アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(26)「蔵の中」

横溝正史「蔵の中」(1935年)は、結核病(けっかくや)みで屋敷の「蔵の中」に引きこもっている美少年が現実と幻の区別がつかなくなる、読んでいて確実に混乱する誠に捉え所がない耽美で幻想的な話だ。

同様に美しいが、結核の病(やまい)に冒(おか)されていた聾唖(おし)の姉が喀血して亡くなる。しばらく後、少年は独り「蔵の中」で千鶴人形やオルゴールで遊び、草双紙や錦絵を眺め、姉の形見の友禅の振り袖を身にまとい綺麗に化粧をして鏡に映る自分の美しさに見とれていたのだが。少年は、そのまま錦絵の中から抜け出た「美しくお化粧した敦盛さまのように」綺麗だったのである。

ある日、少年は崖の上にある「蔵の中」から眼下の町を遠眼鏡で覗いていると、崖下のある一軒家にて偶然にも殺人の一部始終を目撃してしまう。それで犯行の一切の経過と顛末(てんまつ)を手記に書き、それを「蔵の中」という小説にして、ある人物に読ませるという小説である。その小説の中の少年の小説「蔵の中」を横溝の小説「蔵の中」の読者も小説「蔵の中」の人物と一緒に読む、非常に入り組んだ構成だ。すなわち「されば、我々もこの際に、…この無名作家の、いささか風変わりな小説を読んでみようではないか」。

無警戒で渡された手記を読んでいくうちに、遠くの「蔵の中」から遠眼鏡で覗かれ読唇術にて聞かれていた他ならぬ自身の罪業(ざいごう)が事細かに記されていることに気づき、その時の小説内の読み手たる人物の驚き。ついでこの先、実際はどうなっていくのか、実はその続きは小説内小説「蔵の中」後編に抜け目なく書かれているのであった。そこで小説の中の読み手の人物が小説内小説「蔵の中」後編を声に出して読みながら、書き手の少年に対し実際にその小説通りの発言・行動を全く同じにやっていく。小説の中の小説「蔵の中」という物語世界の幻想が、小説「蔵の中」の現実世界と交錯して遂には現実が物語の幻想世界に乗っ取られ、それら「蔵の中」の幻想夢想と実際の現実世界との境目が分からなくなり、夢と現実の区別がつかなくなる。その混乱を横溝「蔵の中」を現に読んでいる私達が、さらに読むわけである。そうした作中にて掲載展開される「蔵の中」という小説の中の小説と小説「蔵の中」の現実世界と、さらにそれら横溝作の小説「蔵の中」を読む読者の現実世界とが幾重もの入れ子構造になって複雑に絡(から)み合っている、周到であり耽美で幻想的な横溝の書きぶりである。

横溝正史の探偵小説の全仕事は主に三つの時代に区分できる。最初は、1921年の横溝デビュー時からの「恐ろしき四月馬鹿」(1921年)や「山名耕作の不思議な生活」(1927年)の作風に代表されるような翻訳調の西洋モダンな探偵小説や都市風俗のユーモア読み物の時代である。次に1934年の結核悪化の大喀血による休筆、転地療養を経た後の和物な耽美幻想路線である。この時代の代表作として「鬼火」(1935年)や「かいやぐら物語」(1936年)が挙げられる。それから戦後1945年以降の「本陣殺人事件」(1946年)の金田一耕助シリーズに見られるような、日本の因襲的伝統怪奇と近代の探偵小説を組み合わせた本格推理長編の時代である。

本作「蔵の中」は、横溝正史の第二の時代の耽美幻想路線に該当の典型である。私の実感からして近親の者を見ているとよく分かるが、一度大きな病気をすると以後その人の嗜好や性格や人生観や思想が大きく変わってしまうことはよくある。人間の肉体と心は根底で結び付いており、身体と精神とは一心同体であるからだ。横溝が結核悪化の大喀血をやり、休筆の転地療養を余儀なくされて後、彼の中で何らかの心的変化があって、以前の西洋モダンの翻訳調な洗練された都市小説から全く変わって和風の耽美幻想路線、まさによく言われる所の「横溝草双紙」的なものに一時的に作風が大きく変化していくのを私はよく理解できる。

横溝正史「蔵の中」は以前に角川映画にて映像化されている(1981年)。中尾彬ほかの出演で、あの映画は横溝原作「蔵の中」の耽美で妖艶な世界観を見事に視覚化できており、非常に優れている。私は昔、映画鑑賞後にそうした好印象を持った。