アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(27)「悪魔の手毬唄」

横溝正史「悪魔の手毬唄」(1959年)の概要は以下だ。

「岡山と兵庫の県境、四方を山に囲まれた鬼首村(おにこべむら)。たまたまここを訪れた金田一耕助は、村に昔から伝わる手毬唄の歌詞どおりに、死体が異様な構図をとらされた殺人事件に遭遇した。現場に残された不思議な暗号はいったい何を表しているのか?事件の真相を探るうちに、二十三年前に迷宮入りになった事件が妖しく浮かび上がってくるが。戦慄のメロディが予告する連続異常殺人事件に金田一耕助が挑戦する本格推理の白眉(はくび) 」

この作品は探偵小説の筋書きが非常によく出来ている。要するに探偵推理として、単に連続殺人事件が起きました、そこで警察と探偵が推理に乗り出しました、そして最後にトリックが明かされ犯人が明らかになり事件が無事解決しました、の平凡で機械的な通り一辺倒の探偵推理で終わらない。

殺害動機も、ただの怨恨(えんこん)や物盗りではない。二十三年前の迷宮入り殺人事件があって、それが由来となり今回の連続殺人の発端となっている。そこから今回、どうしても連続殺人をやり遂げなければならなかった「哀しき」犯人側の複雑な事情や、何よりも最後の三人目の殺人には犯人が決して望んでいなかった「大いなる手違いの悲劇の大誤算」があるし、作中最後に明かされる犯人に対し、読み手のみならず物語中の人物たちの驚きがある。鬼首村連続殺人事件の真犯人が明かされて、犯人の知人らと身内家族の驚愕と絶望があるわけである。よって本作ラストで入水自死した犯人の遺体が池から上がり、作中の探偵・金田一耕助や岡山県警の磯川警部、鬼首村の村人らが初めて事件の真犯人を知る場面、実はこの場面記述に至るまで「悪魔の手毬唄」の小説読み手に対しても真犯人は、なかなか明かされない。このラストの場面にて初めて犯人が読み手に分かる、非常にもったいぶった犯人明かしの書き方を本作にて横溝はわざとしている。そもそも探偵小説というのは、「誰が犯人だか分からない」から先を読み進める犯人探しの興味で読み手を惹(ひ)きつける手法が本筋で正統な娯楽文学であるから、そうした探偵小説の本来の趣旨に至極かなった本作にての横溝の書きぶりであると思う。そういった所も横溝「悪魔の手毬唄」は好印象だ。

「悪魔の手毬唄」は戦後に書かれた横溝正史による金田一長編の名作であり、よく考えられ深く練(ね)られた素晴らしい探偵小説だ。詳しく述べると「ネタばれ」になるので言えないが、いわゆる「顔のない死体」トリックにさらなる工夫を加えて読む者を必ずや驚かせる本格になっている。また村に伝承の「手毬唄」になぞらえて行われる見立ての連続殺人の趣向演出、この「悪魔」な「手毬唄」による見立て殺人は、後に横溝が頻繁に語っているように海外作品のヴァン・ダイン「僧正殺人事件」(1928年)のマザーグースの童謡殺人に倣(なら)ったアイディアだった。

無声映画の活動弁士が音声付き映画(トーキー)の出現普及により駆逐され失職に追い込まれてしまう「恨みの『モロッコ』」(映画「モロッコ」は初めて日本語字幕を付したことで活弁士を不要にしたため当時、活動弁士らに酷く恨まれた因縁の映画であった)、探偵推理の本筋から外れたエピソードも哀愁があり、ある意味、文学作品の「色気」がある。この辺り、探偵小説家だけで自身を終わらせない横溝正史の文学的書き手としての懐(ふところ)の深さも感じさせる。

戦争中に時局のせいで十分に作品を発表できず、「さあ、これからだ。戦争が終わったら本格の探偵小説を思う存分書いてやろう」と心に決めていた横溝だけに「悪魔の手毬唄」を始めとして、終戦後に発表された一連の本格長編はかなりスゴい。傑作連発で驚きというか、図(はか)らずも横溝の筆に神が降りてきて筆が神がかっているというか。「本陣殺人事件」(1946年)や「獄門島」(1948年)は完成度のレベルが高く実に感心する。「本陣」と「獄門」は名作中の名作で傑作である。そうしたわけで「本陣殺人事件」や「獄門島」と同じ戦後の比較的早い時期に書かれた「悪魔の手毬唄」も、まさにハズレなしといったところだ。