アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集 寺田ヒロオ(6)「まんが トキワ荘物語」(その2)

(前回からの続き)以下の簡略な「トキワ荘年譜」を見て、トキワ荘関連での注目の画期は1970年と1981年の2つの年である。

1952(昭和27)年・トキワ荘、棟上げ式
1953(昭和28)年・新築のトキワ荘に手塚治虫が入居。大晦日に寺田ヒロオが入居
1954(昭和29)年・手塚が転居。藤子不二雄が手塚のいた14号室に入居。「新漫画党」の結成
1956(昭和31)年・森安なおやが鈴木伸一の部屋に同居。石ノ森章太郎が入居。赤塚不二夫が入居
1957(昭和32)年・寺田が転居
1959(昭和34)年・藤子が共同仕事場として、兎荘を借りる
1960(昭和35)年・赤塚もトキワ荘だけでは手狭になり、紫雲荘を借りる
1961(昭和36)年・赤塚が転居。藤子も転居
1962(昭和37)年・石ノ森が転居
1970(昭和45)年・トキワ荘の仲間達が「COM」に連作「トキワ荘物語」を発表。藤子不二雄の自伝的作品「まんが道」の連載開始
1981(昭和56)年・老朽化のためトキワ荘の解体が決まる。寺田が「漫画少年」の復刻資料集「漫画少年史」 を自費で刊行
1982(昭和57)年・トキワ荘が解体される

1970年は寺田ヒロオの「テラさん」、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らがトキワ荘から退去したり、近所に別のアパートを借り仕事場を移して、ほぼ十年後に当たる。70年代に入った時点で彼らトキワ荘出身の漫画家たちは順調で仕事も軌道に乗り不人気で筆を折る漫画家廃業の危機を脱し、「自分は、この先漫画家として業界でやっていける」相当な自信の確信があったのだと思う、特に藤子、石ノ森、赤塚らは。ただ寺田ヒロオと森安なおやは70年代当時、「売れっ子漫画家」としてはかなり微妙な位置にいたのだが。

その「漫画家として今後もやっていける」自信の現在的立場から逆算して、以前のトキワ荘の時代が非常に懐かしく「語るに足るべきもの」に急に感じられ、ほぼ十年間の空白を経ての絶妙なタイミングでトキワ荘同人がトキワ荘の時代を「懐かしく美しい青春」として語り始める、いわゆる「トキワ荘の本格語りの語り出し」が始まる。その画期がまさに1970年である。この1970年から「トキワ荘の本格語り」が始まり、世間の皆がトキワ荘のことをもっと知りたいと思い、やがて出版社や漫画業界も言い方は悪いが「トキワ荘は金になる」ことに気づき出す。ここから、トキワ荘特集の雑誌や書籍を出しまくる「トキワ荘商法」が始まる。そして第二の画期の1981年、トキワ荘取り壊し前年において、「トキワ荘の青春」語りの「トキワ荘商法」は最高潮に達するわけである。つまりはトキワ荘解体前年1981年の藤子不二雄「トキワ荘青春日記」や石ノ森章太郎「章説・トキワ荘・春」などトキワ荘出身漫画家らによる自伝、関連書籍の相次ぐ出版ラッシュとなる。

寺田ヒロオの「テラさん」は、1970年の「本格語り出し」の契機となった雑誌「COM」での「トキワ荘物語」の執筆時から後に隆盛を極める「トキワ荘ブーム」に対し、最初から一貫して懐疑的・否定的であったし、実はかなり警戒していたと思う。雑誌「COM」に連載の「トキワ荘物語」での寺田掲載分の漫画は、寺田がトキワ荘に越して来て、漫画家の先輩ですでに売れっ子の手塚治虫が入居しており、やがて出入りの編集者が寺田に仕事の依頼ではなく、「手塚先生はいまどこにいますか?」手塚の所在や手塚先生への伝言ばかり頼まれて、「おれは手塚先生の門番じゃないぞお!」とキレる。さらに手塚転居の後、今度は新しく入ってきた後輩の「新漫画党」の面々が売れ出し、またもや「新漫画党の先生方はいまどこにいますか?」「おれは新漫画党の門番じゃないぞお!」ともう一度キレて逃げるようにコミカルにトキワ荘を去るという、自虐オチの天丼(テンドン)二段重ねをやっている(笑)。だが「まんが・トキワ荘物語」巻末の寺田も出席の当時の座談会を読むと、1970年時点での寺田ヒロオは「トキワ荘の青春」時代について人前でおおっぴらに語ることにまだ寛容だった。

しかし、トキワ荘のことが人々に広く知られるようになり、1981年の「トキワ荘ブーム」最高潮の頂点に向かい世の「トキワ荘商法」が過熱していくに従って寺田ヒロオだけは違和感の不信を強めていった。だから、世間での「トキワ荘ブーム」を後目(しりめ)に前回記事に引用のような、「有名になった漫画家たちが書くとトキワ荘は楽しくて珍事件ばかり起こったような感じですが、実際はそうじゃなかった」旨の冷静で醒(さ)めた発言をテラさんだけトキワ荘出身漫画家の中で例外的にしたりする。しかも「トキワ荘の青春」語りには出身漫画家たち現在的立場からの「思い出」の再構成の美化作用がかなり働いて、人前で「トキワ荘の思い出」を語る度にその都度、内容は上書き更新されより肥大化して「トキワ荘の青春」美化が過剰になっていくことを完全に見切っていたのは、トキワ荘出身漫画家の中でおそらくは唯一寺田ヒロオだけだ。

そして第二の画期となった1981年、この時期に寺田ヒロオは「漫画少年史」を編纂(へんさん)し、自費で発行している。また年譜を見て分かるように、1981年といえば同時にトキワ荘取り壊しの前年でもあり、前述の通り、藤子不二雄が「トキワ荘青春日記」を出し石ノ森章太郎が「章説・トキワ荘・春」を出したのも同年だ。1981年といえば、翌年に老朽化のために解体を控えたトキワ荘の「トキワ荘ブーム」空前の最高潮時であり、関連漫画や書籍が出まくり、おまけにNHK特集のドキュメント「わが青春のトキワ荘」でテレビカメラも撮影に入る、まさに「トキワ荘商法」バブル最盛期の年である。

そんなトキワ荘が大騒ぎの時にテラさんはトキワ荘関連の仕事や記念行事に積極的にコミットしない。NHKのカメラが入った解体直前のトキワ荘での最後の同窓会に寺田は、参加しない。そして仲間と交わらず、トキワ荘ではない、あえて「漫画少年」の復刻資料集を作る仕事に独り没頭する。確かに「漫画少年史」編纂の寺田の仕事と解体を翌年に控えた世間一般の「トキワ荘ブーム」のバブルの最高潮な時期が、ただ単に偶然に重なっただけなのかもしれない。しかしながら、そこに世の「トキワ荘ブーム」や「トキワ荘商法」に対する寺田ヒロオの痛烈な「反」(アンチ)の批判意識を読み込もうとしてしまうのは「寺田ヒロオのファン」として、あまりに感傷的(センチメンタル)すぎる見方だろうか。

よくよく考えてみると、テラさんは特に藤子不二雄の「まんが道」で藤子らの先輩漫画家で「新漫画党」の党首で「トキワ荘での頼れる兄貴分」の実在人物として漫画業界でもトキワ荘ファンらからも、すでに広く知られている存在なわけだ。そんな寺田に対し、トキワ荘の取り壊しを控えた1981年前後に「トキワ荘関連の仕事」の依頼は、かなりの数が普通にあったと思われる。1981年に藤子不二雄が「トキワ荘青春日記」を、石ノ森章太郎が「章説・トキワ荘・春」というトキワ荘関連そのものズバリな自伝的著作を出したのと同様、「後輩漫画家たちとは違った寺田さんなりの視点でトキワ荘のことを漫画に描いてみませんか。自伝のエッセイを執筆しませんか。インタビューでコメントを頂けませんか、トキワ荘に関して」云々の仕事依頼は、必ずや寺田にあったに違いない。だが、おそらくテラさんは断っている。この人は頑(かたく)なに81年当時の「トキワ荘ブーム」の「トキワ荘商法」のバブルの波には安易に乗らない。何よりも取り壊し直前のトキワ荘で行われた最後の同窓会に寺田ヒロオが出席しなかったことの意味、「トキワ荘での同窓会に参加しない」行為に込められた寺田の意思表示の意味は、かなり大きい。

トキワ荘での同窓会に出席しない代わりに、寺田ヒロオは1981年の「トキワ荘ブーム」の「トキワ荘商法」バブルに(たぶん)わざとぶつける形で「漫画少年史」編纂の仕事を独り孤独にやる。廃刊になった「漫画少年」が散逸し原本収集が困難な中で、全国有志から「漫画少年」冊子を借り受け集めて「漫画少年史」を作る。また、せっかく借り受けた大切な「漫画少年」をうっかり出火の火事で焼失させるといけないから、その冬はストーブなど暖房器具の類を一切使わず「漫画少年史」の編纂に寺田は没頭する。「漫画少年史」の刊行は自費出版の自腹であり、明らかなマイナス収支である。当時の「トキワ荘商法」に乗っかって漫画なり自伝なり書いていたら、金儲けなど簡単にできたはずだ。しかし、テラさんは逆に損をしても自腹を切って自費で、わざわざ「トキワ荘ブーム」の「トキワ荘商法」バブルが最高潮のときに「漫画少年史」を作って出す。しかも、その「漫画少年史」の中で「昔は漫画少年という良い本があった。今はどうだ?私達の手で漫少を越えるものをつくろう」と、トキワ荘の仲間や漫画業界全体が「トキワ荘バブル」で盛り上がっている最中に独りそんなこと言う男なのである、寺田ヒロオという人は。

トキワ荘が解体直前のトキワ荘での最後の同窓会にも出席せず、同窓会に行かない代わりに、せいぜい自宅でNHKのインタビューにてトキワ荘のことをシニカルに冷ややかに答える程度で、1980年代の取り壊し直前のトキワ荘関連の記念史的な仕事に寺田は、ほとんど関わりを持たなかった。むしろ、テラさんは世間で過熱する「トキワ荘ブーム」や「トキワ荘商法」に対する反(アンチ)で、80年代の取り壊し前後は特にトキワ荘を積極的に避けていた(と私は思う)。

1982年にトキワ荘が取り壊されて、それからさらに十年後の1990年代、最晩年の寺田ヒロオは酒が手放せなくなり、茅ヶ崎の自宅に引きこもり、友人漫画家の棚下照生に泣きながら電話をかけたりする。晩年、テラさんがそんな非常に不安定な精神状態になり身体も壊してボロボロになって、棚下がたまたま飲み屋で赤塚不二夫のアシスタントに出くわした時、「寺田があんなふうになったのも、お前らトキワ荘同人のせいだろうが!」カラんでケンカを売って互いに一触即発、そういったやりとりの噂も聞く。その棚下照生が当時、トキワ荘の藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らに寺田ヒロオを介して初めて会ったときの印象は以下だ。

「彼等と対面した。『石森でーす』。少年はこの男を、まるでジャガイモみたいな奴だなと、鼻で笑った。次に、『藤子です、よろしく』。ヘチマとナスビが言った。『二人で一作を描きます』と続けた。何のことはない二人で一人前か。『エー、赤塚』。握りメシが動いたかと思った」

最初の第一印象から決定的によくなかった。棚下は寺田とはずいぶんと気が合って親友だったが、寺田の後輩の藤子、石ノ森、赤塚らとは最初から上手く付き合えなかった。そうだと思う。棚下照生という人は幼いころに両親が亡くなり、あまり学校にも行かず、15歳で宮崎から単身上京し公衆トイレや空き家に住んだりパチンコ屋店員などの下積み生活を重ねてやっと漫画家になった人だった。「棚下の気の遣いかたが、いかにも苦労人だと思った」と寺田に感じさせるほど、文字通り「苦労人」な男であった。また編集者の給料が一万円も満たない当時、漫画で月に三十万円くらい荒稼ぎし毎晩、芸者を呼んで騒ぐような無頼な酒飲みで血を吐くまで飲む、女性関係も若いときから海千山千の経験豊富であったであろう棚下から見て、きっとトキワ荘の漫画家たちは、まだまだ幼い子供に見えたに違いない。何しろ当時の棚下からすれば、トキワ荘同人は「ジャガイモ、ヘチマ、ナスビ、握りメシ」の扱いだから(笑)。

事実トキワ荘出身の漫画家たちは、寺田ヒロオ以外、最年長の手塚治虫も藤子不二雄の藤本と安孫子も石ノ森章太郎も赤塚不二夫も、その他の漫画家の皆もあまりにも精神的に幼くて子供すぎた。だいいち「トキワ荘の青春」語りが自身の現在的位置から恣意的に再構成されて「思い出(らしきもの)」が新たに生成され、しかもそれが「あたかも本当に過去にそういう実体があったから、正確に記憶から掘り起こされ、自然に思い出されて現在語られている」錯覚の体裁をとることに全く気づかなかったし、また「トキワ荘の青春」を人前で語るたびに「思い出」が美化され、その都度上書き更新されて肥大化されていくことに無自覚で極めて無邪気に「懐かしく美しいトキワ荘の青春」を繰り返し語り続けた。何よりも自分たちの「トキワ荘の青春」語りが、後の大々的な「トキワ荘商法」につながってくことに全くの無警戒で、世の中の「トキワ荘ブーム」や「トキワ荘商法」の「思い出」の切り売りの金儲けに自ら安易に乗りすぎた。ことごとく寺田ヒロオのテラさんとは正反対の対照的で皆が幼く無邪気に陽気に奔放自由にやりすぎた。

よく「子供は残酷」と言われるが、あれは「子供は根っからもともと残酷」なのではなくて、子供は自身の発言や行動が相手にどのような影響を与えるのか、自分の発言や行動が時に相手を傷つけたり精神的に追い詰めたりすることに全く思い及ばず、常に無自覚で悪意などなく、天真爛漫(てんしんらんまん)に無邪気に自由奔放に語り行動するので「結果として子供は残酷」なのだと私は思う。

寺田ヒロオは、1970年代に入ってから週刊誌の連載仕事をやらなくなって漫画の第一線を退く。しかし、以後も時々は漫画を描いていたし、テラさん自身もまだまだ漫画家の仕事に未練も意欲もあったと思う。寺田がそんな漫画家として「開店休業」状態にあって、後にトキワ荘の同人たちが「トキワ荘の青春」を大々的に美化して語り、そうするとその話の中でかなりの確率で「お世話になったテラさんのこと」も出てくる。自分が描く漫画作品以外のことで寺田は有名になり、そのことでテラさん自身が、特に最晩年は苦しかったり精神的に追い詰められたこともあったはずだ。

だがトキワ荘同人は、どこまでも無邪気で奔放で天真爛漫に自身にとっての「トキワ荘の青春」を自由に語る。ついで、よせばいいのに(苦笑)、その際にテラさんのことも悪意など皆無で、むしろ本人たちからする主観的で一方的な「感謝」の「善意」な気持ち全開で寺田の現在状況など全く考えずに同時に語りまくる。結局、この人達は「トキワ荘の青春」語りが自身の現在的位置からの恣意的な再構成であることに気づかなかったのと同様、トキワ荘に関する自分らの「思い出」語りが、晩年の寺田ヒロオに与える影響に全く気づかなかった。だから棚下照生は激怒する、「寺田をダメにしたのは、お前らトキワ荘の漫画家たちだろうが!」トキワ荘関係の漫画家は、寺田ヒロオを除いて皆があまりにも精神的に幼く無邪気で子供すぎたと私は思う。

私の見解では、トキワ荘関連での注目の画期は1970年と1981年の2つの年だと思うが、特に2つ目の画期の1981年、このトキワ荘が取り壊しの前年に、なぜ寺田ヒロオはトキワ荘ではなく「漫画少年史」の仕事を独り孤独にやるのか。なぜ解体直前のトキワ荘での最後の同窓会にテラさんだけ出席しないのか。なぜこの時期に寺田は受け取る当人が驚くほどの気弱な手紙をトキワ荘同人らに書いて寄こすのか。当時の寺田ヒロオは相当に深刻で、テラさんの心の闇は果てしなく深くて暗い。その辺の事情の理由をトキワ荘の漫画家たちは、自分らが積極的に作り出し支えた「トキワ荘ブーム」や「トキワ荘商法」に結びつけて主体的に考えてみるべきだった。だが誰もやらなかったし、できなかった。トキワ荘関係の漫画家は、寺田ヒロオを除いて皆があまりにも精神的に幼く無邪気で子供すぎた。

最晩年の寺田の苦しむ姿を知ったうえでの、棚下照生の「寺田をダメにしたのは、お前らトキワ荘の漫画家たちだろうが!」とする怒りをどうしても私は見過ごせない。なぜなら私は「トキワ荘ファン」ではなく、どこまでも「寺田ヒロオのファン」だから。そして誠実な「寺田ヒロオのファン」でありたいと思っている私は、テラさんの心情を推(お)し量(はか)ってテラさんのことを考えれば考えるほど、現在まで続く「トキワ荘ブーム」の「トキワ荘商法」に簡単に乗っかったりは出来ない。

「特集・寺田ヒロオ」これにて終了の完結。ありがとうございました。