アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(92)筑摩書房「名指導書で読む なつかしの高校国語」

近年、ちくま学芸文庫が、国語(現代文、古文、漢文、小論文)を主とした昔の絶版の大学受験参考書を文庫サイズで復刻・再販させる試みを熱心にやっており、絶版・品切の入手困難な大学受験参考書が文庫本で新刊の割合に廉価(れんか)な価格にて購読できるので、私には大変に有難かった。高田瑞穂「新釈・現代文」(1959年)、小西甚一「古文の読解」(1962年)、遠藤嘉基・渡辺実「着眼と考え方・現代文解釈の基礎」(1963年)らの復刻・復刊である。

筑摩書房「名指導書で読む・なつかしの高校国語」(1963─84年の指導書の合本。文庫本化は2011年)も、以前に出されていた書籍の文庫サイズでの復刻・再販である。本書は厳密には大学受験生が読む受験参考書ではない。「指導書」といって学ぶ側の高校生ではなく、高校現代文にて教える側の教師が授業準備をする際に事前に読んで指導教授の力点や方針の授業展開やテスト問題作成の参考にする「教師のネタ帳」「先生の虎の巻」といった内容である。ゆえに本書では高校現代文の教科書に掲載された教材(評論、随想、小説、詩歌)をそのまま全文掲載して、教材現代文の語句・要旨と解釈・作品の時代背景・作者を含む文学史らにまず触れ、その後に授業で押さえておきたい教授ポイントや新たな視点の授業展開のヒントまで親切丁寧に指し示す構成となっている。

「名指導書で読む・なつかしの高校国語」には昔の高校現代文の教科書に掲載の代表的教材がほぼ網羅である。評論・随想文では夏目漱石「現代日本の開化」、小林秀雄「無常ということ」、丸山眞男「『である』ことと『する』こと」など、小説では夏目漱石「こころ」、太宰治「富嶽百景」、中島敦「山月記」ら、詩歌では斎藤茂吉「死にたまふ母」などというように。本書は厳密には大学受験参考書ではない。この書籍を読んでも大学授業の現代文の入試問題が解け成績が上がって志望校に見事合格できるというようなことには何らならない。ただ10代の若い時分に高校生が読んでおくべき教養基礎を供する良書であるのは確かであって、私も大学進学前の高校時代からこの種の国語教科書を介して掲載の評論家や文学者たちのことは既に、それとなく知っていた。

本書に収録の国語教材は、今読み返してみても色褪(あ)せない優れた内容であると思う。夏目漱石「現代日本の開化」での外発的で強迫的な、ゆえに何ら内発的で内容実質を伴っていない近代日本の「近代」化批判、丸山眞男「『である』ことと『する』こと」での主に政治学において、さらには政治学以外の他の学問や日常にも敷衍(ふえん)しうる、無自覚で惰性なズルズルベッタリ(「であること」)を排して人間が主体的に決断し行動すること(「すること」)の大切さの確認、小林秀雄「無常ということ」でのいかにもな所詮、人間は理論の理屈で歴史や社会を説明づけて理解することは出来ず、そうした理論の理屈を排して無心に美しく生きるべきとする文芸批評にての小林による毎度の小林秀雄節の炸裂がある。

その他、小説にても中島敦「山月記」の全文掲載で高校時代に教科書で中島「山月記」を読み知って、そこから私は中島敦の他作品も後々まで繰り返し読むようになったのだし、太宰治「富嶽百景」も教科書を介して太宰の文体と人柄に触れ太宰を好きになって、今でも太宰治は愛読の作家の一人となっている。夏目漱石「こころ」は、この作品の中でも最良のクライマックスの部分を抜粋して教科書教材として掲載しており、高校現代文の指導書だけに昨今流行の漱石「こころ」に関する、人々の耳目を集めただ目立ちたいだけの荒唐無稽なトンデモ解釈(例えば「友人Kの自殺の理由は、実は先生が同性愛者で男性の友人Kに好意を寄せていて、下宿先の異性のお嬢さんと先生と同性の友人Kとの三角関係の末に思い悩んでKも先生も最期に自殺した」云々)もなく、極めて妥当で常識的な夏目漱石「こころ」の読みの解釈が本書にて展開されており、読んで私は安心するのだった。

筑摩書房「名指導書で読む・なつかしの高校国語」は必ずしも大学受験現代文の得点アップにつながるような厳密な受験参考書ではないが、若い時分に読んで高校生の思想文学への入口、また学校を卒業した社会人が後に読み返して本書タイトル通り「なつかしい」と喜んで再読したり、大人のための教養読者の学び直しとしても有益であることは確かだ。とりあえず本書を読んで私は、なぜか非常に爽快な良い気分に毎回なってしまう。

個人的な本書に関する笑いのツボは小林秀雄「無常ということ」の部分で、解説にて内容にはあまり深く突っ込まずに「本作は口ごもる文章である。短い文章だが、ひどくわかりにくい。いわゆる良文ではない。良文ではなくて名文なのだ」の旨を連発するところにある(笑)。確かに小林秀雄「無常ということ」に関しては「口ごもる文章である。短い文章だが、ひどくわかりにくい。いわゆる良文ではなくて名文なのだ」が適切な落とし所であるとは思う。

前述のように小林秀雄は説明過多を極度に嫌う人だから、小林の文筆には必ず書き手である小林自身の主張や本意があるが、それは読み手に伝わりにくい。本読みのプロである後の文芸批評家であっても小林秀雄の文筆の意図を掴(つか)みかねていたり、解釈に各人様々な捉え方の異論もある。仮に私が教壇に立って小林秀雄「無常ということ」を学生に教授するにしても、私も詳しい内容解説はせずに「口ごもる文章である。ひどくわかりにくい。いわゆる良文ではなくて名文なのだ」の文言で言葉を濁(にご)して逃げるだろう。高校生である10代の若者に対し、限られた授業の時間で小林秀雄「無常ということ」を深く掘り下げその内容をごまかしなく伝える自信も能力も、そもそも私にはないし、相当にうまくやっても「無常ということ」での小林の本意を過不足なく誤解なく明確に他人に伝えることは誰がやってもかなり困難だと思われる。そういった意味でも、小林秀雄「無常ということ」に関する本書解説での逃げ方の濁し方は絶妙であると思う。私は感心した。