アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(38)「悪霊島」

横溝正史「悪霊島」(1980年)は、横溝作品が次々に映像化され過去の小説も売れまくる「昭和の横溝ブーム」の最中、一度休筆していた横溝正史が復活を果たし、齢(よわい)70代にして新たに書き抜いた上下二巻、全700ページ近くの長編である。横溝は本作を角川書店の雑誌「野生時代」に1979年1月から1980年5月まで連載し、その後1981年12月に没している。横溝正史「悪霊島」は氏の最終作であり、事実上の絶筆であるといってよい。

本作の目玉のトピックは「シャム双生児」(身体がつながったまま生まれてきた双子、いわゆる結合双生児)である。この点に関し当の横溝いわく、

「(角川書店より雑誌『野生時代』)創刊以前から私は長編執筆を依頼されていた。書くならばシャム双生児をと、私の脳細胞はいよいよ活潑(かっぱつ)に動きはじめた。それにもかかわらずいざ『野生時代』に筆を執(と)った時、それはこの小説ではなく『病院坂の首縊りの家』であった。そのころこの小説はまだ私の脳細胞の中でほどよく発酵していなかったのであろう。それだけに『病院坂の首縊りの家』を書いているあいだ、私の脳裡(のうり)には常にこの小説があった。だから昭和五十三年の夏いよいよ執筆を開始したとき、この小説の結構は、そうとう細部にわたるまで、私の脳裡に形成していた。しかし、構想がまとまっているということと、それを文章によって表現するということはまた別の問題であるらしく、これを書いている間中、私は塗炭(とたん)の苦しみをなめなければならなかった」

シャム双生児を題材にしたものに従前、海外ミステリーでクィーン「シャム双生児の秘密」(1933年)や、国内の探偵小説にて江戸川乱歩「孤島の鬼」(1930年)があった。横溝の本作「悪霊島」も、シャム双生児が事件の鍵を握る話である。加えて横溝晩年の執筆であるためか、過去作品との設定重複、ネタの流用、場面の酷似が目立つ。私が読んで気付いた限りでも話の基本の構図は「蜃気楼島の情熱」(1954年)と「獄門島」(1948年)であって、あとの中身は「八つ墓村」(1951年)や「悪魔の手毬唄」(1959年)や「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)や「神の矢」(1949年)など、横溝の過去作品を思い起こさせる記述が幾つもある。また横溝「悪霊島」は、岡山の瀬戸内海の島を舞台にした、すでに殺害されている失踪人物をめぐる過去の因縁話であり、これと似た舞台設定の日本の探偵小説史における本格長編の古典名作、蒼井雄「瀬戸内海の惨劇」(1937年)のことも本作「悪霊島」から私は思い出したりしていた。

話は「悪霊島」たる刑部島(おさかべしま)に私立探偵の金田一耕助が依頼を受け、岡山県警の磯川警部と出向き滞在して、その島にて連続殺人に新たに出くわし事件の謎に挑む。その際、自身の父親が以前に島に訪れた形跡がありながら失踪し、そのまま行方不明になっているという青年、三津木五郎と同伴する。さらには磯川警部の過去も、その以前の失踪事件と今回の刑部島にての連続殺人事件とに複雑に密接に絡(から)み合っている、といった内容である。まず、今回の一連の事件の発端となる殺害被害者の「あの島には悪霊がとりついている、悪霊が…」、刑部島をして「悪霊島」と呼ぶ死の間際に吹き込まれた録音テープ、ダイイング・メッセージの不気味さがよい。なぜかの島が「悪霊島」であるのか、その謎が話のポイントではある。

ただ全体に、これは「悪霊島」のみならず横溝が復活して再び筆をとった最晩年の作品はいずれもそうなのだが、不必要に枚数多く無駄に話が長い。しかも長編話にテンポがなく中途で読むのにダレれて中だるみしてしまう。少なくとも私の場合はそうだ。本作「悪霊島」に関しても、確かに横溝は(おそらくは)あらかじめ綿密に結末まで考えてから書き出しており、前半から幾つも周到に伏線を張り巡らしてはいる。しかし、それが綿密に丁寧にやり過ぎてかえってクドく話の進行(テンポ)が遅いのが、あえて難点といえば難点か。この「悪霊島」にしても、例えば最晩年の作「迷路荘の惨劇」(1976年)にしても、とにかく話にリズムがなく進行が遅いので中途でダレてしまうのである。

私の経験からして身近な年寄りを見ていると分かるが、人は年をとるとなぜかクドくなる。思考の瞬発力がなくなって簡潔で的確な説明が出来ない自信喪失のためなのか、万全を期して丁寧に大切に自身の本意を漏(も)らすことなく相手に伝えたい思いが若い頃より強く働くからなのか、何度も念を押して執拗に繰り返したり、非常に回りクドい説明過多な会話を日常生活にてもよくやる。横溝正史も最晩年の探偵小説は例外なく長編で異常に長いし、重複もあり記述が丁寧すぎてクドい感じがする。この辺りのことは、横溝が働き盛りの壮年期に雑誌「新青年」や「宝石」に毎月のように執筆掲載していた昔の作品と読み比べてみると、よく分かる。

しかしながら、長くて時にクドいテンポの悪い金田一ものの長編探偵小説も晩年の横溝のコクの味だ。「悪霊島」を読み返す度に「この作品で金田一耕助も横溝正史も終わってしまうのだな」という非常に寂しい気持ちに毎回、私はなる。

角川文庫版「悪霊島」の巻末解説は、これまで角川文庫の横溝全集の多くの解説を書き重ねてきた探偵小説評論家の中島河太郎によるものだ。以下のような中島の巻末解説の語り、「著者に、天寿を恵まれるように祈りたい」という解説結語を読むと「やはり、この作品で金田一耕助も横溝正史も本当に終わってしまうのだな」といった「祭りの後」の喪失感のような寂しい思いを私はいつも痛感させられる。

「日本の推理作家では喜寿翁が、こういう大長編を完成した例はかつてなかった。年齢や枚数の記録を抜きにしても、これほど綿密周到な布置のもとに、愛憎の悲劇を仮借(かしゃく)なく掘り下げた大ロマンは、著者を措(お)いては創(つく)りえなかった。今後もまだまだ手のこんだ探偵小説を書いて行きたいと、意欲を示される著者に、天寿を恵まれるように祈りたい」(中島河太郎、角川文庫版「悪霊島・解説」)