アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(15)「暗黒星」

江戸川乱歩「暗黒星」(1939年)は戦前乱歩の明智探偵シリーズ、通俗長編の最後の方のものだ。話の概要は奇人資産家・伊志田鉄造の一家を襲う血の惨劇の物語であり、神出鬼没で万能な犯人に一家は、ことごとく裏をかかれて伊志田屋敷の洋館にて一人また一人と殺人の犠牲者は増えていく。遂には犯人を追う明智小五郎までが凶弾に倒れてしまう。事件の裏に秘められた一家の真実とは、といった内容である。

本作タイトル「暗黒星」は、犯人の正体に関する劇中での以下のような明智のセリフに由来している。

「どこかの天文学者が、暗黒星という天体を想像したことがある。星というものは必ず自分で発光するか、他の天体の光を反射するかして、明かるく光っているものだが、暗黒星というのは、まったく光のない星なんだ。…僕は今度の事件を考えていて、ふとその暗黒星の話を思い出した。今度の犯人は、つい眼の前にいるようで、正体が掴(つか)めない。まったく光を持たない星、いわば邪悪の星だね。だから、僕は心のうちで、この事件の犯人を、暗黒星と名づけていたのだよ」

本作は「暗黒星」たる犯人探しの「真犯人の意外性」に特化した通俗長編の探偵推理であり、確かに一読後、犯人の正体は「意外」ではある。しかし初読にて結末を知らなくても、ある程度の探偵小説の心得がある人なら読み始めて中途ですぐに犯人は分かると思う。中途で真犯人が分かってしまい、一度は犯人の凶弾に倒れ屈したものの、後に治療退院日の虚偽申告をし、相手を油断させて罠に誘い込む作中の名探偵・明智小五郎と同様、おそらくは読者も割合、早い段階で連続殺人事件の真犯人は分かってしまうのである。

というのも乱歩が本作にて、結末に読み手を驚かせようとする「犯人の意外性」に懸命になりすぎて筆を走らせるため、その過剰な「犯人の意外性」趣向から逆にすぐに犯人が分かってしまう(笑)。この辺り、探偵小説にての難しい匙(さじ)加減だ。あたかも探偵推理の古典、ポオ「盗まれた手紙」(1844年)での「相手に見つからないように懸命に隠すと逆に、すぐに見つけられてしまう。一番見つからない方法は、あえて過剰に隠さず、むしろ大胆に眼前に晒(さら)しておくことだ。隠さないことが最良の隠し方」といった隠したいものを故意に隠さないことで相手心理の盲点をつく「盲点心理」の教訓話を思い起こさせる。だから「暗黒星」において乱歩も、一生懸命に目立って「犯人の意外性」を狙い過ぎて逆に結果「犯人が意外ではなくなる」失策の墓穴なのでは、という気はする。

ただそうした犯人探しの意外性に特化した推理長編であったが、結果的に犯人は何ら「意外」でなく読者にすぐに気づかれてしまう難点はありつつも、他方で江戸川乱歩による如何にもな殺人演出、派手な舞台装置やショッキングな小道具の様々な工夫により、「暗黒星」が読んで十分に楽しめる通俗長編の娯楽作になっていることも確かだ。十六ミリ映画の試写のフィルムが突然燃え始め、大写しになった人物顔面の右の眼に黒い点が発生したかと思うと、たちまち眼全体に虚(うつ)ろな大きな穴があく、人物絵画の肖像の右の眼から真っ赤な血のような液体がタラタラと突如として流れ出すなど、手の込んだ映画的手法の視角トリックで伊志田家の人々を恐怖のどん底に陥れる犯人によるショッキングな小道具演出がある。「地底の磔刑(はりつけ)」の上に、さらに水攻めにして苦しめながらジワジワと殺す派手な舞台装置の犯人による残虐な殺人演出もある。

江戸川乱歩、いい年をした社会人の大人なのに、なかなか反社会的で非人道的なことを考える(笑)。結語にて乱歩自身が書いているように、これはまさに犯人の「邪念の結晶」のなせる技(わざ)なのか。背徳でインモラルな江戸川乱歩である。江戸川乱歩は、やはり私達を裏切らない。乱歩作品には読んで読者の期待に応える何かしらの面白い趣向が毎回ある。

江戸川乱歩 礼賛(14)「化人幻戯」

「化人幻戯(けにんげんぎ)」(1955年)は、江戸川乱歩が六十歳の還暦記念パーティー席上にて「還暦を機に若返って新作を書きます」と明かしたもので、江戸川乱歩ひさびさの本格長編である。しかも、初出連載は推理ミステリー雑誌「宝石」ということで往年の江戸川乱歩ファンには、いやがおうにも期待が高まるらしく、例えば当時の中井英夫など乱歩の「化人幻戯」連載が決まって以下のような喜びようであった。

「昭和二十九年から三十年にかけて、古くからの探偵小説ファンは、思わぬ嬉しい贈り物を受け取ることになった。江戸川乱歩が還暦を期して『化人幻戯』を『宝石』に、『影男』を『面白倶楽部』に連載し始めたからである。大乱歩の新作長編が読めるなんて、マアどんなにか倖(しあわ)せなことだったろう」

しかし当の乱歩にしてみれば、本格長編「化人幻戯」の出来には相当な不満が残ったらしく、後日、乱歩みずから「私のすべての長編と同じく、これもまた失敗作であった」と断じている。以下「化人幻戯」に関する、そうした江戸川乱歩の「自註自解」である。

「昭和二十九年は私の還暦に当たり、東京会館で盛大な祝賀会を開いてくださったのだが、その席で私は調子に乗って、…還暦を機会に若返って、来年は必ず小説を書きますと宣言したのである。その口約を守って、三十年には、この『化人幻戯』の『宝石』連載と、『影男』の『面白倶楽部』連載と…私としては相当の仕事をしたわけである。その中では『化人幻戯』は最も力を入れたはずであったが、長編構想の下手な私は、書いているうちに筋や心理の矛盾が無数に現われてきて、例によって、そのつじつまを合わせるために、毎月毎月苦労したのだが、トリックにはほとんど創意がなく、犯罪動機には新味があったけれども、万人を納得させる必然性に乏しく、私のすべての長編と同じく、これもまた失敗作であった」

さらに乱歩は続けていう。

「『化人幻戯』とは妙な題をつけたものだが、化人は女主人公の妖怪性を表わし、幻戯はその犯罪トリックの魔術性を意味したのである。例によって一人二役、変身願望を描いたもので、私の執拗な好みは六十才を越してもなおらなかったのである。それにもう一つの不可能興味『密室』まで取り入れたのが、かえってこの作の弱点になっている」

江戸川乱歩「化人幻戯」は、全体の読み味としては過去作「陰獣」(1928年)と似ている。本作は「三つの殺人と二つの殺人未遂」の事件概要であり、犯人と探偵・明智小五郎との対決である。本格推理の長編であるが、江戸川乱歩ファンなら読み始めて犯人はすぐに分かる(笑)。レンズ狂、探偵小説マニア、暗号解読、変身願望、異常性癖、密室殺人、閉所愛好、時間錯誤のアリバイ(現場不在証明)トリック、壮大推理のミスディレクションの策略ら、相変わらずいつもの乱歩節炸裂であり、やはり「陰獣」と同様「江戸川乱歩の楽屋落ち」長編という感じが私はする。

確かに乱歩自身が言うように「密室」の取り入れは唐突で取って付けた感があり、小説の本筋と密室殺人が有機的に絡(から)み合っていない。「別にここで密室殺人をわざわざやる必要はないのでは!?」と率直に思ってしまう。ただ乱歩が自認するように、犯人の「犯罪動機には新味がある」のは確かで、ラストで犯人が名探偵・明智小五郎に敗北した後でも、過去の連続殺人の罪業(ざいごう)がばれていながら何ら悪びれることなく良心の呵責(かしゃく)が一切なく、警察が逮捕に来るまでのあいだ退屈で、「こういうときの時間つぶしのためにトランプがあるといいのに。時間つぶしはトランプ遊びに限る」旨の、あっけらかんとした発言は「化人」たる犯人にとっては冷酷な連続殺人も「幻戯」の遊びでしかない、性格破綻の精神的異常さを読み手に強く感じさせて読後の印象に深く残る。あとは第一の殺人にて遠方の断崖から人を落とす犯行で、事前に「ハンカチをわざと落として」それから殺害の一部始終を双眼鏡で関係者に目撃させる、いわゆる「見せる」殺人演出の趣向は、その着想と手際(てぎわ)共に非常に優れている。

「(「化人幻戯」は)トリックにはほとんど創意がなく、犯罪動機には新味があったけれども、万人を納得させる必然性に乏しく、私のすべての長編と同じく、これもまた失敗作であった」など、乱歩もそこまで悲観し落胆することはないのではないか。江戸川乱歩「化人幻戯」は、読んでいて少なからず私は楽しめた。

本作は以前にテレビドラマ化されている。天知茂が名探偵・明智小五郎を演ずる「江戸川乱歩の美女」シリーズで、「エマニエルの美女・江戸川乱歩の『化人幻戯』」(1980年)という作品があった。あのドラマは第一の断崖での殺害トリックや犯人の殺人動機の告白が原作に忠実で、映像化された歴代乱歩作品の中でも割合よく出来ている方だと思う。

江戸川乱歩 礼賛(13)中井英夫「乱歩変幻」

江戸川乱歩研究や探偵小説評論、乱歩作品に関する書評は昔から多くあるが、なかでも私にとって印象深い乱歩についての文章は、創元推理文庫「日本探偵小説全集2・江戸川乱歩集」(1984年)巻末に書き下し解説として付された中井英夫「乱歩変幻」だ。

探偵小説の評論や書評といえば、推理ミステリー文壇の村内批評にてトリックの効果的な使い方とか伏線の張り巡らしと回収の可否を評するか、さらに探偵ミステリーの枠内を出て世代論や都市論の社会学的な文脈から解析するか、近代の視覚上位文化など心身問題の現代思想に結びつけて論ずるくらいが、せいぜいな所である。ところが、中井英夫「乱歩変幻」は、それらいずれでもなく、とりあえず中井による「乱歩愛」の一筋さと乱歩作品を愛読して学び、後に自作に繰り込んだ中井自身の探偵ミステリー嗜好(しこう)の要素のみで構成される江戸川乱歩批評なのだから誠に恐れ入る。しかも、そうした個人の極私的な「乱歩好み」の趣向を前面に押し出しても、主観的な独りよがりのイタい解説評論にはならないのが、中井の「乱歩変幻」の非常に優れた所だ。

現在の私達は没後乱歩の作品を全集などでまとめて読むが、当時リアルタイムで生前乱歩の発表作をその都度、心待ちにして楽しんで読んでいた江戸川乱歩ファンは実に羨(うらや)ましい限りだ。「昭和四年、小学一年のとき、両親の眼を盗んで家にあった雑誌の『蜘蛛男』をむさぼり読んでから茫々(ぼうぼう)五十五年の歳月が流れた。異次元界の魔王だった乱歩は、いつかはにかみやすい少年、傷つきやすい青年として私の裡(うち)に佇(たたず)んでいる」という中井英夫もそうで、彼は筋金入りの正統な愛読乱歩の人なのであった。

「『目羅博士の不思議な犯罪』、乱歩はせっかくのこの表題をこともなく、長すぎるので単に『目羅博士』と改題したといっているが、いまでも私は、『いけません。いけません。それはさかさですよ』と悲鳴に近い叫び声をあげたいほどに、この旧い題に愛着を抱いている。月の妖術、ビルの谷間の孤独を、これ以上はないほどに活写したこの短編には、長たらしくても何でも旧題の少しとぼけたような味がぜひとも必要なのだ。乱歩だってそんなことは百も承知だっただろうに、何とか同士を募(つの)って、これを元の題に戻す運動を起こしたいものだ」

「『影男』にしても、地下の王国は『パノラマ島奇談』の蒸し返しで、またかという思いをさせられたが、反地上・反現実への執念はみごとという他はなく、この胎児の見続けた長い悪夢こそ探偵小説の魅力そのものだった。いまのミステリーから失われてしまったのは、何よりこうした作者の深い怯(おび)えであり夢想であり、それを支えるに足るだけの文章力であろう。読者もまたいまはもう少し美食家(グルメ)であってもいいし、雑なインスタント食品を追放する権利だってある。こうまで粗末な加工品が氾濫するに到ったからには」

先の「目羅博士」(1931年)については、中井の念願が叶って近年の江戸川乱歩全集では「目羅博士の不思議な犯罪」の旧題にめでたく戻っている。私も「目羅博士」のタイトルに関しては中井に完全同意だ。「月光の妖術、ビルの谷間の孤独を、これ以上はないほどに活写した」という作品内容の評価に加えて、タイトル設定まで「目羅博士の不思議な犯罪」には中井英夫に完全同意なのだ。何よりも「いけません。いけません。それはさかさですよ」というような乱歩に対する中井の親密な語りが、筋金入りな乱歩作品の愛読者たる中井英夫の器量を読み手に感じさせて笑いを誘う。

続く「影男」(1955年)に関する中井の記述も全くその通りで「いまのミステリーから失われてしまった」もの、「作者の深い怯えであり夢想」云々も探偵推理ミステリー文壇にて「こうした粗末な加工品が氾濫する」現状に対する「雑なインスタント食品を追放する権利」「読者もまたいまはもう少し美食家(グルメ)であってもいい」云々も、昨今の国内ミステリーの状況を見るにつけ、中井が巻末解説執筆の1980年代のみならず、今の2000年以降の時代でも「そうだな」と私は思う。当の中井英夫を始め、江戸川乱歩や夢野久作や小栗虫太郎らに後続する独自の世界観を持つスケールの大きな書き手が、探偵ミステリーにおいて現在はいなくなった。非常に残念だ。国内ミステリーでは中井英夫以降は、かろうじて笠井潔まで。笠井潔以後、私の中では新作を待って毎回楽しみに読む国内ミステリーの現役作家はいなくなってしまった。

中井英夫「乱歩変幻」には、以上のような中井自身による「乱歩愛」の一筋さに加えて、乱歩作品を愛読して学び、後に自作に繰り込んだ中井自身の探偵ミステリー嗜好の要素も見事にその評論の中にちりばめられてあるのであった。

「乱歩の裡(うち)なる少年。それは再々くり返すように羞(は)じらいと自己嫌悪に傷つき、はにかみと孤独を養う他になすすべはなかった。この世ならぬ美への激しい憧れ。だがそれを現実に求める手段はどこにもないのだ。このたぐい稀れな夢想家は、…ポオや谷崎潤一郎とともに『夜の夢こそまこと』と呟(つぶや)くしかなかった寂しさは、おそらく骨を噛(か)むほどのものであったろう」

もう、これは中井英夫の小説そのものではないか(笑)。「(反地上・反現実への執念たる)この世ならぬ美への激しい憧れ」は「虚無への供物」(1964年)に、「羞じらいと自己嫌悪(ゆえの変身願望)」なら「黒鳥譚」(1975年)を始めとするその他、中井の著作に求めて確認すればよい。中井英夫の反地上の幻想ミステリーは明らかに「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」の乱歩の夢想世界に端を発していた。

思えば、中井英夫は江戸川乱歩が好きで、その乱歩好きが高じて「虚無への供物」という「乱歩愛」一筋の乱歩に捧げた長編密室物を本気を出して書いて、しかしあまりにも本気を出しすぎて(笑)、この現実の世を徹底的に相対化する天上界のアンチ・ミステリーとなり、「虚無への供物」が本家・江戸川乱歩の書く探偵小説を軽々と凌駕(りょうが)してしまって結果、審査委員長の当の乱歩が意味が分からず見事、中井の「虚無への供物」は江戸川乱歩賞を落選し、結局は中井と乱歩との相思相愛ならずという悲劇な笑い話を戦後の探偵推理ミステリー文壇にて作った誠に偉大な作家であった。そんな中井英夫の文学創作に対する厳しい言葉は、「小説は天帝に捧げる果物。一行たりとも腐っていてはならない」であったのだ。

江戸川乱歩 礼賛(12)「屋根裏の散歩者」

江戸川乱歩の短編と長編を含めた全時代(オールタイム)ベストを選ぶとすれば、おそらく世人の一致するところで初期短編の「屋根裏の散歩者」(1925年)は必ず上位に位置するに違いない。少なくとも私の場合、乱歩のオールタイムベストとして「屋根裏の散歩者」は三本の指には確実に入る。それほど魅力的な作品だ。話の概要は、およそ以下である。

「郷田三郎は学校を出ても定職に就かず、親の仕送りを受けて暮らしている。酒、女をはじめあらゆる遊戯に興味を持てず、この世が面白くなく退屈な日々を送り、下宿を転々としていた。ここで郷田は友人の紹介で素人探偵の明智小五郎と知り合い、『犯罪』に興味を持つようになる。浅草公園で、戯(たわむ)れに壁に白墨で矢印を描き込んだり、意味もなく尾行してみたり、暗号文をベンチに置いてみたり、また労働者や乞食、学生に変装してみたりしたが、ことさら女装が気に入って、女の姿できわどい悪戯(いたずら)をするなど、『犯罪の真似事』を楽しみ始めた。 郷田は新築の東栄館に引っ越した。明智と知り合ってから1年以上が過ぎ、郷田は再び空虚な時間を持て余していた。ある時、郷田は偶然に押し入れの天井板が外れ、屋根裏に通じていることに気付く。その日から、郷田の『屋根裏の散歩』が始まった。屋根裏は各部屋の仕切りがなく、節穴(ふしあな)から同宿人たちの私生活が筒抜けだった。郷田は他人の秘密の盗み見に、すっかり夢中になってしまう。そうして、郷田は虫の好かない歯科医助手の遠藤が口を開けて眠っているのを屋根裏の真上から見ているうちに、節穴から毒薬を垂らして遠藤を殺害する完全犯罪を思いつくのだが…」

江戸川乱歩の作品は、実はよく翻訳され海外で紹介されていて、それなりの世界的な乱歩評価もあり乱歩ファンは外国にも昔からいるらしいが、誠に残念なことに「屋根裏の散歩者」は翻訳されずに海外流通していないか、後に翻訳されても国内人気であるほどには、そこまでかの外国では人気作ではないらしい。それは生前の江戸川乱歩いわく、「(『屋根裏の散歩』は)私の代表作の短篇集には、いつも入れられている。しかし、英訳短編集にははいっていない。西洋人には天井裏というものがわからないだろうと思ったからである」。なるほど、海外の家屋敷には日本家屋のような屋根裏がそもそもないため、「夜な夜な人知れず屋根裏を徘徊し散歩する」の物語設定を活(い)かせないのであった。

加えて、本作には、執筆当時の日本の近代化や都市化に伴い、賃金労働者や遊学で地方から様々な人が都市に流れてくる世相を見事に押さえている。働かなくても生活できる「高等遊民」という人達も出てくる。特に高等遊民は仕事をしなくても生活にゆとり(お金)があって基本ヒマだから、なかには馬鹿なこと考えて実行する人も出てくる。例えば夜毎の人知れずな「屋根裏の散歩」など(笑)。江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」は、モラトリアムな高等遊民の与太郎の与太話的な「奇妙な味」も読んで読後に残る絶妙さだ。

「屋根裏の散歩者」は倒叙形式の探偵小説である。犯人たる郷田三郎の「完全犯罪」の行動を最初から時系列で読者に読ませて、ラストで「完全犯罪」なはずだったのに、なぜ犯行は露見し探偵の明智小五郎に見破られてしまったのかを楽しむ倒叙記述の探偵小説だ。昔で言えばテレビ映画「刑事コロンボ」のような話運びの展開である。

「屋根裏の散歩者」は、その倒叙記述の際の自殺に見せかけたが他殺の殺人であった犯罪露見の契機たる「目覚まし時計」と、郷田三郎が他ならぬ犯人である証拠の「煙草の習慣」の二つの小道具の使い方が優れている。特に後者の「煙草の習慣」云々は、間接的な心理的抑圧から類推され結果、証明されるものであり、思えば江戸川乱歩という人は探偵推理に心理的要素を取り込むのが異常に上手な人であった。「屋根裏の散歩者」と同じく私立探偵・明智小五郎が活躍する、乱歩の「心理試験」(1925年)も心理物探偵小説の傑作として私は感嘆する他ない。当時の同時代の探偵推理の中で「心理試験」は明らかに頭一つ抜けて傑作であるし、今読んでも確実に面白い。乱歩の「屋根裏の散歩者」と「心理試験」は、これからも傑作として後々まで「江戸川乱歩」の名と共に長く歴史に残り、末長く読まれ続けるのではないか。

「屋根裏の散歩者」は映画やテレビドラマにて多く映像化されている。私は監督が実相寺昭雄、出演が三上博史と嶋田久作の映画版「屋根裏の散歩者」(1994年)が昔から気に入っている。本作には、江戸川乱歩の妖(あや)しい世界観を見事に映像化できていると以前、鑑賞時に実に感心させられた思い出がある。

江戸川乱歩 礼賛(11)「D坂の殺人事件」

江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」(1925年)が昔から好きだ。本作は本格の短編であり、「日本の開放的な家屋では密室事件は成立しない」という従来の声に対抗して乱歩が書いた日本家屋を舞台にした密室殺人である。密室の他にも格子越しに二様に見える浴衣柄の錯覚や殺人動機の異常さなど、短編ながら様々な要素を盛り込んでいる。

乱歩の「D坂の殺人事件」は名探偵・明智小五郎の初登場の作品でもある。「D坂の殺人事件」に関し、主人公の「私」による一見理にかなった、しかし表層的で即物的な物質主義的推理にて「明智が犯人」と推定するも、当の明智に一笑され、逆に明智による人間の内奥にまで迫った心理主義的推理に見事に論破されて、事件は犯人逮捕の解決に至る。こうした作品全体を貫く推理合戦のプロットも、最後に溜飲(りゅういん)が下がり、非常に良い読後感を残す。

しかしながら、私が乱歩の「D坂の殺人事件」を昔から好きなのは、本筋の本格探偵推理以外での「私」の日常の無為な生活ぶりや明智の部屋の描写記述ら、本作にての登場人物たちの高等遊民の生きざまに密(ひそ)かに心惹(ひ)かれていたからであった。私が「D坂の殺人事件」を初めて読んだのは10代の学生時代であったが、10代の学生の時分には私は将来、責任ある社会人になりたくなかった。そのものズバリ「高等遊民」になりたかったのである(笑)。働かず一生無為に暮らす高等遊民に憧れていた。ゆえに江戸川乱歩の幻想的与太話の小説主人公らに憧れていた。「D坂の殺人事件」の主人公の「私」は言わずもがな、「屋根裏の散歩者」(1925年)の郷田三郎や「パノラマ島奇談」(1927年)の人見広介ら高等遊民の話が好きだったのだ。

「D坂の殺人事件」の書き出しはこうである。

「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中程にある、白梅軒という、行きつけのカフェで、冷しコーヒーを啜(すす)っていた。当時私は、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽ると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェ廻りをやる位が、毎日の日課だった。…私という男は悪い癖で、カフェに入るとどうも長尻(ながっちり)になる。それも、元来食慾の少い方なので、一つは嚢中(のうちゅう)の乏しいせいもあってだが、洋食一皿注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もお代わりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段、ウエトレスに思召(おぼしめし)があったり、からかったりする訳ではない。まあ、下宿より何となく派手で、居心地がいいのだろう。私はその晩も、例によって、一杯の冷しコーヒーを十分もかかって飲みながら、いつもの往来に面したテーブルに陣取って、ボンヤリ窓の外を眺めていた」

働かずに毎日を無為に過ごす。社会の役にも立たなければ、何らの責任も果たさない「私」の高級華麗な(?)日常生活がうかがい知れる高等遊民の魅力を詰め込んだ、いかにもな書き出しである。私も10代20代の学生の頃は、あまり友人らと交際せず、独り映画館にフラりと入ったり、レコード店に通って音楽を一日中聴いたり、頻繁に書店に立ち寄った後に喫茶店で独り長時間、読書をしたりしたものだ。まさに「D坂の殺人事件」冒頭、高等遊民の主人公の「私」のように。

ところで私の学生時代、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」を初読した1990年代に、ちょうど宮崎勤元死刑囚による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988年)の一連報道があった。当時、宮崎元死刑囚の自室にマスコミのカメラが入り、部屋いっぱいに渦高く積まれた暴力物やホラーやアニメやボルノの雑誌、漫画書籍、ビデオテープの山に世間一般の人々は衝撃を受けたのだった。暴力的で性的で猟奇的なホラー映画や漫画アニメや児童ボルノを収集する、いわゆる「オタク」の嗜好気質を持った人達に対し社会全体が少なからずの嫌悪と警戒を持った。その時、ある評論家が宮崎元死刑囚の雑誌書籍やビデオテープにあふれた異様な部屋の様子を、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」にて初登場した名探偵・明智小五郎の自室描写に重ね合わせ、現代人のマニア気質、物への執着、収集癖のフェティシズムを論じていた。その際の「現代状況に重ね会わせて江戸川乱歩を新たに読み直す」評論の手際(てぎわ)の鮮(あざ)やかさが、私には強く印象に残って忘れられない。

以下は「D坂の殺人事件」における、まるで宮崎元死刑囚の部屋のような(?)、書籍の山に囲まれた「犯罪と探偵のマニア」明智小五郎の部屋の様子である。

「彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッと魂消(たまげ)てしまった。部屋の様子が余りにも異様だったからだ。明智が変り者だということを知らぬではなかったけれど、これは又変わり過ぎていた。何のことはない。四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。真中の所に少し畳が見える丈けで、あとは本の山だ、四方の壁や襖(ふすま)に沿って、下の方は殆(ほとん)ど部屋一杯に、上の方程幅が狭くなって、天井の近くまで、四方から書物の土手が迫っているのだ。外の道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われる程だ。第一、主客二人の坐る所もない、うっかり身動きし様ものなら、忽(たちま)ち本の土手くずれで、圧(お)しつぶされて了(しま)うかも知れない」

当時、宮崎元死刑囚の逮捕直後の1990年代初め、まだ「ひきこもり」の現象は広く共有されておらず、そこまで社会問題化していなかった。江戸川乱歩のある種の作品には収集癖のモノマニアのフェティシズムや盗撮や覗きのストーカー気質、厭人癖(えんじんへき)で人嫌いのコミニュケーション不全、同性愛趣味やサド・マゾ嗜好などがあり、背徳で不健全で不道徳ではあるが、時に乱歩作品を甘美で幻想的で魅力的なものにしている。それら背徳で不健全で不道徳であるがゆえに、人々が江戸川乱歩の作品世界に熱中し次々と読み進めてしまう面があることも確かだ。

江戸川乱歩 礼賛(10)「何者」

江戸川乱歩の全短編の中で私は「何者」(1929年)という本格の作品が特に好きだ。「何者」は、乱歩の全作品の中で個人的ベスト3以内に入るほどの出来栄えであり、本当に素晴らしい隙(すき)のない清々(すがすが)しい本格推理だと思う。

(以下、犯人の正体まで詳しく触れた「ネタばれ」です。乱歩「火縄銃」とポースト「ズームドルフ事件」のトリックにも触れています。乱歩の「何者」「火縄銃」とポーストの「ズームドルフ事件」を未読の方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

江戸川乱歩「何者」は、とにかく素晴らしい。話に無駄がなく、すべての記述要素が伏線であり、伏線であるがゆえに当然、最後に悉(ことごと)く全部が回収され、まとまって完結するので読後の充実の爽快感が大変よい。早速の「ネタばれ」で申し訳ないが、話は犯人が、ある人物を陥れるために自作自演の強盗傷害事件をやり、その事件の被害者、そして自作自演なため当然、犯人の加害者(強盗傷害の自作演出で、わざと自分で自身の足を拳銃で撃って強盗に襲われたように装う)、さらには推理して事件「解決」に乗り出す探偵役まで自分でやる(この探偵役を通して誤誘導をやり、自分が陥れたかった人物を事件の犯人に仕立て上げる、本当は自作自演な狂言の強盗傷害事件にもかかわらず)。つまりは、一人の人物が事件の被害者であり、同時に加害者の犯人でもあり、はたまた「解決」の探偵役もやる「一人三役」の話なわけである。その被害者かつ加害者かつ探偵の狡猾人物による、他人への犯人仕立ての犯罪なすりつけの罠の野望を最後に正統な探偵たる明智小五郎が見事、打ち破る。ついで犯人が犯行に及ぶ二つの動機の説得力ある見事さ、ラストでの犯行の全貌が明智により明らかにされ関係者一同にバレて結果、犯人が失ったものの大きさの虚脱感、実によく出来ている。

ただ、後日の乱歩による自作解説や彼のエッセイを読むと、「何者」は発表当時は、あまり評判がよくない。乱歩のエッセイ類を読んでいて私が非常に気になるのは、彼が謎解きの本格推理を書いても当時の世間の反応はイマイチか、もしくは反応なしの黙殺。その代わりに怪奇・幻想ものや「奇妙な味」に属する厳密な本格ではないもの、はたまた猟奇テーマな「エロ・グロ・ナンセンス」の作品は読者からの反応評判よく、ゆえに編集者からもガチガチの硬派で緻密な理屈っぽい本格推理よりは、題材の異様さや作品全体の雰囲気で引き込んで取りあえずは読ませる怪奇のホラーやエロ・グロ・ナンセンスの作風注文が乱歩の所に多く来る。本格は時に露骨に避けられている、ということだ。

傑作短編の「何者」を読めば分かるように、江戸川乱歩は普通に軽々と本格も立派に書ける人である。海外の探偵小説やミステリーを収集し多く読んで、常日頃から本格トリックの研究研鑽(けんさん)を重ねている人だし。

例えば、本格推理の密室殺人トリックの古典にポーストの「ズームドルフ事件」(1914年)というのがある。密室で起こるライフル銃撃の完全犯罪。しかし何のことはない、密室なのに銃撃殺人できるのは、窓辺に置いた水瓶に窓ガラスの光が焦点で集まり、それが火縄式のライフル銃に増幅して集中的に当たり自然点火してライフル銃が密室の中で発射という「太陽と水瓶の殺人」とされる科学現象による合理的な密室トリックだ。これと同じトリックを使った密室殺人、後にリュパン・シリーズのルブランも「水壜」(1922年)という短編を書いている。

ところが、江戸川乱歩の初期短編にも「火縄銃」(1932年)というのがあって、「著者による作品解説」での乱歩自身の口上によれば、「私は、ポーストよりも早くに太陽光の焦点自然発火によるライフル銃撃の密室トリックを思い付いて、『火縄銃』という短編を学生時代の1913年の時点ですでに構想しノートの余白に書いてた。私の方が、ポーストよりも先んじていた。私の『火縄銃』の方が早い」というのだから、誠に恐れ入る。だから、江戸川乱歩は才能があって本格も立派に書ける。だが現在と違って昔は日本の社会一般や世間の読者層全般に、まだ本格を好んで愛読する探偵推理の素地がないため、乱歩もその煽(あお)りの影響を受けて謎解き本格ではない恐怖・スリラーや、ともすれば大して中身はないのに題材や書き方が猟奇で扇情的なだけのエロ・グロ・ナンセンスの安易な作品提供の書き手に社会からの要請でなってしまう。

探偵小説家としての本領たる本格での活躍の場に作家デビューの初期からあまり恵まれず、本当は正統な本格推理も書けるはずなのに「江戸川乱歩、非常に気の毒だ」。そういった思いを乱歩の作品の中では比較的珍しい、破綻のない傑作な本格推理短編「何者」を読むたび、いつも私の中では拭(ぬぐ)えない。

江戸川乱歩 礼賛(9)光文社文庫「江戸川乱歩全集」

江戸川乱歩に関し、皆さんは小学生の頃にポプラ社の「少年探偵団」シリーズでジュヴナイル(少年少女向け読み物)の乱歩に親しみ、それからしばらく空白があり、大人になって再び江戸川乱歩を読み返して再評価する「乱歩返り」(?)のパターンが、おそらく多いかと思うが、私の場合は違った。小学生の時に江戸川乱歩の本を読んだことが一度もなく、何しろ子どもの頃には全般に本を読んだ経験がない、読書習慣が皆無な小学生だったので中学生も同様で、やっと高校生になって人並みに読書するようになって初めて乱歩の探偵小説を読み度肝を抜かれた。江戸川乱歩の面白さに驚いた。

ちょうどその頃、「筋肉少女隊」の大槻ケンヂが、サブカルチャー雑誌「宝島」や深夜ラジオ「オールナイト・ニッポン」で「江戸川乱歩は面白い」と杉作J太郎らと異常に盛り上がっていた時期があった。もちろん、本格推理の探偵小説としてよく出来ていて普通に読んで「乱歩は面白い」というのもあるし、他方で特に長編乱歩での辻褄が合わなくて、かなりの確率で毎回話が破綻する、毎度ながらの乱歩のグタグタで駄目なツッコミ所満載の無理ある小説展開の筆さばきに「乱歩は面白い」と江戸川乱歩をネタにして笑い飛ばす所もあって。

それでオーケンたちが盛り上がって「乱歩は面白い」とか言うから、「だったら江戸川乱歩、私も読んでみようかな」と思って書店に乱歩の本を探しに行くわけだ。なぜか今でも鮮明に覚えてるのだが、それが1992年の春だった。「江戸川乱歩は世間に名の知れた有名作家だから普通にたくさん乱歩の書籍は新刊であるだろう」と思って書店に行ったら専門書も多く扱っている大フロアの大型店舗の書店なのに、これが江戸川乱歩の本があまりない。あって数冊、92年春の時点で絶版・品切になっていない入手可能な江戸川乱歩の書籍といえば、新潮文庫「江戸川乱歩傑作選」(1960年)と創元推理文庫「日本探偵小説全集2・江戸川乱歩集」(1984年)の巻と、あと創元推理文庫から単発で「孤島の鬼」(1987年)が出ていたくらい。「江戸川乱歩は探偵小説ジャンルにて有名作家なはずなのに新刊本が出てないし、在庫本も少ないのか」。相当に意外で肩透かしを食らった思い出がある。

そういった1990年代初めの状況と比べれば、中途で世間の「江戸川乱歩ブーム」を何度か経て現在では乱歩の作品は新刊本でたくさん出ているし、書店購入して即で気軽に江戸川乱歩を楽しめる「乱歩読書環境」は非常に充実して明らかに整っている。驚くべき進歩だ。

やはり、近年の光文社文庫「江戸川乱歩全集」全三十巻(2003─16年)の完結が大きかったと思う。あれが乱歩を読む人にとっての定番の決定打となった。光文社の文庫全集は重厚でよい。また推理創元文庫の「現代日本推理小説叢書」(1987─2002年)の乱歩シリーズも、雑誌初出時の扉絵や挿し絵の再現掲載があって外せない。その他、注目すべきは、ちくま文庫「江戸川乱歩全短篇」全三巻(1998年)だ。長編の長期連載だと、あらかじめ結末やの犯人やトリックを考えずに見切り発車の行き当たりばったりで書くため辻褄が合わなくてなってよく話が破綻する江戸川乱歩が嫌な人には、「比較的破綻の失敗作が少ない乱歩の短編だけを最初から狙って読む」という工夫の趣旨にかなって大変にお薦めである。

江戸川乱歩 礼賛(8)「湖畔亭事件」

江戸川乱歩「湖畔亭事件」(1926年)の概要は、およそ次の通りだ。

「湖畔の宿で無聊(ぶりょう)にかこつ私は、浴室に覗き眼鏡を仕掛け陰鬱(いんうつ)な楽しみに耽っていた。或る日レンズ越しに目撃したのは、ギラリと光る短刀、甲に黒筋のある手、背中から赤いものを流してくずれおれる女。夢か現(うつつ)か。たまりかねて同宿の画家にうちあけるが…。警察も匙(さじ)を投げた世にも不思議な『湖畔の怪事件』。五年間の沈黙を破って、湖水の底に葬られた真相を吐露する手記」

江戸川乱歩という人は事前の綿密な構想なく、見切り発車の行き当たりばったりで長編連載を適当に書き継ぐため、執筆される小説はだいたいいい加減なのに(笑)、「年譜」の自身の生涯の記録整理や「自註自解」の過去作品の回想解説は案外、細かく丁寧に律儀(りちぎ)にやっており、後に江戸川乱歩研究をやったり乱歩作品を読む読者にとって参考になり、大変ありがたく非常に重宝する。以下は、そうした乱歩による「湖畔亭事件」についての「自註自解」である。

「大正十五年一月から三月まで『サンデー毎日』に連載したもの。中途で筋に行きつまり、たびたび休載して、当時の編集長・渡辺均さんに大へん迷惑をかけたが、同時に書いていた『苦楽』の『闇に蠢く』は、とうとう中絶してしまった(あとで本にするときに結末をつけた)のに比べて、これはともかくも完結した。しかし、予定よりずっと早く打ち切ったのである。これも『一寸法師』同様、非常に恥ずかしく思っていたのだが、案外評判は悪くなかったようである」

さらに以下は、創元推理文庫「湖畔亭事件」(1995年)に所収の橋本直樹による巻末解説にての「湖畔亭事件」評である。乱歩のことを、わざわざ「乱歩さん」と「さん」付け敬称の表記にしている所に親しみと好感が持てる。

「特に後期の通俗長編執筆時は、同時に何本もの連載を掛け持ちで行なっていた乱歩さんにとっては、さしたる全体のビジョンもなく、出だしのイメージだけで見きり発車的に取り掛かった作品も少なくはなかった。というよりそれがほとんどだったようだ。だからこそ、乱歩さんの連載通俗長編は、常に先のストーリー展開が予想がつかないという危うさと刺激に満ち溢れ、異様な輝きを放っていたといえる。しかし、時にはその危うさが災いして、結果として昭和八年の『悪霊』のように失速して二度と浮かび上がってはこられなかったものすらあるのだけれど」

「この作品(註─「湖畔亭事件」)は、連載にあたり苦慮していた乱歩さんに、夫人がそのプロットなど多大なる助言をした作品としても知られている。連載が終盤を迎え、事件の真相がいざ明らかとなる段になって、乱歩さんは連載を何度か休んでおり、事前に真相の準備がなかったことが窺(うかが)われるが、たたみかけるような解決もテンポよく、持ち味である覗きという異常心理と謎解きが見事に融合した快作である」

なるほど、浴室での覗き眼鏡ごしに短刀による女性刺殺の目撃という事件発覚の「意外な発端」、浴室にべっとり残された血痕(けっこん)、人間一人くらいは入る大きなトランクをもった怪しげな「湖畔亭」宿泊客、犯人の手の甲にある黒い傷痕、宿屋の主人の盗まれた財布、贋作紙幣(がんさくしへい)、注射器によって恋人の血を取って自分の血にまぜ合わせる趣向、死体消失(焼失?)の方法、トランクの獣皮を焼く匂いが人間の焼ける火葬場の匂いなどなど。事前に何ら深く考えることなく、自在に書き散らした数多くの「伏線らしきもの」を連載執筆の同時進行でボロが出ないよう場当たり的にギリギリの綱渡りで何とかまとめ、全ての辻褄(つじつま)を合わせなければならないラストの結末のリミットまでに伏線回収で、それらを拾いに拾いまくって致命的破綻なく奇跡的に書き抜いて見事、話が完結している。まさに「湖畔亭事件」は乱歩によるミラクル、江戸川乱歩、奇跡の作品だ(笑)。

加えて「つまりこの事件には犯罪というほどのものは一つもなく、××のヒステリーと僕の気まぐれから出発して、幾つもの偶然が重なり合い、非常に血なまぐさい大犯罪らしいものができあがってしまったのです」の本作中にての手記での語り(「ネタばれ」を避けるため、一部あえて伏せ字にして引用しています)。手記の語り手たる私が述べる「湖畔亭事件の表面上の物語」の結末と、さらに最後に続けられる後々の打ち明け話。一筋縄では行かない、なかなかスッキリと常識的には話を終わらせない二重底カラクリの重層な思わせ振りな語りである。

何よりも探偵に相当する登場人物が主人公の私と同じく「湖畔亭」に投宿し、「実に偶然に」事件に遭遇して私と一緒に素人探偵捜査に乗り出す画家の男「河野」なる人物のみで、なぜ名探偵の明智小五郎が出てこないのか、私は「湖畔亭事件」を初読の際、終盤まで読み進めていっても探偵の明智君がいっこうに登場する気配がないし、同宿の「探偵もどき」をやる画家の河野が「実は自分は探偵の明智小五郎で」と自ら打ち明け正体をばらす様子もないので、「非常に不思議だ」と警戒しなが読み進めていた。結局のところ、「湖畔亭事件」では最初から最後まで探偵の明智小五郎は出てこない。それが、この小説の構成柱の大きなポイントかと。

最後に一つだけ、「湖畔亭事件」ラストにおける「重大な疑義」を。「三造の死は本当に事故死なの!?もしかしたら××が…」。とりあえず、この探偵小説の題名は、あくまで「湖畔亭事件」であって、決して「湖畔亭殺人事件」ではないのである。そういった何だか微妙にボカした思わせ振りなタイトルも読後には非常に味わい深く、この作品の魅力の一つになっている。

江戸川乱歩 礼賛(7)「盲獣」

江戸川乱歩「盲獣」(1932年)に関して、私は昔から「非常にもったいない、惜(お)しい、残念だ」という思いが拭(ぬぐ)えない。乱歩の「盲獣」は「エロ・グロ・ナンセンス」の猟奇のその手の作品として、かなりの着想アイデアと筋書きで申し分がない。ただ江戸川乱歩の「独自の文体確立のなさ」が明らかにマイナスで非常に惜しい、もったいない。小説の中身は抜群なのに、その内容を文字に吐き出して具現化する際の乱歩の筆力のなさが「盲獣」という作品を案外、平板なものな着地させてしまってる。私はそういった感想だ。

乱歩の「盲獣」は接触・接感愛好から触覚芸術論、四肢切断で都内にバラバラの肉片ばらまき、湯殿での罠、そして最後の「鎌倉ハム」のブラックなオチまで(笑)、本当に最高なのだけれど、とりあえず着想のアイデアは。乱歩グロテスクだ、乱歩変態だ、乱歩もっとやれ!しかし、江戸川乱歩の常日頃からの文体が平凡で平易すぎて、「盲獣」には今一つ読み手を圧倒する迫力や鬼気迫る背徳の悪の力がない。

江戸川乱歩の弱点の一つに、小説の内容はいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」で抜群なのに意外に常識的で平板・凡庸な彼の文体というものがある。乱歩は本当に分かりやすく平易で誰もが読みやすい、驚くほど常識的な文章を書く。例えば、相当に読みにくい悪文を書く悪筆な「黒死館殺人事件」(1934年)の小栗虫太郎。日記や新聞記事や学術論文からの引用形式記述が多彩な「ドグラ・マグラ」(1935年)の夢野久作。薔薇や宝石についての衒学(げんがく)的固い文章を連発させて天上界のアンチ・ミステリーになる「虚無への供物」(1964年)の中井英夫。どこかユーモラスで、どんどんたたみかけて躍動感をだす講談調「魔都」(1938年)の久生十蘭ら、幻想文学カルト推理の傑作を連発している、その手の人達と明らかに違って江戸川乱歩は文体の力不足である。

江戸川乱歩も「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」と言って、そこそこカルト文学や幻想文学の要素はあるはずなのに、文体のせいでいつも常識的な大衆娯楽の読み物に踏み止まる。その手の文学がもつ深遠の奥深さ、ドロドロで背徳で非常識で非道徳のヤバさが江戸川乱歩にはない。

だが、世の中は「自分に合った土壌で、それぞれに自分の花を咲かせろ」の適材適所だ。江戸川乱歩は自身の平板でわかりやすい文体ゆえ、後に彼はジュヴナイル(少年少女向け読み物)で大成功を収める。ポプラ社から数多く出ていた乱歩の「少年探偵団」シリーズは少年少女に向けた大変に読みやすい面白い読み物だ。元々ジュヴナイル専門の作家ではないのに、一般向けの書き手でデビューして後にジュヴナイルもやって乱歩ほど成功した人はいない。やはり江戸川乱歩はスゴいのだ。

乱歩の「盲獣」を読むなら創元推理文庫から出ている「盲獣」(1996年)が、竹中英太郎のカラー・イラストや初出雑誌掲載時の扉絵や挿し絵があってお薦めである。映像化された「盲獣」なら、緑魔子と船越英二が主演のATG映画(1969年)は一度見ると強烈に印象に残って忘れられない。

江戸川乱歩 礼賛(6)「陰獣」

江戸川乱歩は、昭和の始めに明智小五郎の長編物「一寸法師」(1927年)を「朝日新聞」に連載して、あまりの出来の悪さに自己嫌悪に陥り「一寸法師」連載終了後に失意の放浪の旅に出て、しばらく休筆で筆を折る。江戸川乱歩という人は探偵小説家として案外いい加減な人で、連載長編にてあらかじめ話の結末の種明かしのトリックや犯人を考えずに、そのまま書き出す。行き当たりばったりで場当たり的に書くから長編の話が途中で破綻して連載が続かなくなる。

これは乱歩自身が「特に長編に関し、私は前もって話の筋や結末を考えずに書き出すので、連載で書き進めるうちに話の辻褄が合わなくなってきたり、初めに書こうとしたテーマから内容が次第に外れてきて失敗に終わり、いつも自己嫌悪におちいるのである」旨を後に述べており、プロの作家としてあるまじき江戸川乱歩である。日本の探偵小説ジャンル確立の第一人者の大御所の重鎮なはずなのに、そのいい加減さが笑える。「一寸法師」の後に傷心でしばらく筆を折って休んで、休筆から復帰の第一弾が「陰獣」(1928年)となるわけである。

(以下、「陰獣」の核心トリックを明かした「ネタばれ」です。乱歩の「陰獣」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「陰獣」は雑誌「新青年」に掲載で、「新青年」といえば乱歩が以前に「二銭銅貨」(1923年)でデビューを果たし、横溝正史も一時期は編集長兼作家として頻繁に寄稿し、しかし横溝が大喀血で原稿を飛ばした時、当時まだ無名だった小栗虫太郎をピンチヒッターにして「完全犯罪」(1933年)を載せ小栗を世に知らしめた日本における探偵小説を一時期、強力に牽引(けんいん)した雑誌だ。そして江戸川乱歩の「陰獣」を「新青年」に掲載し、広告や原稿料など様々な面で「一寸法師」以来しばらくブランクのあった乱歩を支え乱歩復帰の道筋を盛り立てたのは、当時「新青年」の編集を任されていた横溝正史であった。乱歩の復帰を助ける横溝、江戸川乱歩と横溝正史の二人の友情が「陰獣」という作品が世に出る背景にあって、そこが昔から私が乱歩の「陰獣」が好きな理由だ。「陰獣」に関する、この辺りのことを乱歩みずからに言わせると、

「朝日新聞に連載した『一寸法師』に自己嫌悪を感じて放浪の旅に出てから一年半、雑誌『改造』から頼まれて書き出したのだが、依頼枚数の四倍近くになってしまったので、我儘(わがまま)の利(き)く『新青年』に廻したところ、当時の編集長・横溝正史君が非常に宣伝してくれたので、雑誌の再版、三版を刷るという売れ行きをみたのである」(「著者による作品解説」)

ただ小説「陰獣」の肝心の中身は正直、大したことはないと私は思う。乱歩の「陰獣」の目玉のトリックは一人三役である。あとは今まで乱歩が書いてきた自身の過去作品を改題し作中小説として利用して使いまくった自作の内輪(うちわ)ネタ落ちのセルフ・パロディだ。すなわち「屋根裏の散歩者」(1925年)→「屋根裏の遊戯」、「一枚の切符」(1923年)→「一枚の切手」、「D坂の殺人事件」(1925年)→「B坂の殺人」、「パノラマ島奇談」(1927年)→「パノラマ国」と、乱歩は過去作品にての自作トリックのネタを二次使用で使いまくる。

「一寸法師」で失敗し自信をなくして、しばらく休んだ後の久々の復帰作なため、過去の自作品の切り貼りコラージュ的な自己リハビリの薄手な作品となってしまうのはしょうがないの感慨は読後に残る。やはり「陰獣」は江戸川乱歩が自身の過去作品の「遺産」を利用し「貯金」を切り崩しながら書いているので、余裕や新しさがない。しかし小説の中身は今一つではあるが、江戸川乱歩「陰獣」は休筆から復帰のブランク事情や乱歩と横溝の友情が感じられて不思議と強く印象に残る。江戸川乱歩の全仕事の中でも外せない作品だと思う。

それから、その後の乱歩も前途多難だ。「新青年」にて復帰の「陰獣」で乱歩は全く本調子でなく、この後「新青年」に連載の「悪霊」(1934年)で江戸川乱歩は「一寸法師」以上の大失態を遂にやらかす。相変わらず結末を考えず場当たり的に長編連載をやるため話が破綻し、とうとうラストの結末が思いつかず続きが書けなくなって読者に詫(わ)び状を書いて連載中止、前代未聞のギブアップ宣言をしてしまう。ある意味ケタ違いで規格外の大きさ、型破りで破格な探偵小説の書き手、江戸川乱歩である(笑)。