アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(21)棟明郎「思考訓練の場としての現代国語」

以前にあった「通信添削のオリオン社」から出ていた大学受験参考書で長い間、絶版・品切で入手困難となっていたが、近年待望の復刊・再発を果たした棟明郎(とう・はるお)「思考訓練の場としての現代国語」(1979年)は、同シリーズで同様に復刊・再発の多田正行「思考訓練の場としての英文解釈」(1973年)と同じく、本格派の硬派で精密に執筆されており、ゆえに一読では終わらない何度も繰り返して読み返したくなる大変に優れた参考書だ。「思考訓練の場としての現代国語」は一過性の大学受験入試対策の受験指導にとどまらず、「現代文を読解することの本質を教える」一般の国語教育まで幅広く視野に入れた学術参考書である。

本書の構成はおよそ以下のように進む。まず著者の棟明郎が読解のあり方や文章の書き方、言葉の取り扱いなど現代文に関する一般的な講評を述べる。その後、課題の問題掲載があって、その問題文の主題要旨に関する氏の解説があり、「実際に添削問題として出題した際、オリオン添削会の受講生はどのような答案を書いて寄越したか」イニシャル表記の匿名で数人の解答例を挙げ、主にそれら答案の良くない点を棟が指摘する(時に大変よく書けている、ほぼ完答に近い受講生の答案を氏が褒めて載せる場合もあり)。それから最後に模範解答を掲載して一問の問題演習は終わる。そのパターンの繰り返しで所収の問題数は結構、多い。

課題となる問題は傍線部の説明の記述式のものが主で、たまに空欄補充や最適選択肢を選ばせる記号式もある。イニシャル表記の匿名学生の作成答案に対し、棟明郎が相当に辛辣にダメ出しする割には最後にいきなり模範解答を載せて、あっけなく問題解説を終わらせる。肝心な記述式解答答案の作り方の手順や空欄補充の適切語句を選ぶ意味根拠を、決して具体的に教えてくれない。問題はここにある。例えば「この傍線部は本文中のあの部分に対応しているから解答文の骨組み構造はこうで、そこに盛り込むべきキーワードの語句はこれで、その語句の有無が採点基準となるから絶対に書きもらしてはいけない」というような記述式答案の具体的作成手順を。例えば「なぜこの空欄には選択肢Aが入って、なぜ他の選択肢BやCでは駄目なのか、その根拠は何か」を棟明郎は決して詳しく説明してくれない。そのくせ、問題の具体的な解き方を常日頃から詳しく丁寧に教えないにもかかわらず、「今回の問題は非常に出来が悪かった。ほぼ正解なしの全滅で私は、とても失望して赤ペンが進まず添削のやる気をなくした」云々と棟は紙面にて大げさに嘆いてみせたりする(笑)。

こういった棟の不親切さ(?)は、「私はオリオンの添削生に受験勉強指導をやってはいるが、実のところ大学入試問題の具体的な解き方を必ずしも明解にストレートに学生に教えたくない」という氏の中に非常に屈折した複雑な事情があるからだと思われる。そのことは「思考訓練の場としての現代国語」での以下のような氏の語りにて決定的だ。

「出題文で、空欄がいくつもある文章は、正直いって興ざめである。どんなにその文章が名文であり、その内容が卓越したものであっても、五つも六つも穴があいていたのでは、読者の気持ちは白けてしまうばかりである。…この種の出題形式が諸君から『文章を読む』という感動を奪う結果になることは、否定できない。私が最も恐れることは、諸君が出題文の作者の存在を忘れ、ただただ出題者との対決のみに専念しているのではないかということである。数学と国語は違うのである。数学の場合は初めから終わりまで完全に出題者との対決である。だが、国語の場合、諸君が真に対決しなければならぬ相手は、出題者なのか、それとも出題文の作者なのか。その両者だという答えは私はとらない。作者と読者の対決の橋渡しの役目をするのが、出題者の役割だというのが私の基本的な考え方である」(35ページ)

「国語の場合、諸君が真に対決しなければならぬ相手は、出題者なのか、それとも出題文の作者なのか」。棟明郎は、間の緩衝材(かんしょうざい)なく直接的に厳しいことを聞いてくる(笑)。おそらく現在の大学受験生や予備校講師なら、ほとんどの人は「大学入試の国語にて自分が対決しているのは、出題文の作者ではなく、自身が入学したいと願っている大学の入試問題作成の出題者」と答えるだろう。しかしながら棟明郎は違う。「作者と読者の対決の橋渡しの役目をするのが、出題者の役割だというのが私の基本的な考え方」であり、ゆえに「私が最も恐れることは、諸君が出題文の作者の存在を忘れ、ただただ出題者との対決にのみ専念してしまうのではないかということである」と言い切る棟にとって、大学入試問題の国語であっても普段の文章読解と同じ「出題文の作者との対決」の真剣勝負であり、「文章を読む」ということは「作者と読者の対決」から生まれる「感動」である。だから、その「作者と読者の対決」の「感動」の本筋から外れる、本来は「出題文の作者と読者の受験生の諸君の対決の橋渡しの役目をする」はずの裏方の入試問題の出題者が前面に出てきて、「ただただ出題者との対決にのみ専念している」状況に学生諸君を陥れるのは「私の最も恐れること」であり、非常によろしくない。そういった国語教育本筋の「文章を読む行為から生じる感動」を伝える立場から、実際の大学入試問題にて、例えば空欄補充問題の適切選択肢の根拠や解法手順を具体的に詳しく親切丁寧に教えることは、棟にとって何だか「興ざめ」で「文を読む感動」からの「背徳」や「裏切り行為」のように感ぜられて(「出題文で、空欄がいくつもある文章は、正直いって興ざめである」)、結果それがイニシャル表記の匿名学生の作成答案に対し、氏が相当に辛辣に毎回ダメ出しする割には最後にいきなり模範解答を載せて、あっけなく問題解説を終わらせる、大学入試問題の具体的な解き方を必ずしも明解にストレートに学生に教えない、いつもながらの棟明郎の不親切さ(?)につながるわけだ。

つまりは、氏の中に確固としてある「文章を読む読解は、作者と読者との真剣勝負の対決であり、時に感動を生むものであるが、大学入試問題は本来作者と読者の橋渡しをする裏方であるべき出題者が作者と受験生の読者の間に入って感動の邪魔をするから誠に、よろしくない」氏の「私の基本的な考え方」からして、「実際の入試問題の具体的な解き方を必ずしも明解にストレートに学生に教えなくてもよい」という態度が棟明郎の中で強力に合理化され正当化されてしまう。そして棟はさらに続ける。

「重ねて言う。この種の空欄問題に対するアドバイスを私はもたない。ただ言えることは、『文を読む』ことの感動こそが現代国語の原点であることを忘れないでほしいということである。それさえ心にしっかりおさめておれば、いかにしてこの壁を突破するかとか、いかにして乗り越えるかなどといったテクニックは全く無用であろう。無心に壁の前に立っただけで、アラビアン・ナイトの『開け、ゴマ』ではないが、壁の方から自ら門をひらいて諸君を招じ入れることであろう」(35・36ページ)

先の「現代国語の原点は『文を読む』ことの感動」とする本流の立場から、入試問題の具体的解き方を必ずしも明解に学生に直接的に教えなくてもよい合理化(「重ねて言う。この種の空欄問題に対するアドバイスを私はもたない」)に加えて、その「文を読むことの感動こそが現代国語の原点であること」を忘れず押さえてさえおけば、「いかにして大学入試問題の壁を突破し乗り越えるかなどといったテクニックは全く無用」であり、「無心に大学受験の現代国語の問題の壁の前に立っただけで何にもしなくても、アラビアン・ナイトの『開け、ゴマ』ではないが、大学の壁の方から自ら開いて受験生諸君を招じ入れてくれる」など(笑)、極めて非合理でつまらない根性主義の現代国語指導法になってしまう。特にアラビアン・ナイトの「開け、ゴマ」の魔術の呪術の奇跡頼みで、もはや現代国語の大学受験指導の教師として棟明郎は明らかに仕事放棄しているような気がする。

実際の入試問題を前にして空欄問題の記号式であれ傍線説明の記述式であれ、具体的な解き方の手順を学生は先生から教えてもらわないと「大学入学の壁が自然と開くはずもなく」受験生はなかなか希望の大学には合格できない。「アラビアン・ナイト」の変な魔術の奇跡信仰や(笑)、抽象的な読書論に逃げず、そういった読解問題の解法の具体的手順を受験生に詳しく教え伝授するのが大学受験指導の国語の先生の仕事であり、これからの若い学生に対し、やがては老いてはいくが、しかし知識と人生経験が豊富にある大人の教師がやるべきことだ。それこそが「大人の先生の責任」であると私は思う。

若い学生は、まずは希望の大学に合格し進学して、そこで自分が望む専攻の学問を本格的にやること、またその学問を本格的にやる際に学力の基本となる国語の読解力(スキル)を磨いて、専門書や学術論文を難なくスラスラ読めて文章も難なく書けて大学に入っても脱落することなく学問できる、資料を読んだりレポートを出したり卒業論文を執筆したりできる何よりもそのことのためにあらかじめ大学に入る前に個人の国語能力を見極めるための大学入試の現代国語の入学試験であるし、その読解力と記述力養成のための国語の大学受験指導であるべきだから。

棟明郎は性急すぎる。確かに「現代国語の原点は『文を読む』ことの感動」であり、目先の大学入試テストの空欄問題の解法を熱心に教えるのは何とも無味乾燥で「興ざめ」な気が私もするが、若い学生の人生は大学に進学した後も長く続くわけである。大学入学を果たしたら、そこで燃え尽きて終わるわけでは決してない。大学受験生はやがては大学合格して大学生になり、ゆくゆくは社会に出て社会人になって彼ら彼女らの学びはその後も継続して長く長く続くはずだ(おそらくは)。だったら、その後々まで続くであろう長い人生の中で当人が学びに費やす全過程の全体の人生の成長の時間を見越し前もって考えて、とりあえず10代の若い学生には「今の段階で、より適切な自身の人生の成長の身の丈にあった国語の読解指導」ということで(何しろ目先の大学入試問題の国語の詳しい解き方を教えてもらって無事に大学に合格進学しなければ学生のその後の人生も前に進まず開けないので)、大学入試問題の、例えば空欄問題に対する具体的解法のテクニックのアドバイスくらい丁寧に親切に教えてあげてもよいのではないか。

棟明郎が言うような「現代国語の原点は『文を読む』ことの感動」を理解し、自然に味わえるようになる、俗にいう「感動の味読ができるようになる」までには正直、まだ10代の若い受験生には早すぎる気がする。そういうのは受験生が無事にめでたく希望の大学に合格して進学した後、さらには大人になり社会人になって、それこそ「大人の教養」として各自が鍛練し修練を重ねて継続してやり続ければよい。なのに大学受験の勉強指導の段階で早くも「現代国語の原点は『文を読む』ことの感動だから、空欄問題に対する解法テクニックのアドバイスを私はもたない(私は学生に教えない)」で、段階の手続き踏んで地道にやらず無理やり一気に「感動の読み」の完成を求めて性急にやり過ぎる。「大学入試の受験勉強で決してすべてが終わるわけでなく、大学入学後も学生の勉強の人生が後々まで長く続いていくこと」や「今の段階で、より適切な自身の人生の成長の身の丈にあった国語の読解指導」といった若い学生に対する教育過程の長期展望を予測し繰り越んで指導していない。そういった大人の教育者が持つべき長期的展望を明らかに欠いている。棟「先生」は、責任ある大人の教育者として教師の資質に多少欠けるところがある。

大学受験指導の国語教育にかかわらず、一般に教育全般の行為は、教える大人の先生が独りよがりの教師の自己満足にならないよう自己を戒(いまし)め十分に注意し、教えられる若い人の立場に立ってその人の人生の段階を見極め便宜適切に指導し、時に当人の成長を我慢強く待たなくてはいけない。

棟明郎「思考訓練の場としての現代国語」は、大学受験生向けの目先のテストでの得点アップのための実用的な大学受験参考書では決してなく、むしろ無事に大学合格したかつての大学受験生が本物の読解力を身につけるために改めて読むとか、大人の社会人が「大人の教養」として読解の能力を磨くために新しく読むとよい書籍だと思う。特に本書の中の「小林秀雄十題」の十番勝負は、相当にゴリゴリで硬派な固い本格の内容で読む者はかなり鍛えられるはずだ。そういった意味で、冒頭で述べたように「思考訓練の場としての現代国語」は一過性の大学入試対策の受験指導にとどまらず、「現代文を読解することの本質を教える」一般の国語教育まで幅広く視野に入れた非常に優れた学術参考書であるといえる。