アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集 寺田ヒロオ(3)「もうれつ先生」

藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らトキワ荘出身の漫画家たちの頼りになる兄貴分であり、よき理解者であった寺田ヒロオは1960年代後半に筆を折り漫画を描くことをやめてしまう。まだ寺田が30代の頃のことであった。そこから寺田ヒロオの「早すぎる晩年」が始まる。今回はそんな寺田ヒロオ=「テラさん」のさらに最晩年の話である。

漫画の執筆をやめた寺田ヒロオは1981年に昔の雑誌「漫画少年」を独り編纂(へんさん)し、「漫画少年史」を刊行する。「内容が目に見えてえげつなく、どぎつくなっていった」現在のマンガ雑誌に対する、彼なりの批判の意を込めて。そんなみずから編纂の「漫画少年史」の自己紹介にて、寺田は自分のことを次のように述べている。

「趣味・安いものを食べること。毎日酒を飲むこと」

漫画を描くのやめた寺田にとっての「趣味」とは、あえて「高価なもの」とか「旨(うま)いもの」とはいわず、わざわざ「安いものを食べること」。何だか自虐的な自己紹介コメントのようにも思える。さらにもう一つの「趣味」は「毎日酒を飲むこと」。そう、晩年において寺田は毎日、酒を飲まずにはいられない、もはや彼は酒を手放せなくなっていた。

1980年代、トキワ荘がいよいよ取り壊わされるとき、トキワ荘で開かれた同窓会に寺田だけ出席しなかった。そんな寺田ヒロオが亡くなるニ年前の1990年、トキワ荘の漫画家たちが再度、テラさんに同窓会の話を持ちかける。「現在の自分の姿を見られたくない」。一度は断ったものの、寺田は同窓会の申し出を受け入れる。皆が寺田の茅ヶ崎の自宅に集まってトキワ荘出身の漫画家たちによる同窓会、皆で話して飲んで楽しく宴会をやった。別れ際に寺田は去って行く仲間らを彼らの姿が見えなくなるまで手を振り続け見送っていたという。そして、これがテラさんとトキワ荘の仲間たちとの本当に最後の別れとなった。

宴会の翌日、藤子不二雄の安孫子が寺田の自宅に電話をかける。「翌日、テラさんの家に電話した。そしたら奥さんが出た。『昨日は、ご馳走になりました。テラさんいる?』すると奥さんが『寺田は今日限り金輪際、安孫子さんたちとは会わないし、一切電話にも出ないと言ってます』。だからテラさんの中ではあれが最後の夜で、あの夜にテラさんの中で何かしらの決断が下ったんでしょうね。いうなれば、緩慢(かんまん)な自殺。これは誰にも真似のできない生き方、テラさんにしかできない生き方。でも僕は、それでよかったと思うのね」

「いうなれば、緩慢な自殺」。最晩年の寺田ヒロオに関する周囲の人達のコメントを集めると、だいたい一致するのは「死にたがっているテラさん」なのである。昔から親交のあった漫画家・棚下照生の話。「寺田からよく電話がかかってくるんですよ。『会いたい』っていう。聞いてると電話口で泣いてるんです。『今すぐ行くよ』というと、『いや、来ないでくれ』っていう。『会いたいけど来ないでくれ』っていう。結局ね、寺田は死にたかったんじゃないかな。寺田は、ゆっくりゆっくり死んでいったんじゃないかな」。

さらに最期の方は、家の中で家族ともほとんど顔を合わせず、独り別宅にて生活し日に三度の食事を奥さんに運ばせていた。奥さんの話。「身体が悪くなって病院に行ってくれと頼んでも行こうとしないんです。色々手を尽くして、あきらめました。この人は、もう死にたいんだなって」。それである日、別宅の戸口に運んだ朝食に手がつけられていない。部屋に入ってみると寺田はすでに亡くなっていた。

トキワ荘の時代を振り返って「当時一番親しかった友人は誰か」を寺田ヒロオに聞くと、意外なことにトキワ荘同人ではない。トキワ荘同人ではなく、トキワ荘とは接点を持たない漫画家・棚下照生の名を寺田は挙げる。棚下照生というのは、チャンバラ漫画を描いて売れっ子だった人で、当時かなりの原稿料を手にして芸者を呼んで血を吐くまで酒を飲むような無頼な男、真面目で堅実な寺田とは正反対の性格だった棚下照生。だが、なぜか二人は気があった。寺田は自由奔放に勝手無頼に生きられる棚下のことを羨(うらや)ましくさえ思っていた。寺田ヒロオはトキワ荘の時代でも棚下に漫画家としての自分の悩みを吐露していた。棚下には例外的に何でも自由に楽に話せた、トキワ荘同人らに自身の悩んでいる素振りや姿を全く見せなかったのとは対照的に。以下は、そんな棚下がテラさんが亡くなった後に語る寺田ヒロオである。

「寺田は自分を律してたから、そして、そこからはみ出してはいけないっていう、かなり自分の中に重圧があって、苦しんで生きてたと思うんですね。自分で自分に規律を持って、そこからはみ出してはいけないっていう。私なんか全く反対の人間だから、それが羨ましいって彼はいうんです。逆に私は寺田の鉄のような部分が羨ましかったんですけど、だけど寺田は私のような八方破りな生き方が羨ましいっていう。結局、彼は自分がそういう生き方をしたいと思うことを漫画に描いてみたかったんじゃないでしょうか。寺田は、描いてる人間に自分を同化させようとしてたところがある」

寺田ヒロオは、後にトキワ荘の時代を振り返り述べている。「あのとき安孫子と出会わなかったら、僕は自分から友だちをつくれる性質じゃないですから、孤独なままのマンガ家で終わっただろうと思います」。確かにテラさん、元から内気で孤独なところが多少あったのかもしれない。藤子不二雄らが引っ越して来る前、トキワ荘には手塚治虫がいた。多分テラさん、手塚とはそんなに親密な交流はない。安孫子らに出会う前の寺田といえば、独りせっせと仕事をこなし、学童社の「漫画少年」に原稿を持ち込む日々だった。「無芸無趣味なものですから息抜きや遊び的なものはほとんどしなくて、せいぜい三時になると銭湯にいって熱い湯舟につかったり、そば屋で野球中継を見たりするくらいでした」。寺田は以前、新潟で社会人野球をしていた。しかし、上京して漫画家を目指したときから「野球は、もうできないものとあきらめていました」。

その一方で藤子不二雄は、藤本は一人で本を読んだり映画を観ているような物静かなタイプだが、他方の安孫子は、最近でもゴルフ好きということからも察せられるように(彼の代表作の一つが「プロゴルファー猿」である)、この方は実に社交的で明るくて人と一緒にいて大いに楽しめる人である。そうした安孫子をテラさんも絶賛している。

「安孫子の話芸の巧みさは、まったくたいしたものでした。自分で上手に話すだけじゃないんです。司会者的に皆から話を引き出したり、それをまた茶化したり、笑わせたりすることができるんです。マンガ作品には表れないような魅力がありました。かれが居るのと居ないのでは、話のはずみがぜんぜんちがうんですね。ですから、話の進行役はもっぱら安孫子で、皆はゲラゲラ笑っているだけでした。笑いすぎて息がつまって苦しくて困ることがしょっちゅうでした」

寺田はトキワ荘で安孫子と出会って救われたところが、あったのかもしれない。

最期の方の寺田ヒロオは、茅ヶ崎の自宅でやったトキワ荘同窓の宴会録画のビデオを繰り返し何度も見ていたという。また「自分は将来野球選手か、子どもたちと接する学校の先生になりたかった。漫画家になって両方の夢がかなった」といっていたとも聞く。だからテラさんも人生の途中から、特に後半の晩年期は辛かったかもしれないが、漫画家になってトキワ荘に入居して、そこで安孫子たち仲間らと偶然に出会えて、本当に本当によかったのではないか。少なくとも私はそう思うし、そう思いたい。最後に「テラさん、お疲れさまでした」。

(※以上、寺田ヒロオ本人の発言引用は、梶井純「トキワ荘の時代・寺田ヒロオのまんが道」、加藤丈夫「漫画少年物語」などによります。)