アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(7)「盲獣」

江戸川乱歩「盲獣」(1932年)に関して、私は昔から「非常にもったいない、惜(お)しい、残念だ」という思いが拭(ぬぐ)えない。乱歩の「盲獣」は「エロ・グロ・ナンセンス」の猟奇のその手の作品として、かなりの着想アイデアと筋書きで申し分がない。ただ江戸川乱歩の「独自の文体確立のなさ」が明らかにマイナスで非常に惜しい、もったいない。小説の中身は抜群なのに、その内容を文字に吐き出して具現化する際の乱歩の筆力のなさが「盲獣」という作品を案外、平板なものな着地させてしまってる。私はそういった感想だ。

乱歩の「盲獣」は接触・接感愛好から触覚芸術論、四肢切断で都内にバラバラの肉片ばらまき、湯殿での罠、そして最後の「鎌倉ハム」のブラックなオチまで(笑)、本当に最高なのだけれど、とりあえず着想のアイデアは。乱歩グロテスクだ、乱歩変態だ、乱歩もっとやれ!しかし、江戸川乱歩の常日頃からの文体が平凡で平易すぎて、「盲獣」には今一つ読み手を圧倒する迫力や鬼気迫る背徳の悪の力がない。

江戸川乱歩の弱点の一つに、小説の内容はいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」で抜群なのに意外に常識的で平板・凡庸な彼の文体というものがある。乱歩は本当に分かりやすく平易で誰もが読みやすい、驚くほど常識的な文章を書く。例えば、相当に読みにくい悪文を書く悪筆な「黒死館殺人事件」(1934年)の小栗虫太郎。日記や新聞記事や学術論文からの引用形式記述が多彩な「ドグラ・マグラ」(1935年)の夢野久作。薔薇や宝石についての衒学(げんがく)的固い文章を連発させて天上界のアンチ・ミステリーになる「虚無への供物」(1964年)の中井英夫。どこかユーモラスで、どんどんたたみかけて躍動感をだす講談調「魔都」(1938年)の久生十蘭ら、幻想文学カルト推理の傑作を連発している、その手の人達と明らかに違って江戸川乱歩は文体の力不足である。

江戸川乱歩も「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」と言って、そこそこカルト文学や幻想文学の要素はあるはずなのに、文体のせいでいつも常識的な大衆娯楽の読み物に踏み止まる。その手の文学がもつ深遠の奥深さ、ドロドロで背徳で非常識で非道徳のヤバさが江戸川乱歩にはない。

だが、世の中は「自分に合った土壌で、それぞれに自分の花を咲かせろ」の適材適所だ。江戸川乱歩は自身の平板でわかりやすい文体ゆえ、後に彼はジュヴナイル(少年少女向け読み物)で大成功を収める。ポプラ社から数多く出ていた乱歩の「少年探偵団」シリーズは少年少女に向けた大変に読みやすい面白い読み物だ。元々ジュヴナイル専門の作家ではないのに、一般向けの書き手でデビューして後にジュヴナイルもやって乱歩ほど成功した人はいない。やはり江戸川乱歩はスゴいのだ。

乱歩の「盲獣」を読むなら創元推理文庫から出ている「盲獣」(1996年)が、竹中英太郎のカラー・イラストや初出雑誌掲載時の扉絵や挿し絵があってお薦めである。映像化された「盲獣」なら、緑魔子と船越英二が主演のATG映画(1969年)は一度見ると強烈に印象に残って忘れられない。