アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(29)「探偵小説五十年」

横溝正史のエッセイ集は生前、没後に渡って数冊出ている。「探偵小説五十年」(1972年)や「探偵小説昔話」(1975年)の、最初の方のエッセイ集はそれなりに意義ある話もあって読んで面白いが、自身の遍歴や日常雑感を連続して書いていくと中途で息切れし主要なエッセイ語りのネタがなくなるのか、最後の方に出されたエッセイは「熱烈な横溝正史ファンでなければ、一般人がこれを読んでも」とか、「あーこれは読むべきではなかったな」といった「内容があまりにも特殊個人的な事柄すぎる」微妙な読後感が残ってしまうものも正直ある。例えば「金田一耕助のモノローグ」(1993年)や「横溝正史自伝的随筆集」(2002年)だ。少なくとも私はそう感じた。

横溝正史のエッセイにて私が強く関心を寄せられるものの一つに、江戸川乱歩を始めとして小栗虫太郎や水谷準や海野十三ら探偵小説の推理ミステリー畑の同業作家との交友エピソードがある。これは横溝のみならず乱歩のエッセイでも同様で、そうした同時代作家たちとの交流の話は読んで非常に面白く大変に興味深い。横溝による乱歩の代筆の暴露、いわゆる「代作ざんげ」の話。横溝と小栗とのピンチヒッター因縁、おでん屋で酒を飲んでの二人のやり取り。夢野久作が上京の際に福岡の土産(みやげ)を乱歩らに配りまくる意外に社交的で常識人であったエピソード。渡辺温が谷崎潤一郎宅に原稿依頼に行った帰りに事故で亡くなり、谷崎が責任を感じて雑誌「新青年」の連載を引き受ける話。横溝と乱歩が葛山二郎と蒼井雄に探偵小説家専業や新作執筆を勧めるも彼らは腰が引けていた話など。

晩年の横溝正史の姿を収めたものに「NHK映像ファイル・あの人に会いたい・作家・横溝正史」(2009年)というインタビュー作品があった。現在でもNHKアーカイブスで視聴できる。これは1975年に行われたインタビューで横溝が73歳、亡くなる六年前の最晩年の映像であり、カラー映像での実際に動いて語る横溝正史が見られるのだから貴重だ。「カラー映像での実際に動いて語る横溝正史」といえば、市川崑監督、石坂浩二主演の金田一耕助シリーズ映画「獄門島」(1977年)予告編や「病院坂の首縊りの家 」(1979年)本編に横溝本人が出てきて、横溝の素人棒読み演技が見れたりするのだけれど(笑)。横溝は案外、目立ちたがりで出たがりな人であった。

「NHK映像ファイル・あの人に会いたい・作家・横溝正史」の概要は以下だ。

「『探偵小説は謎解き遊びの文学である』。ミステリー探偵小説の巨匠・横溝正史。名探偵・金田一耕助が大活躍するシリーズは五千万部を突破。横溝は日本における本格的な探偵小説というジャンルを確立した。戦時中、探偵小説は禁止され横溝にとって厳しい時代が続いたが、戦後になると堰(せき)を切ったように『本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』とベストセラーを連発し、世に横溝ブームを巻き起こした。昭和30年代になると社会派推理小説が一世を風靡(ふうび)するが、横溝はあくまでトリックを重視する探偵小説にこだわり続けた。その探偵小説への熱い想いが語られる」  

NHKは横溝本人に「本陣殺人事件」(1946年)の冒頭の一節をわざわざ朗読させる。横溝は朗読が下手である(笑)。文章記述の上手な作家がインタビューや講演で語ると、早口や吃(ども)り気味や発音不明瞭の話し方が下手で驚くケースは実際よくある。父が岡山の人で本人は神戸の生まれ育ちなためか、映像で実際に見る横溝正史は広島弁と関西弁が混ざったようなイントネーションの語りだ。「横溝は主に関西人が入った典型的な西日本の人」といった印象を私は持った。そして、この人は以前に肺結核の病気をやっているにもかかわらず、インタビュー中もしきりにタバコを吸うのだ(笑)。ヘビースモーカーな横溝正史である。

番組にてナレーションと聞き手が横溝正史の経歴を振り返る。戦時中は探偵小説が欧米文学の敵国文化であり、検閲制限され探偵小説を執筆できなかったことから、敗戦後に「さあ、これからだ。今まで書けなかった本格推理の探偵小説を思う存分書いてやろう」と気持ちを新たにし、私立探偵・金田一耕助を創作して傑作を果敢(かかん)に世に出した横溝であったが、日本の戦後社会が敗戦を脱し高度成長の時代に入る昭和30年代の頃になると、横溝のような旧来の探偵小説の正統な書き手は失速して一時的に不人気になる。犯罪の影に潜む社会的背景を重視する、いわゆる「社会派」の推理小説が好まれ読まれるようになっていくのである。まさに「昭和30年代になると社会派推理小説が一世を風靡する」のであった。そうした社会派ミステリーのリアルなタッチが好まれる中、探偵小説は時代遅れのものと見なされ、横溝は一時期、休筆する。しかしその後、横溝正史の復活の大躍進が始まる。昭和46年から「八つ墓村」(1951年)を始めとした作品が角川文庫に入り圧倒的な売れ行きを示して、角川文庫は次々と横溝作品を刊行する。と同時に横溝作品が映画やテレビドラマにて続々と映像化される。いわゆる「昭和の横溝ブーム」の到来である。聞くところによれば、1974年で角川文庫版の著作が300万部突破、1975年で角川文庫の横溝作品が500万部突破、1976年で角川文庫の横溝作品が1000万部を突破、そして1979年には角川文庫の横溝作品は4000万部を突破したらしい。

戦後、しばらくして社会派の推理小説の台頭にて不遇の時代であっても、探偵小説に邁進した横溝正史。「横溝はあくまでトリックを重視する探偵小説にこだわり続けた」。そんな探偵小説家を生涯に渡り貫いた横溝は、探偵小説と推理小説との違いを聞かれて、

「探偵小説は、あくまでも遊びの文学、謎解きの遊びの文学。推理小説は、もう少し社会に密着している。我々は『これがトリックだ』とトリックを振りかざすが、推理小説の作家は、どうもトリックが恥ずかしいんじゃないかと思うね。ごくさりげなく書いてしまう気がします。…別に推理小説の呼び方に抵抗を感じるわけではないけれど、私は探偵小説と呼ばれた方が自分らしくっていいですね」

推理小説と違って、「探偵小説は、あくまでも遊びの文学、謎解き遊びの文学である」とする横溝の定義は至言だ。さらに「昭和の横溝ブーム」の世評人気の現状、聞き手の言葉を受け、横溝は「最近は雑音が多すぎましてね。しかし最近は、またトリックの鬼になろうとしてます」。推理小説ではなくて探偵小説、あくまでも謎解き遊びのトリック重視であり「トリックの鬼」、否(いな)、どこまでも「探偵小説の鬼」たる横溝正史なのであった。