アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(11)「D坂の殺人事件」

江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」(1925年)が昔から好きだ。本作は本格の短編であり、「日本の開放的な家屋では密室事件は成立しない」という従来の声に対抗して乱歩が書いた日本家屋を舞台にした密室殺人である。密室の他にも格子越しに二様に見える浴衣柄の錯覚や殺人動機の異常さなど、短編ながら様々な要素を盛り込んでいる。

乱歩の「D坂の殺人事件」は名探偵・明智小五郎の初登場の作品でもある。「D坂の殺人事件」に関し、主人公の「私」による一見理にかなった、しかし表層的で即物的な物質主義的推理にて「明智が犯人」と推定するも、当の明智に一笑され、逆に明智による人間の内奥にまで迫った心理主義的推理に見事に論破されて、事件は犯人逮捕の解決に至る。こうした作品全体を貫く推理合戦のプロットも、最後に溜飲(りゅういん)が下がり、非常に良い読後感を残す。

しかしながら、私が乱歩の「D坂の殺人事件」を昔から好きなのは、本筋の本格探偵推理以外での「私」の日常の無為な生活ぶりや明智の部屋の描写記述ら、本作にての登場人物たちの高等遊民の生きざまに密(ひそ)かに心惹(ひ)かれていたからであった。私が「D坂の殺人事件」を初めて読んだのは10代の学生時代であったが、10代の学生の時分には私は将来、責任ある社会人になりたくなかった。そのものズバリ「高等遊民」になりたかったのである(笑)。働かず一生無為に暮らす高等遊民に憧れていた。ゆえに江戸川乱歩の幻想的与太話の小説主人公らに憧れていた。「D坂の殺人事件」の主人公の「私」は言わずもがな、「屋根裏の散歩者」(1925年)の郷田三郎や「パノラマ島奇談」(1927年)の人見広介ら高等遊民の話が好きだったのだ。

「D坂の殺人事件」の書き出しはこうである。

「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中程にある、白梅軒という、行きつけのカフェで、冷しコーヒーを啜(すす)っていた。当時私は、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽ると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェ廻りをやる位が、毎日の日課だった。…私という男は悪い癖で、カフェに入るとどうも長尻(ながっちり)になる。それも、元来食慾の少い方なので、一つは嚢中(のうちゅう)の乏しいせいもあってだが、洋食一皿注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もお代わりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段、ウエトレスに思召(おぼしめし)があったり、からかったりする訳ではない。まあ、下宿より何となく派手で、居心地がいいのだろう。私はその晩も、例によって、一杯の冷しコーヒーを十分もかかって飲みながら、いつもの往来に面したテーブルに陣取って、ボンヤリ窓の外を眺めていた」

働かずに毎日を無為に過ごす。社会の役にも立たなければ、何らの責任も果たさない「私」の高級華麗な(?)日常生活がうかがい知れる高等遊民の魅力を詰め込んだ、いかにもな書き出しである。私も10代20代の学生の頃は、あまり友人らと交際せず、独り映画館にフラりと入ったり、レコード店に通って音楽を一日中聴いたり、頻繁に書店に立ち寄った後に喫茶店で独り長時間、読書をしたりしたものだ。まさに「D坂の殺人事件」冒頭、高等遊民の主人公の「私」のように。

ところで私の学生時代、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」を初読した1990年代に、ちょうど宮崎勤元死刑囚による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988年)の一連報道があった。当時、宮崎元死刑囚の自室にマスコミのカメラが入り、部屋いっぱいに渦高く積まれた暴力物やホラーやアニメやボルノの雑誌、漫画書籍、ビデオテープの山に世間一般の人々は衝撃を受けたのだった。暴力的で性的で猟奇的なホラー映画や漫画アニメや児童ボルノを収集する、いわゆる「オタク」の嗜好気質を持った人達に対し社会全体が少なからずの嫌悪と警戒を持った。その時、ある評論家が宮崎元死刑囚の雑誌書籍やビデオテープにあふれた異様な部屋の様子を、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」にて初登場した名探偵・明智小五郎の自室描写に重ね合わせ、現代人のマニア気質、物への執着、収集癖のフェティシズムを論じていた。その際の「現代状況に重ね会わせて江戸川乱歩を新たに読み直す」評論の手際(てぎわ)の鮮(あざ)やかさが、私には強く印象に残って忘れられない。

以下は「D坂の殺人事件」における、まるで宮崎元死刑囚の部屋のような(?)、書籍の山に囲まれた「犯罪と探偵のマニア」明智小五郎の部屋の様子である。

「彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッと魂消(たまげ)てしまった。部屋の様子が余りにも異様だったからだ。明智が変り者だということを知らぬではなかったけれど、これは又変わり過ぎていた。何のことはない。四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。真中の所に少し畳が見える丈けで、あとは本の山だ、四方の壁や襖(ふすま)に沿って、下の方は殆(ほとん)ど部屋一杯に、上の方程幅が狭くなって、天井の近くまで、四方から書物の土手が迫っているのだ。外の道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われる程だ。第一、主客二人の坐る所もない、うっかり身動きし様ものなら、忽(たちま)ち本の土手くずれで、圧(お)しつぶされて了(しま)うかも知れない」

当時、宮崎元死刑囚の逮捕直後の1990年代初め、まだ「ひきこもり」の現象は広く共有されておらず、そこまで社会問題化していなかった。江戸川乱歩のある種の作品には収集癖のモノマニアのフェティシズムや盗撮や覗きのストーカー気質、厭人癖(えんじんへき)で人嫌いのコミニュケーション不全、同性愛趣味やサド・マゾ嗜好などがあり、背徳で不健全で不道徳ではあるが、時に乱歩作品を甘美で幻想的で魅力的なものにしている。それら背徳で不健全で不道徳であるがゆえに、人々が江戸川乱歩の作品世界に熱中し次々と読み進めてしまう面があることも確かだ。