アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集 寺田ヒロオ(4)「トキワ荘の青春」

映画「トキワ荘の青春」は監督が市川準、主演に本木雅弘を迎えて寺田ヒロオ=「テラさん」に焦点を定めたトキワ荘が舞台の青春映画であり、完全に現実に忠実ではなく多少のフィクションが入ってはいるが、静かで地味なのだけれど堅実で温かくて非常に細かく作り込まれた良い作品だ。

春先にトキワ荘で藤子不二雄らが、まず寺田と出会う。それから石ノ森章太郎、赤塚不二夫、森安なおや、鈴木伸一ら「漫画家の卵たち」がトキワ荘に入居してくる。皆がまだ誰も売れていないのでお金もなく貧しいけれど、「チューダー」(焼酎のサイダー割)を飲みながらキャベツとタマネギに醤油をかけて(笑)、みんなで宴会をやって騒いで話して、仕事も「新漫画党」の合作でやって駆け出しの新人漫画家生活を描く。

やがて夏が過ぎ秋風が吹き出す頃、藤子と石ノ森はメキメキ頭角を現し人気が出て一躍売れっ子漫画家になっていく。鈴木は「漫画家との二足のわらじ」をやめてアニメの仕事に専念する。なかなか芽が出なかった赤塚も、石ノ森の真似ではない自分に合ったギャグ漫画に目覚め開眼しギリギリのところで大逆転、見事に連載を勝ち取る。かたや森安は自身のスタイルの叙情派マンガが採用されず夢半(ゆめなか)ば、挫折しトキワ荘を人知れず去る。

そして、子どもたちのための健全な児童漫画を志向する寺田ヒロオのテラさんも、自身の漫画人気はそこそこなのに、どぎつい暴力描写の劇画漫画の台頭で「内容は二の次で、とにかく売れればよい」漫画雑誌の部数競争と人気ランキングに嫌気がさし編集者と衝突して、やがて自分から連載を引き上げ漫画の第一線から退いてしまう。それで劇中ラストは冬も迫りくる秋の夕暮れ、トキワ荘の漫画家仲間らとアパート前の空き地で最後に相撲をやり身体をぶつけ合って、汗を拭(ぬぐ)うふりをしてテラさんはそっと涙をふく。カタストロフの浄化の涙だ。それから「ある冬の日、僕はトキワ荘を出た」の寺田のモノローグが流れ、映画は静かに終わる。

春夏秋冬の季節の移り変わりを絡(から)めてトキワ荘出身漫画家たちの明暗と別れ、連載を何本も抱えヒットを出して漫画家として成功した人(藤子、石ノ森、赤塚ら)、いまいち芽が出ず夢破れて去って行く人(森安)、自身の意志で自分から静かに漫画の一線を退いていく者(寺田)、それぞれの「トキワ荘の青春」を実にうまく描いている。横着な言い方で申し訳ないが、私がこの映画を最初に観たとき、非常に感心して思わず舌を巻いた。「脚本家も監督も本当によく事前に綿密に寺田ヒロオの周辺を調べて映画を作っているな。この人たちは、かなり丁寧な仕事をする人たちだな」という感慨だ。

藤子不二雄の安孫子の「まんが道」にとどまらない、それ以外の外部の細部まで寺田ヒロオの周辺のことを事前に綿密に脚本で押さえて完璧に映画の中で動かしている。つまりは映画「トキワ荘の青春」劇中にて棚下照生と加藤謙一の2人が出てくるとは正直、私は思ってもみなかった。完全に予想外であった。しかも寺田ヒロオを語る上で決して外せない絶対に外すことのできない、実在の彼らをあんなに見事に劇中で描き切るとは。

まず棚下照生というのは、チャンバラ漫画を描いて売れっ子だった人で、当時かなりの原稿料を手にして芸者を呼んで血を吐くまで酒を飲むような無頼な男だった。新潟で社会人で会社勤めをしながら漫画を描いていた寺田に「プロの漫画家を目指して、とにかく東京に出てこい。俺が東京での生活は全部面倒見るから」などと言う。しかし実際は棚下は後に自分の漫画が売れなくなって、酒飲み放蕩(ほうとう)で財産を使い果たして生活に困ったとき、逆に堅実で計画的なテラさんがずっと仕送り援助したりするのだけれど。そんな真面目で堅実な寺田ヒロオとは正反対の性格だった棚下照生、だが、なぜか二人は気があった。寺田は自由奔放に勝手無頼に生きられる棚下のことを羨(うらや)ましくさえ思っていた。

テラさんはトキワ荘の時代でも棚下に漫画家としての自分の悩みを吐露する。棚下には例外的に何でも自由に楽に話せた。トキワ荘同人らに自身の悩んでる素振りや姿を全く見せなかったのとは対照的に。事実、最晩年にテラさんがアル中みたいになって酒が手放せなくてノイローゼ気味で茅ヶ崎の自宅にずっと引きこもっていたとき、いつも泣きながら電話をかけていたのは、トキワ荘で親しかった藤子不二雄の安孫子らではなくて棚下照生だった。そんな実在の寺田を踏まえて、映画「トキワ荘の青春」では本木雅弘演じる寺田ヒロオが棚下照生の部屋に行って語る場面がしばしばある。

「俺の漫画って古いんだよな、わかってるんだ」「弱気だな。金か?」「お金のことは、どうでもいいんだ。子どもたちのこと考えて描きたいから」「寺田の絵の良さって優しさなんだよね。ホント読んでて恥ずかしくなるくらい、いい人ばっかり出てくるし」

こういった寺田と棚下の会話が劇中にてサラリと自然に出てくる。これなど現実の寺田ヒロオに肉迫した、かなりデキる本当に意味のある脚本セリフだと思う。

他方、加藤謙一というのは学童社の雑誌「漫画少年」の名編集長であり、手塚治虫の「ジャングル大帝」を「漫画少年」に連載させた人だ。「常に子どもたちには良いものを」児童漫画の児童文化に大きく貢献した。寺田ヒロオは、そんな加藤の編集方針に深く共感し、心底惚(ほ)れ込んでいた。だから、後になってテラさんは廃刊になった「漫画少年」の全号を集めて独り「漫画少年史」を編纂(へんさん)したりする。部数競争と人気ランキングに明け暮れて健全な児童教育の使命を忘れてしまった現状の漫画雑誌に対する痛烈な批判の意を込めて。

とにもかくにも感心するのは、映画「トキワ荘の青春」にて先の寺田の親友漫画家・棚下照生と同様、編集者の加藤謙一もごまかしなく、きっちり出してくるし、しっかり描いている。映画の中の「漫画少年」の編集長・加藤謙一、これがまた黒縁メガネの人の良さそうな男なのだ(笑)。劇中で藤子不二雄が「漫画少年」に初の連載が決まった場面で、人の良さそうな編集長の加藤が藤子の二人を激励して声をかける。

「描きたいもの描いてくださいね。流行なんて、まったく気にする必要ないからね」

これである。「描きたいものを描く。流行なんて、まったく気にする必要ない」。部数競争や人気ランキングに捕らわれない、目先の売り上げや人気取りに目がくらんで子どもらに暴力的で扇情的な描写が満載な漫画雑誌を安易に提供しない。むしろ逆に売れなくとも、人としての優しさや思いやりや礼儀正しさなど良いものを漫画を通して子どもたちに伝える児童文化の発展と継承、寺田ヒロオが望んでいた理想の漫画雑誌であり、本来あるべき健全な児童漫画である。しかしながら、そういった発行部数や流行を全く気にしない折り目正しい健全な漫画雑誌は現実にはなかなか売れないわけだ。それで劇中モノローグのように「学童社の片隅にいつも積んであった『漫画少年』の返本の山」になる。学童社は、やがて倒産してしまう。

加藤謙一の評伝を読んでいると確かに加藤は児童文化に深い見識があったし、漫画雑誌作りに志(こころざし)高いものを持っていた。寺田ヒロオ同様、崇高な児童漫画の理想に燃えていた。だが会社経営の面では、からっきしダメだったらしい。採算を度外視して「漫画少年」を作り続けた。加藤の娘さんの話で、「父は会社経営で利益を出すとか経費削減をするとかには、ほぼ無頓着な人でした。学童社の最後の方では人手は足りて、しかも経営が苦しく新たに人を雇う余裕なんてないのに、知人から就職の世話を頼まれると断りきれず、つい社員に採用してしまうんです。それで人件費がかさんで学童社倒産の一因になりました」といった内容のことを以前に述べていた。そういえば、「トキワ荘の青春」の映画を観ていて思い当たるフシがある(笑)。映画の中でも学童社のオフィスは無駄に社員が多いような気がする。というか、仕事に不慣れなオッチョコチョイ編集員がテラさんが学童社に原稿持ち込むシーンの後ろで変な小芝居をしている、そうした場面がある。

以上のように棚下照生と加藤謙一の両氏をきっちり出して、しっかり描いているだけでも、この映画はありきたりのやっつけ仕事な青春映画ではない。「脚本家も監督も本当によく寺田ヒロオの周辺を事前に綿密に調べて映画を作っているな。この人たちは、かなり丁寧な仕事をする人たちだな」の好印象を鑑賞後に残す。

寺田ヒロオを含めたトキワ荘の漫画家たちの基本の外せない話、例えば「新漫画党の結成」や「学童社の倒産」や「石ノ森のお姉さんのこと」や「赤塚が寺田に金を借りる場面」など、トキワ荘ファンには馴染みのエピソードを多少のフィクションは交えているが、ほぼ本編に盛り込んでいる。ついで「中華食堂の松葉のラーメン」や「喫茶店エデンの冷房」とか、「水野英子が初対面の場面で当時まだ珍しかったブルージーンズを履いている」「藤子不二雄の藤本が趣味の手持ちの8ミリを回している」「石ノ森の部屋に当時の最新のステレオがある」「赤塚の部屋に『毒蛇は急がない』と書いた紙が貼ってある」「赤塚が森安からもらった机で原稿を描いて仕事をしている」など、思い出して書き出すとキリがないくらい細かな小ネタ(?)も満載である。本当によく調べている。

映画「トキワ荘の青春」は、寺田ヒロオやトキワ荘出身の漫画家たちに興味がある、彼らが好きな人には断然お薦めな作品である。静かで地味なのだけれど、堅実で温かくて非常に細かく作り込まれた実によく出来た映画だ。