アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(18)「石膏美人」

横溝正史の探偵小説の一般イメージとして金田一耕助シリーズが真っ先に挙げられ、また当の横溝正史も自選ベストの上位に常に金田一シリーズを推(お)すというように、横溝においては読者の横溝ファンが望む読みたいものと、書き手の横溝正史が自信をもって薦めて読ませたいものとが見事に一致して、その意味で横溝正史は読者との齟齬(そご)の軋轢(あつれき)なく、誠に幸運な作家であったと思う。

しかしながら私のようなややひねくれた(?)、生粋な「横溝ファン」ではない探偵小説好きな者からすれば「横溝といえば金田一」とするだけでは物足りず、その他、横溝の由利先生シリーズや人形佐七捕物帳シリーズも同様に世間一般の読者には知って読んでもらいたいと思うのが正直な所だ。当の横溝自身も戦後に本格を思う存分展開できた金田一耕助シリーズには大変に思い入れがあるが、その分、戦前・戦中から始まった由利先生や人形佐七捕物帳シリーズは検閲削除の当時の国家当局の介入があり、自分の思うように書けなかった悔恨の悪印象があるためか、横溝が後に自作を振り返る際、金田一と比べて由利先生や人形佐七に関しては明らかに淡白で素っ気ない感じがする。私は横溝作品の中では由利先生シリーズも人形佐七捕物帳シリーズも金田一耕助シリーズ同様、案外好きなので、そこが何だかもったいない気がする。

そういったわけで今回の「再読・横溝正史」は世間一般の評価から、どちらかといえば埋もれがちで目立たない、やや不当な扱いとも思われる由利先生シリーズ、中でも探偵・由利麟太郎と助手・三津木俊助のコンビが初めて登場する「石膏美人」(1936年)について書いてみる。

「石膏美人」に関しては話の内容はともかく、名探偵・由利麟太郎が初登場の作品ということで、由利先生の経歴出自を横溝が詳しく書いている所、そこにこの作品の大きな価値があると思える。名探偵・由利麟太郎の過去とは、すなわち

「三津木俊助から先生という尊称をもって呼ばれ、多大の敬意をはらわれているこの不思議な人物の正体は、そもそもなんであろうか。ここらでちょっと、その身の上を説明しておく必要があるようだ。記憶のいい諸君のなかには、四、五年前、警視庁にその人ありと知られていた名探偵、由利捜査課長の名を、いまだに記憶している人もあるだろう。実際その当時の由利捜査課長といえば、飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだったが、それがどういう理由でか、突如その輝かしい地位から失脚すると、一介の浪人となってしまったのである。その間の事情について、あまり詳しいことは知られていないが、おおかた庁内にわだかまっている政治的軋轢(あつれき)の犠牲になったのであろうと言われている。由利麟太郎自身は、この失脚がかなり心外だったらしく、一時は憂悶(ゆうもん)のあげく発狂したとまで言われ、さらにそれから間もなく突如行方不明が伝えられた。それから三年間、どこで何をしていたのか、その消息は杳(よう)として知られなかった。あるいは発狂の果て、どこかで人知れず自殺を遂げたのではなかろうかとまでうわさされていたが、それが突如、しかも実に奇妙な場面へふたたび登場したのだから俊助のおどろきはどんなだったろう。いや、おどろきよりもうれしさでいっぱいだった」

なるほど「人に歴史あり」だ。由利先生が「美しい白髪をふさふさと波打たせている」のは、「警視庁内での失脚がかなり心外だったらしく、一時は憂悶(ゆうもん)のあげく発狂した」ためなのか。

肝心な「石膏美人」の話の内容はといえば、せむしと石膏美人、サーカスの曲芸団、マスクの怪人、からくり人形の時計台、二人の博士の確執。さらには少年探偵、赤外線写真機、読唇術、催眠術、腹話術が登場する人物や小道具、各種の能力が少年・少女向け読み物(ジュヴナイル)の味で、著者名を伏せて小説だけを読ませると、おそらく多くの読者は「これは江戸川乱歩作品だ」と勘違いするに違いない。それほどまでに乱歩風味な横溝作品となっている。サーカスの道具係に扮し極秘潜入している由利麟太郎も、まるで明智小五郎のようだ(笑)。

本作は1936年の戦前に雑誌「講談倶楽部」に連載で当時は、こういった乱歩風のジュヴナイルっぽい長編通俗読み物の方が一般にウケたのか、横溝正史の筆も自然と江戸川乱歩っぽくなってしまう。講談社の「講談倶楽部」といえば乱歩が常連連載の雑誌であり、編集者や読者に江戸川乱歩ファンが多いことを事前に察した横溝による配慮の筆の傾きか。何はさておき、横溝の本格な探偵小説家としての覚醒は、これ以後、金田一耕助が初登場の「本陣殺人事件」(1946年)の戦後まで待たなければいけないようである。