アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(20)多田正行「思考訓練の場としての英文解釈」

私は下の世代で同時代的には正直知らないのだが、以前に「通信添削のオリオン社」というのがあって、そこで添削指導をしていた多田正行が執筆した英語の大学受験参考書に「思考訓練の場としての英文解釈」というのがある。

長い間、絶版で入手困難となっていたが昔から多くのファンを持ち根強い人気があって近年、めでたく復刊の再発を果たす。内容は硬派の本格的派で大変に高度で難しいらしく、「同様に高度で難しい伊藤和夫『英文解釈教室』を軽く超える。伊藤師の『解釈教室』の次にやるべき本」とか、「大学受験のみならず、社会人が実際に英語を読む際に活用すべき。受験勉強に限定しておくにはもったいない。英文解釈にて新たな高みの異次元を目指す人向けの本」というように熱烈な支持者を持ち、時に激賞される大学受験参考書だ。

そこで「思考訓練の場としての英文解釈」全三冊(1973─2013年)全13章を私は読んで演習までやってみた。読後の感想として同時代の英語参考書、駿台予備学校の高橋善昭「英文読解講座」(1986年)に似た書籍だと思った。取り扱う英文の難易度、解説文の書き入れスタイル、構文解説のあり様が多田正行と高橋善昭は似ている。そして「思考訓練の場としての英文解釈」に関し、前評判のように「そこまで高度で本格派の難しい英語参考書か?」という読後の感想を率直に持った。例えば、第1章は「and」や「but」の等位接続詞の並列整え並び、修飾にて一つの被修飾語に二つ以上の修飾語が並列で係る共通関係を取り扱っているが、これらは英文を読む時には誰しもが普通に必ずやっている初歩的な手続きの話だ。それなのに多田は「因数分解型STRUCTURE」の「因数分解」云々で、数学の数式の因数分解のカッコくくりとカッコはずしのわざわざ分かりにくい余計に複雑で難しい説明解説をする。第1章の学習内容は、より平易に本当は英文解説できるはずなのに、なぜかわざと難しく解説しようとする氏の英文解釈の手際(てぎわ)が正直、気になった。

普通に考えてネイティブの人たちで日常的に英語を読み書きできる人は、また同時にかなりの確率で日常的に数学の因数分解を出来る人が、あまりいないと思う。例えば、レジのお釣の引き算を頻繁に間違えたり、日本人以上に英米の人たちが実は全般に数学が苦手なのは広く知られた話だ。そんな数学や因数分解の苦手なネイティヴの人達でも英語の読み書きは普通に出来る。加えて、氏の参考書に頻出する「癒着と遊離」や「紋切り型公式主義に拠る敗北」など普段からの難しい言葉遣いの連発も非常に気になるし、単なる「知的を装いたいだけの難解きどり」に思えなくもない。少なからずその悪印象は私には拭(ぬぐ)えない。

そもそも英語など主に英米地域の人達が日常的に使っている発想・思考のコミュニケーション・ツールの言語なわけで、言語の語学の英語が「難しい」などということは通常あり得ないし、あってはいけない。ゆえに「この英文は難しい」とか「あの英語参考書は難易度が高い」など、難しさを暗に誇ってもてはやすような風潮は明らかに不健康で不健全である。少なくとも私はそう思う。普段の日常会話で、なかなか理解できない変に難しい言葉遣いだったり、新聞・雑誌の記事や会社の閲覧書類で、やたら難しく複雑な構文の文章を書いていたら、「伝わりにくく誤解されやすいムダな複雑な文をわざと書きやがって(怒)。何か意味あるのか。こいつは馬鹿か」と周囲の反感を買ってイラつかれる。また詩や小説の鑑賞でも、いたずらに難し過ぎて思わせぶりで、よほど注意して読まなければ意味が通じなかったり、一般の人にはなかなか気付かれないような高度で(?)難解なレトリックの修辞が施されていて「分かる人にだけ分かる」特権的な文学であったら、その文学は結局は二流の文学だ。読解が困難で言語の意味やレトリック仕掛の効果を読者が容易に味わえないというのは。だから、英語を始めとする語学の言語で「簡単に読めない程に難しくて高度」とか「解釈の難解さを誇る」とか「この英語参考書は思考訓練の場として最適で最高峰に難しい」などというのは(笑)、もともと陳腐でナンセンスな話である。

しかし、世間一般の日本の大学入試の英語の試験にて、いわゆる「難しい」とされる英文が出題されてることも事実であって、その場合の「英語が難しい英文読解の困難さ」の由来は、おそらくは主に次の二つのパターンに帰せられると考えられる。すなわち「英文の構造が複雑で入り組んでいて構文が取りにくく文法的に混乱しやすくて純粋に構文的・文法的に難しい」、もしくは「文構造は比較的・簡単だか、書かれている意味内容が高度で極度に抽象的であったり、専門的だったりするので日本語訳ができても訳出の意味内容が漠然としていて正当な理解を阻んで結果、難しい」。

前者の「純粋に文法的・構文的にに難しい」の事例でいえば、例えば大がかりな倒置が大胆に使われており、本来の語順が変則して一読では見抜きにくいや、従属節や関係代名詞節や「前置詞+名詞」の修飾句の挿入が多くあって、しかも長くてそのために主節の「S+V」の見極めが一見して困難だとか、「not…but…」があるからコンビネーションで「not・A・but・B」の対立構文かと思ったら、実は引っかけで裏を突いて「not・A・but・B」の対立構文とは全く関係ない単に錯覚しやすい英文だったとか。

このタイプの「難しい」英語が多く載っている参考書は伊藤和夫「英文解釈教室」(1977年)で、文法的に結構、無理ある変則的でひねったパズルの詰め将棋のような非常に凝(こ)った非実用的英文が満載である。「英文解釈教室」に掲載の英文は、昔のエッセイや小説が出典と思われる案外に古い、今の人なら日常的に書かないであろう文語的な英語が多い気がする。だから、伊藤師の「英文解釈教室」に掲載されている例題の日本文化論は、日本人に対する明らかな偏見の間違いがあって全く正確ではない。「一体、いつの時代の英米人が書いた文章なのか」と思わずツッコミを入れたくなる非常に古い文語的英文が数多くある。

他方、後者の「文構造は比較的簡単だか、書かれている意味内容が高度で極度に抽象的であったり、専門的であったりするので難しい」というのは、実は英語そのものの難しさではなく、英文の意味内容自体が抽象的・専門的であり、読み手の普段の発想や思考水準レベルを超えているので結果、何となく日本語訳はできるけれど内容把握の理解が困難で「難しい」というだけのことだ。これは、もう読む人が和訳したものを軽々と理解納得できるよう普段から自身の理解能力や知識の総量を上げて自分の中の知的世界を充実させていくしかない。もはや英文解釈の問題ではなくて、日本語の現代文や倫理社会や現代思想の学習問題である。人は全く無知な事柄に対して、それに関する文章を読んでも理解はできない。ある程度、自分の中にそのものについての前知識があって、それと照らし合わせ読み進めて「あーこの文章は、あの事を言っているのか」と腑(ふ)に落ちながら読まなければ文章は理解できない。それは日本語でも英語でも、みな同じだ。

英語に限らず、海外の書籍を日本語に翻訳して出版する際に「翻訳の訳文が日本語として不自然」だとか「訳出された日本語文の意味が通じなくて意味不明」とか、「明らかに誤訳で原書の意味と全く異なる」「原書にて著者が言おうとしている言葉の機微の細かなニュアンスまでうまく捉えて訳しきれていない」の、いわゆる「誤訳問題」があるが、結局あれは翻訳者の方が語学の知識の語学力がなくて単に訳すのが下手なのでは決してなくて、語学力以外の問題で、訳す人が文章の意味内容をよく分かっていないので下手なまずい翻訳になってしまう。翻訳の人達も一応は語学のプロだから、いくらなんでも文法知識が欠如していて、だから正確に上手に訳せないなどということはありえない。文章の意味内容が抽象的だったり、その人の専門外だったりして翻訳する人の普段の発想や思考の知的レベルをある意味、超えている内容だから的確な内容理解を阻んで結果、正確に上手に訳出できないだけのことだ。

文構造は大して入り組んでおらず複雑ではないが、英文の意味内容自体が抽象的で専門的で「難しい」タイプのこの手の英文は、国公立の二次試験でよく出題される。すなわち、内容が難しいから単に「下線部を訳せ」ではなくて「下線部の意味を説明せよ」という設問指示のパターンが多い。だから、国公立二次の英語テストは機械的に表面的に日本語に置き換えて訳せるだけでは不十分で、英文の意味内容を本当に理解できているかまで試される。多田正行「思考訓練の場としての英文解釈」の英語の「難しさ」とは主に、この後者のタイプに該当だと思う。「思考訓練の場としての英文解釈」に関し、「全三冊のうち最初の一冊目が特に難しい」という趣旨の書評をよく目にするが、確かに「最初の一冊目が特に難しい」と私も思う。そして、その「難しさの由来」は、どちらかといえば文法や構文の複雑さ云々ではなくて、掲載英文の意味内容そのものが他の巻と比べ高度で抽象的だからだと思う。決して扱っている英語の英文それ自体が難しいわけではない。

そういったわけで、もともと本来はそんなにむやみやたらと、いたずらに難化して難しくなりようがないはずの英文解釈に対する著者の英語指導における、思わせぶりな「難解きどり」が私には気になる多田正行「思考訓練の場としての英文解釈」である。この点に関し、多田正行は大学受験指導の読み書きの英語はできたが、実際に英会話の英語を話せなかったらしい(ただし、これはあくまで伝聞の噂で本当かどうか要確認)。この実用的に英語を使わなかった氏自身の問題が、多田の英文解釈における「難解きどり」の一つの背景にあるのではないか。あとは、たとえ簡単な事柄でも何でも理論高踏的に精密分析にて語りたがる氏の人間資質や嗜好によるものか。

だがしかし、多田正行「思考訓練の場としての英文解釈」は、他の英語参考書に類を見ない非常に分析的な精密視点の英文解釈の本であることに相違ない。表面的な英文解釈にとどまらず、英語を使う人の背景にある発想思考にまで踏み込んで解析した素晴らしい英文解釈書だ。例えば、一冊目の第3章「対照と照応」での英米人の対立発想好みに着目した英文読解解説は美しくて実に見事だと私は思った。