アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(19)小西甚一「国文法ちかみち」

ちくま学芸文庫が昔の絶版の大学受験参考書を文庫サイズで復刻・再販させる試みを一時期熱心にやっており、絶版・品切の入手困難で古書価格が異常に高騰し高額取り引きされて、昔の大学受験参考書が投機の対象になってしまう状況は正直よくないと私は思っていたので、それは大いに喜び歓迎した。

高田瑞穂「新釈・現代文」(1959年)など、ちくま学芸文庫にてめでたく復刊のおかげで比較的安価で入手でき読めて大変に有意義だった。そして、古文の小西甚一の大学受験参考書の再版もその一連の流れに当たる。すなわち、ちくま学芸文庫からの小西「古文の読解」(1962年)と「古文研究法」(1955年)と「国文法ちかみち」(1959年)の復刻・復刊である。

小西甚一は昔の参考書の書き手なので古い大学受験参考書にありがちな形式ばった堅い解説記述かと思えば、氏の著書を一読してみると案外、軽妙な話し言葉で書かれており、そこまで堅苦しい昔の古文の受験参考書といった感じがしない。非常に親しみやすい古文の先生による学術参考書の印象だ。小西甚一の人柄や実生活のあり様を私は知らないが、とりあえず古文参考書の紙の上では、この人は話し方も流暢(りゅうちょう)で、ウイットに富んでスラスラと流れるように実にスマートに喋(しゃべ)るのだ(笑)。例えば「国文法ちかみち」では学生を相手に教授する架空の問答形式をとっているが、「先の先生の説明からすると、この点はどうなりますか?」「なるほど、見所のあるなかなかよい質問だね。だったら君、さっそく次の問題をやってみたまえ」といった、やり取りの口上を挟(はさ)んでスムーズに手際よく次の問題演習につなげる。もしかしたら小西甚一は大学受験のラジオ講座担当の経験ある方なのか。とにかく古文講義の進行段取りや話し方が非常にこなれている方、といった好印象を残す。

また古典文法や古文解読の簡潔な公式ルール化を参考書紙上でよくやっており、現代風の大学受験参考書の先駆をなす。しかしながら、その一方で氏の参考書の内容は案外、本格的で難しい。紙上にて難関事項に関し散々に詳しく解説したあげく、「実はこの事柄は大学院生か専門の研究者レヴェルの高度な内容。よって諸君らが実際に試験で問われることはありません」としたオチの下げを最後に持ってくることも小西の参考書ではしばしばある。

さて、以下では近年復刻・復刊の小西甚一の一連の大学受験参考書の中で「国文法ちかみち」に話を絞って、なぜ本書が「国文法」への「ちかみち」なのかというと、

「この本では、これまでの常識とかなり違った方法がとられている。しかし、それは勉強の『方法』についてのことであり、説かれている文法そのものは、なるべく穏当な学説に従ったつもりである。ところで、その方法は、…実は、あまり楽な勉強を期待してもらうと、すこし当てがはずれるかもしれない。が、考えてもみたまえ。文法ぎらいで頭もたいして上質でないお方が、努力ぬきですらすら文法をマスターできるなんて、そんな虫のよい話があったら、それこそ大嘘にきまっている。文法ぎらいで、頭も上質でない人だって、わたくしの言うとおりに努力すれば、かならずちゃんとした成績がとれるということだけしか、わたくしは保証しない。『むだな努力をさせない』、それが結局わたくしのねらいなのであり、また『ちかみち』ということの正しい意味でもある」(文庫本、5・6ページ)

「国文法ちかみち」における「ちかみち」とは、「わたくしの言うとおりに努力すれば、かならずちゃんとした成績がとれるということ」、すなわち「むだな努力をさせない」ことである。そして、その「むだではない努力」の「ちかみち」とは具体的に言って「身体で覚えること」、まず何よりも「紙と鉛筆の用意」から始まり、実際に自分の手で書き写す作業の大切さの強調に氏においてはなる。だから「若い諸君には、身体で憶えるということが特に大切なんだ。…紙と鉛筆を用意しないなら、文法の勉強なんか、あっさりやめてしまいたまえ」(176ページ)の激しい叱咤(しった)や、「国文法ちかみち」第1部冒頭の最初から「歴史的仮名づかいのための五十音図を書け」、ただし「一分十五秒以内」、しかも「ノー・ミス」で。そして「この二つの条件がそろわないかぎり、ぜったい先をよまないこと」(25ページ)の厳しい指導となる。このような「紙と鉛筆を用意」し、必ず自分で書いて身体で確認することを必須とする小西甚一の激しい檄(げき)が「国文法ちかみち」の中では、やたら飛びまくる。確かに小西が言うように実際に自分で紙に書いてみて、身体を使い自身の五感をフルに活用し確認して覚え理解して学習することは大切だ。

ただしかし、無造作に何度も汚なく紙に書きなぐって反復で覚えようとするのはいけない。そういうのは単に手が疲れて紙とインクを無駄に消費するだけである。また逆に、きれいで丁寧なまとめノートを時間をかけて作りすぎてノート作成自体が目的となってしまってもいけない。時に苦痛を伴う肝心な覚える記憶の作業を欠落させ、受験勉強が単なる「ノート作りの図画工作の楽しみ」にズレてしまうから。きれいなサブ・ノートを苦労して時間をかけて作っても結局、何も頭に残らず何も覚えていなかったという徒労は普通によくある。

何度も無造作に汚なく書きなぐって覚えようとするのは、繰り返し書いてるうちに必ず途中で惰性になり、そこには「これだけ繰り返し書いてればいい加減、自然と覚えるだろう」といった甘い認識があるわけだ。やはり人は惰性の繰り返しの反復作業ではなく、「覚えよう」と決意して意識的に集中して物事に立ち向かわなければ覚えることはできない。人間の脳は、そのようにできている。他方、同様にきれいで丁寧なまとめノートを作成して、「これだけ時間をかけて、きれいなまとめノートを作っていればノートを書いてるうちに自然に覚えるだろう」というのは、これまた甘い目論見で、あれはただ単に「きれいなまとめノート作ってるだけ」のことでしかなく、覚える作業にはならない。意識して集中して「覚えよう」と決心して取り組まなければ人間の脳は物事を覚えることはできない。

加えて、太田あや「東大合格生のノートはかならず美しい」(2008年)というのも、あのようなものは半分はウソである。いくら美しいきれいなノートを作成しても大学側は、そんな学生側の事情など知らない(笑)。当日、試験をやって合格ラインを上回る得点をできた学生にしか東大は入学許可を出さない。大学入学後の学問においても同様で、構想メモや要点レジュメのノート作成は必要ではあるが、時間と手間をかけての「美しいノート作り」に心奪われてはいけない。「美しいノート作り」は時間がかかるし、次第にノートが完成していくにつれて目に見えて何となく成果が出ているような錯覚に陥り、逆にノートを作成している過程そのものが楽しくなって時には苦痛を伴って意識して理解し覚えるという肝心の作業を隠匿(いんとく)してしまう。図画工作的なノート作りの自己満足になるだけで、ノートに書き出してまとめることは大切であるけれど「美しいノート作り」に決して熱中してはいけない。

要は小西がいうように「若い諸君には、身体で憶えるということが特に大切」であったとしても、その際には、そうして自身で実際に書きながら分析し集中し理解して覚えるように丁寧に何度か書いて確認してみることが大切ではないか。復刻・復刊された、ちくま学芸文庫の小西甚一の一連の学術参考書の中でも「国文法ちかみち」は、特にそうした受験勉強における「実際に書いて身体で確認して覚えること」の復権を今さらながら改めて教えてくれる大学受験参考書の古典の良著だといえる。