アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集 寺田ヒロオ(2)「暗闇五段」

寺田ヒロオと同窓のトキワ荘出身の漫画家たちは後にスゴい勢いで売れっ子人気作家の道を一気に登りつめる。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら。そして、そんな彼らの活躍とは対照的にトキワの荘の兄貴分・寺田ヒロオ=「テラさん」は、時代とともに次第に寡作(かさく)になっていく。

「少年週刊誌ができて三、四年してから目に見えて内容が変わってきたんです。具体的には、えげつなく、どきつくなっていったといえばいいのでしょうか。モーレツ時代へ突き進んでいくわけです」

やがて寺田は担当編集者が露骨に言い立てる「人気」と「部数競争」に嫌気がさしてくる。まだ1960年代初めの頃である。寺田ヒロオの最後のほうの代表作は「少年サンデー」に連載の「暗闇五段」だった。

「暗闇五段は、担当編集者からいろいろいわれましてね、人気がなかったんでしょう。鬼姫はあまり出さないほうがいい、つまり女の人を出すよりも子どもをもっと登場させろとか、もっとナントカ投げというような新しいワザを工夫して出せとか、うんざりするようなことを要求されて、途中で描けなくなりそうになりました」「暗闇五段が終わった時点で、週刊誌の仕事はやめましたから、子供漫画家としては全く目立たなくなったわけで、漫画家をやめたと見られるようになったのでしょう。僕としては、その時その時、一番描きたい物を描きたい様に描くしかないわけで、それが通用しなければ、黙っているしかありません。うける漫画、売れる雑誌を作る事は大変な事で、その事を非難する気は全くありません」

要するにテラさんは「僕としては、その時その時、一番描きたい物を描きたい様に描く」姿勢を貫いて、自分の作風曲げてまで「うける漫画、売れる雑誌を作る事」に安易に乗っかろうとはしなかった。「えげつなくて、どきつくて、とにかく売れればいい」劇画漫画にうんざりしていた。だから、次第に寡作になって「(自分の描きたいものが)通用しなければ、黙っているしかありません」。ならば、寺田が目指す理想の漫画雑誌とはどのようなものだったのか。実はそれが「漫画少年」に他ならない。以前にあった雑誌「漫画少年」、寺田は「漫画少年」の編集長・加藤謙一を通して「あるべき理想の漫画雑誌」について次のように述べている。

「どだい文化なんてものは、数で計れるもんじゃありませんよ。美しさ、優しさ、愛、生と死、信頼、誠実、善意…そうした数で表現できない心の問題、それを面白くわかりやすく子どもに伝える手段が子ども漫画であり雑誌でしょう。それが児童文化ですよ。名編集長はそれができる立派な漫画家を見いだし、育てあげることのできる伯楽ですが、加藤さんはそれができた人でした。僕は第二の加藤さんを渇望しています」

それで筆を折って漫画を描かなくなった後でも、廃刊になった「漫画少年」を集めて寺田は独りで「漫画少年史」を編纂(へんさん)したりする。また、いよいよトキワ荘の取り壊しが決まったとき、かつてのトキワ荘の仲間たちが手塚治虫も含め、皆で最後トキワ荘に集まって同窓会をやる。しかし寺田だけ来ない。当時「わが青春のトキワ荘」のドキュメントでNHKのカメラが入って、そのときの同窓会の楽しげな様子を記録しているが、そんなとき寺田は独り茅ヶ崎の自宅の庭でバットで素振りなどをしている。そしてNHKのインタビューに答えて、「以前は『漫画少年』っていうよい本があった…昔はあった。けど、今はないよね」とした旨の発言をする。

さらに、新しく出てくる「とにかく売れればいい、時代の流行に乗った派手な劇画マンガ」に対する彼なりの批判があって、時に寺田は雑誌編集部に詰め寄り編集方針を変えるよう抗議したとも聞く。仲間内でも「最近のマンガが駄目なら、一体何がよいのか」言い合いになる。「相手がムキになって、じゃあ寺田さんが名作だと考えるのは、どういう作品ですかと突っ込まれて、僕もバカ正直だから、戦前の田河水泡のほとんどの作品、それから、新関健之助の『トラノコトラチャン』、吉本三平の『コグマノコロスケ』、戦後では、井上一雄の『バット君』、手塚治虫の『ジャングル大帝』なんて、ムキになってね」。後に寺田ヒロオはそう述懐している。

しかしながら、その一方で自分の漫画は素朴で古くて地味で時代の波に乗っていけないことに薄々、寺田は気づいていた。それで自分の殻(から)を破って時代に合う新しい漫画を描けるようテラさんなりに人知れず努力していた。

「暗闇五段を描いていたころゆきづまりを感じ、社会勉強をしなければと思いました。バーやキャバレーにでもいけば、少しは役に立つのではないかと、一時よくいってみたりもしました。そういうところへいくのに慣れているわけではないので、女の人と話もできないんです。てもちぶさたで困って、その場の時間つぶしにたばこを吸うのをおぼえました。そのために、前はヘビースモーカーと同席したりすると頭が痛くなったのですが、それもなくなりました。仕事にゆきづまってからは、世間を知るために旅行にずいぶん出ました。これはバーやキャバレーとはちがって、行きたくないのにいくわけではありませんが…」

寺田ヒロオが筆を折って連続的に漫画を描かなくなったのは1969年くらいからだが、それ以降もたまに仕事の依頼はあったらしい。寺田と昔から親交のあった漫画家・棚下照生によれば、「あるとき寺田にスリラーを描いてくれっていう依頼があって、彼は悩みながらも何とか作品を完成させて原稿を持っていったんです。すると、編集者が『やっぱり古いんだよな』。あー酷なこと言う人がいるもんだと思ってね。でも、それは実際だったと思うんです。寺田の、あの絵でスリラーは描けませんよ。現に寺田が今も、あの絵でやっていけるとは思わんもん」。

結局、トキワ荘の仲間たちに対して、「なんだお前らも刺激を求めてどきつくエスカレートしていく売れるだけのマンガに迎合か」という気持ちがあったし、同時に「自分なりに努力して時代に合った新しいマンガを描こうとしたけど結局、自分には描けなかった」という挫折もあった。彼らに対する、そんな愛憎混じる複雑な気持ちをおそらく寺田は抱いていた。だから、寺田ヒロオはトキワ荘が取り壊しになる前の同窓会にも、あえて出席しなかった。トキワ荘の仲間たちが多分に過去を「美化」して懐かしむと、「みんなは、テラさんは友情に厚く、思いやりの深い人物だと言ってくれますが、ボクはただ気が小さくて苦労性なだけなんです。有名になった漫画家たちが書くとトキワ荘は楽しくて珍事件ばかり起こっていたような感じですが、当時の住人には、世に受け入れられるかどうかもわからない不安と焦りの憂鬱(ゆううつ)な日々のほうが多かったと思います」と述べて、あえて冷たく突き離す。テラさんは独りトキワ荘から距離をとって黙って孤独に耐えていた。どうも私には、そのように感じられて仕方がない。

(※以上、寺田ヒロオ本人の発言引用は、梶井純「トキワ荘の時代・寺田ヒロオのまんが道」、加藤丈夫「漫画少年物語」などによります。)