた。

その青木裕司が「世界史講義の実況中継」紙上にて、自身が学生だったころ、頭が冴(さ)えている朝の時間帯に濃いコーヒーを必ず淹(い)れ、マルクス「資本論」(1867年)を毎日少しずつ読んで一年くらいかけて全編を精読で読破した話をしていた。青木は、マルクス主義に傾倒した筋金入りの左派歴史家の予備校の先生だったのである。この話を私は高校生の時に読んで、当時私はまだマルクスの「資本論」を未読であったので、「毎日読んでも一年を費やすほどマルクス経済学は、そこまで難解なものなのか!」と非常に驚いた思い出がある。

こうしたマルクス主義に傾倒のゴリゴリの左派歴史家の予備校の世界史の先生である青木裕司なので、近現代史においては、特に自国の日本の、明治から昭和にかけての近代天皇制国家がやらかした近隣アジア諸国に対する戦争責任の暴虐非道の数々の歴史的事柄に対しては、もしそれが証言・史料に基づく客観公平な学術的な歴史学において認定され実在するとすればの話であるが、「これでもか、もう絶対に許せない!」というほどの厳しい批判的態度で「世界史講義の実況中継」紙上で語りまくる。

私は別に共産主義者ではないし、そこまで強力な左派理論な政治思想も持ち合わせてはいない。だが、本参考書にて青木裕司が自分の国の日本について、以前の天皇制ファシズムの全体主義の軍国主義を厳しく批判する氏の態度の姿勢には共感して首肯できる点が昔から多々あった。日中戦争における南京事件の詳細とか、台湾、朝鮮、満州、東南アジア、太平洋諸島での日本人による過酷な植民地支配の実態などを専門の歴史研究で学び知ることで、国家を超えた普遍的規範の人道的見地から、後の時代に生きる同じ日本人として、戦前の日本人ならびに大日本帝国に相当の違和感と怒りの感情を私も有していたからである。

だから青木裕司「世界史講義の実況中継」に関する参考書書評や感想にて、愛国の右派保守や国家主義者や天皇制論者や歴史修正主義者らが、「青木の『世界史講義の実況中継』は、けしからん(怒)。共産主義者の青木が韓国と北朝鮮、中国共産党の味方をして、故意に不自然なまでに日本のことを批判的に悪く書いている。逆に中国や朝鮮のことを相当に良く言っている」旨の怒りに満ちたマイナス評価の文章を読むのが、これがなぜか面白くて昔から好きだったのである(笑)。

何しろ、青木裕司「世界史講義の実況中継」下巻の初版、「(世界史講義の)終わりにあたって」での青木の最後の挨拶の言葉がこれだから。

「今日で、しかもあと一分でこの講座も終わりです。最後くらいは、なにか締めにふさわしい言葉で終わりたいのですが、なかなか思いつきません。…これからも歴史、勉強してくださいね。思えば、ぼくが歴史に興味を持ったのも、この下巻で扱っている近現代史でした。特に、中国革命史とファシズム。確か高3の秋だったと思います。高校の図書館で受験勉強をしていて、ちょっと休憩するために何気なく書庫に降りて行きました。そこで日本の中国侵略を記録した本をたまたま手にとったのです。そこに掲載されている写真・文章はショックでした。そして怒りが沸(わ)いて来て、その日は眠れなかったのを覚えています。日本兵によって銃剣でおなかを突き刺された中国女性のすがた。それが畑の中に放置されているのです。怒りが沸いてきたのは、その写真そのものと、そういったことをぼくがそれまで知らなかったことに対してです。以来、ぼくの歴史に対する興味は失われること無く、今日に至っています」(「終わりにあたって」)

(※一応、念のため。戦前・戦時の旧日本軍による、女性や子どもら非戦闘員の一般市民に対する残虐行為を全否定して、なかったことにしたい愛国の右派保守や国家主義者や天皇制論者や歴史修正主義者らは、この青木の発言での「日本の中国侵略を記録した本」の中の「日本兵によって銃剣でおなかを突き刺された中国女性のすがた。それが畑の中に放置されている」写真を合成の捏造(ねつぞう)で虚偽だとか、同様な行為をソ連・中国も大陸前線の日本の民間人にやっていたのだから、日本側だけが一方的に厳しく糾弾されるのはフェア(公平)ではない、よって旧日本軍の虐殺行為は免責されるなどと言い張って、明らかに無理筋でアクロバティックな日本擁護論を展開しないように)

そういったわけで、青木の「世界史講義の実況中継」は原始・古代から近現代までの通史と文化史の各巻が出ているが、特に力を入れて読むべきは、「(世界史講義の)終わりにあたって」で、当人の青木裕司が「ぼくが歴史に興味を持ったのは近現代史、特に中国革命史とファシズムでした」の旨を述べている通り、近現代史での、(1)中国革命史(アヘン戦争から中華人民共和国の成立まで)と、(2)ドイツでのファシズム台頭(世界大戦間期でのヒトラーの政権掌握の過程)の講義箇所であろう。あとあえて言えば、(3)ロシア革命(第一次ロシア革命からスターリンの登場まで)の講義も読んで面白いし、ためになる。

これら3つの講義は、世界史入試で高得点を出して合格する目的の大学受験世界史とは無関係な所で、一般的な「教養の世界史」として無心に読んで面白いし、大いに学ばされる。青木裕司「世界史講義の実況中継」は大学受験参考書にとどまらない、なかなかの有益な書籍である。

また青木「世界史講義の実況中継・文化史」(1997年)は、ともすれば無味乾燥で機械的な暗記に頼りがちな文化史に関し、特に宗教・哲学・思想分野のものは、それら内容にまで踏み込んで簡潔だが割合、詳しく解説されており、これまた読み応(ごた)えがある。文化史の巻で特に良いのは、

(1)古代史のギリシャ哲学、プラトンのイデア論、(2)近代史のドイツ社会学、マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の理論、(3)近代史のマルクスの史的唯物論

以上の3つの理論・学説の紹介解説の講義は、私には読んで大変面白く、必読だと思えた。

大学受験参考書を読む(111)佐藤優「いっきに学び直す世界史」(大久間慶四郎「大学への世界史の要点」復刻・復刊によせて)

以前に研文書院という、本業は理系の数学を主とする大学受験参考書の出版社があって、重厚な黒表紙の「大学への数学」の、数学Ⅰから微分積分まで各分野の数学参考書を数多く出していた。研文書院の「大学への××」のシリーズに実は文系の歴史科目の参考書もあって、その日本史参考書が安藤達朗「大学への日本史」(1973年)であり、世界史参考書が大久間慶四郎「大学への世界史の要点」(1976年)である。

両書とも当時は駿台予備学校の日本史科主任の安藤達朗と、世界史科主任の大久間慶四郎の二人が単独で執筆していて(昔は、こうした詳細な通史の歴史参考書は複数人で分筆するのが通例だった)、お二方とも大学受験指導の内容を軽く凌(しの)ぐ、歴史に関する幅広い深い専門知識を有する碩学だから。研文書院の「大学への日本史」と「大学への世界史の要点」は、大学受験参考書の相当な名著として受験生のみならず、大学受験を終えて進学した大学生や学校を卒業した社会人にも、手元に置いて便宜参照したい必携の良参考書の一般書籍として、それなりに昔から知られていたのである。

ところが後に出版元の研文書院が廃業で版元消滅で、安藤達朗「大学への日本史」も大久間慶四郎「大学への世界史の要点」も絶版・品切となって希少のため、古書価格が高騰してしまう。しかも2000年代頃から、元外交官でビジネス教養系の啓蒙本を大量に出して人気であった佐藤優が、よせばいいのに(苦笑)、廃業で版元消滅のため絶版・品切となって今や古書価格が高騰してしまっている安藤「大学への日本史」と大久間「大学への世界史の要点」をやたらと褒(ほ)めて推薦しまくるものだから、さらに価格が異常なまでに高騰し、古書価格が数万までにもなり、よほどの絶版参考書のマニアか収集家でない限り、もう普通の人は入手して読むことができない程になってしまう。絶版参考書のマニアか収集家なら高額でも購入するかもしれないが、普通の常識的な人は、たかだか本一冊に数万の金銭は通常、支払わないものである。

絶版・品切の希少書籍を有名な人が今更ながらに取り上げたり推薦したりすることで、その少ない流通書籍の価格が余計に跳ね上がって、一般の人が入手できなくなる絶望的な事態に至ることはよくある。今更ながら絶版・品切の希少書籍をわざわざ取り上げたり推薦したりしなければよいのに、佐藤優は「よせばいいのに(苦笑)」と私は強く思わなこともない(というか、むしろ強く思う)。

こうした背景があって近年、その推薦人及び解説に佐藤優を添えた監修の形で、安藤達朗「大学への日本史」の復刻の復刊、つまりは佐藤優「いっきに学び直す日本史」(2016年)という体裁であるが、書籍の中身は安藤達朗「大学への日本史」(1973年)に依拠した刊行に続いて新たに復刻で復刊された、佐藤優「いっきに学び直す世界史」(2025年)である。本書も以前の佐藤優「いっきに学び直す日本史」と同様、上下二巻の構成で、またその中身は前に出ていた研文書院の大久間慶四郎「大学への世界史の要点」(1976年)の内容に依拠しているという。

かつての名参考書「大学への世界史の要点」の復刻版であるという、今般の佐藤優「いっきに学び直す世界史」を店頭で手に取り軽く参照してみた。正直、以前の大久間「大学への世界史の要点」を所有し何度も読んでいる「大学への世界史の要点」ファンの旧知の読者からすれば、これは旧著の大久間慶四郎「大学への世界史の要点」とは似て非なるというか、レイアウトも内容もほとんど踏襲されておらず、加筆・図版の自由な追加があまりに多過ぎて、佐藤優が新たに勝手に執筆した全く別の世界史参考書のような微妙な感じが拭(ぬぐ)えない(苦笑)、とりあえずの個人的な私の感想である。

佐藤優「いっきに学び直す世界史」は、大久間慶四郎「大学への世界史の要点」が原著であるとするが、なぜか西洋史に限定し、中国史らのアジア史は全て割愛されて中身がかなり薄くなっている。また本書は、大久間の旧著とはほとんど重なる記述のない世界史参考書であり、佐藤優「いっきに学び直す世界史」は、大久間慶四郎「大学への世界史の要点」を復刻の表看板だけを掲げて、だか肝心の中身は単に自身が自由に執筆・編集した世界史の書籍を出しているだけにも思えて、「佐藤優、それは本を出して売る人としての倫理に反してやしないか!?」の不信の思いが私はする。「そんなことで本当にいいのか、佐藤優(怒)」というような心持ちだ。

大学受験参考書を読む(110)富田一彦「富田の英作文」

近年、代々木ゼミナール英語講師の富田一彦の一般書店売りの大学受験参考書が相次いで出されている。富田一彦「富田の英作文」(2025年)、「思考する英文法」(2025年)の刊行である。

氏も予備校の英語講師として長年に渡り常に第一線に立ち続けてきた人気と実力ともにある方なので、これまでの英語教師人生をここで振り返り、自身の英語指導のメソッドを体系化し書籍にまとめて残したいの思いがあるのだろうか!?富田一彦は代ゼミの英語講師で昔から有名な方で予備校講師歴が長く、1980年代の私が高校生の頃からご活躍で、直接の知り合いではく、私から一方的に氏のことを30年以上前から知っているのである。

今般、新たに出された富田一彦「富田の英作文」の概要はこうだ。

「なぜあえて『英作文』なのか。受験の神様が英語を解剖しつくす。自動翻訳の時代だからこそ、英会話より英作文の重要度が増している。単に英語を話す必要はなくても、書けるようになると、どれだけグローバル時代を生き抜くのに役立つか。本書は文型を上手に利用して予想外に簡単に英文が書ける方法を伝授。大学受験生はもちろん、知的刺激を得られたい社会人にもおすすめ」(「本の概要」)

自身のことを「受験の神様」とか、「知的刺激」となるので英作文の勉強は大学受験生以外の社会人にもおすすめとか←(爆笑)。人間はどんなに頑張っても「神様」にはなれません。人間は神ではない。また富田一彦、この人は以前に「受験勉強という名の知的冒険」(2012年)というタイトルの書籍を出していた。「知識があること、知的であることにあからさまに価値を認めて優越を措(お)く」態度で(本来、知識があったり知的であること、それ自体に何ら価値や優越はない)、私はどうかとは思うのだけれど(苦笑)。

本書の構成は以下である。

「序・なぜあえて『英作文』なのか。第一部・日本語と英語の違いを知ろう。A・英語の構造上の特徴と日本語との違い。B・表現上重要な特徴と日本語との違い。第二部・英作文の実践。Part1・ステップを追って。Part2・多くの例に触れて」

本参考書は三部構成である。序で「英作文を学ぶ意義」の長いまえがき、第一部で文型と「句と節」の基本から始めて、後に時制や冠詞の付け方、副詞の位置原則らの細かい文法解説、第二部で大学入試の英作文問題の実践指導の内容となっている。

今「なぜあえて『英作文』なのか」については、英作文が大学入試に出題されるから志望校合格のために英作ができるようにしておかなければならない、の受験生の現実的必要性の問題に加えて、受験が終わった大学生や社会人でも専攻や職種によっては、確かに英文読解における自動翻訳のような精度の高い、英作文における自動書記がない現時点では、英語での文書のやり取りで日常的に英文を書かなければならないライティングの技能が必須な人もいるだろう。それに何よりも英作文は事後に英文を書くことであるが、英会話はその場で即時に英語で話すことであって、ゆえに英会話も英作文の一種であり、作文と会話にて英語を自力でゼロから作り上げていく思考の作業は同じものだと私は考える。英作文ができれば英会話での表現力も向上するはず。

「富田の英作文」は、概要に「本書は文型を上手に利用して予想外に簡単に英文が書ける方法を伝授」とあるように、英語の基本文型から英作文の原理と手順を段階的に教授していくものであるから、通常の英作文対策の受験参考書とは異なり、英文法の書籍のように第一部から文法知識を非常に細かく解説している。英作文の参考書を読んでいるのに、英文法の解説書を読んでいるような錯覚に中途で襲われる(笑)。英作文は、英訳すべき日本語の問題文がある課題文型の英作文であっても、日本語での問いかけやテーマ設定があって、それに対する自身の応答を英作する自由型の英作文であろうと、全く何もない空白に一から自力で英語を考えて作文していくものであるから、英語の基本である英文法の文型と「句と節」の基本原理を押さえ、そこから敷衍(ふえん)して結果、長い複雑な英文を作っていく(書いていく)よう教えるのが理にかなった英作文の指導であろう。

ネイティブスピーカーではない、英語が第二外国語で中学生頃から本格的に英語を学び始める多くの日本人への英作文および英会話の指導は、試験によく出る英文、日常でよく使う英語の言い回しのパターンをとりあえず多く覚えさせ、覚えた頻出基本の英文・会話の型に自動的に当てはめたり、強引に無理矢理その英文・会話パターンに近づけたりして英作と会話を乗り切るような、借文タイプの英作文ないしは英会話の指導が主であった。事実、私が高校生で受験生の時には、駿台予備学校の鈴木長十・伊藤和夫「基本英文700選」(1968年)などを参照して、「英語の重要構文をできるだけ多く覚えろ!その上で英作文対策に活用しろ!」の受験指導は普通にあった。

そうした根性の暗記主義でやたらと基本重要の英文の型(パターン)を数多く覚えさせ、それらを借文し英作させる指導から脱して、英文法の基本の文型と「句と節」の原理から始めて、やがては長い複雑な英語を作文させる本書「富田の英作文」での指導方法は極めて合理的で効果的なものといえる。

私は日常的に英文を書いたり、英語で会話したりすることはない。また人に英語を教えたりもしていない。ただ個人の遊びで大学受験の英作文の過去問を解いたりしているだけであるが、最後に、富田一彦「富田の英作文」に記載の内容とは別のところで、私が大学受験英語の英作文問題を解く際に日頃から意識していることを挙げておく。

(1)いきなり一気に書き出さない。英作する日本語の課題文がある和文英訳の場合には、日本語文を文法的に細かく分析し(単文か複文が重文か、語句の修飾関係はどうなっているか、分かりやすい文に言い換えられないかなど)、その上で英文の全体を構造的に見切ってから(主節と従属節、関係代名詞、挿入句の配置など)書き始めるようにする。

(2)最初に動詞で何を使うかから考える。どのような英文にも必ず動詞のVは最低限1つはある。このVを初めに決めると、その動詞に従ってそこから文型・構文が確定し、文章全体の構造が見えて書きやすくなる。冒頭どの語句から書き始めるかで名詞や形容詞や副詞ら、そのまま完成英文の語順通りに考えてはいけない。これは英会話でも同じ。名詞から反射的に思い浮かんで、名詞を連呼すると確実にバカに見える。まず動詞で何を使うか、いつも探して考えながら発話するべき。

(3)できるだけネイティブが使うような、いかにも英語らしい、ネイティブ発想の「大きな英語」を書くよう心がける。例えば無生物主語、「NO」を含む否定語、「It…that」の構文、文修飾の副詞の使用など。そうすると(特に採点者がネイティブの人の場合には)採点者の答案英作文への印象は格段によくなり、英作文の試験で高得点をもらえる確率は上がる。

大学受験参考書を読む(109)富田一彦「思考する英文法」

近年、代々木ゼミナール関係の英語の予備校講師による英文法の大学受験参考書が相次いで出版されている。西きょうじ「ゆっくり味わう英文法」(2023年)、富田一彦「思考する英文法」(2025年)などである。

英文法の大学受験参考書は今でも数多く出ている。私は不思議な思いがする。英文法など最初に一度学んで英語の文法原理が分かってしまえば、後はそこまで懸命に学ぶ必要はないからなぁ。時制の一致も関係代名詞も仮定法も現在完了も、一度その原理を知れば、それまでである。常識的に考えて英文法に、そこまで時間と労力をかけて、何回も「学び直し」と称して取り組むべきとも思えない。英文法の解説書に、そこまで多種類の様々なバリエーションの需要はあるのか!? 

また英文法の参考書を昔から連続して読んでいると、もう革命的な「目からウロコ」の新しい英文法の教え方など、そうそう出てこない。昔から英文法解説の定番の教え方の基本の型は、だいたい決まっていると思える。どのような英文にも「主語と動詞」の「S+V」が必ずあるから、英文を左から右に読んでまずは主節の「S+V」を探す。その上で修飾のMの語(形容詞か副詞)か句(前置詞+名詞、関係代名詞など)か節(S+Vがある副詞の条件節や譲歩節など)を構造的に見切ることで英文解釈も英文法もできてしまう。こうした英文をSやVやMの各要素に細かに分け分析的に見ていくのが英語学習の、特に英文法の方法の常套(じょうとう)である。こういったことは誰が書いた、どの英文法の参考書でも同じように書いてある。

しかも高校進学率が9割以上である現代の日本社会において、ほとんどの人は高校で英語教科の英文法をすでに一度は学んでいるのである。いまさら英文法の参考書で、そこまで重複して多くの書籍がわざわざ出版される必要はあるのか!?

だからなのか、西きょうじの新著も富田一彦のそれも「ゆっくり味わう英文法」「思考する英文法」というような、「ゆっくり味わう」や「思考する」の、やたら上質で高級意識のプレミア感(?)をムダに出すような思わせぶりな書籍タイトルになっている(苦笑)。いくら「ゆっくり味わう」や「思考する」などの冠(かんむり)を付けても、そこまで英文法教授の理論や方法論は従来の英文法参考書のそれと大して変わらない。両著とも、毎度の英文法解説の基本の「S+V」の第一文型から順番に「S+V+O+C」の第五文型までの5つの典型文の分析的な英文法解説の基本の事項より始めている。そして英語をある程度、知っていて読める・書ける・聴ける読者は、毎度の定番の英文法解説にウンザリする。

昔、高校の同級生で「いくら勉強しても英語ができない」「英語が相当に苦手だ」という友人とそれとなく話していたら、彼は英文法の「S+V」云々以前に、どうやら日本語の国文法の「主語と述語」や「連体修飾と連用修飾」や「単文と複文と重文」の概要を全く理解できていないフシがあって、私は戦慄(せんりつ)して身が震えたことがあった。現行のカリキュラムでは、日本語の国文法は中学進学以前の小学校高学年と高校受験前の中学生の時に国語の教科で少なくとも二度の学習機会がある。日本語の国文法での「主語と述語」「連体修飾と連用修飾」「単文と複文と重文」らの事柄を知らなければ、高校での英文法で「S+V」などといくら丁寧に解説されても理解できるわけないだろう。高校の英語教師と予備校の英語講師は、学生に英語の英文法を教える以前に案外、日本語の国文法から再確認して教え直すことも時に必要ではないか。

 富田一彦「思考する英文法」は、全520ページで定価は¥2640。書店売りの大学受験参考書としてはページ数多く分厚すぎて、高額すぎる(と私は思う)。本書は富田が主宰の私塾、西進塾での「英文法講座」のテキストを書籍化しているという。大学受験予備校の「東進ハイスクール」に対抗して、あちらが「東に進む」なら、こっちは「西に進む」ということで、どうやら「西進塾」の名称になっているらしい(笑)。富田一彦主宰の西進塾は、英語の学び直しを希望する学生・社会人に英文法から英語という言語を論理的に教える私塾であるという。