アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(28)「髑髏検校」

よく知られているとおり、横溝正史「髑髏検校(どくろけんぎょう)」(1939年)はブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」(1897年)の翻案小説だ。以前に都筑道夫との対談で、執筆時にベラ・ルゴシの映画「ドラキュラ」(1931年)はご覧になっていたのですかの質問に、横溝は「見ていませんでした。しかし、評判は知っていました。水谷(準)君から本を送られて初めて『ドラキュラ』を知ったといういうんじゃなかったかな。…あの膨大な原書を全部読んだわけではなくて、もう三分の一ぐらい読んで、だいたいわかった、というので(笑)」云々の日本版「ドラキュラ」たる「髑髏検校」創作時の裏話があった。

横溝「髑髏検校」は探偵推理ではなく、「横溝草双紙」体裁のホラーな怪奇小説である。近代モダンな探偵小説ではなく近世は江戸の時代設定であり、「南総里見八犬伝」の読本(よみほん)風味で勧善懲悪、因果応報に怪奇のケレン味を加えた感じだ。本家「ドラキュラ」はキャラクター設定の着想アイデアは誠に斬新・新奇で冴(さ)えてはいるが、原本は冗長で退屈である。映像化されたテレビドラマや映画にてのドラキュラでも同様だ。横溝が述べているように、「(長い原作を)もう三分の一ぐらい読んでだいたいわかった」云々の元ネタ借用の「軽くつまむ」感触を私はそれとなく理解できる。

本作「髑髏検校」は、著者の「人形佐七捕物帳」シリーズの読み味に似ている。横溝の人形佐七ファンならびに、その他の時代小説が好きな人なら読んで気に入るのではないか。横溝は時代物を書く際にも舞台はあくまで近世江戸だが、綿密な時代考証や史実に絡めた厳密な史料設定なく、ただ舞台を江戸にして時代物として書き抜くだけだ。そうした時代物特有の、ともすれば著者だけの自己満足になりがちな説明説教くさい歴史蘊蓄(うんちく)の披露なく、面倒な考証的こだわりがなく話の筋運びの面白さに傾注している所が逆に歴史に明るくない時代物を読み慣れていない私にもサラリと読めて楽しめる。本作は、まず「豊漁の房州白浜沖で上げられた鯨(くじら)の腹から出てきたフラスコに入った長い書状が契機となって」という話の発端が面白い。舞台も長崎から江戸へ、登場人物も多く人物間の相関関係もなかなか複雑で十分に読ませるものがある。

角川文庫の横溝正史全集は、私が確認する限り古いものの巻末解説は多くが中島河太郎である。昔の角川文庫の横溝正史集を連続して読んでいて毎回、中島の巻末解説には感心させられる。この人は読んでタメになる作品情報の詳説とともに、探偵小説「ネタばれ」の禁を犯さない。そして、たとえ横溝の作品が時に凡作や駄作であったとしても、あからさまに批判的で作品を否定するような批評解説は決して書かない。そうした所が中島河太郎の探偵小説批評は毎回、優れている。

最後に、角川文庫版の横溝正史「髑髏検校」巻末に付された中島河太郎の名解説の一部、本作の概要を記した中島の密度濃い名文を引用しておこう。

「『髑髏検校』は房州の沖で捕れた鯨の胎内から現われた書き付けが発端となっている。その内容は言論に絶する怪異を纏綿(てんめん)と綴(つづ)っていた。嵐に遭(あ)って島に打ち上げられた主従は、狼をにらみすえる上臈(じょうろう)に案内され、異形の人物に面接する。どうやら主従を饗応(きょうおう)したのは、夜ごと墓の奥から抜け出す幽鬼のたぐいであって、その首魁(しゅかい)の髑髏検校は江戸に上って何かを画策しようとするのだ。将軍家の姫君・陽炎(かげろう)姫が次第に血の気を失っていき、姫に仇なす検校に対して、対策に腐心するのが鳥居蘭渓である。検校の眷属(けんぞく)に狼、蝙蝠(こうもり)があれば、蘭渓の隆魔の利剣は花葫(にんにく)であった。この暴虐無惨な吸血鬼の跳梁(ちょうりょう)ぶりに接して、例のドラキュラを思い浮かべる読者もあるだろう。たしかにブラム・ストーカーの古典的作品『ドラキュラ』にもとづいて、舞台を江戸へ移したものであった」