アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集 寺田ヒロオ(5)「まんが トキワ荘物語」(その1)

昔から続く「トキワ荘ブーム」が現在でもあるが、トキワ荘に現役で入居や出入りの人気漫画家で主な人はすでに亡くなっているから(手塚治虫、藤子不二雄の藤本と安孫子、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら)、やがてはトキワ荘に関する書籍も次第に減り、「トキワ荘ブーム」もやっと終わるのかと私は思っていた。ところが、主だった現役漫画家たちがいなくなっても今度は当時トキワ荘に出入りしていた編集者や弟子筋にあたるアシスタント、はたまたトキワ荘とは全く関係ないライターが、新たに取材してトキワ荘関係書籍を最近でも連発で盛んに出しまくる。

そして近年、トキワ荘関連で特に私が衝撃を受けたのは、祥伝社新書から出た「まんが・トキワ荘物語」だった。あれはトキワ荘同人らが後にトキワ荘の日々を振り返って書いたリレー連作、雑誌「COM」に連載の「トキワ荘物語」を新書にして復刊させたもので、「トキワ荘つながりで、こんな本まで復刊の新刊本で出るのか。出せば確実に売れるのか。もちろん、確実に売れる勝算があるから出版社は出すのだろう」と正直、私は思った。

言い方は悪いが、「トキワ荘は今でも金になる。恐るべしトキワ荘商法」と思った。単純にトキワ荘と、そこの出身の漫画家たちと彼らの漫画作品が好きな純粋なトキワ荘ファンの方から、お叱(しか)りを受けてしまうかもしれないが、少なくとも私はそう感じた。というのも、これまた私個人の話で申し訳ないけれども、昔から私は「トキワ荘ファン」ではなくて、正確に厳密には寺田ヒロオの「テラさん」のファンだから。そして誠実な「寺田ヒロオのファン」でありたいと思っている私は、テラさんの心情を推(お)し量(はか)ってテラさんのことを考えれば考えるほど、現在まで続く「トキワ荘ブーム」の「トキワ荘商法」に簡単に乗っかったりは出来ない。

最晩年の寺田ヒロオは酒が手放せなくなり、茅ヶ崎の自宅に引きこもり、友人漫画家の棚下照生に泣きながら電話をかけたりしていた。晩年、テラさんがそうした非常に不安定な精神状態になり、身体も壊してボロボロになって、棚下がたまたま飲み屋で赤塚不二夫のアシスタントに出くわした時、「寺田があんなふうになったのも、お前らトキワ荘同人のせいだろうが!」カラんでケンカを売って互いに一触即発、そういったやりとりの噂も聞く。「寺田をダメにしたのは、お前らトキワ荘の漫画家たちだろうが!」とする棚下の怒りを私は見過ごせない。なぜなら私は「トキワ荘ファン」ではなく、どこまでも「寺田ヒロオのファン」だから。しかし、ここでは話の結論を急がず、まずは以下の「トキワ荘年譜」を軽く眺めてみよう。

1952(昭和27)年・トキワ荘、棟上げ式
1953(昭和28)年・新築のトキワ荘に手塚治虫が入居。大晦日に寺田ヒロオが入居
1954(昭和29)年・手塚が転居。藤子不二雄が手塚のいた14号室に入居。「新漫画党」の結成
1956(昭和31)年・森安なおやが鈴木伸一の部屋に同居。石ノ森章太郎が入居。赤塚不二夫が入居
1957(昭和32)年・寺田が転居
1959(昭和34)年・藤子が共同仕事場として、兎荘を借りる
1960(昭和35)年・赤塚もトキワ荘だけでは手狭になり、紫雲荘を借りる
1961(昭和36)年・赤塚が転居。藤子も転居
1962(昭和37)年・石ノ森が転居
1970(昭和45)年・トキワ荘の仲間達が「COM」に連作「トキワ荘物語」を発表。藤子不二雄の自伝的作品「まんが道」の連載開始
1981(昭和56)年・老朽化のためトキワ荘の解体が決まる。寺田が「漫画少年」の復刻資料集「漫画少年史」 を自費で刊行
1982(昭和57)年・トキワ荘が解体される

直接的に言って、この年譜での注目の画期は1970年と1981年だ。まず1970年にトキワ荘同人らによる連作「トキワ荘物語」が雑誌「COM」が掲載される。ついで同じ年に藤子不二雄の安孫子が自伝的作品「まんが道」の連載を開始する。1970年といえば寺田ヒロオがトキワ荘を出て10年ちょっと、ちょうどテラさんが「サンデー」の「暗闇五段」の連載を引き上げて多忙な漫画の仕事の第一線を退いた直後に当たる。他のトキワ荘同人も1960年代初頭までトキワ荘に居るが、すでに仕事も軌道に乗り出し、手狭になって近所に仕事用の別の部屋を60年までに新たに借りたりしている。だから1970年は彼らが実質トキワ荘を離れて、ほぼ十年後に該当する。

トキワ荘退去やトキワ荘の自室で主に仕事してた時期から約十年間のブランク(空白期間)があって、それからほぼ十年が経ってトキワ荘同人の皆が思い出したように「漫画家の駆け出しでまだ作品が売れず無名で貧しく苦しかったけれど、しかし常に仲間がいて楽しかった自分たちの懐かしく美しい青春」としてトキワ荘の時代を振り返り、本格的に語り始める。トキワ荘の実質的退去からほぼ十年後という「語り出しのタイミング」が絶妙だと私は思う。トキワ荘時代から、ほぼ十年後の雑誌「COM」での連作「トキワ荘物語」と、藤子不二雄の安孫子による「まんが道」連載開始での「本格的なトキワ荘の語り出し」は時期的に実に絶妙だ。

ここで何よりもまず確認しておきたいのは、歴史証言や自伝における記憶や語りの構造である。人々が過去の記憶を思い出し、過去の思い出を語る時には、過去そのものに語られるべきものの実体が確固としてあるから、その記憶を思い出し正確に自然に語るというわけでは決して、ない。そういう過去を思い出し記憶を語る場合、語る主体の現在的立場や認識作用から、過去の記憶の思い出は、かなりの部分が恣意的に再構成され形作られ、「思い出(らしきもの)」が新たに生成されて、それが「記憶」や「思い出」として思い出されて語られる。しかも、それは「あたかも本当に過去にそういう実体があったから正確に記憶から掘り起こし自然に思い出されて現在、語られている」という錯覚の体裁をとって思い出されながら語られるわけである。

トキワ荘の場合でいうと、「まだ作品が売れず無名で貧しく苦しかったけれど、しかし常に仲間がいて楽しかった自分たちの懐かしく美しいトキワ荘の青春」というのは、そういう実体が確固としてあったから、その記憶を正確に思い出してトキワ荘出身の漫画家たちが後に語るわけでは決してない。彼らの現在的立場やら認識作用から、かなりの部分が恣意的に再構成され、「懐かしく美しいトキワ荘の青春」として新たに「思い出」が生成されて語られるわけだ。つまりはトキワ荘の漫画家たちは、これまでトキワ荘時代からずっと漫画を描いてきて漫画家修行を続けて、1970年の70年代に入ってやっと自分たちが漫画で食べていける、この先も漫画家を続けて漫画の業界で生きていける自信のメドがついたのだと思う。すると、その現在的位置から逆算で遡行(そこう)して、そのときになって初めてかつてのトキワ荘の時代が「語るに足るもの」として各自に急に強く意識され始める。すなわち、それが1970年の「トキワ荘物語」の連作や「まんが道」の連載からの本格的な「トキワ荘の青春の語り出し」になる。

例えば、藤子不二雄の安孫子の「まんが道」は、雑誌「COM」での「トキワ荘物語」掲載と同時期の1970年から連載が始まる。「藤本氏と二人で少年漫画ばかり描いてきた。自分たちの青春の全てを漫画に捧げた」といった自伝的な作品を描けるのは、70年の「まんが道」連載開始の時点で「漫画の仕事もかなりの軌道に乗り、この先漫画家として自分たちはやっていける、少なくとも不人気で筆を折るような漫画家廃業の危機は去った」相当な自信があったから自身の、その現在的位置から逆算して初めてできる仕事である。少なくとも現時点で未だ漫画家として一生やって行く自信のない人には、「まんが道」などという堂々とした王道タイトルな自伝漫画は絶対に描けるはずがない。

もちろん、トキワ荘の時代にはまだ作品が売れず無名で、しかし常に仲間がいて面白かったり楽しかったことも多々あった。だが同様に貧しくて苦しくて、例えば漫画雑誌の出始めには全国PTAの「悪書追放運動」や漫画雑誌の廃刊が相次いだりして漫画業界はこの先どうなるのか、自分たちは漫画家としてやっていけるのか焦りの不安で煩悶(はんもん)な日々もあったはずだ。はたまた何もせず、後に何の感慨も残らないような無為に過ごした日々もあったに違いない。それら苦楽と無為な日々や時間が混沌一体であったわけである。普通に考えたらそれは当たり前で、人の人生のある時期に単に面白いこと、楽しいことばかりが連続して起こるはずもなく、楽しさも苦しさも不安も焦りも憂鬱(ゆううつ)も無為も同じ具合に同程度あるのが普通だ。

ところが、前述のように1970年代に入ってトキワ荘同窓たちの漫画家として一応成功を収めた自信の自負の現在的立場の認識作用から、かなりの部分が恣意的に再構成され、「懐かしく美しいトキワ荘の青春」として新たに「思い出」が生成される。しかも、そういった語りは人前で語る行為を繰り返せば繰り返すほどその都度、上書き更新されて内容が肥大し過剰になっていく。いわゆる「トキワ荘の懐かしく美しい青春」の場合には、1970年から「本格的なトキワ荘語り」が彼らの漫画家としての現在地位確立の自信に呼応する絶妙なタイミングで始まって、それからインタビューや講演や漫画にトキワ荘を描いたり、エッセイの文章を執筆する度に「トキワ荘の時代の懐かしさの美しさ」が、どんどんどんどん上書き加味され過剰になっていく。おそらくはトキワ荘が解体の前年1981年で「トキワ荘の青春」美化の「思い出」再生成の肥大化は最高潮に達する。しかも特に藤子不二雄の安孫子、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らトキワ荘同人は、「あたかも本当に過去にそういう実体があったから正確に記憶から掘り起こし自然に思い出して現在、私は語っている」の錯覚に乗っかって、極めて無邪気に繰り返しトキワ荘の時代を語る。

しかしながら寺田ヒロオのテラさんだけは違った。世間で過熱する「トキワ荘ブーム」に冷や水を浴びせかける、以下のような冷たく突き離した寺田のコメントである。

「有名になった漫画家たちが書くとトキワ荘は楽しくて珍事件ばかり起こったような感じですが、当時の住人には、世に受け入れられるかどうかもわからない不安と焦りの憂鬱な日々の方が多かったと思います。…新漫画党もメンバーが後に有名になったから、立派な集団だったように言われるけど、実際はそんなに大げさなものじゃなかったんですよ。会合では議事録を作って書記がメモするのだけれど、一番記憶に残っている議題は、この次は、いつどこで会合をしようかということだった」

「テラさんはデキる人だな。私はテラさんが好きだな」と思った。これは、まさに「歴史的証言や自伝における記憶や語りの構造、語る主体の現在的立場や過去の恣意的再構成、語る者には、あたかも正確に自然に思い起こされる錯覚体裁」云々の原理を踏まえた、短くも極めてまっとうで的確な常識的コメントだ。前から「トキワ荘ブーム」や「トキワ荘商法」に少なからず違和を感じていた私は、このときから「トキワ荘ファン」ではなく、本格的な寺田ヒロオの「テラさんのファン」になった。

この記事は次回へ続く。