アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(39)堀木博禮「入門編 現代文のトレーニング」

以前に代々木ゼミナールの現代文講師であった堀木博禮(ほりき・ひろのり)が、同じく元代ゼミ同僚の英語講師、西きょうじの書店売り参考書「ポレポレ英文読解プロセス50」(1993年)に関し、「人の参考書を読み通したのは初めてだ。英語は読めなかったが、説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるようだった」と西に直接に伝え誉(ほ)めていた話を西きょうじが語っていた。西きょうじにしてみれば、「堀木先生からの、あのほめ言葉は、いまだに私の支えとなっています」ということになるらしいが、この話を聞いた時、私は「なるほど」という納得の心持ちがした。

ある人がある人を誉めるというのは、その誉める人の中に自身が常日頃から望ましいと思って「自分もこうありたい」と願っている要素を相手の内に発見するから人はその時に相手を誉めるのである。「人が自分以外の他者を誉める」というのは原理的に言えば、そういうことだ。このことを疑う人は、堀木博禮「入門編・現代文のトレーニング」(2003年)を無心に読んでみたまえ。他ならぬ堀木の「入門編・現代文のトレーニング」の参考書の中に、西の「ポレポレ英文読解プロセス50」への堀木の称賛たる「説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるようだ」という参考書執筆の理想を発見できるから。

堀木「入門編・現代文のトレーニング」が絶版品切になっておらず、現在でも書店店頭にて比較的安価な定価の新刊本で購入できるのは誠に幸運である。あの参考書はZ会出版から出ているが、どうやら堀木が以前にZ会の問題を作問していたからであるらしい。堀木博禮は当時は代ゼミに在籍し、「東大現代文」を始めとする主に難関大学の上級者レベルの現代文指導をしていたが、その他にもZ会の添削問題作成や模試の出題、旺文社「大学受験ラジオ講座」(通称「ラ講」)の講師を幅広く務め活躍していた。堀木「入門編・現代文のトレーニング」を読むと分かるが、本書は、まさに「説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるような」感触である。変に説教臭くなく説明過多でなく、安直で表面的な読解ルールや解法テクニックの連発・羅列にも走らない。大変に美しく丹念に精密に考え抜かれた良心的な現代文の大学受験参考書だ。本書に掲載の演習問題は、ほぼ堀木によるオリジナルの創作問題である。「入門編・現代文のトレーニング」に掲載の演習問題が実際の大学入試過去問ではなく、氏のオリジナルの創作問題であることに関し、堀木博禮は「はじめに」で次のように述べている。

「ほとんどの参考書・問題集は大学の入試問題を使っていますが、現代文のための学力を根本から養うためには入試問題は不適切です。目標に到達するための過程と目標そのものとを混同しては効果があがらないのです。このために本書は最後の総合問題を除いて、すべて著者の創作問題としました」

なるほど、「現代文のための学力を根本から養うためには入試問題は不適切」である。出題者の意図を加味した創作問題とその出題者の意図を踏まえた解答解説を堀木博禮は、こなれて周到にやるの好印象だ。この人は非常にオーソドックスな、ある意味、当たり前で正攻法で正統な現代文講義をやる。特異な方法論や解法のテクニック、公式ルールを連発しない所が良い。

堀木博禮は、講義の際に面白話の雑談の脱線や教壇上での突飛で派手なパフォーマンスは皆無で、独特の口調で堅実真面目に淡々と現代文講義をやっていた。そもそも「堀木の現代文」は、非常に細かなことを子細に時にクドいくらいまでに切々と口頭で説明する。板書やテキストを用いた図式解説などしない。また代ゼミでの最後の方は、高齢のため発声弱く教室の後ろまで声が通らなかったという。以上のことから聴講している学生が眠くなり、それで「堀木の子守唄」と一部の代ゼミの学生や同僚講師らから言われていたらしい。これは、あくまでも噂の話であり、事実なのか私は量(はか)りかねるが、もしそれが本当だったとして、確かに1980年から90年代に代々木ゼミナールが隆盛を極め絶好調だった時代には予備校講師のタレント化が進み、ただ講義をするだけでなく脱線の雑談を長々とやったり、教壇上でカラオケをやったりするような受験勉強を教える以外のことで受験生を笑わせたり楽しませたりするサーヴィス精神旺盛なカリスマ人気のタレント予備校講師が多くいた。特に代ゼミには、そうしたタレント講師が多数在籍していた。

また堀木の現代文は、課題文に記号を書き入れて「イイタイコト」を探したり(藤田修一)、具体例や対立にて何度も繰り返される抽象的な「作者の主張」を見極めたり(出口汪)、「論理とは分けることとつなぐこと」だから事柄を必ず二つに分けて対立展開図を順次板書していったりする(酒井敏行)ような、特異な読み方教授ではなかった。堀木の指導は「文章を読んでいって、ここで何に注目してどう思考するか」極めてオーソドックスで、ある意味、当たり前で正攻法な現代文講義であった。そういった予備校産業レジャー化と特異な読解の方法論が持てはやされる風潮の中で、真面目に熱心に大学受験指導をやっている教師が、例えば堀木博禮のような堅実で真面目な正統派の予備校の先生が、真面目さゆえに「堀木の子守唄」などと揶揄(やゆ)されるのは非常に残念だし、何よりも堀木博禮その人に対し大変に失礼であり、誠に気の毒な思いがする。

堀木の「入門編・現代文のトレーニング」は、設問形式別(段落、指示語、空欄補入、傍線部説明、内容判定、要約)の、ほぼ氏の独自のオリジナル創作問題からなるが、最後の問題だけはこれまでの設問形式別学習の成果を見極めるために実際の大学入試過去問が掲載され、力試しの総合演習となっている。その際に著者の堀木は読者に向け以下のように述べて、最後の総合問題演習に受験生を誘導するのであった。

「ここまでで現代文の主要な問題形式別の解説と問題は終わりです。次にあげるのは実際の大学入試問題を使っての総合的な学習です。また、同時に、ここまで学習してきたことで、どれくらいみなさんの実力がついたのかのテストでもあります。僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」

この文章を読んで、「学生に主に勉強を教える日常的に若い学生に接する学校の先生は性善説なのだなぁ」と、いつもしみじみと私は思う。もし私が現代文参考書を執筆するとして、もし私だったら、こうした文章は絶対に書かないし絶対に載せないだろう。「僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」など読み手の受験生に期待を持たせ、しかし、いい加減に本書を読んで最終問題の実力見極め演習にて完答から程遠く、その不本意な成績結果を他人のせいにして「著者の参考書記述の教え方が良くない」のクレームが読者から入る危険性があるからだ。また仮にクレームがなくとも、「結局は参考書を通しての著者の教え方が悪い」など、私の教師の力量が不当に軽く見積もられてしまうからだ。そうしたいい加減な読み手の学生は残念ながら少なからず必ずいる。だが、堀木博禮は参考書を読んで勉強している学生を信頼し、自身の保身を考えずに性善説の立場から「僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」などと書いてしまう。

学校の先生に対し、後に同窓会にて同席再会したり街中で偶然に久々に見かけた時、「私より先に生まれた年上の『先生』であるはずなのに、いつまでも若い。ある意味、幼い。妙に変に社会ズレしていない変わらない純真さ、人を信頼する性善説の善良さ」を人によっては感じてしまうことがある。学校の教師は明らかに私たち一般の社会人とは人間が違うと時に思える。普通の人は学校を卒業して社会に出たら多少は汚いこともやる。もちろん犯罪や不正行為はやらなくても、多少の狡猾(こうかつ)さは持つ。人間不信や性悪説に至らないまでも、他人に対して警戒するし、互いのリスクとコストを考えて自分(たち)が有利になるよう時に駆け引きもする。相手と不信や決裂に至る最悪状況も一応は想定して常に事に臨む。大人の社会人とはそういうものだ。しかし、若い学生に接する学校の先生は違う。教師が性悪説の立場で、学生を疑って信頼せず警戒して接するようでは困る。それは教育上、好ましくない。学校の教師は大人になっても、いつまでも性善説で人を信頼して理想主義的であり、私はそれが時に羨(うらや)ましく思う。堀木博禮はいかにも先生らしい先生であり、教師であるという印象を私は持つ。

実は私は、そもそも代々木ゼミナールの堀木博禮の現代文講義を実際に受講したこともないし、堀木博禮にお会いしたこともない。だがしかし、氏が執筆の大学受験参考書「入門編・現代文のトレーニング」を読んだり、氏の噂話を耳にする度になぜか堀木先生のことが気になってしまう。不思議なものである。