アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(10)「何者」

江戸川乱歩の全短編の中で私は「何者」(1929年)という本格の作品が特に好きだ。「何者」は、乱歩の全作品の中で個人的ベスト3以内に入るほどの出来栄えであり、本当に素晴らしい隙(すき)のない清々(すがすが)しい本格推理だと思う。

(以下、犯人の正体まで詳しく触れた「ネタばれ」です。乱歩「火縄銃」とポースト「ズームドルフ事件」のトリックにも触れています。乱歩の「何者」「火縄銃」とポーストの「ズームドルフ事件」を未読の方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

江戸川乱歩「何者」は、とにかく素晴らしい。話に無駄がなく、すべての記述要素が伏線であり、伏線であるがゆえに当然、最後に悉(ことごと)く全部が回収され、まとまって完結するので読後の充実の爽快感が大変よい。早速の「ネタばれ」で申し訳ないが、話は犯人が、ある人物を陥れるために自作自演の強盗傷害事件をやり、その事件の被害者、そして自作自演なため当然、犯人の加害者(強盗傷害の自作演出で、わざと自分で自身の足を拳銃で撃って強盗に襲われたように装う)、さらには推理して事件「解決」に乗り出す探偵役まで自分でやる(この探偵役を通して誤誘導をやり、自分が陥れたかった人物を事件の犯人に仕立て上げる、本当は自作自演な狂言の強盗傷害事件にもかかわらず)。つまりは、一人の人物が事件の被害者であり、同時に加害者の犯人でもあり、はたまた「解決」の探偵役もやる「一人三役」の話なわけである。その被害者かつ加害者かつ探偵の狡猾人物による、他人への犯人仕立ての犯罪なすりつけの罠の野望を最後に正統な探偵たる明智小五郎が見事、打ち破る。ついで犯人が犯行に及ぶ二つの動機の説得力ある見事さ、ラストでの犯行の全貌が明智により明らかにされ関係者一同にバレて結果、犯人が失ったものの大きさの虚脱感、実によく出来ている。

ただ、後日の乱歩による自作解説や彼のエッセイを読むと、「何者」は発表当時は、あまり評判がよくない。乱歩のエッセイ類を読んでいて私が非常に気になるのは、彼が謎解きの本格推理を書いても当時の世間の反応はイマイチか、もしくは反応なしの黙殺。その代わりに怪奇・幻想ものや「奇妙な味」に属する厳密な本格ではないもの、はたまた猟奇テーマな「エロ・グロ・ナンセンス」の作品は読者からの反応評判よく、ゆえに編集者からもガチガチの硬派で緻密な理屈っぽい本格推理よりは、題材の異様さや作品全体の雰囲気で引き込んで取りあえずは読ませる怪奇のホラーやエロ・グロ・ナンセンスの作風注文が乱歩の所に多く来る。本格は時に露骨に避けられている、ということだ。

傑作短編の「何者」を読めば分かるように、江戸川乱歩は普通に軽々と本格も立派に書ける人である。海外の探偵小説やミステリーを収集し多く読んで、常日頃から本格トリックの研究研鑽(けんさん)を重ねている人だし。

例えば、本格推理の密室殺人トリックの古典にポーストの「ズームドルフ事件」(1914年)というのがある。密室で起こるライフル銃撃の完全犯罪。しかし何のことはない、密室なのに銃撃殺人できるのは、窓辺に置いた水瓶に窓ガラスの光が焦点で集まり、それが火縄式のライフル銃に増幅して集中的に当たり自然点火してライフル銃が密室の中で発射という「太陽と水瓶の殺人」とされる科学現象による合理的な密室トリックだ。これと同じトリックを使った密室殺人、後にリュパン・シリーズのルブランも「水壜」(1922年)という短編を書いている。

ところが、江戸川乱歩の初期短編にも「火縄銃」(1932年)というのがあって、「著者による作品解説」での乱歩自身の口上によれば、「私は、ポーストよりも早くに太陽光の焦点自然発火によるライフル銃撃の密室トリックを思い付いて、『火縄銃』という短編を学生時代の1913年の時点ですでに構想しノートの余白に書いてた。私の方が、ポーストよりも先んじていた。私の『火縄銃』の方が早い」というのだから、誠に恐れ入る。だから、江戸川乱歩は才能があって本格も立派に書ける。だが現在と違って昔は日本の社会一般や世間の読者層全般に、まだ本格を好んで愛読する探偵推理の素地がないため、乱歩もその煽(あお)りの影響を受けて謎解き本格ではない恐怖・スリラーや、ともすれば大して中身はないのに題材や書き方が猟奇で扇情的なだけのエロ・グロ・ナンセンスの安易な作品提供の書き手に社会からの要請でなってしまう。

探偵小説家としての本領たる本格での活躍の場に作家デビューの初期からあまり恵まれず、本当は正統な本格推理も書けるはずなのに「江戸川乱歩、非常に気の毒だ」。そういった思いを乱歩の作品の中では比較的珍しい、破綻のない傑作な本格推理短編「何者」を読むたび、いつも私の中では拭(ぬぐ)えない。