アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(20)「悪魔の百唇譜」

時折なぜか無性に横溝正史の金田一耕助が読みたくなる時がある。私立探偵の金田一耕助を始め、警視庁の等々力警部や岡山県警の磯川警部、パトロンの久保銀造や風間俊六らがいる馴染みの金田一探偵譚の世界に浸(ひた)りたくなるのだ。例えば「本陣殺人事件」(1946年)や「獄門島」(1948年)や「悪魔の手毬唄」(1959年)は、あまりにも傑作過ぎて話にインパクトがあり過ぎ、すでに何度も読み返し内容を覚えているので、そうした際には内容を半忘れの金田一長編を自然とよく選んで「再読」してしまう。

金田一耕助が活躍する長編「悪魔の百唇譜(ひゃくしんふ)」(1962年)は、金田一シリーズの中でも割合有名ではない佳作の長編であり、いつも何とはなしに話の筋を忘れているので、私にとっては金田一探偵譚の世界に浸りたい時には実に良い塩梅(あんばい)の手頃な金田一長編といえる。

横溝正史「悪魔の百唇譜」は過去に映像化されている。1990年代に古谷一行主演の金田一シリーズにて、「悪魔の唇」というタイトルでテレビドラマになった。本作は、性的な恋愛沙汰で女性を強請(ゆす)り脅迫する卑劣な男に絡(から)んだ連続殺人の話であり、横溝の「悪魔の百唇譜」ドラマ化の話を聞いた当時、私には意外で驚きの感が正直あった。「悪魔の百唇譜」は確かに金田一耕助が活躍の探偵小説の体裁ではあるが、本格推理や変格やいわゆる「奇妙な味」でもなく、ただただ性的で扇情的なやや反倫理(インモラル)な通俗長編の金田一であり、お茶の間テレビのドラマ化に選んだ当時のドラマ制作者側の判断にある種の驚きを禁じ得なかった。しかしながら、よくよく考えてみてあの1990年代の時点で横溝の金田一を映像化するとして、「獄門島」や「悪魔の手毬唄」など主要なものは、ほとんど映画やテレビドラマで過去にやり尽くされ映像作品はマンネリ化していたし、新たに金田一探偵シリーズをドラマ化するとなると、有名で主要な作品は回避して比較的世間にはあまり知られていない佳作の長編を選ぶしかないわけで、そういった意味からしても横溝正史「悪魔の百唇譜」は、やはり金田一探偵譚の世界に浸りたい時には実に良い塩梅の手頃な金田一長編といえるのではないか。

さて、横溝正史「悪魔の百唇譜」の話の概要は以下である。

「深夜の高級住宅街に停まっていた一台の外車、パトロール中の警官がこの車に不審を抱いたのが醜悪な事件の始まりだった。車のトランクをあけた瞬間、彼は思わず二三歩飛びさがった。中には、胸をえぐられ、その血溜りにハートのクイーンを浮かべた女の死体がつめこまれていた。関係した女たちの性癖を克明に記した『百唇譜』をもとに、ゆすりを働く悪魔のような男に金田一耕助の挑戦は!」

ところで、本作タイトルにもなっている「百唇譜(ひゃくしんふ)」とは、どのようなものなのだろうか。本文記述を引用すれば次のようになる。あらかじめ補足しておくと、都筑克彦というのは往年人気の流行歌手で「百唇譜」を作成し女性らを脅迫していたが、後に何者かに刺殺された男である。

「かれの死後、デスクの秘密のひきだしから妙な小冊子が発見された。題して、『百唇譜』。あきらかに都筑克彦の自筆であった。なかは薄葉紙(うすようし)の綴(つづ)り込みで、その一葉ごとに女のくちびるのかたちが色鮮(いろ・あざ)やかにしるされているのみならず、そこには唇紋(しんもん)をとったと思われる日、すなわち唇のぬしと交渉があったと思われる日づけが記してあり、女の頭文字まで記入してあった。それだけならまだいい。この破廉恥(はれんち)きわまる男はなおそのうえに、女のオルガンの特徴から技巧の巧拙(こうせつ)まで綿密詳細に記入していた。それはさすがものなれた係官でさえ、顔をあからめずにいられないほど、露骨でえげつない文章だったという」

話は「百唇譜」の恐喝に絡み、さらに艶聞(えんぶん)のフィルムまで出てきて恐喝の種となり、強請(ゆす)る側と強請られる側との人知れずの暗躍の攻防があり、加えて恐喝フィルムを強奪して「強請の稼業」を取って代わろうとする第三者の陰謀もあり、中国人実業家や旧満州の特務機関崩れの男や清純派気取りの女性タレントらが入り乱れ、男女の性関係のみならず同性愛趣味もあり、まさに愛欲ドロドロである。しかも連続殺人は、ハートのクイーンやジャックなどトランプのカードごと刺殺して死体を車のトランクに詰め込む犯人の念の入れようの執念である。

そういった陰惨で重く暗くなりがちな話の中で、重要容疑者宅のお手伝いでシャーロック・ホームズのファンの若い女性、古川ナツ子と「おじさん」探偵の金田一耕助との一連の尋問会話場面のユーモラスさが本作での一服の清涼剤といったところか。