アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(59)牧野剛「予備校にあう」

私はたまに読んでいるのだが、「絶版」の大学受験参考書を収集して「博物館」形式で紹介するブログがある(「浪人大学付属参考書博物館」)。そのブログ主の「館長」と称する方は、絶版の大学受験参考書のことはもちろん、予備校業界や実際の入試過去問についても非常によく知っており、加えて大学受験参考書に掲載の解説方法や模範解答を時に痛烈批判してダメ出しする程の大変に優秀な方なのであるが、他方でこの人は、西洋近代を模範にしてその理念規範から日本の現状の至らなさを問題にする欠如理論たる近代主義と、そうした近代主義者や戦後民主主義の立ち位置にある左派リベラルな人達を嫌悪する心情右翼な人でもあって、ゆえに絶版参考書の批評でも左派的人物が執筆の書籍に対する評価はかなり厳しい。

特に現代文に関する限り、この人は代々木ゼミナールで堀木博禮の講義を受講していたらしく自身を「堀木門下」と任ずる人であり、「恩師」堀木への忠誠心がそうさせるのか、同じ現代文講師でも、例えば反戦平和を志向する左翼的心情の持ち主である代ゼミの酒井敏行に対してはなかなかシビアであり、さらには反権力で反国家な左派的思想の立場にある河合塾の牧野剛に対しては、もうボロクソである。例えば以下のように。

「(牧野剛が執筆の大学受験参考書に対し)共通一次第1問的中だけで20年以上業界のメシを食ってきた一発屋サヨク講師による問題集」「(牧野剛の参考書紙上での模範解答のいい加減さを堀木博禮が作成の模範解答と比較検討した後に)これこそが堀木師の真骨頂で牧野のようなハッタリ講師の及ぶべくもないところである」

これは傑作だと思う。牧野剛は「共通一次第1問的中だけで20年以上業界のメシを食ってきた一発屋サヨク講師」←(笑)。確かにそうである。河合塾の現代文講師である牧野剛は、名古屋大学文学部出身だから。近年の2000年代以降ではそうでないかもしれないが、昔の名古屋大学の文系学部は戦後民主主義の反戦平和を志向し国家権力との対決姿勢を明確に打ち出すような左派リベラルの教授陣の巣窟(そうくつ)だった。例えば、一橋大学出身の「一橋社会学派」で高島善哉の弟子であるアダム・スミス研究の経済学の水田洋や、「不戦兵士・市民の会」の市民運動に参加し、福沢諭吉研究をやった近代日本教育学の安川寿之輔らが昔の名古屋大学にはいたのだった。だから、そこの卒業生であった現代文講師の牧野剛も反権力な名古屋大学出身ゆえ相当に左派の河合塾の中では重鎮な人で、昔の河合塾は文化活動講演に学生運動シンパの吉本隆明を呼んだり、河合文化教育研究所にマルクス研究の廣松渉を招聘(しょうへい)しようとしたりしていた。

「共通一次第1問的中だけで20年以上業界のメシを食ってきた一発屋サヨク講師」という牧野剛に関する評価も、確かに牧野は1984年の大学共通一次試験・国語の現代文問題と同じ出典の文章、藤田省三「精神史的考察」(1975年)を直前の河合塾全統模試で出題し、「問題を的中させた」として一躍大学受験界の寵児(ちょうじ)となり注目されたらしいけれども、あの共通一次の第1問目の現代文評論の「的中」は、牧野剛が共通一次試験の過去の出題傾向やらを厳密に分析して予測した結果ではなくて、おそらくは藤田省三の思想や政治的立場に共鳴し単に牧野剛が「藤田省三ファン」で藤田の著作を日頃から読んでいたため直前模試で藤田の評論文から作問したら、たまたま「的中」したまぐれ当たりの幸運であったと私は思う。

事実、藤田省三という人も、名古屋大学と同様、反権力な左派的知識人の巣窟のような法政大学に長年在籍した人で、またこの人は、近代主義の立場から日本の戦後民主主義を牽引(けんいん)した左派的知識人の代表格であった政治学者の丸山眞男の弟子であり、丸山の弟子を「丸山学派」と一般的に呼ぶが、藤田省三は丸山学派の中でも最も頭のキレて師匠の丸山眞男から信頼が厚い戦後日本の左派的知識の前衛にいる「斬り込み隊長」のようなイケイケでキレキレな左派リベラルのラディカルな人であった。河合塾の牧野剛が、法政大学で丸山学派筆頭の藤田省三がお気に入りで日頃から藤田の著書を愛読していたであろうことは容易に想像がつくのである。

何度書いても面白いから繰り返し、しつこく書くのだが(笑)、「共通一次第1問的中だけで20年以上業界のメシを食ってきた一発屋サヨク講師」の牧野剛はかなりクセのある現代文の予備校講師であったけれども、この人が予備校業界に貢献した良い面も正直、私はあったと思う。牧野剛をして「共通一次第1問的中だけで20年以上業界のメシを食ってきた一発屋サヨク講師」で一刀両断に否定してしまうのは牧野剛その人に対して失礼であるし、また気の毒な思いがする。

まず牧野剛は、1980年代当時からマスメディアに多く露出し、いわゆる「予備校文化」というものを当時の社会に広く知らしめた。昔は予備校に通う大学受験浪人生は挫折で一旦落伍した学生の暗いイメージしかなかったが、この人はよくテレビに出て浪人生と予備校に関する良イメージの宣伝や幅広い生徒集めの予備校業界の市場拡大に貢献した。牧野剛は禿頭(とくとう・つまりはスキンヘッド)で見た目にインパクトがあるから映像でも目立つ。昔に牧野剛の河合塾での講義中の教室にテレビカメラが入って撮影していたが、私の記憶では牧野剛は教壇の上に正座して現代文講義をやっていたような(笑)。

またこの人は、高校や予備校が自校の進学実績の成果を誇り宣伝したいがために難関校や上位校に合格進学する生徒に主に力を入れて受験指導する進学主義や偏差値教育に対し異論を唱え、逆に勉強が苦手な生徒や高校中退の学生への大学進学を支援する、河合塾でのベーシックコースと大検コースである「コスモ」の創設を提案して実現させた人物とされる。

ところで、予備校に通う同級生ら「予備校文化」に影響されて「予備校文化」にどっぷり浸(つ)かっている人達に私が昔から感じる違和は、彼らが高校教師や高校での授業を「高校の先生は教え方が下手でクズ」などと時にあからさまに馬鹿にし出すことであった。さらには予備校内部でも受験生の予備校生が、たとえば「駿台予備学校と代々木ゼミナールと河合塾」の全国展開の昔の三大予備校の間で優劣の序列をつけたがったり、自分が選択し受講している予備校講師の熱烈「信者」になり、そうすると自然とそのライバル講師を批判してこき下ろすような強烈な「反(アンチ)」に、なぜかなってしまって、「この先生は教え方がよくてタメになるが、かたや、あの先生は教え方が下手でカス」とか、「この大学受験参考書は名著だか、他方あの参考書はゴミ」などと言ってしまうような、予備校講師ランキングとか予備校講師が出す大学受験参考書の採点評価をやり、能力によって人間を判別し暗に、また時にはあからさまに「クズ」や「カス」や「ゴミ」などと他者を馬鹿にし出す。それは、大学を入学試験の難易度によった偏差値ランキングに依拠して偏差値上位の難関校から比較的偏差値が低い大学まで上下の序列をつけて、そのランキングにて下の方に位置する大学やそこで学ぶ学生を下に見るような「予備校文化」がもたらした大きな弊害により強力に支えられたものであるともいえる。

こういうのは昨今の教育時事でいえば「能力信仰の弊害」に属する問題である。求められる能力程度によって組織(学校や企業)や職種に上下の序列をつけたり、発揮される能力の有無や優劣によって人間その人を判断したり、ましてや安易に人格否定したりしてはいけない。

高校や予備校が自校の進学実績の成果を誇り宣伝したいがために難関校や上位校に合格進学する生徒に主に力を入れて受験指導する進学主義や偏差値教育に対し異論を唱え、逆に勉強が苦手な生徒や高校中退の学生への大学進学を支援する、河合塾でのベーシックコースや大検コースである「コスモ」の創設を提案して実現させた河合塾の牧野剛には、そういった教育現場にて昔からはびこる、昨今ではさらに絶望的なまでに隆盛を極めつつある能力信仰の弊害を根本から批判する、わずかながらの可能性の光があるように思う。かつての牧野剛「予備校にあう」(1986年)ら、大学受験参考書以外の一般的な教育論の著作を読んでいると、そうした能力信仰批判のかすかな希望を牧野剛に関し私は感じる。

確かに河合塾の現代文講師の牧野剛は「共通一次第1問的中だけで20年以上業界のメシを食ってきた一発屋サヨク講師」であったかもしれないが(笑)、そのことだけで一刀両断に牧野を全否定してしまうのは、やはり牧野剛その人に対して失礼であるし、また気の毒な思いが私はする。