アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(13)中井英夫「乱歩変幻」

江戸川乱歩研究や探偵小説評論、乱歩作品に関する書評は昔から多くあるが、なかでも私にとって印象深い乱歩についての文章は、創元推理文庫「日本探偵小説全集2・江戸川乱歩集」(1984年)巻末に書き下し解説として付された中井英夫「乱歩変幻」だ。

探偵小説の評論や書評といえば、推理ミステリー文壇の村内批評にてトリックの効果的な使い方とか伏線の張り巡らしと回収の可否を評するか、さらに探偵ミステリーの枠内を出て世代論や都市論の社会学的な文脈から解析するか、近代の視覚上位文化など心身問題の現代思想に結びつけて論ずるくらいが、せいぜいな所である。ところが、中井英夫「乱歩変幻」は、それらいずれでもなく、とりあえず中井による「乱歩愛」の一筋さと乱歩作品を愛読して学び、後に自作に繰り込んだ中井自身の探偵ミステリー嗜好(しこう)の要素のみで構成される江戸川乱歩批評なのだから誠に恐れ入る。しかも、そうした個人の極私的な「乱歩好み」の趣向を前面に押し出しても、主観的な独りよがりのイタい解説評論にはならないのが、中井の「乱歩変幻」の非常に優れた所だ。

現在の私達は没後乱歩の作品を全集などでまとめて読むが、当時リアルタイムで生前乱歩の発表作をその都度、心待ちにして楽しんで読んでいた江戸川乱歩ファンは実に羨(うらや)ましい限りだ。「昭和四年、小学一年のとき、両親の眼を盗んで家にあった雑誌の『蜘蛛男』をむさぼり読んでから茫々(ぼうぼう)五十五年の歳月が流れた。異次元界の魔王だった乱歩は、いつかはにかみやすい少年、傷つきやすい青年として私の裡(うち)に佇(たたず)んでいる」という中井英夫もそうで、彼は筋金入りの正統な愛読乱歩の人なのであった。

「『目羅博士の不思議な犯罪』、乱歩はせっかくのこの表題をこともなく、長すぎるので単に『目羅博士』と改題したといっているが、いまでも私は、『いけません。いけません。それはさかさですよ』と悲鳴に近い叫び声をあげたいほどに、この旧い題に愛着を抱いている。月の妖術、ビルの谷間の孤独を、これ以上はないほどに活写したこの短編には、長たらしくても何でも旧題の少しとぼけたような味がぜひとも必要なのだ。乱歩だってそんなことは百も承知だっただろうに、何とか同士を募(つの)って、これを元の題に戻す運動を起こしたいものだ」

「『影男』にしても、地下の王国は『パノラマ島奇談』の蒸し返しで、またかという思いをさせられたが、反地上・反現実への執念はみごとという他はなく、この胎児の見続けた長い悪夢こそ探偵小説の魅力そのものだった。いまのミステリーから失われてしまったのは、何よりこうした作者の深い怯(おび)えであり夢想であり、それを支えるに足るだけの文章力であろう。読者もまたいまはもう少し美食家(グルメ)であってもいいし、雑なインスタント食品を追放する権利だってある。こうまで粗末な加工品が氾濫するに到ったからには」

先の「目羅博士」(1931年)については、中井の念願が叶って近年の江戸川乱歩全集では「目羅博士の不思議な犯罪」の旧題にめでたく戻っている。私も「目羅博士」のタイトルに関しては中井に完全同意だ。「月光の妖術、ビルの谷間の孤独を、これ以上はないほどに活写した」という作品内容の評価に加えて、タイトル設定まで「目羅博士の不思議な犯罪」には中井英夫に完全同意なのだ。何よりも「いけません。いけません。それはさかさですよ」というような乱歩に対する中井の親密な語りが、筋金入りな乱歩作品の愛読者たる中井英夫の器量を読み手に感じさせて笑いを誘う。

続く「影男」(1955年)に関する中井の記述も全くその通りで「いまのミステリーから失われてしまった」もの、「作者の深い怯えであり夢想」云々も探偵推理ミステリー文壇にて「こうした粗末な加工品が氾濫する」現状に対する「雑なインスタント食品を追放する権利」「読者もまたいまはもう少し美食家(グルメ)であってもいい」云々も、昨今の国内ミステリーの状況を見るにつけ、中井が巻末解説執筆の1980年代のみならず、今の2000年以降の時代でも「そうだな」と私は思う。当の中井英夫を始め、江戸川乱歩や夢野久作や小栗虫太郎らに後続する独自の世界観を持つスケールの大きな書き手が、探偵ミステリーにおいて現在はいなくなった。非常に残念だ。国内ミステリーでは中井英夫以降は、かろうじて笠井潔まで。笠井潔以後、私の中では新作を待って毎回楽しみに読む国内ミステリーの現役作家はいなくなってしまった。

中井英夫「乱歩変幻」には、以上のような中井自身による「乱歩愛」の一筋さに加えて、乱歩作品を愛読して学び、後に自作に繰り込んだ中井自身の探偵ミステリー嗜好の要素も見事にその評論の中にちりばめられてあるのであった。

「乱歩の裡(うち)なる少年。それは再々くり返すように羞(は)じらいと自己嫌悪に傷つき、はにかみと孤独を養う他になすすべはなかった。この世ならぬ美への激しい憧れ。だがそれを現実に求める手段はどこにもないのだ。このたぐい稀れな夢想家は、…ポオや谷崎潤一郎とともに『夜の夢こそまこと』と呟(つぶや)くしかなかった寂しさは、おそらく骨を噛(か)むほどのものであったろう」

もう、これは中井英夫の小説そのものではないか(笑)。「(反地上・反現実への執念たる)この世ならぬ美への激しい憧れ」は「虚無への供物」(1964年)に、「羞じらいと自己嫌悪(ゆえの変身願望)」なら「黒鳥譚」(1975年)を始めとするその他、中井の著作に求めて確認すればよい。中井英夫の反地上の幻想ミステリーは明らかに「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」の乱歩の夢想世界に端を発していた。

思えば、中井英夫は江戸川乱歩が好きで、その乱歩好きが高じて「虚無への供物」という「乱歩愛」一筋の乱歩に捧げた長編密室物を本気を出して書いて、しかしあまりにも本気を出しすぎて(笑)、この現実の世を徹底的に相対化する天上界のアンチ・ミステリーとなり、「虚無への供物」が本家・江戸川乱歩の書く探偵小説を軽々と凌駕(りょうが)してしまって結果、審査委員長の当の乱歩が意味が分からず見事、中井の「虚無への供物」は江戸川乱歩賞を落選し、結局は中井と乱歩との相思相愛ならずという悲劇な笑い話を戦後の探偵推理ミステリー文壇にて作った誠に偉大な作家であった。そんな中井英夫の文学創作に対する厳しい言葉は、「小説は天帝に捧げる果物。一行たりとも腐っていてはならない」であったのだ。