アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(25)「悪魔の家」

横溝正史「悪魔の家」(1938年)は戦前の短編であり、探偵の由利麟太郎と助手の三津木俊助が活躍する話である。ついで「警視庁の古狸(ふるだぬき)」の異名をとる等々力警部も出てくる。戦後の横溝の金田一耕助シリーズにて金田一と懇意でコンビを組む等々力警部は戦前から捜査の第一線に立ち、由利先生とも懇意なのであった。

「武蔵野の面影をとどめた杉並木に生暖かい夜霧が立ちこめた人けのない道。帰途を急ぐ新日報社の花形記者、三津木俊助は、背後に尾行者の気配を感じてふと立ちどまった。意外にもそれは若い女だった。夜道の一人歩きが怖くて、と女は詫(わ)びた。うち解けた二人が善福寺池のほとりへさしかかった時、突然女が悲鳴を上げた。『悪魔が!』と女が指さす杉木立の向こうには、グロテスクな顔がボーッと浮かび上がり、無気味な笑い声が聞こえて来た。横溝正史の傑作短編」(角川文庫版、表紙カバー裏解説)

本作「悪魔の家」は30ページほどの短編ではあるが、限られた少ない枚数の中でも「アクマが来た!アクマが来た!」と泣き叫ぶ知恵遅れの女児、元朝鮮総督府に勤めていた「悪魔の家」の家主、その家主の主人の早くに亡くなった妻の妹で今では義兄と同居している夜道で三津木俊助と知り合うヒロイン、家主の実の弟で同じく同居しているせむしの青年、大陸帰りの元薬剤師の義足の男ら、非常にクセのある人物を次々に出して、最後は破綻なく全ての辻褄が合うように実に上手い具合に作者の横溝は話をまとめている。

古びた陰気な屋敷「悪魔の家」にて殺人事件が起こる。その際、全ての人物が必ず何らかの役割を担(にな)っており、余分がなく登場人物にまったくの無駄がない。しかも、タイトル「悪魔の家」に関しても、実際に屋敷の壁に悪魔の顔が浮き出て見える怪奇現象の物理的トリックと、さらにはこの家に同居し出入りする関係者一同には隠された人間関係や家内での秘密の行動からまさに「この家は悪魔の家」と断定しうる心理的理由があって、物心両面から二重の意味において、かの屋敷は「悪魔の家」たりうるのであった。心理的誇張を加えれば当屋敷の関係者らにとって、あの家は、そのまま角川文庫の杉本一文による表紙カバーイラストのような視覚イメージの「悪魔の家」に実際に見えたに違いない。それでラストは、この「悪魔の家」に関わる全ての登場人物が皆ことごとく不幸になる。横溝による結語、「悪魔の家には、やっぱり悪魔がついているのである」を見事に裏打ちする絶妙な結末だ。

「悪魔の家」に関し横溝は、屋敷に「悪魔」を絡(から)めるアイデアのプロットや特異なキャラクター群や入り組んだ複雑な人間関係や事件の発端や殺人動機となる過去エピソードまで即席で考えて破綻なく、一晩くらいの短時間で一気に書けたに違いない。有能で優秀な人は、仕事への能力が勝(まさ)って余裕があるから取り掛かりや進行時の心的圧迫の苦心なく、丁寧な仕事を短時間で素早くソツなく出来てしまう。仕事完遂のハードルが当人にとって低いため容易であるのだ。かたや能力のない下手な人ほど、それが自身の能力を凌駕(りょうが)している仕事なため心的圧迫のなか時間をかけて苦労し、やっとやり遂げ、後日に創作の苦労やその仕事への自身の思い入れを熱く語ったりするのだから実に、やりきれない。

本作「悪魔の家」も30ページほどの短編の佳作であるが、横溝にとっては簡単な仕事で軽々と短時間で書き上げたに相違ない。そうした横溝正史の余裕の才能の凄みを読み取ることが、「悪魔の家」に対する一つの読み方の落とし所のようにも私は思う。